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2019-05-18 15:35

三内丸山遺跡<巨木は縄文文明の象徴


 三内丸山遺跡でどうしても腑に落ちない事。それはこの巨木についてである。

2019-5-13三内丸山の巨大建物 
こんな巨木、1本の重さが約8トン、樹種は栗の木である。日本にはこんな大木は無いので、ロシアのソチから持ってきたもの。

しかし栗の大木は兎も角、ヒノキの大木をどうしても使わねばならない所が日本にはある。伊勢神宮の式年遷宮である。20年に一度の式年遷宮で、建物から鳥居、宇治橋など全部作り替える為、式年遷宮ではヒノキの木が約1万本使われる。中でも主要な柱などには樹齢200年から300年の巨木が使われる。
このヒノキ材を現在供給しているのが岐阜県と長野県にまたがる木曽谷。そこに戦前は神宮備林と言われた地域が有り、現在も国有林だが通称備林と呼ばれている地域。ここから江戸時代初めころから継続して伊勢神宮用の巨木を供給している。広さは訳8,000ha。
神宮備林
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%82%99%E6%9E%97

伊勢神宮用の木材供給の為、上記神宮備林の外に伊勢神宮でも用材を育てようとしている。かつて(鎌倉中期以前)式年遷宮用用材を供給していた御杣山(みそまやま)と言われていた伊勢神宮周辺の山を大正12年(1923)に計画策定し、200年計画で用材確保を進め、毎年2万本のヒノキを植林し、管理している。もう100年近く前からやっていますが、まだやっと半分になろうかという所。
神宮林(神宮宮域林)

神宮林ではこんな風にして管理している
2019-5-14神宮林のヒノキ管理状況   

200年かけて1メーターの太さのヒノキを育てようという計画。国家百年の計と言いますが、現実に200年先を見越したプロジェクトを百年も前から実行している。素晴らしいことです。


さて三内丸山です。
三内丸山は5900年前から4200年前まで1700年間継続して定住していた所。1700年間と言えば、古墳時代から現代までの期間。そんな所に住んでいた人たちは、多分現代人とは時間の感覚が違うのでしょう。
伊勢神宮がその悠久の歴史から式年遷宮用材確保の為、200年計画のプロジェクトを進めている。これと同じことが三内丸山でも実行されていたのではないかと思えます。

つまり周辺の山に栗を植え続け、その中の良いモノは百年二百年と手入れを続けていく。結果として1メーターもの巨木が育つ。
そしてこんな巨木は単に自分たちの住居や構築物に使うだけでなく、筏に組んで荷物の運搬だけでなく、木材そのものも交易の対象にしていたのではないかと。これは私の独断と偏見からではありますが、有力な可能性ではないかと思っています。

その理由は三内丸山からはヒスイの完成品だけでなく原石も出土していること。
ヒスイは約600キロ離れた新潟県糸魚川周辺で採れたものなので、重い原石を運ぶのは大変。しかし船とか筏なら重さはほとんど問題にならない。

三内丸山遺跡のヒスイ出土品のうち原石
2019-5-17三内丸山のヒスイ原石
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/sandaimaruyamaiseki/ibutu_kouekihin/hisui/IPA-san1030.htm

もう一つは、栗の巨木を使った縄文遺跡が石川県でも発見されており、縄文時代の日本海側に巨木文化が有ったと言われていること。

金沢市のチカモリ遺跡
掘立柱の環状木柱列(ウッドサークル)が発見され、直径30から85センチメートルの巨木柱が発見され、円を描くように配置されていた。

能登半島の真脇遺跡
円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。その太さは直径80 - 96センチもある


こんな事で、三内丸山を中心にした物流ののネットワークがあった。そんな事が三内丸山では説明されています。

2019-5-4青森4

三内丸山を中心にして北海道から長野県辺りまでがその範囲。こんな事が遺跡から出土した黒曜石などの遺物から分かってきました。
私はこの交易ルートは主に海上ルートが中心ではないかと見ていまして、船は丸木舟なのですが、そのほかに筏も有力な手段と考えています。

筏と言ってもピンときませんので、一寸筏について書いてみます。

筏による木材運搬

これは江戸時代の筏による木材運搬の様子
2019-5-17筏による木材運搬風景(和歌山)
和歌山木材史より
http://www.wakayama-mokuzai.or.jp/his/s-0/hisph-024.html

そして江戸時代中頃(1763年頃)に秋田から姫路まで筏で木材を運んだ記録がある。
ソースは
高砂市教育委員会の記事より
http://matsuemonho.mods.jp/wp-content/themes/outspoken/img/matsuemonho_kazewoamu.pdf

もっと古くは出雲大社にこんな伝承がある。。

寄木(よりき)の御造営(1115年)
天仁3年(1110)7月4日のこと、出雲大社の近くの稲佐の浜辺に長さ10丈(約30メートル余)の巨大な大木約100本が漂着しました。

