2013-12-13 16:27

昔の雪景色

 明日は12月14日、14日と言えば・・
「時は~ 極月 14っ日(か)~」 そうです、忠臣蔵 赤穂浪士討ち入りですね。


赤穂浪士討ち入り(戦前の写真です)

2013-12-13赤穂浪士討ち入り(戦前の写真)



本当はこの当時は旧暦なので今の暦にすると1703年1月30日になるようですが、余りにも極月14日が有名なので、そのままにしました。


この赤穂浪士討ち入りの日は当時でも大変な大雪だったようです。
この件、ガンダムさんもコメントで指摘しておられました。


実は江戸時代は現代より相当寒く、結構大雪が降ったようです。
赤穂浪士討ち入りから時代は下がりますが江戸で3尺もの大雪が降った記録が有ります。

天保12年12月17日(西暦1842年1月28日)、江戸江戸大雪三尺(日本の気象史料)

そして江戸時代の終わりころですが、江戸幕府が気象観測を行っていまして、そのデータが残されています。
「霊憲候簿」がその資料名で内閣文庫と国立天文台に保管されています。
その資料を読んだ方のブログに依れば当日の江戸の天気は
  朝曇、30度余、29寸8分6厘、摂氏ー1度
  午正雪、32度強、29寸9分1厘 摂氏0.2度   
  初昏雪、32度半、29寸7分8厘 摂氏0.3度
なのだと言う。
詳細は以下参照ください
http://blog.goo.ne.jp/11111fumitomo/e/2c211a81999f00ad1742473d1329fa9b


そう言えば同じ頃浮世絵師安藤広重はこんな絵を
「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」
安政4年(1856年)閏五月に出版されたもの。
2013-11-4広重浮世絵名所江戸百景深川洲崎十万坪縮小版


この深川洲崎とは現在の木場 東京都現代美術館近辺との事。
凄い風景です。高い空を舞う鷲の目で見た雪景色、一面真っ白な雪と遠くに見える山。この山は筑波山でしょうね。



これとほぼ同じところから見た現代の風景がこんなモノ(東京スカイツリーから)

2013-11-4東京スカイツリーから見た筑波山方面2012-11月のモノ



また芝の愛宕山 を描いたこんな雪景色も
「東都司馬八景 愛宕山暮雪」
天保十年(1839年)頃の作品 

2013-11-4広重浮世絵東都司馬八景愛宕山暮雪縮小版


さて江戸時代はこんな雪でしたが今年は如何でしょうか。
マスゴミは未だに温暖化が~と叫んでいますが、今年は相当寒い冬になりそうです。
我が家では長女が今度の日曜にやってきて保管してある冬タイヤに付け替える予定。例年は年末位にやっていたのですが、今年は少し早目の方がよさそうです。

  1. 気候変動
  2. TB(0)
  3. CM(6)

コメント

新暦旧暦の違いがありますが、
討ち入りは正確には明日、12月15日未明4時30分ごろです。

時代劇などでは表門をぶち破り朗々と我ら播州赤穂浅野内匠頭の家臣、士道を立てんがため推参つかまつった、これはと思う方は出会え候え!と口上を叫ぶとなるわけですが、
後に浪士を預かった細川家の聞き取りによると吉田忠左衛門などそうとうな高齢者までが塀を乗り越えて邸内に飛び降りたそうで、当日の雪の深さが伺えます。

邸内制圧に一時間未満で8時くらいに本懐である吉良の首級をあげているので延々三時間くらい隠れた吉良上野介を捜索していたことになります。

火事装束で討ち入りするのは忠臣蔵から少し前に起こった市ヶ谷の浄瑠璃坂の仇討ち事件で襲撃側が採用したものを踏襲していたようです。
浄瑠璃坂の仇討ちは宇都宮の家老の家系の内紛でしたが、襲撃は完全な空振りになり、やむを得ず引き返した途中の浄瑠璃坂で襲撃された側が集団で追尾してきて大規模集団戦闘になり、激闘の末に大将同士の一騎打ちとなり襲撃側が勝ったという劇的な事件でしたが、忠臣蔵のあとは人気は急降下し今ではあまり知られていません。

