2017-12-05 17:15

ロシアから見た日露戦争


 朝日新聞が捏造し、火をつけた慰安婦騒動や南京大虐殺騒動が最近またもや燃え上がっている。
特に南京事件は最初は日中戦争時代に蒋介石が意図的に捏造しそれをアメリカで拡散したものが最初。それを戦後さらに捏造し世界中にばらまいたのが朝日新聞だった。

しかしそんなものが最近またもや世界中に喧伝されている。いくら事実を説明してもまったく聞く耳を持たない。今そんな状態になっている。

そんな事でどうしてこんな問題がいつまでも日本に降りかかってくるのか考えると、どうしても戦前の話に行きつく。
どうもこの話の大本は日露戦争から始まっている、そんな風にしか考えられないので、この話を纏めてみた。丁度今年はロシア革命100年、旧ロシアの声改め「スプートニク」にその関連記事が有ったので、それを紹介しながら考えてみたい。


最初に問題提起はこんな話から。

雑誌正論2017年7月号の書評欄で大野敏明氏がヘンリー・S・ストークス、植田剛彦著の本の書評でこんな事を言っている。

書評の対象の本は「日本が果たした人類史に輝く大革命 ヘンリー・S・ストークス、植田剛彦著 自由社刊

書評 ジャーナリスト 大野敏明
 20年ほど前、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイに出張したとき、ある少人数のレセプションで、私は老アラブ人から「あなたは日本人ですか」と声をかけられた。うなずく私に、彼は微笑みながら、いまはアメリカ国籍をとっているが、本来はレバノン人であると自己紹介しつつ、日本を深く尊敬しているとして、次のように語り始めた。
 「われわれ中東に生まれた者は、日本について3つの尊敬心をもっている。1つ目は日本が日露戦争に勝利したことだ。中東は長い間、フランス、イギリスなどの白人国の植民地にされてきた。われわれ非白人は白人には逆らえないという絶望感があった。それを同じアジア人である日本が白人の国であるロシアを打ち負かして、われわれもやればできるという大きな希望を与えてくれた」。
 うなずく私に彼は続けた。「2つ目は1941年、日本がアメリカ、イギリスと戦争を始めたことだ。日本は負けたが、われわれは日本人の前にイギリスが屈する姿を見た。それが戦後、アジアだけでなく、アフリカまでもが独立する契機となった」。 彼は続ける。「3つ目は原爆まで落とされて焦土になった日本があっという間に世界第2の経済大国となり、われわれに援助をしてくれるまでになったことだ。一体、日本のこのすごさはどこに秘密があるのか、教えてほしい」
・・・以下略、詳細は下記エントリー参照ください・・・
<引用終り>

この書評でレバノン人の人が凄いと言っている点、これはアジア・アフリカの人々にとって希望の光と言えるのだが、何でも表が有れば裏が有る。この件を白人の見方で見るとどうなるか、その格好の事例が日露戦争だ。

日露戦争はこんな点で凄い戦争だった。
1.小国家日本が超大国ロシアに勝った
  (ロシアは日本に対し、人口で3倍、政府歳入で10倍、兵力で15倍で武器は最先端)
2.歴史上まれにみる一方的勝利(日本海海戦:日本以外では対馬沖海戦と呼ぶ)
3.大航海時代以降初めて、有色人種が白人国家に勝利した
4.アメリカ合衆国が日本をライバル視するようになり、太平洋戦争の遠因になった
5.歴史上はじめてイデオロギー人工国家「ソ連」が出来た(ロシア革命) 


