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2019-06-07 15:33

核武装は抑止力そのもの


 藤井厳喜さんの出版物の宣伝メールを見ていたら加瀬英明氏との対談の件が出ていた。
この加瀬英明さんの話は大変いい話なので記録のため纏めてみた。

<以下6/5付ダイレクト出版のメールより抜粋引用>

福田、中曽根内閣で首相顧問を務めた男
加瀬英明氏との対談、
日本再興戦略「明治維新150年の意義」編 ですが、、 
======== 
終戦直後、一面焼け野原だった東京で、当時小学3年生だった私は、外務省北米課長だった父に尋ねた。
「東京がこんなに壊されてしまったけど、日本はこれからどうなるの?」
父はこう答えた。
アメリカは日本中を壊すことができるが、日本人の心を壊すことはできない。」
父の顔には、悔しさが滲んでいた。しかし、その目は光を失っていなかった。日本人としての誇りを保っていた。
私、加瀬英明は、父の悔しさと誇りを胸に成長した。
そして時は過ぎ、、、海外との仕事を行う中で、ある人物に話を聞けることになった。
その人物は、元陸軍次官ジョン・マクロイ氏
1945年、ホワイトハウスでトルーマン大統領が広島に原爆を投下することを決めた会議に出席した人物である。
私は、原爆投下の決定に居合わせた人にどうしても、直接聞きたいことがあった。
「もし、あの時、日本が原子爆弾を一発でも持っていて、アメリカのどこかに落とすことができたとしたら、日本に核攻撃を加えたでしょうか?」
マクロイ氏は答えた。
「聞かなくてもわかっているでしょう。」
「あなたのいう通りだ。日本が原爆を一発でも持っていたら、日本に対して原爆を使用することはあり得なかった。」
これは、加瀬氏の海外経験のほんの一部にすぎません。
<以下略>


此処で加瀬英明氏が「外務省北米課長だった父」と言っているのは加瀬俊一氏のこと。
その加瀬俊一氏はこれを見れば分かるでしょう。

昭和20年9月2日、東京湾上でのこと。
加瀬俊一氏は「生涯忘れられぬこと」と言っているそうですが、日本人なら皆同じでしょう。
2019-6-6戦艦ミズーリでの降伏文書署名


さてその加瀬英明氏がマクロイ氏に聞いたという話。これは加瀬氏の著書「今誇るべき日本人の精神」に詳しく書かれている。
大変参考になるので同署を引用し紹介します。

尚以下の記事にはこのマクロイ氏に話したというのが何時なのか記載が有りませんが、こんな事情のようです。
昭和53年(1979年)、「ニューヨーク・タイムズ」の社主だったサルツバーカー夫人が、加瀬氏夫妻が来ることを知り、マンハッタン郊外の私邸で晩餐会を開いてくれた。そこに夫人の古い友人であるマクロイ氏も招待されていたということです。

では加瀬氏の著書から
<以下引用>
加瀬英明著 「今誇るべき日本人の精神」 2016年5月 KKベストセラーズ

第四章 目本人の精神を取り戻す
P116-118

 私は、トルーマン大統領が一九四五(昭和二十)年八月に、広島、長崎に原子爆弾を投
下することを決定した、ホワイトハウスの会議に出席した、ジョン・マクロイ元陸軍次官
と、夕食をとったことがある。
 私は広島、長崎に対する原爆投下を話題にして、「もし、あの時、日本が原子爆弾を一発
でも持っていて、アメリカのどこかに落とすことができたとしたら、日本に対する核攻撃を
加えたでしょうか」と質問した。 

 少人数の夕食会だった。「ニューヨーク・タイムズ」の大記者と呼ばれた、ジェームズ・
レストンも招かれていた。
 すると、レストンが驚いて、私に「なぜ、そんな当たり前のことを質問するのか。きか
なくても、答えが分かっているだろうに」と、口をはさんだ。
 私は「これまで原爆投下の決定に参画した人に会ったことがないので、確かめてみたか
った」と、答えた。
 すると、マクロイが「もちろん、君も答えを知っているだろう。もし、日本があの時に
原爆を一発でも持っていたとしたら、日本に対して使用することは、ありえなかった」と、
いった。
 それ以来、私は日本は世界で唯一つの被爆国として、あの惨劇を二度と繰り返さないた
めに、核武装すべきであり、どの国よりも被爆国家として、そうする権利があると、信じ
てきた。
 私は広島の平和記念公園の慰霊碑を詣でるたびに、「過ちは二度と繰り返しません。安
らかにお休み下さい」という碑文を、核兵器を持たないために、悲惨な核攻撃を招くよう
な過ちを、繰り返しませんという、誓いの言葉として読むべきだと、思う。
 日本が平和国家であれば、核兵器を持ったとしても、核攻撃を防ぐ抑止力として用いら
れ、外国を攻撃することはない。

<引用ここまで・・・詳しくは上掲著書参照ください>


いま世界は米中の貿易戦争が一段とキナ臭くなり、暴発の危険が迫ってきています。
こんな話をもっといろんな人に知ってもらいたい。そんな意味で纏めてみました。 

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2019-06-06 15:41

阿比留瑠偉さんのFBから<つかこうへいさんのインタビュー


 産経新聞の阿比留瑠偉さんがFBで慰安婦について書いている。
つかこうへいさんのインタビューに関する記事で、2013年のFB記事を引用しているのだが、大変分かりやすく良い話だ。
記録の為アップします。

