FC2ブログ

2018-10-31 16:13

切支丹伴天連から鈴木正三の労働観まで


 宮崎正弘の10/26付のメルマガに小堀桂一郎著「靖国の精神史」が載っているのだが、ここに切支丹伴天連の話と鈴木正三(「しょうさん」と読みます)のことが載っている。
この鈴木正三は江戸時代初期の禅僧だが、日本人の労働観を考えるうえで重要な人物、日本型資本主義の原点ともいわれる思想家なので以前から注目していた。
丁度いい機会なので、切支丹伴天連、島原の乱、日本人の労働観・・・、なにやら三題噺みたいだが、そんな所を纏めてみた。


最初に宮崎正弘のメルマガ
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成30年(2018年)10月26日(金曜日)  通巻第5867号 
 中国の「一帯一路」に米国は豪、日本、印度を・・・・
http://melma.com/backnumber_45206_6749298/#calendar

<以下上掲メルマガの書評欄を引用>

日本人の国家意識形成過程、その守護神思想を論じる
  古代からの日本思想に着目し「精神の核心」を解明した労作
2018-10-31靖国の精神史 

 新書だが分厚い。重厚な筆致、居ずまいを正し、一行一行を噛み砕いて読むにしても時間がかかるが、思考の幅を拡げ、古代から近代への日本史に思いを馳せる。
本書はさきに小堀氏が上梓された『靖国神社と日本人』(同PHP新書)の姉妹編。というより、最初は一冊の大書として企劃されたが、新書として二冊に別けることになり、後半部が先にでたという経緯がある。
 聖徳太子、山鹿素行、本居宣長、新井白石、藤田幽谷、鈴木正三らの思想を顧みる作業を通して、日本の思想の中核が手際よく平明(文体と語彙がやや古風だが)に説かれている。
 評者(宮崎)は、本書の中で小堀氏が展開した切支丹伴天連と、信長、秀吉、家康の戦いの記述にもっとも興味を惹かれた。 
 三河出身の鈴木正三という禅僧がいた。弟とともに天草四郎平定後に、天草から肥後一帯を照査し、民草の信仰、改宗の進み具体、対幕府への態度などを見聞し、一方でキリスト教会破却後に各地で寺院を建立した。そして仏教僧らを通じて意見書を記述したものが残されている。
 小堀氏はこれを、
「切支丹教義破却の論拠として仏法の悟性論や世界観としての諸法実相の理、教法としての以心伝心の旨を説いて、切支丹の伝道事業に対抗する姿勢を示しているのは当然だが、その論法には、深遠の妙技を振りかざして相手を煙に巻くといった外連味(ケレンミ)はなく、むしろ平俗というに近い即物的論理性」だった。
 曰く
 「きりしたん宗には、惣じてものの奇特なるを尊び、是でうすの名誉なりと云て、様々なはかり事を作して、人をたぶらかすよし聞及(ききおよぶ)。破して云、奇特なる事貴きならば、魔王を尊敬すべし。此の国の狐狸も奇特をなす。・・・然ば仏の六通には奇特なし。去間、正法に奇特なしと云へり。此理を知らざる人は天魔外道にたぶらかさるべし。」
つまり奇跡などという非科学的なものいい(死者の復活とか処女懐胎とか)は信じることが出来ないと、この時代に科学的説明をしているのである(88p)。
この鈴木正三の活躍した時代より前、秀吉による禁教令があるが、彼は宗教と商業を峻別し、商業交易は維持しようとした。だから布教に拘らないオランダ、イギリスが平戸と長崎で特権を得た。
しかしイエズス会の版図だった日本へ貪欲な拡大意欲を見せたのが、マニラとメキシコに拠点をおいたドミニク会とフランシスコ会であり、禁教したにもかかわらず決死の覚悟で日本に陸続として潜入し、また自ら殉教して聖壇にならぶことを欲するという熱狂があった。
後にスペインは、なぜ日本での布教が失敗したか、それは切支丹伴天連が侵略意図を持っていた事態が暴露され、警戒心が深化したからだったのだが、後年の宣教師らは国王に、「日本をまず内部工作により、続いて武力発動に拠って侵略する意図の決してないことを、行動の事実によって証明して見せるべき」と驚くべき建言をしているのである。
 小堀氏は以下を指摘する。
 「イエズス会内部の学識者が、秀吉を先頭に、三代家光までの徳川将軍の切支丹剿滅(そうめつ)政策に『国家理性』の発露を認め、且つ、それを肯定していたという事蹟は、そのように評された将軍達のしったことではないが、西欧の近代政治哲学の源流に近いところで知識を汲んでいた聖職者の眼にそのように見えた」(中略)「日本人の国家意識の形成過程は、江戸時代の外部の識者から見れば、その辺の段階にまで進んでいた」(182p)
 こういう別のアングルも、日本の精神史形成の過程で起こった。
<引用終り>