この4のアメリカが日本をライバル視、これは日露戦争終結と同時にアメリカの反日キャンペーン・反日暴動が始まったことで良く分かる。

では一方のロシアはどうだったのか、これが今日のテーマなのだが、丁度今年はロシア革命100年、だからその関連の記事が旧ロシアの声改めスプートニクに出ていた。

<以下スプートニクより引用>

2017-12-5スプートニク1 
ロマノフ王朝最後の皇帝一家

露日戦争からロシア革命まで © Sputnik/
2017年02月20日 20:42

 東京・駒込にある東洋文庫ミュージアムで、今年が1917年のロシアでの2つの革命勃発100周年にあたっていることから「ロマノフ王朝展:日本人の見たロシア、ロシア人の見た日本」が開かれている。展示品の数々は、日本との相互関係の観点からロマノフ帝国の勃興と凋落を物語るものだ。
すでに宮城のリスナーAさんは見学されたとのことだが、我々も、ロシアにおける君主制の打倒をもたらした100年前の出来事を振り返り、そこで日本がどんな役割を演じたかを考えてみたい。

 19世紀末、ロシアでは、すごい勢いで工業が発展した。生産の集中度において、ロシアは20世紀初頭までに、欧州で第一位に躍り出た。国の通貨ルーブルは金本位制で、兌換通貨となり、その事は国外からの資本の流入を強めた。ロシアが、東方に大きな関心を示し始めたのは、そんな時だぅた。極東でのロシアの政策を活性化する力となったシベリア横断鉄道の建設が、全線で続いていた。シベリア開発のためには、太平洋への出口が是非とも必要だった。
一方当時、発展する工業と遅れた農業との間には、巨大な格差が生じており、大量の失業者や 労働者及び農民が感じる恐ろしいばかりの不公平感は、大規模な抗議運動の土壌を作り出していた。革命の機運は、すでに広がっていたが、ツァーリ(皇帝)の政府は、そうした事実を自分達への脅威とは捉えず、明らかに過小評価していた。そんな時に、皇帝となったのがニコライ2世(1894-1917)だった。彼が帝位に着くまで、ロシアは、巨大な官僚システムを持った絶対君主制国家だった。

日本艦隊によるポルト-アルトゥール(旅順)とチェムルポ(済物浦、仁川の旧称)でのロシア船への奇襲攻撃と、それに続く1904年1月の宣戦布告は、ロシア人には恥知らずな挑戦と受け止められ、国内では、異常なほどに愛国的感情が高まった。当時日本は、ロシア人の大部分にとって、取るに足らない、相手にならない弱小国だと受け止められており、日本との戦争は、勝利が運命づけられたものと考えられていた。しかし、バルチック艦隊の殲滅、そして旅順包囲作戦は、日本の艦隊が、広大な帝国に散在する巨大なロシア軍よりもっと優れたものである事を示した。
露日戦争での敗北は、ロシアにおける革命的高揚の唯一の、あるいは最も重要な理由ではなかった。とはいえ、ロシアの歴史学者でロシア科学アカデミーロシア史研究所主任研究員のキリル・ソロヴィヨフ氏は「この出来事の間の関係性を否定することはできない」とみなしている。

以下、ソロヴィヨフ主任研究員の意見を御紹介したい。

 「露日戦争の敗北が、政府の威信を台無しにし、国の権威に打撃となった事は言うまでもない。戦争が始まるまで、ロシアの最上層部の多くの代表者達は、日本をロシアに対抗する能力を持った深刻な敵とは受け止めていなかった。当時『小さな勝利をもたらす戦争』と言われていたのも偶然ではない。しかし戦争は、軍を緊張させ緊縮財政をもたらす。そしてロシア国内において政情不安が高まっている条件下で、戦争は、社会的混乱を加速化させる追加的な要因となった。敗北は、当然ながら、ロシア社会にマイナスとして受け止められ、日本政府と日本社会は、この戦争を通じて自己評価をかなり上げ自信を持った。ロシアは、直面する衝突にどれだけ準備できているのか。あれこれ考えなければならなくなった。事実上、艦隊を丸ごと失い、それらを復活させる必要があった。それには巨大な財政支出が求められた。露日戦争は、軍の再軍備及び軍改革に向けた刺激となった。実際、軍事全般の組織が見直された。このように露日戦争は、1905年の革命的出来事に対してというよりむしろ、国のさらなる発展、とりわけ国防力に関連した事の発展に影響を与えた。」
露日戦争と「ツシマ(対馬)」という言葉は、ロシア人水夫の男らしさとヒロイズムのシンボルとなったばかりでなく、苦い敗北の思い出として人々の心の中に残った。一方、何千人もの兵士や水兵が命を落とし、あるいは捕虜となった事は、帝政権力に対する失望感と批判を強める結果となった。国内は動揺しだし、モスクワやペテルブルグでは、組織的性格を持ったストライキが起きるようになった。最もラジカルな立場を取る政党は、君主制の廃止を求めていた。1905年のロシアの最初の革命は、より社会を強く震撼させた1917年の革命の前触れとなった。そしてこの革命は、何百年もの間ロシアに存在していたあらゆる統治システムの崩壊をもたらしたのであった。

