2009-09-18 17:31

日経新聞さん! 科学に記事にウソは駄目ですよ<今分かっているのはこんなこと

前回前々回エントリーで弥生人の渡来ルートの関する日経新聞の記事についての疑問を書いた。

 

では彼らは何処から来たのか、その可能性のひとつが中国江南地方から直接来たと言うものだ、しかし直線距離で800キロ以上離れた所を航海する技術があったのか?

 

このエントリーでは中国と日本を結ぶ海の道についての私なりの考えを述べてみたい。

 

 

 

最初に「古代日本には中国と日本の間を航海する様な航海技術は無かった」と言ういわば常識的な考え方がある。

 

この考え方の出てきた原因は、多分後の時代、遣唐使船が大変航海に苦労し多くの犠牲を出した。また唐招提寺をつくった鑑真和上が日本に来る為何度も遭難し、最後失明までしてやっとたどり着いた、こんな事実からこのルートはきわめて困難との見方が定着したと思う。

 

遣唐使船の渡航ルート (Wikiによる)

この内特に九州から中国に直行するルートは困難を極め、従来の定説は遣唐使船は季節風に対する知識も無く、無謀な航海をしたといわれていた。

然し最近の研究では遣唐使は朝貢の使いとの性格から、元日朝賀に出席する為気象条件の良くない時期に出航せざるを得なかった、これが遭難多発の原因と言われている。

 

 

 

では日本と中国の間の往来の実態はどうであったのか。

実は時代は下るが、ここを4~5人乗りの小船で自由に往来していた海の民がいる。倭寇である。

 

倭寇の実態はよく分からない、殆ど唯一の倭寇の船を描いたものはこんなもの。

 

倭寇図巻:部分 (東京大学史料編纂所蔵)

右側が倭寇、乗っているのはこんな小船

 

では彼らがどんなルートを使ったかと言うと

 

倭寇の侵略地とルート(中国の海商と海賊:山川出版社刊より)

 

 

この様に時代が違うとはいえ、遣唐使船のような大きな船でも手こずった東シナ海の航海、それがあんな小さな船でも可能、その理由は上に上げた「中国の海商と海賊」では以下のように書いている。

 

 万暦「温州府志」兵戎志、海防、「入寇海道」の条を引用する形で、

「日本から帆船で東北風が多く吹けば、その風を受けて薩摩、長崎県の五島からただちに浙江省中部沿海地区に到達する航路となった。その際の目標が寧波府の象山県東部の海上に位置する菲山列島であった。そこから沿海にそって南下すれば温州が襲撃地となり、北上すれば舟山列島が襲撃地となるとみられたのである。

倭寇の襲撃時期は旧暦の清明節(陽暦の4月上旬)から5月までの1~2ヶ月と、重陽節すなわち旧暦の9月9日から1ヶ月弱のあいだがその時期であった。」

 

つまり日本から中国に行き、そして帰ることに出来る時期は年2回あり、この時期であればあのような小さな船でも往来できたわけだ。

船乗りにとって風を読むことは命にかかわること、だから海の民は風のことを熟知していたのであろう。

 

 

中国江南地方と日本・朝鮮との航路が有る季節だけ往復可能であったことを裏付ける資料が同じ文献に出ている。

 

これは朝鮮半島の高麗の記録「高麗史」の中に記載された宋代の中国商人の記録の中に出身地の分かるものがあり、それを纏めたもの。

 

 

 ここには西暦1017年~1059年までの間に詳細不明の1件を除く20回の来航記録がある。

その20回中15回は7月~8月に到着している。

また同じ名前の人物が2回来ているものも有る。

つまり中国江南地方と朝鮮(日本もたぶん事情は同じ)との航路は、安全な季節があり、彼らはそれを良く知っていたと思える。

(尚この様なことは資料豊富な日本の方がもっとハッキリするだろうが・・・)

 

 

 