奇跡などという有りもしないことを言い募る切支丹伴天連、実は日本侵略の意図があったわけだが、そんな事を見抜いていたのが日本人だったという事だ。

所でここに登場する鈴木正三(しょうさん)。どんな人かはこれがよくまとまっているので引用。

<以下歴史街道コラムより引用>
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4041

働くとは? 鈴木正三の思想「労働即仏道」
2017年06月25日   歴史街道編集部

今日は何の日 明暦元年6月25日
日本資本主義の先駆・鈴木正三が没
明暦元年6月25日(1655年7月28日)、鈴木正三(しょうさん)が没しました。武士から曹洞宗の僧に転じ、日々の職業生活を大切にすることが仏の道に通じると説いた思想で知られます。

武士を捨てて仏道に入る
天正7年(1579)、三河国加茂郡足助庄の則定城主・鈴木重次の長男として、正三は生まれました。名は重三とも。父の代から徳川家に従っており、正三の初陣は関ケ原合戦の折、本多佐渡守正信の配下として徳川秀忠を支えて戦った信州上田城攻めでした。その後、大坂冬、夏の陣でも武功を挙げ、200石の旗本となります。一方で正三は、戦場経験から生死について深く考察し、勤めの合間に参禅修行を行ないました。

元和5年(1619)、大坂城に勤番していた際、同僚の儒学者が「仏教は聖人の教えに反する」というのに反論、翌年、42歳で遁世、出家します。旗本の出家は禁じられていましたが、将軍秀忠の温情で正三に咎めはありませんでした。 その後、各地で修行を重ねた正三は、元和9年(1623)頃には三河に戻り、石平山恩真寺を創建します。

島原の乱と鈴木正三
寛永14年(1637)、島原の乱に弟の重成が従軍。戦後、天草(注:天領になった)の初代代官に任ぜられた重成の頼みで正三は天草へ赴き、諸寺院を復興する一方、荒廃した村の建て直しに尽力します。そもそも島原の乱は、キリシタン弾圧と重税(引用者注:この部分、次に説明します)に原因がありました。正三は『破切支丹』を著して仏教の布教に努め、弟の重成は幕府に租税軽減の嘆願を繰り返します。しかし幕府は軽減を認めず、責任を感じた重成は切腹しました。

二代目代官には重成の子・重辰(しげとき)が着任、実は重辰は正三の実子です。重辰は養父・重成の遺志を継いで租税軽減を幕府に働きかけ、正三もこれを補佐しました。そして重成の切腹から7年後、ようやく幕府は訴えを認めます。これに地元の天草の人々は大いに感謝し、今でも鈴木神社(写真参照)として、重成、正三、重辰の三人が祀られているほどです。

鈴木正三の労働観
正三の思想を語るものとして、次の問答が知られています。ある農民が正三に問いかけました。
「私は仏道修行の大切さは承知していますが、田畑の仕事が忙しくてとても修行している暇がありません。どうしたらよいでしょうか」

正三は応えます
「農業にいそしむことがすなわち仏道修行です。信心とは暇な時にやって、成仏を願うものではありません。また、そもそも来世で楽することを願っているようでは、成仏はおぼつかないでしょう。煩悩の多いわが身を敵と見立てて畑をすき返し、煩悩を刈り取る心で耕作するのです。辛苦の努力をし、心身を責めている時には、煩悩が生まれる余裕はありません。こうして常に仏道修行として農業にいそしめば、どうして改めて仏道修行する必要があるでしょうか」

正三のこの考え方は、農業だけでなく、どんな職業においても同じである(職業に貴賤はない)とし、世俗的生活のすべてが仏道修行であるという結論に至ります。いわば「労働即仏道」という思想で、日々の仕事の中に宗教性を持たせることで、人々に「生き甲斐=成仏」を与えようとしたのだといわれます。そしてこの思想は、日本資本主義の精神の先駆ともいわれるのです。

