2017-11-17 09:45

弥生の硯、福岡の遺跡で初の完全形…文字使用か


 考古学上で大変興味深い発見が報道された。弥生時代中期~後期の遺跡から完全な形の硯が発見されたのだという。
硯があるという事は文字を書いていた証拠。弥生時代中期~後期頃に日本で文字が書かれていたという事である。弥生時代の文化については分からないことが多い。そんな意味で画期的な発見だ。

中国の後漢書には建武中元2年(西暦57年)に倭の奴国に印綬を与えたことが記されており、それが志賀島から出土した金印(国宝)と考えられている。私は日本人はこの頃には文字(漢字)の読み書きができたと考えており、その証拠が出てきた訳だ。

最初にその報道から。


<以下読売より引用>
http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20171114-118-OYT1T50132/newstop

弥生の硯、福岡の遺跡で初の完全形…文字使用か
2017年11月15日7時14分

2017-11-16弥生の硯 

 福岡県筑前町にある弥生時代中期~後期の薬師ノ上やくしのうえ遺跡で、弥生時代では初めてとなる完全な形の硯すずりが出土していたことが、同町教育委員会の調査でわかった。

2017-11-16弥生の硯出土場所 

 専門家は「弥生時代の日本で文字が書かれていた可能性を示す発見」としている。

 硯は長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチで、真ん中で二つに割れている。2003年に集落跡から出土し、用途不明とされてきた。柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最近、町教委の依頼で再調査し、薄い墨の痕跡が数か所あると気付いた。現代の硯のように墨だまりはないが、朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩けつがん製で形などが似ており、硯と判断。一緒に出土した土器などから、1~2世紀のものと推定している。

 これまで弥生時代の硯は、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡や松江市の田和山遺跡などで、破片が見つかっているだけだった。中国の史書「魏志倭人伝ぎしわじんでん」には、糸島市にあったとされる「伊都いと国」に中国の使節が滞在したとの記述があり、これらの硯は使節らが使ったとの見方もあった。

<引用終り>


前々から気になってたのだが、タイにいた頃の話でミャンマー(ビルマ)について調べたことがある。理由は日本人の持つビルマに対する印象(「ビルマの竪琴」などがその代表)とタイ人が持つビルマに対する印象(アユタヤ遺跡の首を切られた仏像群などがその代表)が正反対で余りにも違いすぎるからだった。
しかしミャンマー(ビルマ)に関する文献の類はとても少ない。主な理由はミャンマーが当時殆ど鎖国状態だったからなのだが、そんな中で大野徹氏の「謎の仏教王国パガン」が大変参考になった。そこに13世紀、中国の元が朝貢をミャンマーのパガン王国に要求したとの記述があり、緬国(ビルマの中国での表記)について元史に「(言葉は)通訳がなければ通じない」との記述があると紹介されている。中国は広大な国なので、話し言葉は随分違うから会話が成り立たないのは現在の中国でも同じ。しかしそこが漢字の良い所で、筆談なら会話が成り立つ。中国にとって会話が通じるという事は筆談が通じるという事なのだ。
私はこの記述を読んだ時、魏志倭人伝をはじめ中国の歴史書に日本に関して「言葉が通じない」という記述を見た事が無い。だから中国から見て日本は筆談の通じる国という風に見られていたのだと思っていた。
中国の後漢書に記述の有る建武中元2年(西暦57年)、この時代には日本は漢字の読み書きができる人たちがいたのだろうなあ、そう思っていたのだが、それが硯の発見で立証されたとみていいのだと思う。

  1. 未分類
  2. TB(0)
  3. CM(12)