<引用終り>


こんな風に見ているのがロシアから見た日露戦争である。
そしてその結果ロシア革命がおこったのだが、この革命の成功がレーニンをして「敗戦革命理論」を考え出し、その後それを実行してゆく契機となったのである。
敗戦革命は以下wikiを参照ください。

これが今に続く白人国の反日のルーツ、そう思います。

  1. 歴史
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コメント

https://ja.wikipedia.org/wiki/黄禍論
1904年に日露戦争が勃発すると、ヴィルヘルム2世はアメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領に対し、日露戦争が黄白人種間の人種戦争であることを訴えた。1905年9月5日に日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が締結された際には、翌9月6日の『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューにてヴィルヘルム2世はドイツ外交当局の意図を超えて黄禍を訴え、日露戦争の勝利によって列強間の門戸開放政策を崩しかねない日本をアメリカ合衆国の力で対抗させようと試みている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/カール・マルクス

マルクスもドイツ出身でしたし、ドイツの影響も有りますね。
  1. 2017-12-06 14:21
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  3. taigen #-
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To:taigen さん

> https://ja.wikipedia.org/wiki/黄禍論
> 1904年に日露戦争が勃発すると、ヴィルヘルム2世はアメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領に対し、日露戦争が黄白人種間の人種戦争であることを訴えた。1905年9月5日に日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が締結された際には、翌9月6日の『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューにてヴィルヘルム2世はドイツ外交当局の意図を超えて黄禍を訴え、日露戦争の勝利によって列強間の門戸開放政策を崩しかねない日本をアメリカ合衆国の力で対抗させようと試みている。
>
> https://ja.wikipedia.org/wiki/カール・マルクス
>
> マルクスもドイツ出身でしたし、ドイツの影響も有りますね。



情報有難う御座います。
元々ドイツは酷い反日国でした。それが顕著になったのがヴィルヘルム2世の黄禍論。
これの目的は大国ロシアの関心を東に向けさせることで、それは成功しました。
この頃は現在より相当寒冷な時代(年平均気温で現在より1度位寒冷)だという背景もあり、この当時のロシアは必死で南下政策を推し進めていました。
ウラジオストクなどはその典型です。町の名前がウラジー=支配、ヴォストーク=東方、つまり東方支配という意味です。こんな名前の町を作るくらい南下政策が国是だったんですね。

ドイツのヴィルヘルム2世はロシアが日露戦争に敗北し、世界一の大艦隊が無くなってしまったことに目をつけ、第一次世界大戦でロシアに攻め込んだ、そんな背景を見ると、この問題の全貌が見えるような気がします。
  1. 2017-12-07 09:38
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  3. 短足おじさん二世 #-
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この問題はそんなに単純じゃあないですよ。

日露戦争は絵色のいわゆるグレート・ゲームの一環として見る必要があります。

英露はクリミア戦争の後の露土戦争でロシアが勝利を収めた後にアフガニスタンで衝突します。これはロシアの伝統的な南下政策の結果発生したものですから。その後ロシアは進出方向を極東に定めそこで日露の衝突になるわけです。これは御存知の通り日英同盟の元英国の協力により我が国は勝利を得ますが、この後英露は協商関係に入りバルカンにおける独露の対立もあり第一次大戦に至る流れとなるわけですが、日露後の両国の関係は近代史上最良であったと言われています。
日露後の10年以上は基本的には同盟国に近い関係にありました。