弥生人の話を2000年以上後の話で推測する、これはムチャクチャなことではあるが、弥生人のことが直接分からないのでこんな事を例として出してみた。

 

2000年以上後の時代ではあるが、倭寇などは中国と日本の間を4~5人乗りの小船で自由に往来できた。

海図も六分儀も羅針盤も無いといえば、弥生人も倭寇も条件はほとんど同じだと思う。

 

尚倭寇が有るグループなどは数百隻の船団を組んでいたと言ったことは承知しているが、2~3隻の小集団もあった。

この話はこの小集団の倭寇を念頭においていることを了解いただきたい。

 

 

弥生人、彼らは実は優秀な航海者ではなかったか、そう考えている。

 

最後に日経新聞記事に対する私の考えを述べてみたい。

 

 

 

これが日経新聞に出ていた弥生人の渡来ルート図

 

 

 

然し最近の研究で有力なルート

 

 

然し稲の遺伝子解析からこれしかないと見られているルート

(佐藤洋一郎氏の説)

 従来このルートはきわめて困難なルートと考えられてきた。

然しはじめに述べたように、季節を選べば安全なルートであった可能性が高い。

 

 

 

上の中国江南地方から山東半島⇒朝鮮西部⇒朝鮮南部⇒九州北部と言うルートは今でも考古学者に強く支持されている。

 

然し遺伝子解析からは、中国江南地方から直接渡来したとしか考えられない。この事実に対して現在の考古学者は答えを出していないのが実情だ。

 

面白いことに以上の二つのルートは最初にあげた遣唐使船のルートとぴったり重なっている。

 

以上がこの問題についての現在の研究状況といえる。

日経新聞さん、記事にするならこんなことくらい調べて記事にすべきですよ!

こういった姿勢がネット時代の新聞に要求されていることに早く気がついて欲しいと思う。

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コメント

No title

私は縄文期にはルソン~台湾~日本の間の航路は
有ったと思っていますRM1-bはこの航路で直接入ったと思います

岩生成一氏の本は現在手に入りません
でも面白いですよ

参考になりますよ
17世紀セレベス島における日本人
岩生成一著「続 南洋日本町の研究」を読む
http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/iwao.html

一番面白かった船の作り方は現在読めません
航海の方法にウネリを利用し夜間航海する話が出ています
海と船
海洋民族ブギス・マカッサルの海(1) new
海洋民族ブギス・マカッサルの海(2)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/
戦前のセレベス
17世紀セレベス島における日本人
1890年代の邦人セレベス進出
セレベス時代の三浦襄 (1912-1930)
1916年頃のマカッサル街路名称
1920年代の日本人のセレベス進出
戦前セレベス島邦人進出事情
1940 - 41年頃のセレベス島
領事館の推移・戦前の日本人会
マカッサル日本人共同墓碑
開戦時のマカッサル残留邦人 ne
海と船
海洋民族ブギス・マカッサルの海(1) new
海洋民族ブギス・マカッサルの海(2)
  1. 2009-09-18 18:57
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  3. ana5 #79D/WHSg
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No title

To ana5さん

色々貴重な情報有難うございます。
大変参考になります。

>私は縄文期にはルソン~台湾~日本の間の航路は
>有ったと思っていますRM1-bはこの航路で直接入ったと思います

そうですね、具体的な証拠が見つからないので断言できませんが、古代人の航海能力から見れば不思議でもなんでもない。
その意味では今の学者先生方は固定概念が強すぎではないかと思います。
  1. 2009-09-18 22:55
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  3. 短足おじさん #79D/WHSg
  4. 編集