<以下引用>
https://www.facebook.com/rui.abiru/posts/2474113502633286
Rui Abiru
6 hrs · 
つかこうへいさんにインタビューしてから、もう22年か。状況は少し変わりました。

Rui Abiru   (注:以下は6年前のものを引用したもの)
June 5, 2013
 もう16年も前の話になりますが、直木賞作家で在日韓国人2世でもあったつかこうへい氏に慰安婦問題についてインタビューしたことがあります。つか氏がご存命ならば、現在のぎすぎすした大騒ぎをみて、どのようにコメントされただろうかと思うのでした。著書執筆に当たり、元兵士や慰安所関係者らに取材を重ねたつか氏が、率直に語ってくれた言葉をいくつか紹介します。

 《ぼくは「従軍」という言葉から、鎖につながれて殴られたり蹴られたりして犯される奴隷的な存在と思っていたけど、実態は違った。将校に恋をしてお金を貢いだり、休日に一緒に映画や喫茶店に行ったりという人間的付き合いもあった。不勉強だったが、ぼくはマスコミで独り歩きしているイメージに洗脳されていた》

 《悲惨さを調べようと思っていたら、思惑が外れてバツが悪かったが、慰安婦と日本兵の恋はもちろん、心中もあった。僕は「従軍慰安婦」という言葉が戦後に作られたことや、慰安婦の主流が日本人だったことも知らなかった。彼女たちの境遇は必ずしも悲惨ではなかったことが分かった》

 《日本はよくないことをしたし、中には悪い兵隊もいただろう。でも、常識的に考えて、いくら戦中でも、慰安婦を殴ったり蹴ったりしながら引き連れていくようなやり方では、軍隊は機能しない。大東亜共栄圏をつくろうとしていたのだから、業者と通じてはいても、自分で住民から一番嫌われる行為であるあこぎな強制連行はしていないと思う。マスコミの多くは強制連行にしたがっているようだけど》

 《人間の業というか、こういう難しい問題は、自分の娘に語るような優しい口調で、一つひとつ説いていかなければ伝えられない。人は、人をうらむために生まれてきたのではない。歴史は優しい穏やかな目で見るべきではないか》

 つか氏の著書「娘に語る祖国 満州駅伝--従軍慰安婦編」はお薦めです。でももう、一般の書店には置いてないだろうなあ。あれからこの本は忘れられていく一方、マス・メディアの慰安婦問題への反応はたいして進歩していないのが残念でなりません。

<引用終り>


今の若い人は慰安婦問題の本質を知る機会が少ないと思います。こんな短い一文で問題の本質が見えてくるのではないでしょうか。

尚、つかこうへいさんが書いていますが、「慰安婦の主流が日本人だった」、こんな事がどうしてその後さっぱり報道されなくなってしまったのか。
理由は簡単です。日本人女性はたとえこんな事をしていたとしても、その後ピッタリ「口を閉ざし」ています。更にそれを知っている人も何も語りません
実は私も従軍ではありませんが、その手の仕事をしていた人を知っていますが、本人は勿論何も語りませんが、周りもその事は何も言いません。そしてその方は地域の人格者の方と結婚され、幸せに暮らしていましたし、周りもそれを認めていました。
これが日本人なんでしょうね。

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2019-06-05 16:33

縄文時代の噓


 宮崎正弘さんのメルマガ「国際ニュース・早読み」5月31日号に興味深い記事が載っている。
本文は「中国の社債起債は1兆ドルを超えていた。企業債務はGDPの155%。 海外送金、ついに2000ドルが上限となっていた」と言うもので、これも衝撃的なのだが;それより書評が面白い。

同氏の書評は、『河合雅司著「未来の透視図――目前に迫るクライシス2040」』について。
> おそるべき未来図、2035年には男子の三分の一、女子の五人に一人が未婚という状況が訪れ、甲子園は地区大会さえ開催できなくなる。「出産可能な女性が消えていく」という、真っ暗闇がやってくる。
 >日本女性の未婚状況は、いずれ国を滅ぼしかねない。
 >かくして「日本消滅のスケジュール」が本書で示された。河合雅司氏が未来を透視すると、こういう地獄が控えているようだ。

こんな書き出しで始まる少子化への警告の書
 
 評者(宮崎)は、この悲観的未来透視シナリオを提示する、本書を読みながら、じつは百八十度異なることを考えていた。
 なぜ子供を産んで増やそうとしなくなったのか。それは未来の夢を描くなくなり、情感の希釈化、情緒の不在であり、共同体の喪失感からきているのではないのか。

宮崎正弘氏はこんな風で少子化に対しどうすればいいのかを提言している。
大変いい話なので、このエントリー本文末にこの書評全文を引用しますが、私が興味を持ったのは、宮崎氏がこの話のネタとして三内丸山遺跡と言う縄文遺跡について書いているので、これについて感想を書いてみたいわけです。