何を言っても両国は政体が似ており左翼の跳梁を気にか書けることでは共通していました。まあそれだけにソビエト・ロシアが日本を敵視するという理由にもなったのですが、まあ日本にしたところで明石元二郎の活動などがあったのですから問題は単純ではありません。それにしてもロシア革命は両国にとって不幸だったのです。

1905年から1917年まで日本はもっと対露関係にコミットすべきでした。対露再戦を恐れるあまり友邦を見失ってしまったと言うべきなのです。第一次大戦当時日本軍は近代戦を戦ったことがある稀有の軍隊でした。史上近代戦といえるのは米国南北戦争以後ですが、機関銃と大規模な艦砲での戦闘を経験したのは日露両国のみでした。

だから本来は西部東部の両戦線に少なくともいいから実戦部隊を送り込み対独戦を戦い抜く必要はあったのです。こうすれば独露の講和はもう少しまともなものになったかもしれないしロシア革命の様相は変わった可能性があります。そうすれば北の安全保障は大きく変わったでしょうし、ロシア革命後の左翼の跳梁はもっと小さなものだったかもしれません。持てる力を使うべきときに使わぬのははっきり言って罪なのです。

このあたりから北の巨人との付き合い方を考えなければいけなかったのです。
  1. 2017-12-14 17:47
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  3. kazk #cPv2SIBE
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To:kazk さん

> この問題はそんなに単純じゃあないですよ。
>
> 日露戦争は絵色のいわゆるグレート・ゲームの一環として見る必要があります。
>
> 英露はクリミア戦争の後の露土戦争でロシアが勝利を収めた後にアフガニスタンで衝突します。これはロシアの伝統的な南下政策の結果発生したものですから。その後ロシアは進出方向を極東に定めそこで日露の衝突になるわけです。これは御存知の通り日英同盟の元英国の協力により我が国は勝利を得ますが、この後英露は協商関係に入りバルカンにおける独露の対立もあり第一次大戦に至る流れとなるわけですが、日露後の両国の関係は近代史上最良であったと言われています。
> 日露後の10年以上は基本的には同盟国に近い関係にありました。
>
> 何を言っても両国は政体が似ており左翼の跳梁を気にか書けることでは共通していました。まあそれだけにソビエト・ロシアが日本を敵視するという理由にもなったのですが、まあ日本にしたところで明石元二郎の活動などがあったのですから問題は単純ではありません。それにしてもロシア革命は両国にとって不幸だったのです。
>
> 1905年から1917年まで日本はもっと対露関係にコミットすべきでした。対露再戦を恐れるあまり友邦を見失ってしまったと言うべきなのです。第一次大戦当時日本軍は近代戦を戦ったことがある稀有の軍隊でした。史上近代戦といえるのは米国南北戦争以後ですが、機関銃と大規模な艦砲での戦闘を経験したのは日露両国のみでした。
>
> だから本来は西部東部の両戦線に少なくともいいから実戦部隊を送り込み対独戦を戦い抜く必要はあったのです。こうすれば独露の講和はもう少しまともなものになったかもしれないしロシア革命の様相は変わった可能性があります。そうすれば北の安全保障は大きく変わったでしょうし、ロシア革命後の左翼の跳梁はもっと小さなものだったかもしれません。持てる力を使うべきときに使わぬのははっきり言って罪なのです。
>
> このあたりから北の巨人との付き合い方を考えなければいけなかったのです。



興味深い分析、有難う御座います。
最初に機関銃の話。
実は私の父はシベリア出兵に従軍していました。そして多分陸軍の上官や先輩方から日露戦争の話をたくさん聞いていたと思います。ですから子供の頃に日露戦争の話など沢山聞きました。
特に日本軍が機関銃を持っていない(有ったけど前線に配備していなかった)、そんな時、機関銃を装備した敵陣に攻撃するとどうなるか。父はよくこんな言い方をしていました。
「敵の陣地に近づくと突如カタカタカタッと音がすると味方がバタバタッと倒れる。また顔を上げて突撃していくと又カタカタカタッと音がして味方がバタバタ倒れる。そんな連続だった。
機関銃という最新兵器に対しどう戦うか、そんな事が分からなかった事例だと思います。
日本軍はこの時の膨大な犠牲者から縦に深い陣地という考え方を作っていったと思っています。