こんな伝承なのだが、出雲国総社六所神社の神官の方のブログによれば、その内訳が分かる。
https://ameblo.jp/kikkoumon/entry-11882333853.html

百本の大木と言うものの、その内訳は
大 十八本 長十丈、九丈、八丈、七丈、六丈、口七尺、六尺、五尺、四尺、
中 九本、長五丈以上、
小 六十本、三丈以下、 こうなっている。
(えッ、数が合わないですか、まあそう言わずに、昔のことですから・・・)
ここまで書いてあるということは、この大木、筏に組んで運んできたのでしょう。但しどこから持ってきたかは記録に残せない何かが有ったので(禁制の山に入って伐採したとか)、流れ着いたとしたのでしょう。
要はこんな大木を筏に組んで運ぶ技術が昔から有ったということだと思います。

こんな事実を拾い上げていくと、縄文時代から巨木を筏に組んで運んでいた、またその筏でいろんな物資も運んでいた。そんな様子が見えてきます。
思い切って想像でいえば、物流の船が集まるのは満月の日を目指す。そんな時、巨大な大型竪穴住居がシティーホールにもなり、船乗りの宿泊所にもなり、持ってきた物資の交換所にもなる。また巨大な六本柱の建物が、見張り台とか烽火台とかになったのではないか。そんな風に思えます。


そしてここまで見てくると、日本の歴史教育から見直すべきだということが見えてきます。

昔は学校では縄文時代を教えていましたが、ゆとり教育のせいなのか、反日教育のせいなのか、平成10年(1998年)から小学校学習指導要領改訂で、旧石器時代と縄文時代が教科書から消えてしまった。平成20年(2008年)にやっと復活したものの記述は僅か。その原因は「日本人の歴史は大陸や半島から稲作が伝えられて、やっと発展の糸口をつかんだ。だから未開の縄文時代など学んでも仕方ない。こんな事なのだろう。
現に今でも何か新しいことが見つかるとこれは半島由来、これは大陸由来。こんな証拠もない議論がまかり通っている。
こんな流れが大きく変わったのは2017年3月の聖徳太子抹殺失敗事件。この事件が明るみに出したのは中国から学者や役人に色んな工作があり、その結果こんな事が起こったというもの。

そしてもう一つ、日本人は子どもの頃から世界4大文明と言うものが有ると教えられ続けてきた。しかしこれも戦後の話で考古学では完全に否定されている嘘。
アメリカなどで教えられているのは世界の7大文明(西欧・イスラム・インド・中国・ロシア正教会・ラテンアメリカ・日本)では日本だけが一国一文明という唯一の存在だということ。
その唯一の日本文明は縄文文明から連綿と続いていること。
こんな事をこれからもっと教えていかねばけないと思うのです。

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コメント

縄文という社会

短足おじさん様、初めまして。やまぽいと申します。
いつも機知と示唆に富んだ記事をありがとうございます。
毎回楽しく拝見しております。

いつもはROM組なのですが、生まれ故郷の青森(と言っても小学生の頃までしか住んでいませんでした・・・)が記事に載っておりましたのでついつい書き込みをしてしまいました。(^^;
(短足さんが行かれるとわかっていれば、オススメの場所やお店を紹介できたのですが・・・)
三内丸山遺跡は、10年以上前ですが法事で帰郷したおり、立ち寄りました。
復元された大規模な建築物に圧倒された覚えがございます。

縄文といえば、昨年東京国立博物館で開催された縄文展を観に行ってきたのですが
そこで見た土偶や土器の見事さには感服いたしました。
火焔型土器(個人的にあの文様は火焔ではなく、何かの動物ではないかと思っております)を始めとした土器や土偶の造形・文様が素晴らしく、そのクリエイティビティの高さに唸らされたものです。
火焔型土器などは小学生の頃の教科書に載っていた小さな写真でしか見たことがなく、当時は「ふ〜ん、昔の人はこんなのでご飯食べてたのかな?大変そうだな」位にしか思っていなかったのですが、百聞は一見にしかずとはまさにこのことですね。
その大きさもさることながら、立体的な装飾の造りやデザイン性に驚き、数千年前に生きた人々の息吹すら感じられる造形にはただただ感心するばかりでした。

これらの遺物を見て感じたことは、子供の頃に野蛮で粗末な生活を送っていたと教えられていた縄文時代が、実はかなり高度な文化を持っていたと考えざるをえないということです。
あれだけのモノは、狩猟や採集の片手間だけで創れるものではありません。
これは私の推測ですが、ある程度の規模の集団が生活を営む中で、手先の器用な者やデザインセンスのある者が土器制作を専任していたのではないかと考えております。
そして、そのような専任者を置けるということは、集団を養っていける程の食料をそこそこの人数でも調達することが出来ていたに違いありません。
短足さんが仰っている通り、木の実や食用植物の栽培をメインにして、狩猟や漁はサブ的な扱いだったのだろうと思います。
植物を栽培して定住生活を送り始めたのは弥生時代から・・・なんて教えもこれを見るとどうかと思ってしまいます。(おそらく「稲」という効率的な植物の登場が大人数の「邑」を作れる環境を提供したのでしょう)

