2014-05-25 10:52

焼き物談義から産業の衰退の歴史へ<続編

 今迄まともな焼き物など造れなかったタイ、それが突如素晴らしい時代の最先端の焼き物が出来るようになった。
当然当時の先進国から技術が入ってきたわけだが、この長い話の続編は最初に年表を見ていただきたいと思う。
何せ日本ならこんな時代と大体理解できるが、中国だ、タイだでは時代がさっぱり分からないためだ。

1180年    (日本) 源頼朝挙兵
1185年    (日本) 壇ノ浦の戦い、平家滅亡
               これ以降が鎌倉時代
1234年    (中国) 中国の北半分、「金」が蒙古に滅ぼされ、蒙古の支配下に
               南宋への蒙古の圧力始まる
1271年    (〃) 蒙古が大都(北京)を首都にして「元」朝はじまる
               蒙古(元)の南宋への圧力一層強まる
1274年    (〃) 元軍・高麗軍、日本攻撃・・・文永の役
1279年    (〃) 南宋滅亡・崖山の戦い(がいざんのたたかい)
1281年    (〃) 元軍(高麗軍・南宋軍の残党含む)、日本攻撃・・・弘安の役

1238年    (タイ) スコータイ王朝成立
1279年    (タイ) ラムカムヘン大王即位(1279-1300)
              昔からこの大王が陶工を呼び寄せたと言われていたが、そんな証拠は見つかっていない。

タイで始まった焼き物産業、中国から技術が入ってきたのは間違いない。つまり技術を持った人が多数やってきたわけである。
中国の陶磁器生産はこの頃から分業制だった。だから少人数の人ではない。どれくらいか記録が無いが少なくとも数千人とか、そんな単位の人だと思う。
この頃中国を逃れた陶工グループはタイだけでなくベトナムなどにも入っている。
現在のベトナムハノイ近郊のバッチャンは陶器の街だが、その頃からの産業が続いている。

さて話を戻して、中国では蒙古が入ってきた1234年頃から南宋滅亡した1279年頃まで、長い期間蒙古の圧力を受けてきた。だから陶磁器産業に従事する人たちが逃げ出すのも無理からぬ話。
そしてそんな難民を受け入れてきたのがタイだった。

そんな話の一つの証拠

2014-5-21伝スコータイ出土のラクダの水差

この小さな水差し、伝スコータイ出土とかなのだが「ラクダ」の形で乗っている子どもは「中国風のスタイル」。
面白い事にこの動物が何なのかタイ人は誰ひとり説明できない。これを売ってくれた骨董屋のオヤジでも・・・ 馬かなあ、ちょっと違うなあ、何だろう、要するにラクダを知らないのであった。今でさえこれなんだ、昔なら当然知らないだろうなあ。
中国人陶工が来ていたひとつのサンプルである。

さてそんな中国人陶工なのだが最初にあげた年表を見ると分かるように、中国南部「南宋」地域は何十年もの間蒙古の圧力を受けていた。そんな中で村ごと逃げ出したりしたことが有ったと思われる。
そしてその逃げて行った先がこんな地図で分かる。

2014-5-21交易の時代の東南アジア交通路修正版

この図で分かるように広東辺りからはベトナム・ハノイ、ベトナム中部、厦門辺りからはフィリッピン、マレーシア・インドネシア方面にルートが伸びている。
タイへはその内、広州⇒ベトナムハノイ⇒紅河を遡る⇒途中少し陸路を通り⇒メコン川を下る⇒タイのチェンセーン辺りからタイ領内に、こんなルートでタイ国内に陶工たちが逃げ込んだ。
最初はタイ北部に窯場を築いたが後に当時の首都スコータイ近くに集まった。
こんなルートでタイ中部スコータイ近くに陶磁器産業の亡命工業団地のできた。こんな事だったようだ。


所がどっこい、最近になってトンデモナイものが発見された。
タイとミャンマーの国境に近い山岳地帯(タイ族ではなく山岳民族が住んでいる)の山の中から大量の陶磁器が発見されたのだ。