それぞれの職分、立場において全力を果たすことが、生き甲斐につながり、仏道修行になるという考え方は、現代でも納得できるものがあるように思います。正三は明暦元年に世を去りました。享年77。その思想は後年、石田梅岩などに受け継がれていきます。

<引用終り>


上掲歴史街道コラムにある鈴木神社とはこんなもの。

2018-10-31鈴木神社 

そしてそこの宮司の方がこんな話をしている。

<以下引用>
「 天草を救った鈴木重成公 」
講師/鈴木神社宮司  田口 孝雄 氏

・・・前段略
天草・島原の乱の後、天領となった天草初代代官に任じられた鈴木重成公は、荒廃した天草の復興に尽力。天草の人々を苦しめてきた重税を減らすため、石高半減を幕府に嘆願して、切腹して果てました。天草の人々はその遺徳を偲び、その霊は神社に祀られています。今回は、鈴木神社宮司の田口孝雄氏に、鈴木重成公について語っていただきました。その要旨をご紹介いたします。

 天草・島原の乱はなぜ起きたか

一六世紀の天草は、南蛮文化が華開いた日本の先進地でした。コレジヨ(天草学林)が開設され、日本で最初のオルガンの音色が島々に響きました。グーテンベルクの印刷機が持ちこまれ、「平家物語」や「イソップ物語」が印刷されたのもこの頃です。

中世の天草を支配していたのは、天草五人衆(志岐、天草、上津浦、栖本、大矢野)でした。五人衆は肥後の南半分を支配していた小西行長の影響で、キリスト教の洗礼を受けていました。後に小西行長との反目から天正合戦で破れ、天草は唐津藩の寺沢家の支配下に移ります。寺沢家の圧制が天草の悲劇の始まりでした。

天草の実際の石高(米の生産高)は二万一千石ほどしかないのに、寺沢検地によって石高を四万二千石としてしまったのです。当時の税率は石高に応じて、四割から六割も課税されるため天草の農民は収穫のほとんどを徴収されるという状況になり、農民の困窮ぶりは大変なものでした。

こんな状況の中、天草・島原の乱が起こる訳ですが、その原因はキリシタン弾圧よりも苛酷な年貢搾取が大きいと言えるでしょう。天草・島原の乱では三万七千人が死亡し、このうち天草では人口が二万人から約八千人に激減したと推定されます。神社や寺は焼かれ、田畑は荒れ果て、焦土となった天草の島々。

この天草を復興し、二度と大乱の起きないようにするため、幕府から任命された初代代官が鈴木重成公です。

 石高半減の建白書を残して、農民のために切腹

重成公は三河藩(愛知県)東加茂郡の足助城城主鈴木重次の三男として誕生。長兄のしょうさん正三公は後に出家して禅僧となったため、家督は重成公が継ぎました。重成公は上方代官を歴任した後、天草・島原の乱には鉄砲隊長として参戦。老中松平信綱の信任が篤く、乱後も天草の実態調査を命じられました。

天領となった天草の初代代官として重成公が天草に入られたのは、寛永一八年(一六四一)のこと。富岡城下に陣屋(役宅)を置いて、天草の民政に取り組まれました。軍事面は細川藩が担当し、富岡城にも細川藩の藩兵が詰めていました。

重成公は天草全島を十組八十八の村に区画し、組に大庄屋、村に庄屋を置いて行政の浸透をはかり、外国船の動静を探る遠見番なども設置し、行政機構を整えていかれました。

重成公の考えは、キリスト教に救いを求めて破れた人々の心のすさみを癒すために、兄の正三公の意見を入れて日本人の原点へ帰ろうということでした。そのため、幕府から三百石を持ってきて、各地に神社や寺を次々に建立していかれたのです。朝には、鎮守の森から太鼓の音が響き、夕べにはお寺の梵鐘が聞こえる。日本の原風景に戻るに従って、ようやく島の人々も落ち着きを取り戻します。

しかし、天草の公式の石高が四万二千石のままでは、重税の圧迫はどうしようもありません。重成公は詳細な検地を行い、天草の石高半減を強く老中の松平信綱に訴えられます。幕府にも威信がありますから、簡単に承諾する訳にはいかない。承応二年(一六五三)、重成公は真情を綴った建白書を残し、江戸の自邸において切腹して果てられたのです。日本で初めて、農民のために命を捨てる武士が現れたのです。