本題に入る前に、その少子化について、最近の私の感想を書いてみます。

私は1997年のアジア通貨危機直後の1998年からタイで仕事を始めました。その時の経験です。
アジア通貨危機直後のタイはと言えば、あちこちに建築途中で取りやめになったビルが無残な姿をさらし、町にもまったく活気が有りませんでした。タイで仕事を始めて1年半くらいのことです。従業員からピンクの封筒をもらうようになりました。ピンクの封筒はタイでは結婚式の招待状で、その封筒に祝儀を入れて渡すのが習慣でした。殆ど毎月のようにこんな封筒をもらうに至って考えました。安定した会社で安心して仕事ができる。だから結婚するのだなあと。そしてそれからしばらくすると今度は出産ブーム。そんな所を見ていたので、地元のショッピングセンターなどに行くとおなかの大きな女性がいやに目につきだしました。丁度通貨危機から立ち直りかけて、街に活気が戻ってきたころです。

こんな経験を持っていますので、日本に帰国してあちこち見ていく中で、地元の食品スーパーのようにお母さん方が出入りするところでもおなかの大きい人や赤ちゃんを連れた人を見かけないことに衝撃を受けました。なるほどこれが少子高齢化かと実感したのです。
でも昨年初めあたりから地元の食品スーパー辺りで子ども連れやおなかの大きな人の姿をよく見るようになりました。
私のタイでの経験から見ても明らかに何か変わっている。こう見えます。
多分そのうちにそんなデータが出てくるのではないか、そうひそかに期待しています。


余談が長くなりました。
では宮崎正弘氏の書評から縄文文化についての部分を抜萃引用。

<以下引用>
 たとえば縄文時代、集落の全員が、お互いに助け合い、徹底的に面倒を見合った。
縄文集落の代表例である三内丸山遺跡では、三十人ほどが一つの屋根の下で一緒に暮らした竪穴住居が再現されているが、その建築技術の見事さには誰もが舌を巻くだろう。共同作業で分担し合い、木材の伐採、調達、運搬から、資材の組み立て、わらぶき屋根、部屋の中の祭壇つくりまで、全員参加のコミュニティがあった。
だからお祭りが尊重され、祭祀が恒常的に営まれ、精神の紐帯が強固だった。
縄文集落の典型とされる三内丸山遺蹟の規模は五百人前後だったと推定され、集落にはまとめ役の長(おさ)がいて、春夏秋冬の季節に敏感であり、様々な作業を分担し合い、クリ拾い、小豆の栽培、狩猟、漁労はチームを組んだ。各々の分担が決められ、女たちは機織り、料理、壷つくり、食糧貯蔵の準備、そして交易に出かける斑も、丸木舟にのって遠く越後まで、黒曜石や翡翠を求めて旅した。
縄文の社会には「保険」もなく、医者もおらず、幼児死亡率は高かったが、適者生存がダーウィンの言う人間社会、動物社会の原則であり、むしろこの大原則を忘れての偽善の平和、ばかしあい、生命装置だけの延命、植物人間だらけの病人という末期的文明の生態はあり得なかった。

<引用ここまで>

例えば宮崎さんが「三十人ほどが一つの屋根の下で一緒に暮らした竪穴住居」と言っているのはロングハウスなどと言われる「大型竪穴住居」のことである。

2019-5-6青森7


2019-5-7青森8

この巨大な建物は長軸32m、短軸9.4m、内部の面積は約250㎡、中央に1mx1.5mの炉が1か所。

2019-5-7三内丸山の大型竪穴住居

この巨大な建物はどのように使ったのか定かではない。共同作業場だったのではないかとか諸説ある。しかし宮崎さんが言うように「三十人ほどが一つの屋根の下で一緒に暮らした竪穴住居」、多分これは宮崎さんが最近三内丸山遺跡を訪問されているので、そこで誰かが仰ったのだろう。

しかしこれこそ「日本の考古学は嘘ばかり」の典型的な事例ではないかと思えるのです。
そしてこれを笑って見逃せないのは宮崎正弘さんのように見識の高く、影響力の大きい方が嘘吐き考古学者に騙される。これが私には我慢ならない訳です。

実はこの巨大な大型竪穴住居こそ縄文文化が縄文文明だった証拠。そんな所を一つづつ解き明かしてみます。


最初に三十人ほどが一つの屋根の下で一緒に暮らした竪穴住居」について。
この住居は内部の広さは約250㎡あります。中学校などの講堂の設計基準で最大収容人数計算の基礎は一人当たり0.6㎡。それで計算すると学校の講堂のような使い方なら最大400人くらい収容できます。
若し30人が共同生活するのなら、下の写真のような竪穴住居を5棟とか10棟作れば済みます。

三内丸山の復元竪穴住居
2019-6-4三内丸山の竪穴住居の一例

そして三内丸山には長軸10mを超える竪穴住居跡が20棟以上発見されています。
若し30人程度が共同生活するだけなら、こんな竪穴住居を利用すれば済む話です。
この30人ほどが共同生活、これはこの巨大な建物の用途のごく一例にすぎません。それよりもっと壮大な使い方が有った筈です。

その壮大な使い方の参考になるのが、平成9年に発見された幅約12mの道路跡の発見でしょう。発見されているだけで集落中央から約420m以上も続いていたことが分かっています。