最初にどんな所かと言うと

2014-5-24tak-omkoi burial site
(注:Takはターク県の県庁所在地、Omkoiはチェンマイ県南部の郡、Burialとは埋葬・埋葬地のこと)

この地図はタイの中部から北部の地図。
バンコクとチェンマイのほぼ中間がタイの古都スコータイ。
タイの古い焼き物の産地は最初期はタイ北部チェンマイ周辺にあるが、その後中心地が南に下がって古都スコータイの近くになった。北部にあった窯に比べるとスコータイ周辺の窯は大きさが長さで約3倍(面積で9倍、容積では・・)と非常に大型である。生産量の違いが分かる。

そしてスコータイからほぼ真西に向かったところ、ミャンマー(ビルマ)との国境の町がメーソート(Mae sot)と言う町。
そしてその近くの山岳地帯に問題の遺跡が有った。

2014-5-24ターク山中1
これは発掘現場の写真だが、発掘現場ではなく盗掘現場と言った方がいいだろう。無茶苦茶な事をして掘っている。

2014-5-24ターク山中3

あった、あった。宝物を見つけて嬉しそうですね。
女の子の服装に注意。山岳民族である。
それにしても隣で見ているオジサン(先生?)、どう見ても「そのお皿欲しい」と言いそうな感じだが・・・(笑)

2014-5-24ターク山中2

こんなにたくさん出たらしい。
尚この大量の陶磁器類、地元民がどんどん掘り出してあちこちで売りさばいた。従って相当数が散逸してしまったがタイの篤志家が心配し、私財を投げ打って全部買い集めた。それをバンコクの大学に寄付したので、その大学が立派な博物館を作って展示している。(バンコク大学ランシットキャンパス内)


さてメーソートと言っても分からないので、最後に観光案内を兼ねて写真など。

これはミャンマーとの国境の検問所

2014-5-25メーソートからターク-01

これは国境の川にかかる橋、
2014-5-25メーソートからターク-02

国境の川の河原にはミャンマー人(少数民族が多い)がキャンプしている。ミャンマーには仕事が無い・・・
2014-5-25メーソートからターク2-0

金網越しに何を話しているのか。右はタイ側、左はミャンマー側(正確に言えばミャンマー側の検問所の手前なのでどちらの国でもない状態だが)
2014-5-25メーソートからターク-2-1


国境の町メソートを出て県庁所在地タークに向かう山道の国道、途中の峠付近に山岳民族が野菜などを売る市場があった。彼らには貴重な現金収入なのだろう。しかし値段は非常に安かった。
(注:メソート・ターク間約80キロほどだが町の周辺を除くと殆ど人家は無い)
2014-5-25メーソートからターク03

峠の市場で見かけた可愛い女の子。服装が山岳民族独特である。
2014-5-25メーソートからターク-04

その市場の裏手がこうなっている。見渡す限り山また山。そんな中に上掲地図の埋葬地が有ったわけだ。
2014-5-25メーソートからターク-05

さてこんなとんでもない山の中に埋葬された人たちはいったい誰なのだろうか。
タイ人やこんな山岳民族・少数民族にはそんな埋葬し、副葬品に高価な陶磁器をつける習慣は無い。
調査報告では他に刀(sword)も副葬されていたようで、刀を覆うように皿、鉢などが伏せた状態であったそうだ。
恐らくこれは武人のグループではないだろうか。
正確な発掘調査が必要であろう。

そしてこんな埋葬の仕方はボルネオ島のマレーシア側、サラワク州クチンのサラワク博物館でも展示されているそうだ。
(三上次男氏の陶磁の道による)

最初に挙げた中国から東南アジアへの交易のルート図でも中国広州・厦門辺りからボルネオ島へのルートが有る。
この辺りの陶磁器を副葬した埋葬地に葬られた人たちは中国が崩壊した時、多数の難民が海に逃れた。
その人たちが流れ着いて暮らしていた証拠なのだと思う。
日本では平家の落人と言う話しが有るが、中国の難民は有るグループは亡命工業団地を作り、有るグループは山の中に隠れ、恐らく貿易などをやっていたのだと思う。