 遺徳を偲び鈴木神社を建立

切腹した場合、お家断絶になるのが通例ですが、幕府では病死扱いにして子の重祐に家督を継がせ、養子の重辰(しげとき)(正三の実子)を二代目代官に任じるという異例の処置を取ります。天草の人々は代官に心服している。鈴木家でなければ、もはや天草は治まらないことを幕府は熟知していたのです。

重辰公は石高半減の訴えを繰り返し行い、ついに重成公の七回忌に松平信綱と阿部忠秋の連名で石高半減の通知が下されたのです。

天草の東向寺領の一角には重成公の遺髪が埋められ、遺髪塚が築かれました。鈴木塚はその後、天草三十余ヶ所に分祠され、今も「鈴木さま」として信仰されています。

根本となった遺髪塚(本渡市本町)には重成公祀る鈴木神社が建立され、後に兄正三公、養子重辰公も祀られました。重成公の切腹説には疑問を呈する向きもありますが、切腹という非業の死を遂げられたからこそ、島民はその魂を鎮め感謝法恩の念を表わすために神として祀ったにちがいありません。

中国には「最初に井戸を掘った人のことを思え」という名言があります。天草にしてみれば、その人が重成代官であり、現代の人々もその井戸の水の恩恵を受けているのです。
<引用終り>


ここまで読んで島原の乱の不思議な部分がよく理解できました。問題は経済と重税。重い税を課して農民を疲弊させれば、うまいことを言う伴天連に騙される。その結果があの悲惨な結果。そういう事だったんですね。

そして鈴木正三の労働観が江戸時代から今日に至るまで、日本人の労働観になっている。

しかし最近この日本人の労働観も怪しくなりました。そんな事はまた別の機会に。

  1. 思想
  2. TB(0)
  3. CM(6)

コメント

>>そもそも来世で楽することを願っているようでは、成仏はおぼつかないでしょう。

全員ではないのでしょうが、タイ人の仏教信奉を思い出しました。なにかあると、お寺へ行って宝くじがあたるように祈っています。(笑)とはいえ、我々日本人もそういう部分がありますよね。
タイ人が気前よくタンブンするのには驚いてしまいます。精神構造が違うようです。



  1. 2018-11-02 12:43
  2. URL
  3. NINJA300 #/xzFVZWc
  4. 編集

To:NINJA300 さん

> >>そもそも来世で楽することを願っているようでは、成仏はおぼつかないでしょう。
>
> 全員ではないのでしょうが、タイ人の仏教信奉を思い出しました。なにかあると、お寺へ行って宝くじがあたるように祈っています。(笑)とはいえ、我々日本人もそういう部分がありますよね。
> タイ人が気前よくタンブンするのには驚いてしまいます。精神構造が違うようです。




タイの仏教は完全な二重構造でして、仏教の教えは自己啓発なんですね。
そしてその自己啓発をするために出家する。
一方その他の人は出家した人を拝んでその得た徳を分けてもらおうとする。
早い話、徳を金で買うのが一般人に出来る事。そして拝むのは現世のご利益。こうなっています。
だからがばっとカネを出したりします。
それだけなら平和でいいんですがねえ。
  1. 2018-11-02 18:38
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  1. 2018-11-06 13:48
  2. #
  3. 編集

To:匿名希望の〇〇ネコさん

初めまして。

鈴木正三に関してはあまり知られていませんが、日本の重要な思想家ですね。日本人の労働観を確立した人の一人です。
江戸初期の鈴木正三・江戸中期の石田梅岩・明治の渋沢栄一・昭和の松下幸之助、この4人が思想史の巨人です。
その記念館が愛知県豊田市に有ります。
場所は
豊田市足助町則定字寺田です。

足助の町から国道153号を名古屋・豊田方面に少し行くと追分の三差路。右は153号で中金から力石方面、左が松平方面ですが之を左へ。川沿いに下っていくと信号交差点が有り、松平方面は左に行き川を渡るのですがその信号を直進。少し行くと則定町です。記念館はそこの則定こども園隣に有ります。

意外なところに意外なものが有るんですねえ。
  1. 2018-11-06 15:36
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  1. 2018-11-07 12:24
  2. #
  3. 編集

To:匿名希望の〇〇ネコさん

意外なところで縁があるモノですね。

今後ともよろしくお願いします。
  1. 2018-11-07 14:23
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する