やはり
鍵屋の辻も忠臣蔵も世間をわかせる政治的背景があったのが人気の理由のようですね。

長家に押し込められほとんど活躍できなかった吉良の首尾側ですが、一般には清水一角が二刀流で大立ち回りしたことになっていますが、実際に浪士をたじろかすほど抵抗したのは14歳の茶坊主見習いで、清水は台所に踏み込んだ浪士の三人一組の攻撃であえなく討ち死にしたそうで戦闘時間は長くはなかったようです。
ご存知のように吉良は領地経営に熱心な地元では名君と慕われた人物でしたから百姓から取り立てられた清水に地元民の感情移入が多分にあり、奮戦の末非業の最後を遂げる清水一角伝説が生まれたものと考えられます。
  1. 2013-12-14 02:35
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  3. ガンダム #iL.3UmOo
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To:ガンダムさん

> 新暦旧暦の違いがありますが、
> 討ち入りは正確には明日、12月15日未明4時30分ごろです。
>
> 時代劇などでは表門をぶち破り朗々と我ら播州赤穂浅野内匠頭の家臣、士道を立てんがため推参つかまつった、これはと思う方は出会え候え!と口上を叫ぶとなるわけですが、
> 後に浪士を預かった細川家の聞き取りによると吉田忠左衛門などそうとうな高齢者までが塀を乗り越えて邸内に飛び降りたそうで、当日の雪の深さが伺えます。
>
> 邸内制圧に一時間未満で8時くらいに本懐である吉良の首級をあげているので延々三時間くらい隠れた吉良上野介を捜索していたことになります。
>
> 火事装束で討ち入りするのは忠臣蔵から少し前に起こった市ヶ谷の浄瑠璃坂の仇討ち事件で襲撃側が採用したものを踏襲していたようです。
> 浄瑠璃坂の仇討ちは宇都宮の家老の家系の内紛でしたが、襲撃は完全な空振りになり、やむを得ず引き返した途中の浄瑠璃坂で襲撃された側が集団で追尾してきて大規模集団戦闘になり、激闘の末に大将同士の一騎打ちとなり襲撃側が勝ったという劇的な事件でしたが、忠臣蔵のあとは人気は急降下し今ではあまり知られていません。
>
> やはり
> 鍵屋の辻も忠臣蔵も世間をわかせる政治的背景があったのが人気の理由のようですね。
>
> 長家に押し込められほとんど活躍できなかった吉良の首尾側ですが、一般には清水一角が二刀流で大立ち回りしたことになっていますが、実際に浪士をたじろかすほど抵抗したのは14歳の茶坊主見習いで、清水は台所に踏み込んだ浪士の三人一組の攻撃であえなく討ち死にしたそうで戦闘時間は長くはなかったようです。
> ご存知のように吉良は領地経営に熱心な地元では名君と慕われた人物でしたから百姓から取り立てられた清水に地元民の感情移入が多分にあり、奮戦の末非業の最後を遂げる清水一角伝説が生まれたものと考えられます。


良くご存知ですね。
私の住まいは吉良とは三河湾を挟んで反対側、知多半島にあります。
そんな事で吉良は時々通るのですが今でも何もない田舎。
でも吉良様の人気は大したもので、未だに忠臣蔵を目の敵にする土地柄です。
と言っても最近赤穂と一応仲直りしようぜという事で交流はしているようです。