コメント

慎重に調査を

大変大きな発見ではないかと思われます。できれば慎重に調査を進めていただき、疑義の起こらないようにしていただきたいと思います。
というのは、これに先立つ「金印」について、偽物の疑いは、まだ晴れてはいないと思われるからです。金印が国宝になっているとは知りませんでした。この金印は当初より贋作が疑われており、確か宮崎定市先生も贋作ではないかと疑っておられたと記憶しています。
私は、贋作であるとする考えに賛成するものです。
縄文・弥生時代は、予想外に文明が進んでいたと主張する人が増えているようですが、まだまだ証拠固めが不十分ではないかと思います。この時に、やっぱり間違いだとなると日本の考古学研究にも影響を与えかねないと思います。
慎重にも慎重を期して調査していただきたいです。

  1. 2017-11-17 18:15
  2. URL
  3. 縄文人 #wM6nolEE
  4. 編集

Re: 慎重に調査を

> 大変大きな発見ではないかと思われます。できれば慎重に調査を進めていただき、疑義の起こらないようにしていただきたいと思います。
> というのは、これに先立つ「金印」について、偽物の疑いは、まだ晴れてはいないと思われるからです。金印が国宝になっているとは知りませんでした。この金印は当初より贋作が疑われており、確か宮崎定市先生も贋作ではないかと疑っておられたと記憶しています。
> 私は、贋作であるとする考えに賛成するものです。
> 縄文・弥生時代は、予想外に文明が進んでいたと主張する人が増えているようですが、まだまだ証拠固めが不十分ではないかと思います。この時に、やっぱり間違いだとなると日本の考古学研究にも影響を与えかねないと思います。
> 慎重にも慎重を期して調査していただきたいです。



この金印偽物説は昔からありました。多分それがあるので国宝指定が遅れたのかも知れません(1954年に国宝指定)。私も出土の経緯が余りにも可笑しいので疑問を持っていました。
しかし今は本物と思っています。理由は
1) 従来無いと思われていた「蛇鈕」の金印が1956年に中国雲南省の墳墓で蛇鈕・「滇王之印(てんおうのいん)」が発見された。それまで金印の鈕(取っ手)は蛇をかたどった蛇鈕なのだが、このようなものは発見されておらず、適当に作ったのではないかと疑われていた。

2) 1981年 江蘇省より「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」が発見される。
この印は「漢委奴国王印」の製作工法と多数の類似点が指摘される。

以上2点の発見で日本の金印の偽物説は完全に否定されたと考えられています。


また中国の文献には倭人はもっと古くから出てくるのですが、この倭人は中国の辺境に居た色んな種族のことを指しているようです。中国広東省辺りには百越といわれる人たちがいましたが、この「越」という字の古代の発音は「ヲ(wo)」で倭の古代の発音も「ヲ(wo)」、だから倭と越は同じと見たほうが良いという説もあります。

まあこんな事でご指摘のように慎重に調べねばいけない話ですが、金印については本物で良いと思っています。


  1. 2017-11-17 19:48
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

金印を拝観して

いつも拝見しております。先日福岡市立博物館で、国宝金印の実物を見てきました。小さいですね、親指の爪ほど(2.347cm角)!美しい紐がつくにしても。かの国の国璽と称せられるものに比べると、象とネズミでしょうか―参考:「秦始皇帝伝国の国璽」
(ttps://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE-%E7%A7%A6%E3%81%AE%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E4%BC%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%8E%89%E7%92%BD%E5%BE%A9%E5%88%BB-%E9%87%91%E8%B2%A1%E9%81%8B%E3%82%92%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%82%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E7%94%A8%E3%81%AE%E5%8D%B0%E3%81%A7%E3%81%8B%E3%81%84%E5%8F%A4%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE2-5KG/dp/B01KYXH8X4)
「倭奴国」のひとたち、内心喜ばず「こんなもの埋めてしまえ」 笑 (OKDnoto)
  1. 2017-11-18 09:30
  2. URL
  3. OKDnoto #-
  4. 編集

>中国は広大な国なので、話し言葉は随分違うから会話が成り立たないのは現在の中国でも同じ。しかしそこが漢字の良い所で、筆談なら会話が成り立つ。中国にとって会話が通じるという事は筆談が通じるという事なのだ。