No title

確かめてから書こうと思っていたのですが、ちょっとぼんやりした記憶のまま書きましょう。池橋宏という人の「稲作の起源、縄文稲作はなかった」という本があります。この人は確か直行危険説ですね。円仁の入唐求法巡礼行記を引用して行きは直行、帰りは朝鮮半島沿いで無事帰ったではないか、とあったと思います(円仁のこの本の訳書は中公文庫で出ております)。ご説明の倭寇は季節の風を知って平気で渡っていたということはなるほどと思わせるところがありますね。高麗記はいつ頃の本でしょうか。ご紹介の遺伝子の説は、多分佐藤洋一郎さんの著書のうちだと思いますが、何という本に出ているのでしょうか。この池橋さんの説は佐藤洋一郎さんとは真っ向から対立するところがあります。稲作の起源について書く中で、稲作の起源は長江からタイの北部に至るゾーンにあるとしています。タイ語と華南の言語は似ているとか、タイの北部の人間はまじめで、バンコック辺りの人間とは全く違うというようなことも書いております。私は全くその辺りの地域へ行ったことはなく感覚的に掴めません。タイの事情にお詳しい短足おじさんさんのご意見を是非お伺いしたいところです。池橋さんの本を明日ぐらい紹介しようと思っていますが、どうなりますか。
  1. 2009-09-19 15:15
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  3. お絵かき爺 #79D/WHSg
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お絵かき爺様

円仁さんは最後の遣唐使船(838年)で唐に渡っていますね。そのときは四隻とも無事中国沿岸に着いたものの、船の喫水が深いため二隻が港で座礁しました。
円仁はそのまま求法の旅ですが、遣唐使は新羅船九隻をチャーターして帰国しています。
この事は当時の一般的な外航船のサイズは遣唐使船(全長約30m、排水量300トンと見積られている)の半分くらいのサイズらしいと言うことを意味しているようです。

遺伝子の説ですが、本文に載せた図は佐藤洋一郎氏のものですが、出所はある業界誌の対談記事からとりました。下記を参照ください。
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_04.html

私は佐藤洋一郎説が一番事実に近いと見ていますが今後も研究に期待しています。

最後にタイの話ですが、丁度今中国からの移住・渡来がどんな形態だったのか、タイの例を書こうと準備しています。
その中で池橋さんの話も出来れば取り上げてみたい。
(と言っても今日amazonに発注したので何時届きますか?)

最後に
>タイの北部の人間はまじめで、バンコック辺りの人間とは全く違う
これは稲作とは全く違う時限の話ですが、事実では有りません。
日本人の尺度で見ればタイ人は全てふまじめ、ですが日本人がきちんと教え込めば彼らはわかります。そして日本人以上に日本的感覚を持つ人もごく一部ですが出てきています。
  1. 2009-09-19 17:12
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  3. 短足おじさん #79D/WHSg
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No title

短足おじさんさんはなんでもよくご存じですね!なるほどご指示のウエブサイトを見ると陸稲、水稲は縄文期混交状態と言うことですね。しかしこれは、佐藤洋一郎さんの温帯ジャポニカ、熱帯ジャポニカのDNAからの判断でしょうか。土壌や環境からの判断でしょうか。これに対する池橋さんの見解は温帯ジャポニカ、熱帯ジャポニカは交雑の中から起こりうるというようなことを書いていたと思いました。しかしよわい感じの書き方でした。熱帯ジャポニカ、温帯ジャポニカを違いを認めず、インディカとジャポニカの違いのみ認めるようです。
  1. 2009-09-20 04:08
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  3. お絵かき爺 #79D/WHSg
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No title

To お絵かき爺様

池橋宏氏の本は明日届くようなので早速読んでみます。
ただ最近の研究では、稲作は長江中下流域から東南アジア方面に拡散したと言われています。そのあたりも稲作の専門家の意見を見てみたい、楽しみにしています。
  1. 2009-09-20 18:54
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  3. 短足おじさん #79D/WHSg
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No title

To Cosplayさん
>毒舌先輩が来ないのは、不思議だわ
>

いらっしゃいませ。
古人曰く
「草に寝て を待てば吾が額に 鳥はして 空に遊べり」
  1. 2009-10-04 18:08
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  3. 短足おじさん #79D/WHSg
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