これが三内丸山の遺跡イラストマップ。赤丸内が如何論関せ得る説明。

2019-6-5三内丸山遺跡イラストマップ1

この道路はこの先どうなっているのは不明乍ら、海まで続いていたであろうと推測されている。
海から上陸した人たちがこの大きな道で当時の大都市に向かう。そんな事だったのではないか。


所で幅12mの道路と言ってもピンとこないと思いますが、何と現代の国道規格並みなのです。

参考までに幅員12mの国道とは
(半路肩と言う交通量の少ない所に適用する規格。路肩の幅が少なめ)

2019-6-5国道規格半路肩
国土交通省の資料より
https://www.mlit.go.jp/road/sign/pdf/kouzourei_2-2.pdf

ついでに言えば、古代ローマのアッピア街道などの道路規格は中央に車道(馬車道)4m、両側に歩道各3mで合計で幅員は10mでした。
参考:ローマ街道(紀元前312年から整備が始められた)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E8%A1%97%E9%81%93

これもオマケ、アッピア街道の現在
2019-6-5アッピア街道1996年

2000年以上前にこんな道路を作って運用していた。本当にローマ文明は凄いと思います。

本題に戻ります。
ローマの街道以上の幅員を持つ道路が、今から5900年前から4200年前の遺跡から発見されたということです。こんな事を正しく評価しないと、縄文時代とは何ぞやが見えません。

私は三内丸山の巨大な大型竪穴住居はシティホールであり、各地から交易にやってきた人たちのホテルであり、また持ってきた商品を並べる店(みせ)だったり、あるいは共同作業場だったのではないかと思います。

そんな事の根拠の一つがこの大型竪穴住居は屋根が地面についていません。外周に壁が有ります。
建築用語で「壁立ち」と言うそうですが、そんな構造なので、その壁部分を取り外せば明り取りになります。
上から2枚目の写真を見ると、入り口部分から光が入っている様子が分かりますが、外周の壁を外せばもっと明るくなるわけです。


日本の考古学は、偉い先生が自分の信念だけで「これはこうだ」と言ってしまうと、何年もその嘘に引きずられる傾向が強いです。
今回の宮崎正弘氏の話からもそんな事が分かりますので、考古学を知る人間としてぜひ考えて欲しいと思い記事にしました。

日本の考古学はその発祥の歴史がモースの貝塚発見からで、欧米の歴史観をそのまま適応しています。そんな所から見直してゆかねばいけないと考えています。あと何年か後には日本文明はハンチントンが言うように世界で唯一の「一国一文明」ですが、そのルーツは縄文時代までさかのぼる。そう言われる時代が来ると思っています。

縄文時代から続くという証拠ですか?。

簡単です。
5月1日に天皇陛下が即位されました。その時、天皇の証しとして継承した三種の神器、此れの一つが「勾玉」です。そしてその勾玉は三内丸山でも発見されており、縄文時代から宝物だった。これは縄文時代から続いている何よりの証拠だと思っています。

剣璽等継承の儀
2019-6-5剣璽等継承の儀

ここで持っているのは三種の神器のうち、 天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)(または草薙剣(くさなぎのつるぎ))・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。


まあこんな事で、日本の歴史は縄文時代から見直さないといけないですね。
最後に、宮崎正弘氏の書評全文を掲載します。
少子化への宮崎市の意見。大いに考えさせられます。


<以下引用>
http://melma.com/backnumber_45206_6824231/
「宮崎正弘の国際ニュース早読み」
令和元年(2019)5月31日(金曜日) 通巻第6094号 

 中国の社債起債は1兆ドルを超えていた。企業債務はGDPの155%
  海外送金、ついに2000ドルが上限となっていた

  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 

 2035年には男子の三分の一、女子の五人に一人が未婚となるようだが、
  それでは甲子園の野球大開は地区大会さえ開催できなくなる。

  ♪
河合雅司『未来の透視図  ――目前に迫るクライシス2040』(ビジネス社)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 おそるべき未来図、2035年には男子の三分の一、女子の五人に一人が未婚という状況が訪れ、甲子園は地区大会さえ開催できなくなる。「出産可能な女性が消えていく」という、真っ暗闇がやってくる。
 日本女性の未婚状況は、いずれ国を滅ぼしかねない。
 かくして「日本消滅のスケジュール」が本書で示された。河合雅司氏が未来を透視すると、こういう地獄が控えているようだ。
 生活インフラを透視しても「美術館」が消え、ER(緊急病院)があちこちで消え、そして町から銀行が消え、向こう三軒両隣が空きやとなる。現実に現代日本の地方都市、田舎へ行けば駅前はシャッター通り、廃屋に近い空き家が数百万軒あり、昼でも町がしーんとしている。
公園はあっても、遊んでいる子どもがいない。早朝の公園は老人達のラジオ体操組がちらほら。過疎の農村では村の鎮守のお祭りも開けず、神社は廃り、孤独な老人が寝ている。
 介護現場も、居酒屋も、コンビニも建築現場も顕著なほどに人出が不足し、昨今は深刻な労働者不足を補おうと外国人の呼び込みに懸命だ。すでに令和元年現在、日本にいる外国人は270萬人。これは未曾有の異常事態ではないのか。
ところが、2040年には少子高齢化ではなく、「無子高齢化社会」となる。こういう暗鬱な社会がまもなく出現し、介護労働者は払底する。火葬場は満員となり、そのうち葬式の面倒をみる人材もいなくなる。