言語学はヨーロッパで発達したので、よく言語学の本には「言語の本質は音声である。文字は音声を表す記号にすぎない。」というような事が書いてあります。しかし、これは完全な誤りだと思います。
欧米人は表意文字のすごさを分かっていません。

漢字と同じように象形文字から生まれた表意文字に、エジプトのヒエログリフがありますが、ヒエログリフは、やがて意味とは関係なく当て字に使われるようになって、表音文字に変化していきました。
古代の日本でも、日本語を漢字だけで表すのに、漢字を当て字にして「万葉仮名」が生まれ、やがて「平仮名」「片仮名」になっていきました。

しかし支那では、漢字はずっと表意文字のままです。その理由は、やはり「異なる言語を話す者同士でも、筆談でやり取りできる」からでしょう。そもそも「漢族」という民族は、言語も習慣も異なる部族の集合体です。だから、モンゴル人の王朝である「元」も、満州人の王朝である「清」も、支那を統治するのに漢語・漢文を用いたのでしょう。

しかし、モンゴル人も満州人も、自分たちの言語を漢字を使って書き表そうとはしませんでした。すでに表音文字を使っていたからです。漢字は、支那語のような単音節言語(1音節=1語の言語)を表すには向いていますが、日本語・モンゴル語・満州語のような多音節言語を表すのには向いていません。
日本人が最初に出会った文字が漢字であったことは不幸でした。しかし、昔の日本人が一つ一つの漢字が表す意味を考え、日本語の固有語(大和言葉)までも漢字で表す方法(訓読み)を発明したことは、本当に幸いでした。
  1. 2017-11-18 10:38
  2. URL
  3. かんぱち #vF6NeGQU
  4. 編集

Re: 金印を拝観して

> いつも拝見しております。先日福岡市立博物館で、国宝金印の実物を見てきました。小さいですね、親指の爪ほど(2.347cm角)!美しい紐がつくにしても。かの国の国璽と称せられるものに比べると、象とネズミでしょうか―参考:「秦始皇帝伝国の国璽」
> (ttps://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE-%E7%A7%A6%E3%81%AE%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E4%BC%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%8E%89%E7%92%BD%E5%BE%A9%E5%88%BB-%E9%87%91%E8%B2%A1%E9%81%8B%E3%82%92%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%82%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E7%94%A8%E3%81%AE%E5%8D%B0%E3%81%A7%E3%81%8B%E3%81%84%E5%8F%A4%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE2-5KG/dp/B01KYXH8X4)
> 「倭奴国」のひとたち、内心喜ばず「こんなもの埋めてしまえ」 笑 (OKDnoto)



初めまして、コメント有難う御座います。
確かに小さいですね。私も九州国立博物館で現物を見ましたが、こんなに小さかったのかと思いました。
まあ中国から見る未開の国からやってきた連中に与えるものですから。
それとこの当時からそうですが(今も変わりませんが)、中国の朝貢に対する考え方は「持ってきた貢物の2倍とか3倍とかを下げ渡すと考えていました。(だから朝貢貿易が成り立つ)、こんな事情を前提に考えないといけないと思います。
朝貢が少なければ(貢が(すく)ないニダ)それなりの扱いになる。そう言う事情です。

金印が偽物との議論が永年続きましたが、これは蛇鈕というものが今まで確認されていなかったためと思います。また気に入らないから隠してしまえなどという事を言う人もいるようですが、そんな事を言えば日本のことを倭国と言うのも問題でしょうね。
  1. 2017-11-18 21:35
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

