2013-10-24 22:06

広重と五平餅の話

 読売新聞の中部版に「広重をたどって 中山道編」という特集記事が有る。
毎週土曜日の名古屋圏欄に掲載されているのだが、私は昔から浮世絵好き。
何せ今から40年も前に北斎・歌麿・広重の浮世絵画集を買ったくらい 、安月給でよくぞあんな高価なモノを買ったなあ・・

その広重と私の好きな五平餅とくれば、これは話題にするしかあるまい。
という事で最初に挨拶代わりに広重の中山道の浮世絵の代表作の一つを。

これは中山道大井の宿、今の岐阜県恵那市である。
(恵那市中心部に大井という地名は残っている)
2013-10-24広重中山道69次大井宿縮小版


降りしきる雪の中をゆく旅人を正面からとらえたもの。
現在の恵那市では多分こんな雪は滅多に降らないだろう。江戸時代は寒かった、そんな空気が伝わってくる。
尚この画像、浮世絵が大きすぎて私の小さなスキャナーでは上下左右が入りきらないので少しずつ切れている。ご容赦を。

これから地球は寒冷化に向かうが、多分何年か先にはこんな景色が当たり前になるかも・・ ちょっとこの話は別の機会に。


さて本題に入ります。

以下読売新聞の記事、尚この記事はリンク先を見ると会員以外は読めないようになっているので全文引用します。

<以下引用>

[広重をたどって 中山道編]庶民の宿 庶民の味=中部発
2013年10月12日15時25分 読売新聞
五平餅


 歌川広重が御嶽(御嵩)宿(岐阜県御嵩町)で描いた浮世絵に「きちん宿」が登場する。薪炭の代金(木賃)だけを支払い、自炊した木賃宿のことだ。庶民の宿の原型で、後に食事も出す旅籠(はたご)となったが、裕福でない旅人にとっては、むしろ敷きで雑魚寝の木賃宿でもありがたかった。浮世絵ではちょうど釜の湯が沸いている。持参した乾飯(ほしいい)にかければ夕食となった。
2013-10-24木賃宿写真


(注:この画像は私の持っている画集から写真にしたもの)

 地元の会社員奥村正広さん(57)に宿場を案内してもらった。子どもの夏休みの宿題で、一緒に町内の句碑を研究したのがきっかけで郷土史に目覚め、今では教員向けの雑誌に寄稿するほどになった。2年後に開創1200年を迎える古刹(こさつ)、願興寺を訪ねると、顔なじみという住職の小川文甫(ぶんぽ)さん(68)が草むしりをしていた。本堂とともに伝教大師作と伝わる本尊など24体の仏像が重要文化財となっている。しかし、なぜか荘厳さより親近感を覚えた。

 戦国末期、甲斐の武田勢に伽藍(がらん)を焼かれた。再建したのは地元の農民たちで、「都から宮大工を呼ぶ余力はなく、柱も板も村人の寄進でそろえ、ようやく造営したのです」と小川さん。本堂を一巡りする回廊は幅が4メートルもある。異例の形は「宿場が整備される以前、旅人たちに夜露をしのぐ場所を提供するため」でもあったという。同寺の醸す親近感とは、広重の浮世絵に通じる庶民性だったのだ。
2013-10-24馬篭宿のだんご型五平餅


 ところで、木曽路から旧宿場を訪ね歩いてきた取材で、いつも空腹を癒してくれたのは、それぞれの宿場で売られている五平餅だった。郷土の味とうたわれることも多い。馬籠宿(同県中津川市)では島崎藤村の小説「夜明け前」にも登場すると聞かされたが、「聞き書 岐阜の食事」(「日本の食生活全集」第21巻)などによると、御嵩町が五平餅の西限だった。

 「我が家では作る風習はありませんが」と西限説に首をかしげる奥村さんと、願興寺の隣接地に同町観光協会が出店する「みたけ茶屋」をのぞいた。五平餅があった。責任者の土本直子さん(60)によると、家に伝わるみそだれの味をそのまま再現しているのだという。ただ「本当はわらじ型で、食べやすさを考えて」だんごを押しつぶした丸平だんご型としていた。

 庶民の味だったせいか、五平餅の研究は少なく、恵那市の郷土史家で昨年、85歳で亡くなった安藤利道さんのまとめた「五平餅味栗毛」がほぼ唯一の例。岐阜県東濃地方、長野県木曽・伊那地方、愛知県奥三河などに分布し、そのカタチは10種類に分かれる。たれのみそ、しょうゆの違いも加味すれば分類はさらに複雑になるそうだ。

 安藤さん以降、県内で研究の後継者は出ていない。一方、愛知県豊田市では3年前に「とよた五平餅学会」が誕生した。同市職員で、今のところ唯一の学会学芸員、天野博之さん(44)は分布の理由、そして御嵩町が西限の理由も説明できるという。そのことは次回に。(千田龍彦)

http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131012-120-OYT8T00673/list_CHUBU%255fRENSAI%2509%25E5%25BA%2583%25E9%2587%258D%25E3%2582%2592%25E3%2581%259F%25E3%2581%25A9%25E3%2581%25A3%25E3%2581%25A6%25E3%2580%2580%25E4%25B8%25AD%25E5%25B1%25B1%25E9%2581%2593%25E7%25B7%25A8_0/list_CHUBU