 評者(宮崎)は、この悲観的未来透視シナリオを提示する、本書を読みながら、じつは百八十度異なることを考えていた。
 なぜ子供を産んで増やそうとしなくなったのか。それは未来の夢を描くなくなり、情感の希釈化、情緒の不在であり、共同体の喪失感からきているのではないのか。
 かつての日本には精神的絆で固く結ばれた共同体があり、全員が参加する人生。農村であれ、漁村であれ、或いは貝の加工、或いは翡翠の鉱山集落であれ、日本人の起源である縄文時代にはこうした心配事はなにもなかった。
 この基本的な生活スタイルは江戸時代まで続いた。
 伝統的コミュニティでは、現代人のなやむイジメ、引き籠もり、生涯独身、少子高齢化などという問題はなかった。ストレスも少なく、突然切れて、保育園児を殺傷したり、通行人を刺したりという事件は稀だった。
 もちろん「中学お受験」もなければ入試地獄もなければ、まして現代の科挙といわれる東京大学法学部エリートの主知主義で、国家が運営されるというおかしな国家でもなかった。
 たとえば縄文時代、集落の全員が、お互いに助け合い、徹底的に面倒を見合った。
縄文集落の代表例である三内丸山遺跡では、三十人ほどが一つの屋根の下で一緒に暮らした竪穴住居が再現されているが、その建築技術の見事さには誰もが舌を巻くだろう。共同作業で分担し合い、木材の伐採、調達、運搬から、資材の組み立て、わらぶき屋根、部屋の中の祭壇つくりまで、全員参加のコミュニティがあった。
だからお祭りが尊重され、祭祀が恒常的に営まれ、精神の紐帯が強固だった。
縄文集落の典型とされる三内丸山遺蹟の規模は五百人前後だったと推定され、集落にはまとめ役の長(おさ)がいて、春夏秋冬の季節に敏感であり、様々な作業を分担し合い、クリ拾い、小豆の栽培、狩猟、漁労はチームを組んだ。各々の分担が決められ、女たちは機織り、料理、壷つくり、食糧貯蔵の準備、そして交易に出かける斑も、丸木舟にのって遠く越後まで、黒曜石や翡翠を求めて旅した。
縄文の社会には「保険」もなく、医者もおらず、幼児死亡率は高かったが、適者生存がダーウィンの言う人間社会、動物社会の原則であり、むしろこの大原則を忘れての偽善の平和、ばかしあい、生命装置だけの延命、植物人間だらけの病人という末期的文明の生態はあり得なかった。
だからこそ人間に情操が豊かに育まれ、詩が生まれ、物語が語り継がれたのだ。
 ましてや待機児童とか、老老介護、生涯独身、孤独死などとはほど遠い、理想的な助け合いコミュニテイィが存在し、平和が長く続いた。
縄文時代の一万数千年間、日本では大規模な戦争はなく、その証しは集落跡から発見された人骨から、刀傷など戦争の傷跡はなく、障害者の人骨も出てきたため集落全体が福祉のシステムであって、面倒を見合っていたことが分かる。
或る人口学者は縄文最盛期の人口を26萬人と推計し、気象状況もしくは地震、津波、寒冷化などによる飢餓で二万人にまで激減したこともあるとしたが、現代日本に当てはめると、一億二千万が1000萬人になるようなことがおきたのだろう。
やがて弥生時代という新しい、闘争社会がやってきた。渡来人がコメの栽培技術とともに流入し、日本に稲作が普及するが、この弥生時代から富の分配をめぐって、集落ごとの喧嘩、出入り、暴力沙汰、戦争が始まり、日本は一面で殺伐として社会となる。
この寓話は何を意味するか。
労働者不足だからと言って闇雲に外国人労働者を入れるという政治のパッチワークが国家百年の大計画に基づくとは、とても考えられない。
したがって問題は何か。解決策は奈辺にあるのか。
それは子供を増やすという古来から人間が自然に営んできた健全な社会に戻すことである。それも児童手当とか、保育所の充実とかの修繕的な対応ではなく、基本的、抜本的取り組み、それは女性が子供を産み、増やしたいという人類の基本の欲求が自然に起こるような社会の実現だろう。
男は男らしく、女は女らしく、強い男性の子供を産みたいという女性、生きて行くための食糧確保を一等優先して考える発想、まわりが皆、子供の成長を助けあう、縄文時代の思考、生活のパターン、人生のスタイルを取り返すことから、始まるのではないのか。

<引用終り>

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2019-06-02 17:02

人件費が安いからフィリピンに行くという選択


 ベトナムの人件費が高くなりフィリピンへ工場を移転したという話がある。
宮崎正弘さんのメルマガの読者の声欄でR生ハノイさんが紹介しているのだが、「フィリピンの方がハノイより労賃が安いんだ」、こんな理由のようだ。但し、「治安が悪く、マンションと工場は高い塀で囲まれ、その間の車移動は大渋滞」、こんな事情もあるようだ。