また、それぞれの仕事には専従者を設け分業体制にすることで効率化も図っていたものと思います。
現代文明では人間の数が増えることによって様々な事が高度化・細分化され、縄文時代よりは便利になり、生活もしやすくなったのかもしれませんが、根幹のところでは、今とたいして変わらない社会だったのではないかなぁ〜?なんて考えております。
人間なんて数千年位では違う生き物にはなれないってことですね。(笑)
そう考えると、縄文時代にも親近感がわくってものです。
ちょっと当時の彼らをタイムマシンで覗いて見たい気もします。


さて、青森とはまったく違う話になってしまいました。(^^;
次回青森方面へ行かれる際は、ぜひ記事中にてお声がけください。
オススメの場所を紹介させていただきます。m(_ _)m
  1. 2019-05-23 19:58
  2. URL
  3. やまぽい #EDPCqIUo
  4. 編集

Re: 縄文という社会

> 短足おじさん様、初めまして。やまぽいと申します。
> いつも機知と示唆に富んだ記事をありがとうございます。
> 毎回楽しく拝見しております。
>
> いつもはROM組なのですが、生まれ故郷の青森(と言っても小学生の頃までしか住んでいませんでした・・・)が記事に載っておりましたのでついつい書き込みをしてしまいました。(^^;
> (短足さんが行かれるとわかっていれば、オススメの場所やお店を紹介できたのですが・・・)
> 三内丸山遺跡は、10年以上前ですが法事で帰郷したおり、立ち寄りました。
> 復元された大規模な建築物に圧倒された覚えがございます。
>
> 縄文といえば、昨年東京国立博物館で開催された縄文展を観に行ってきたのですが
> そこで見た土偶や土器の見事さには感服いたしました。
> 火焔型土器(個人的にあの文様は火焔ではなく、何かの動物ではないかと思っております)を始めとした土器や土偶の造形・文様が素晴らしく、そのクリエイティビティの高さに唸らされたものです。
> 火焔型土器などは小学生の頃の教科書に載っていた小さな写真でしか見たことがなく、当時は「ふ〜ん、昔の人はこんなのでご飯食べてたのかな?大変そうだな」位にしか思っていなかったのですが、百聞は一見にしかずとはまさにこのことですね。
> その大きさもさることながら、立体的な装飾の造りやデザイン性に驚き、数千年前に生きた人々の息吹すら感じられる造形にはただただ感心するばかりでした。
>
> これらの遺物を見て感じたことは、子供の頃に野蛮で粗末な生活を送っていたと教えられていた縄文時代が、実はかなり高度な文化を持っていたと考えざるをえないということです。
> あれだけのモノは、狩猟や採集の片手間だけで創れるものではありません。
> これは私の推測ですが、ある程度の規模の集団が生活を営む中で、手先の器用な者やデザインセンスのある者が土器制作を専任していたのではないかと考えております。
> そして、そのような専任者を置けるということは、集団を養っていける程の食料をそこそこの人数でも調達することが出来ていたに違いありません。
> 短足さんが仰っている通り、木の実や食用植物の栽培をメインにして、狩猟や漁はサブ的な扱いだったのだろうと思います。
> 植物を栽培して定住生活を送り始めたのは弥生時代から・・・なんて教えもこれを見るとどうかと思ってしまいます。(おそらく「稲」という効率的な植物の登場が大人数の「邑」を作れる環境を提供したのでしょう)
>
> また、それぞれの仕事には専従者を設け分業体制にすることで効率化も図っていたものと思います。
> 現代文明では人間の数が増えることによって様々な事が高度化・細分化され、縄文時代よりは便利になり、生活もしやすくなったのかもしれませんが、根幹のところでは、今とたいして変わらない社会だったのではないかなぁ〜?なんて考えております。
> 人間なんて数千年位では違う生き物にはなれないってことですね。(笑)
> そう考えると、縄文時代にも親近感がわくってものです。
> ちょっと当時の彼らをタイムマシンで覗いて見たい気もします。
>
>
> さて、青森とはまったく違う話になってしまいました。(^^;
> 次回青森方面へ行かれる際は、ぜひ記事中にてお声がけください。
> オススメの場所を紹介させていただきます。m(_ _)m



初めまして、コメント有難う御座います。
青森は面白い所ですね。いろいろ歩き回って、そんな想いを強くしています。

縄文時代はこれから思い切った見直しがされると思います。特に縄文文化は文明と言っても良いということになると見ています。
メソポタミア文明と肩を並べると言ってもいいかもしれません。
ただ、文字が有ったのではないかと思うのですが、今の所その証拠が見つかっていないのが残念ですね。

これからも宜しくお願いします。
  1. 2019-05-24 21:34
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  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

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