それから日露戦争後の日露関係が大変良かったというのは確かに事実です。しかし当時の日本軍の受け止め方は「ロシアの南下政策」に対する警戒心で一杯だったようです。特にロシア人は大変友好的な人たちだが、それが国の政策になるとガラッと変わる。それが当時の一般的な受け止め方だった、そんな話を色々実例を聞いています。

今の日本は本当はロシアと事を構えるべきではない、そんな現実が有るので難しいですが、幸いロシア人にはキタイ(中国のロシア式呼び方)に対する激烈な警戒心と嫌悪感が有りますから、これを上手く利用せねばいけないですね。


  1. 2017-12-15 15:40
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  3. 短足おじさん二世 #-
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だから日本人が甘いとしか言えないのですよ。

英国はあのグレート・ゲームの相手であったロシアと組んで第一次大戦を戦います。しかもフランス都まで組んで…
ファッショダ事件て一体何だったんでしょう。このあたりの同盟の組み換えは本当にめまぐるしい。
しかもしばらく前までは英独同盟まで考えていたというおまけ付きです。

ちなみにロシア皇帝もドイツ皇帝も基本ビクトリア女王の係累です。
ロシアの南下政策が怖かった、ロシアとの再戦を考えていた、間違いなく確かでしょう。
でも放置した結果がもっと獰猛なソビエトを産んだんです。

これは本当に取り返しのつかない失敗だったと思います。
まあ罪は日本だけではありませんが…

ロスケならばまだ餌を与えて懐柔することも出来たでしょう。でもアカ共はそういう訳にはいきません。基本際限がありませんから。

もっと冷徹に物を見なければいけなかったのです。
  1. 2017-12-16 00:51
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  3. kazk #cPv2SIBE
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To:kazk さん

> だから日本人が甘いとしか言えないのですよ。
>
> 英国はあのグレート・ゲームの相手であったロシアと組んで第一次大戦を戦います。しかもフランス都まで組んで…
> ファッショダ事件て一体何だったんでしょう。このあたりの同盟の組み換えは本当にめまぐるしい。
> しかもしばらく前までは英独同盟まで考えていたというおまけ付きです。
>
> ちなみにロシア皇帝もドイツ皇帝も基本ビクトリア女王の係累です。
> ロシアの南下政策が怖かった、ロシアとの再戦を考えていた、間違いなく確かでしょう。
> でも放置した結果がもっと獰猛なソビエトを産んだんです。
>
> これは本当に取り返しのつかない失敗だったと思います。
> まあ罪は日本だけではありませんが…
>
> ロスケならばまだ餌を与えて懐柔することも出来たでしょう。でもアカ共はそういう訳にはいきません。基本際限がありませんから。
>
> もっと冷徹に物を見なければいけなかったのです。



確かにご指摘の通りだと思います。歴史に「タラ・レバ」は有りませんが、それでもあの時こうしておけば・・・そう思いますよね。特に日露の関係はそうだと思います。
しかしこんな事はあの「石井菊次郎」のようなしっかりした国際感覚豊かな政治家が多数派にでもなっていないと難しい。
日露戦争はドイツ流を押し通した森鴎外が軍医総監だったせいで沢山の兵士が脚気で命を落としました。
矢張りドイツ哲学は観念論にせよマルクス主義にせよ問題が大きすぎます。

ただこれを騒ぎの渦中にいる当事者の立場で考えるとまた別の考えも出てきます。
最近激しくなった「EV狂騒曲」、此れなんかはその典型ですね。
近日中にこのエントリーをしようと思っていますが、今問題になっているのはEVが技術的に、客観的に正しいのかどうかでは無く、自国の国益から見てどうなのか、そんな視点が必要、そんな事になっています。
この件は後日又。
  1. 2017-12-16 12:10
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  3. 短足おじさん二世 #-
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