しかしこの件は私の海外での仕事で一番気にしていたこと。そしてその大失敗事例がインドネシアにある。この失敗事例は私なりに調べてみたので、そんな事情を書いてみたい。

尚以下に紹介する宮崎正弘さんのメルマガ6094号には他にも私が注目している記事(宮崎さんの書評)がある。これは別にエントリーします。

最初はR生ハノイさんの声の紹介から。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み 令和元年(2019)5月31日 通巻第6094号 」
http://melma.com/backnumber_45206_6824231/

<以下引用>
(読者の声5)宮崎先生がベトナムについて、安い労働力もだんだんと競争力がなくなってきたとテレビで発言されていました。
 昨秋、ハノイから2.5時間位の立地の某ハーネス会社(労働集約産業)工場がフィリピン(マニラから1時間位)へ移転しました。その社長は、「フィリピンの方がハノイより労賃が安いんだ」とおっしゃっていました。但し、治安が悪く、マンションと工場は高い塀で囲まれ、その間の車移動は大渋滞とも聞きました。「しょうがないのでベトナムから愛人を連れて行く」とか(笑)。というのが現状です。
 ベトナムのグローバルバリューチェーンの上での魅力は、安い労働力に加えて貿易障壁が小さいこと、土地コストも安いこと。最近、電気料金が上昇ましたが、バングラやカンボジアやラオスにはないインフラインフレ環境が整っていること。バングラほどではないが、ラオスやカンボジアのような人口の少ない国ではないことなどです。また、バングラは先生がご指摘されたように、ムスリムで立命館大学の元准教授首謀のテロがありました。インドネシアは選挙後は混乱で「今は昔」になりましたが華僑への迫害もでてくる土壌があります。カンボジアは企業に所得税を前払いさせたうえに還付をしないという滅茶苦茶やっています。政府への信頼性の欠如で縮小効果がはなはだしい。
 ・・・中略・・・
一方、1月〜4月の外貨準備額は673億ドルで過去最高になりました。これは安全圏とされる輸入の3ヶ月分程度になります。
健康状態に問題があるベトナムの最高指導者グエン・フー・チョン共産党書記長兼国家主席は7月の訪米に向けて調整に入った様子です。脳梗塞の後遺症で左手に問題と噂されています。
  (R生、ハノイ)

<引用終り、詳細は上掲リンク先参照ください>



此処からは私の思い出です。
インドネシアの自動車部品メーカーK社で2001年に起こった事件です。もう18年も前の話ですが、何せ微妙な問題なので、実名は伏せおきます。老人の妄想ということでご理解ください。

2001年3月、インドネシアの首都ジャカルタの郊外東ジャカルタの工業団地にある自動車用シートメーカーK社で労働者がストライキを始めました。
このK社は日本の自動車部品メーカーA社(90%)とインドネシアのKDR社(10%)の合弁でシートなどを作っていました。またA社は日本の大手自動車メーカー系列の部品メーカーでした。
そこへどこからかオルグが入って労働者を焚きつけてストになり、話がこじれてしまい、労働者が工場を占拠し、そこで寝泊まりしてストを続けました。ストが10日近くになった時ある深夜のこと。正体不明のナイフ、刀、手製爆弾で武装した者たち約500人がバスで工場に乗り付け、襲撃を開始しました。
結局死者2名、負傷者は数知れずという大惨事になりました。怒った労働者達は工場を追い出されたものの工場を取り囲み、完全に封鎖してしまいました。

当時でも報道はこんな所まで、その後のことは良く分かりませんでした。

しかしこの事例は海外での事業展開とはどうあるべきか、どうすべきかの大変良い教訓で、私は独自で情報収集してきました。そして分かったことの一端です。


K社の日本の親会社A社は現地企業K社に殆ど丸投げ状態でした。ストがこじれても「その為に現地パートナーがいるんだろ。そいつ等にやらせろ」と言うばかりだったようです。また現地社長も現地パートナーのKDR社出身の副社長に何とかせよというばかり。その結果、現地パートナー企業が多数の無法者を雇ってスト破りをさせたのが実態だったようです。

しかし規模が凄いですね。
事件当日、ストをやっていた労働者は約600人、そのうち約400人が工場内で寝ていたようです。そこを約500人のスト破り集団が襲った。この連中はジャカルタから少し離れた町(ボゴールとかバンテンとか)から集められたものらしいのですが、こんな多数の人間を集め、指揮し、襲撃行動ができるのは軍が関係していないとできません。
もう一つ、インドネシア特有の事情で、オランダ統治が340年続いたが、その統治はインドネシア人を最下層に置き、その上に華僑などを置いて支配させ、その上にオランダ人が立って利益をオランダが収奪するという統治方式をとった。こんな事が有るので、インドネシアでは30年に一度くらいの割合でインドネシア人による暴動が起き、華僑が狙われます。この直前の1998年5月にもジャカルタ暴動と言われる暴動が起きました。標的になったのは華僑、約1000人が死亡したとされますが、正確な死者数は今も明らかになっていません。