[広重をたどって 中山道編]存亡かけた街道間競争=中部発
2013年10月19日15時25分 読売新聞
庶民の道

 前回を受けて五平餅の話から始める。「五平餅味栗毛」をまとめた故・安藤利道さん、愛知県豊田市職員で「とよた五平餅学会」学芸員天野博之さん(44)はともに「五平餅の発祥は山の神をまつる山の講の御供え」としている。さらに天野さんは、五平餅の分布が、三河湾で作られた塩を奥三河や信州、美濃へと運んだ塩の道や、目的地まで同じ馬で荷を運ぶ「中馬」の通った街道網と重なることに注目。「馬を引く馬子たちによって広められ、やがて地域ごとに特色が加わったのでは」と推測する。

 岐阜県御嵩町が五平餅分布の西限となった理由も「同町の伏見宿より先は水運が可能で、馬による搬送との境界の一つだったからです」(天野さん)という。


広重は伏見宿近くの大杉の下で休息する巡礼たちを描いた(中山道広重美術館所蔵「木曽海道六拾九次之内」より) (注:画像省略)

 水運の拠点となったのは、伏見宿から北へ約600メートル、木曽川左岸の崖下にある新村湊(しんむらみなと)で、下流の同県笠松や三重県桑名の間に定期船が出た。年貢米や茶、陶器、薪、炭などを積み込み、油、塩、昆布、みそ、畳、タンスなどが陸揚げされた。今では雑木や竹やぶに覆われ、湊跡に近づくことはできないが、崖の上で代々問屋を営んできた日比野弘文さん(53)方には、往時の湊を想像して描かれた水彩画が飾られている。「私が子供の頃は、絵の通りの階段も残っていて、木曽川まで下りて泳いだものです」という。

新村湊を描いた水彩画。「絵の通りの険しい階段が崖上まで続いていました」と日比野さん(注:画像省略)
 ところで、歌川広重が伏見宿で描いた大杉は、中山道沿いにはなく、同宿の西で別れ、小牧宿(愛知県小牧市)経由で名古屋城下へ向かう上(うわ)街道(木曽街道)沿いにそびえていた大杉を借用したものだとされている。江戸との往還で、尾張藩はこの街道を名古屋と中山道を結ぶ公式の道として藩営で整備した。現在の名鉄小牧・広見線と並行する。

 しかし、旅人や商人は大井宿(岐阜県恵那市)と名古屋を勝川(愛知県春日井市)経由で結ぶ下(した)街道、今日の国道19号の方を好んだ。「尾張の街道と村」の著者で春日井市の郷土史家桜井芳昭さん(75)は「大井―名古屋間で比べると、下街道の方が約4里(16キロ)も短く、高低差も少なくて歩きやすかった。中山道や上街道では宿場ごとに荷物を積み替えるため、手間も経費もかかり、中馬を利用できる下街道の方がずっと便利だったのです」という。

 利用者の減少は宿場の存亡にかかわる。このため1624年(寛永元年)、影響を受ける伏見宿など中山道と上街道の宿場が尾張藩に対し、下街道の利用禁止を訴え、同藩はその利用に規制を加えた。しかし、規制には抜け道があり、やがて形だけになって、下街道が盛り返し、規制強化や保護策の訴えは幕末まで繰り返された。「政策より経済原則が勝り、上街道利用の定着は困難でした」と桜井さん。

 ちなみに、新村湊からの水運についても、太田宿(岐阜県美濃加茂市)以西の宿場から、取り扱い荷物量が減ったとの苦情が出ている。(千田龍彦)

http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20131019-120-OYT8T00613/list_CHUBU%255fRENSAI%2509%25E5%25BA%2583%25E9%2587%258D%25E3%2582%2592%25E3%2581%259F%25E3%2581%25A9%25E3%2581%25A3%25E3%2581%25A6%25E3%2580%2580%25E4%25B8%25AD%25E5%25B1%25B1%25E9%2581%2593%25E7%25B7%25A8_0/list_CHUBU

<引用終り>

こんな記事です。

しかし私にはどうも釈然としないものがある。実は私が幼い頃、一番古い記憶が五平餅を食べた事。そんな経緯を3年前のエントリーで書いてみた。
五平餅の話
http://tansoku159.iza.ne.jp/blog/entry/1752072/

だから昔の五平餅については結構知っているのだが、そもそも五平餅と言うのはこんなモノ。
これが昔ながらの五平餅の形、現在でもあちこちで見かける「草鞋(わらじ)型五平餅」
2013-10-23五平餅(八雲団子製)


この写真のモノは現代風に食べやすいように少し小さくしてある。昔のモノは本当のわらじ並みの大きさ、しかし食べる時口の周りに味噌がついて食べにくい。
この為食べやすいようにだんご型などが出来た。

そして私が昭和40年代に五平餅を探して奥三河から東濃・南信の山里を走り回った時知った事。
それは
五平餅は山里で冬に食べるモノ。
それもお祭りとか、お客さんが来たときとかのハレの日に食べるモノ。
こんなモノだった。

という事で五平餅のルーツもその伝播の経緯も良く分かっていないようだ。
ではその五平餅のルーツと伝播の経緯について、その話は次回にエントリーします。
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