数年前私のご先祖様調べをしていたとき、一族の縁繋がりの方が「赤穂義人纂書」なる書物を作った事を知りビックリしたことが有ります。
人間何処でつながっているか分からないものですね。
でも忠臣蔵のようなものは国が困難に直面したとき人気が出るモノの様ですから、これからまた見直されるかもしれません。
  1. 2013-12-14 09:29
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  3. 短足おじさん二世 #-
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吉良上野介屋敷は墨田区両国で、仇討ちの後は永代橋を渡り泉岳寺まで首を掲げて行ったという。永代橋を通るたびに思い出します。今でもそうなんですから江戸時代はもっと強烈な記憶だったでしょうね。
  1. 2013-12-14 12:47
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  3. yuyuu #-
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To:yuyuuさん

> 吉良上野介屋敷は墨田区両国で、仇討ちの後は永代橋を渡り泉岳寺まで首を掲げて行ったという。永代橋を通るたびに思い出します。今でもそうなんですから江戸時代はもっと強烈な記憶だったでしょうね。


そうでしょうね。
当時は当然ながら口コミの時代ですが、口コミの広がる速さは想像以上に早い。
しかも口コミ特有の尾ひれの付いた話なので凄かったでしょう。
  1. 2013-12-14 15:29
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

テンプレ変えられましたか。だんだん良くなってますね、ありがたいことです。

学生時代ですが、酔狂で吉良邸跡あたりから泉岳寺まで歩いたことがありました。
結構な距離です。仇討ちやったあとにあれだけ歩いて帰る、連中の体力にも驚きましたが、一種のデモンストレーションだったんでしょう。でも幕府にしてみれば頭にきたでしょうね。

所で、須崎というのは今でいう新砂あたりですからもう少し東南ですよね。現代美術館は昔の木場の貯木場の北側にあたります。昔の木場はその南側です。
深川という地名は現在大きく誤った地域で使われてますが現代美術館から深川江戸資料館、清澄庭園まであたりが本当の深川であり一番ディープなお江戸なのです。
神田浅草などと違う物があるのですがなかなかここに来ようという人はいません。

大変面白いところなんですがね。
  1. 2013-12-14 23:31
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  3. kazk #-
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To:kazkさん

> テンプレ変えられましたか。だんだん良くなってますね、ありがたいことです。
>
> 学生時代ですが、酔狂で吉良邸跡あたりから泉岳寺まで歩いたことがありました。
> 結構な距離です。仇討ちやったあとにあれだけ歩いて帰る、連中の体力にも驚きましたが、一種のデモンストレーションだったんでしょう。でも幕府にしてみれば頭にきたでしょうね。
>
> 所で、須崎というのは今でいう新砂あたりですからもう少し東南ですよね。現代美術館は昔の木場の貯木場の北側にあたります。昔の木場はその南側です。
> 深川という地名は現在大きく誤った地域で使われてますが現代美術館から深川江戸資料館、清澄庭園まであたりが本当の深川であり一番ディープなお江戸なのです。
> 神田浅草などと違う物があるのですがなかなかここに来ようという人はいません。
>
> 大変面白いところなんですがね。


このテンプレートはつい数日前アップされたものです。
コメントの文字が小さいので気に入りませんが、かなり使いやすそうです。
文字の大きさなども変えれるらしいのですが難しく面倒。
もう少し調べてみます。

旧吉良邸から泉岳寺ですか、相当でしょうね。若い内ならいくらでも出来るという事でしょうか。

深川洲崎十万坪はその当時の名所なのだそうですが、何が名所だったのか。
寡聞にして私は知識が有りません。
しかし広重の画家としての才能は凄いと思います。
地上からしか見ていないのにはるか上空を飛ぶ鷹の目で見た絵が描ける、素晴らしいですね。

しかし今日もアチコチ大雪ですが、この冬は東京でもこんな雪景色が見られるんでしょうか。
ノンビリ雪見酒は良いモノですが、事故やら渋滞やら、現代社会は気候変動にはホント弱いです。
  1. 2013-12-15 08:47
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  3. 短足おじさん二世 #-
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