とここまで書いて、「おいおい、工場が労働者に取り囲まれて稼働できなくなってしまったんだろ。そこでどうなったんだ」、こんな声が聞こえてきます。
自動車用シートメーカーK社の話に戻ります。K社のストが有ったのはジャカルタ暴動から3年後、まだ暴動の記憶も生々しい時期でした。


そしてK社はどうなったか。従業員600人が殆どいなくなった工場を何とか稼働させて生産は続けねばなりません。K社にも、日本の親会社A社にも解決能力が無いと見た自動車メーカーはグループ全社を挙げて支援体制を作りました。数百人もの緊急支援部隊を作り、現地工場に送り込みました。そんな大人数の移動なので日本からはチャーター機を飛ばしたとか、工場に入れないのでヘリコプターで入ったとか、日本人だけで生産ラインを動かしたとか、噂は色々ありますが確認できません。しかし日本では考えられないことですね。


この結果は自動車メーカーの部品メーカー再編の発火点になりました。結局A社は二つの部門に分割され、別々の会社と合併することになりました。
最近も車のEVだのコネクティングだのと喧しいですが、その為には色んなところで合従連衡が起こると思います。最後まで生き残るのは難しい。そんな話ですね。


此処でこの事例からどんな事を学ばねばいけないか、それは低コストを追求するだけでは事業が成り立たないということです。低コストが大事なのは言うまでも有りませんが、企業が利益を上げることで働く人も収入を得、幸せになることも同時に大事だし、さらに地域社会にも貢献しなければいけません。

この経営の社会的責任について、「論語と算盤」という言い方で経営の社会的責任を説いたのが渋沢栄一である。丁度一万円札の新しい顔に決まりましたね。

2019-4-14新一万円札


話しが取留めも無くなりました。
纏めてみると、冒頭、R生ハノイさんが紹介している、「フィリピンの方がハノイより労賃が安いんだ」、これが極めて危険な話であることが分かります。

例えば工場とマンションは高い塀で囲まれ・・・、こんな話はフィリピンの民度が低いことを表しますし、特にフィリピンはスペイン統治が長く、インドネシアのケースと同じ愚民政策が行われてきました。

冒頭の事例の「フィリピンの方がハノイより労賃が安いんだ」、こんな事を話すような社長さんには是非とも考えて欲しいことが有ります。

一つは、あの民度の国でモノ作りをすることの大変さは多分ベトナムの比では無い筈です。特にハーネスのように労働集約型の物は作業者の質の向上が不可欠。
ベトナムは色んな過去から親日国です。フランスの統治から解放されたのは日本がやってきたからですし、元寇を撃退した歴史も日本とベトナム共通です。それに何より2千年前の歴史を紐解けば日本人のルーツの一部とベトナム人(越南人)のルーツは重なる部分がある。
こんな歴史はフィリピンには無いことを知るべきでしょう。

もう一つが、企業の社会的責任、渋沢栄一の言を引用するまでもないですが、これを忘れた企業は失敗します。
それに関連して、日本人は欧米流の現地人を奴隷同様にこき使う統治方法は苦手だということも忘れてはいけません。

R生ハノイさんが紹介している、「フィリピンの方がハノイより労賃が安いんだ」、こんな話で思わず昔話をしてしまいました。これから海外に出ていかれる方には何かの参考になれば幸いです。

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2019-05-26 17:30

大英博物館でマンガ展


 イギリスの大英博物館で日本の「マンガ展(The Citi exhibition Manga)」が開催されている。
日本のマンガがとうとう大英博物館で紹介される。
もう手放しで素晴らしの一語と思います。

これがポスター
2019-5-26大英博物館のマンガ展ポスター

登場したのはゴールデンカムイのアシㇼパ
(注:アシㇼパの「ㇼ」は小文字です。アイヌ語のカナ表記で、読みは「aーsi-pa」です)


日本国外では最大のマンガ展。葛飾北斎や河鍋暁斎から、手塚治虫、鳥山明、尾田栄一郎など江戸時代から現在までのアーティストの作品が通覧できる。
会期は2019年5月23日〜8月26日。入場料は19.5ポンド(約2800円)


これは大英博物館の公式ブログ
https://blog.britishmuseum.org/manga-a-brief-history-in-12-works/
2019-5-26大英博物館のマンガ展北斎

今改めて見てみても北斎の凄さが分かりますね。
(左上の良く分からない物は「天狗の面を風呂敷に包む」と書いてある。「の」は変体仮名)


所で今日(5/26)の読売新聞のコラム欄「編集手帳」はこのマンガ展を取り上げている。読売の編集手帳士も良い事を言っています。

読売新聞 5月26日 編集手帳
 その昔、図書閲覧室ではマルクスや孫文、ガンジーらが研鑽けんさんを積んだという。知の殿堂との異名が似つかわしい。260年の歴史を刻むロンドンの大英博物館には世界中から年間600万人が訪れる◆お墨付きをありがたがるわけではない。けれど、超一級の館が最大規模の展覧会を開いたと聞くと、誇らしさが隠せない。日本マンガを紹介する「Manga」展が開幕し、盛況だそうだ◆権威や定義を拒む、ある種の猥雑(わいざつ)さ、背徳性が、マンガを始めとするサブカルチャーの要諦と言えよう。大衆にこそ支持される文化をどう学術的に解き明かして、論じるのか。様々難しさがあっただろう◆本展を企画した研究者は日本留学時代に虜(とりこ)となり、膨大な量を読みあさったのだという。制作現場や書店の役割、同人誌にまで踏み込み、明治期の戯画とも比較展示した内容に愛の深さを思う。看板キャラに選んだアシリパさんは当代屈指の人気作のヒロインで、アイヌの少女である◆ジャパノロジー(日本学)の一分野として国内外で探究が深まればいい。日本人の精神性、行動様式に与えてきた影響は決して小さくない。
<引用終り>