次回やっと山の中から海に出て行きます。
此処まで長い話、おつきいただき有難うございました。









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コメント

陶土はどうなんでしょう

陶芸は、陶芸家だけが存在してもいい陶器はできません。それに見合った陶土が必要と思うのですが、タイにもベトナムにもいい陶土があるのでしょうか。
  1. 2014-05-25 19:00
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  3. Rascal #-
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Re: 陶土はどうなんでしょう

> 陶芸は、陶芸家だけが存在してもいい陶器はできません。それに見合った陶土が必要と思うのですが、タイにもベトナムにもいい陶土があるのでしょうか。


初めまして、コメント有難うございます。
陶土と言っても色々あるわけでして、まあ極端に言って植木鉢程度を作るのならどこにでもある粘土で良い。
しかしチャンとした器を作ろうとすると固く焼き締めるためにそれなりの耐火度が必要です。
更に美しさを求めれば土の色は白くなければいけない。現代のタイの陶磁器産業の中心地はスコータイより少し北、ランパーン県ですが、此処は良い土が採れると聞いています。
ですからスコータイ周辺にもそれなりの土は有るのではないでしょうか。

有名な所では愛知県の瀬戸地方には木節、ガイロメと言う名前の陶土が有ります。
木節は亜炭層に堆積した粘土、蛙目(ガイロメ)は花崗岩の長石が風化し石英が残って蛙の目のように見える粘土です。
尚これは陶器を作る土の事。磁器を作るには陶石という一見石のような粘土が必要で、日本では天草陶石が有名ですが、今殆どは輸入の様です。
  1. 2014-05-25 21:11
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  3. 短足おじさん二世 #-
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わくわく!

時代背景は、大陸では南宋が滅びる頃で、日本で言えば鎌倉時代の事ですね。
当時の大陸の文化の担い手が、集団で夜逃げをしたようなイメージです。

シナの王朝が滅亡する時は、7代遡って処刑されたそうですから、凄まじい殺戮があったのでしょうね。文官、武官であろうと、技能者集団であろうと、夜逃げをしたでしょうね。

わくわくしながら、続きを待っています。^^
  1. 2014-05-25 22:56
  2. URL
  3. 無才 #-
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Re: わくわく!

> 時代背景は、大陸では南宋が滅びる頃で、日本で言えば鎌倉時代の事ですね。
> 当時の大陸の文化の担い手が、集団で夜逃げをしたようなイメージです。
>
> シナの王朝が滅亡する時は、7代遡って処刑されたそうですから、凄まじい殺戮があったのでしょうね。文官、武官であろうと、技能者集団であろうと、夜逃げをしたでしょうね。
>
> わくわくしながら、続きを待っています。^^


有難うございます。
中国の王朝滅亡に際しては凄まじい殺戮が有ったのですが、残念ながらその事は殆ど知られていません。
このケースでも宝物を畑に埋めて逃げて行った人がいたが帰ってこられなかった。
そんな事例もとり上げるかもしれません。
日本ではほとんど考えられない事だと思います。
次回は船の話ですが、どうもそれだけで終わりそうもない。
その後さらに番外編が必要かなあ、そんな所なのですが・・・
何せ複雑怪奇な話なので、どこで脱線するか・・・
日暮れて道遠しです。
  1. 2014-05-26 07:15
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
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シナの人口に関しては以前もご案内したかと思いますが王朝交代に伴いメガデスが発生するというのが一般的な流れです。後漢の滅亡から隋の成立までとか宋の滅亡と元の征服、明の滅亡による人口減少などは良く分かるところです。一例をあげるとこちら
http://www.linz.jp/worldpop/jp07/index.html」
もちろん人が死んだだけではなく、国力の低下に伴う戸籍の把握力の低下、住民の流民化などで人がいなくなったのが大きいだろうというのは自明の理です。