さてそのマンガ展だが、全体はこんな風になっている。

<以下読売オンラインより引用>
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190523-OYT1T50177/

マンガ、英国文化「ど真ん中」で…サプライズも
2019/05/24 05:00

2019-5-26大英博物館のマンガ展1
Manga展の巨大な看板が掲示された大英博物館

 一言で言うなら「おもちゃ箱をひっくり返したような」――というのが、大英博物館「Manga」展の内覧会を見た第一印象だ。


 セインズベリー・エキシビジョンズ・ギャラリーは1100平方メートルの広大な場所だが、それでも日本マンガ史の「全て」が展示できるほど広くはない。ところが、同展はアクロバット的な手法でそれをやろうとしている。日本人の目から見て、それを無謀と言う人もいるだろうし、あっぱれと言う人もいるだろう。

 だが、これから一般公開が始まる同展への批評は、今の段階ではまだ早計。それは別の機会に譲ることにして、ここでは「どんな展覧会なのか」を簡潔に紹介していきたい。

 同展は大きく六つのゾーンに分かれている。

 ゾーン1:マンガという芸術 The Art of Manga こうの史代さんの「ギガタウン 漫符図譜」をテキストに、マンガを読むための基礎知識を紹介。校了前の週刊少年ジャンプ編集部にカメラを据え、早回ししたビデオが目を引く。「マンガはどう生まれるのか」がこのゾーンのテーマだ。

2019-5-26大英博物館のマンガ展2
Manga展会場。中央はニコル・ルマニエール教授

 ゾーン2:過去から学ぶ Drawing on the Past 戦後マンガの神様、手塚治虫の仕事をここで紹介。印象的なのは「本屋」の役割に大きなスペースを取っていることだ。本や雑誌の実物を手にとって読める棚や、電子書籍をダウンロードできるコーナーもある。今年3月末に閉店した東京・神保町の老舗マンガ専門店「コミック高岡」の店内写真パネルが飾られているのには驚いた。同展キュレーター(注:学芸員)のニコル・ルマニエール教授が大好きな書店だったそうだ。

 ゾーン3:すべての人にマンガがある A Manga for Everyone それまでの展示でマンガ初心者を脱した人に、自分が好きなマンガを発見してもらうコーナー。ある意味、ここがもっとも原画展らしいスペース。だが、同展のゾーンごとの仕切りはさほど厳密でなく、他のゾーンの展示が常に視界に入ってくる。そこがなかなか面白く、一筋縄ではない。

 ゾーン4:マンガのちから Power of Manga コミケやコスプレのビデオ、マンガを使った啓発ポスターなどを展示。読み手がマンガから刺激を受けて、何か違うものを“再生産”する「二次創作の欲望」のようなものに光を当てている。

 ゾーン5:マンガとキャラクター Power of Line 会場を取り囲む壁を使って、有名キャラクターのパネルと原画が並ぶ。そこに河鍋暁斎の「新富座妖怪引幕」を同列に並べるのが最大のたくらみ。こうして見ると、暁斎と現代マンガの間には、意外と差はないのかもしれないと気づかされる。

2019-5-26大英博物館のマンガ展3
赤塚りえ子さんの作品

 ゾーン6:マンガ 制限のない世界 Manga:no limits 同展の真骨頂と言えるゾーン。陶芸家で現代美術家の三島喜美代さんと細野仁美さんの「マンガ」をモチーフにした驚きの作品、赤塚りえ子さんが父、不二夫さんの作品にインスパイアされて作った立体アートなど、マンガを超えたマンガというべきものを展示している。

 この六つのゾーンの後に、井上雄彦さんの3点の描き下ろしという「サプライズ」が用意されている。見事な締めくくりというべきだ。井上さんがこの題材を選んだ理由に思いをはせる。

2019-5-26大英博物館のマンガ展4
Manga展会場

 英国はマンガの読者は決して多くないはずだが、同展の広報担当者ニッキー・エルビンさんは「普段は中高年層の来場者が多い大英博物館に、このManga展で若者が詰めかけてくるかもしれない」と期待する。

 大英博物館という、ある意味英国文化の「ど真ん中」で開催されるManga展。その成否は、私たちにとっても大いに気になるところだ。いや、それどころか、日本人が見てこそ、得るものの多い展覧会かもしれない。

 (編集委員 石田汗太)
<引用終り>

日本の文化がヨーロッパで紹介される。昨年から今年にかけて、パリを中心にフランス各地で行われた『「ジャポニズム2018:響きあう魂」 2018年5月~2019年3月』に続く日本文化の紹介であり、大変いいことだと思う。
尚ジャポニズム2018については以下参照ください。
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1602.html

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