このような焼き物をもたらしたのは宋代の流民なのでしょうね。小生がこのことに最初に築いたのは漢字です。
たとえば古典におけるイヌは古いところは犬ですが新しいところは狗を使います。また食べるとぴう意味では古いところは食ですが新しいところは喫を使います。こんなに基本単語が入れ替わるなどというのは大規模な人の変更があったのだろうということを相当前に気が付いてました。内藤湖南辺りは唐宋交代論などでこれを示唆したそうですが大規模な入れ替わりがあったのだと思います。

そいつらが逃げてきたのだろうということです。でも不思議なことに日本列島に逃げてきたのははるか昔の長江文明の連中だけのようですね。彼らが稲作を伝えたことは確実ですが日本の文化の源流は南だと思ってました。どうしてかというと呉服という言葉の語源が不思議でならなかったからです。

案外身近な所にヒントがあるような気がしてなりません。
  1. 2014-05-28 19:59
  2. URL
  3. kazk #-
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To:kazkさん

> シナの人口に関しては以前もご案内したかと思いますが王朝交代に伴いメガデスが発生するというのが一般的な流れです。後漢の滅亡から隋の成立までとか宋の滅亡と元の征服、明の滅亡による人口減少などは良く分かるところです。一例をあげるとこちら
> http://www.linz.jp/worldpop/jp07/index.html」
> もちろん人が死んだだけではなく、国力の低下に伴う戸籍の把握力の低下、住民の流民化などで人がいなくなったのが大きいだろうというのは自明の理です。
>
> このような焼き物をもたらしたのは宋代の流民なのでしょうね。小生がこのことに最初に築いたのは漢字です。
> たとえば古典におけるイヌは古いところは犬ですが新しいところは狗を使います。また食べるとぴう意味では古いところは食ですが新しいところは喫を使います。こんなに基本単語が入れ替わるなどというのは大規模な人の変更があったのだろうということを相当前に気が付いてました。内藤湖南辺りは唐宋交代論などでこれを示唆したそうですが大規模な入れ替わりがあったのだと思います。
>
> そいつらが逃げてきたのだろうということです。でも不思議なことに日本列島に逃げてきたのははるか昔の長江文明の連中だけのようですね。彼らが稲作を伝えたことは確実ですが日本の文化の源流は南だと思ってました。どうしてかというと呉服という言葉の語源が不思議でならなかったからです。
>
> 案外身近な所にヒントがあるような気がしてなりません。


面白い情報ありがとうござます。
私も中国の人口減少については大いに興味が有ります。現在もひょっとすると後世の歴史家には同じことと言われる事態が発生するかもしれない、そんな気がします。

私は日本人のルーツの一つに長江文明の流民が日本にやってきて弥生文化を作った、これは間違いないと見ています。
色んな理由が有りますが、その一つが長江下流、今の上海あたりから日本へは季節を選べば粗末な竹の筏でも渡航可能、そんな事が有ります。
そして日本に来たのは呉越同舟の呉の国、越の国の民だった、そう見ています。
理由の一つは呉服の語源ですが、もっと大きいのは魏志倭人伝の底本と言われる魏略の記述から。
魏略は殆ど散逸していますが、僅かに日本の太宰府天満宮に「翰苑(かんえん)」として残っています。
そこには日本からの使者が自ら「自謂太伯之後」(自ら(呉王)太伯の後と謂う)」と記載されています。この翰苑は菅原道真がこれは大事だからとだ言ったとされていますが、古事記をはじめとする朝廷の歴史観と食い違うため現在でもないがしろにされています。しかし翰苑は国宝です。
面白いものです。
尚呉の国は二つあり、一つは春秋時代の呉、呉越同舟の呉です。臥薪嘗胆などのいろんな話のある呉。
もう一つは三国時代、魏呉蜀の呉です。呉服の起源はこちらの呉、或いは漢字の読み方の呉音が有りますが此れもこちらとの説が有ります。
今後の研究が待たれます。
  1. 2014-05-30 07:22
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
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