To:かんぱち さん

> >中国は広大な国なので、話し言葉は随分違うから会話が成り立たないのは現在の中国でも同じ。しかしそこが漢字の良い所で、筆談なら会話が成り立つ。中国にとって会話が通じるという事は筆談が通じるという事なのだ。
>
> 言語学はヨーロッパで発達したので、よく言語学の本には「言語の本質は音声である。文字は音声を表す記号にすぎない。」というような事が書いてあります。しかし、これは完全な誤りだと思います。
> 欧米人は表意文字のすごさを分かっていません。
>
> 漢字と同じように象形文字から生まれた表意文字に、エジプトのヒエログリフがありますが、ヒエログリフは、やがて意味とは関係なく当て字に使われるようになって、表音文字に変化していきました。
> 古代の日本でも、日本語を漢字だけで表すのに、漢字を当て字にして「万葉仮名」が生まれ、やがて「平仮名」「片仮名」になっていきました。
>
> しかし支那では、漢字はずっと表意文字のままです。その理由は、やはり「異なる言語を話す者同士でも、筆談でやり取りできる」からでしょう。そもそも「漢族」という民族は、言語も習慣も異なる部族の集合体です。だから、モンゴル人の王朝である「元」も、満州人の王朝である「清」も、支那を統治するのに漢語・漢文を用いたのでしょう。
>
> しかし、モンゴル人も満州人も、自分たちの言語を漢字を使って書き表そうとはしませんでした。すでに表音文字を使っていたからです。漢字は、支那語のような単音節言語(1音節=1語の言語)を表すには向いていますが、日本語・モンゴル語・満州語のような多音節言語を表すのには向いていません。
> 日本人が最初に出会った文字が漢字であったことは不幸でした。しかし、昔の日本人が一つ一つの漢字が表す意味を考え、日本語の固有語(大和言葉)までも漢字で表す方法(訓読み)を発明したことは、本当に幸いでした。




 文字は表音文字が良いのか表意文字が良いのかは議論がありますが、情報量という面では表意文字に勝るものはないですね。
最近ツィッターが文字数を140文字から280文字に増やしましたが、日本語、中国語、韓国語は対象から外れました。
それだけ日本語には情報量が多いという事ですね。

日本語がひらがな、カタカナ、訓読みを発明したので、日本語は西欧文明の複雑は概念をきちんと表現できるようになった、これは世界に誇る発明でした。
私はタイで仕事をしていましたので分かりますが、純粋なタイ語だけでは現代の難しい技術・概念を表現できないですね。だから難しいことは英語か日本語で言うしかない。こんな風です。
西欧がいまだにラテン語の勉強をせざるを得ないのも全く同じ理由と思います。
典型的な例を一つ。「Cetology」と書いても何だかわかりませんが、「鯨類学」と書けば大体見当がつく。この違いは大きいと思います。
  1. 2017-11-18 21:59
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

日本に住むアメリカ人が書いた本に「医者にかかるとき、日本語なら病名を聞けば、どこが
悪いのか大体わかるのに、英語ではわからない。」と書いてありましたね。

例えば「肺炎」。英語では「Pneumonia」ですが、肺の「Lung」とは語形が全然違います。
「Pneumonia」はギリシャ語起源なんですね。
  1. 2017-11-19 22:08
  2. URL
  3. かんぱち #vF6NeGQU
  4. 編集

To:かんぱち さん

> 日本に住むアメリカ人が書いた本に「医者にかかるとき、日本語なら病名を聞けば、どこが
> 悪いのか大体わかるのに、英語ではわからない。」と書いてありましたね。
>
> 例えば「肺炎」。英語では「Pneumonia」ですが、肺の「Lung」とは語形が全然違います。
> 「Pneumonia」はギリシャ語起源なんですね。



なるほどねえ、日本語のほうが分かりやすい、興味深い言葉です。
病気に関する言葉は西欧文化が多量に入り込んだ幕末から明治にかけて作られたものが多い。そんな事情が裏にあるのではないでしょうか。でも分かりやすいというのは良いことです。

英語にはギリシャ語起源も言葉が結構あるので、分かりにくいかもしれません。何せ「ギリシャ語」とは「チンプンカンプン」という意味まであるくらいですから。
  1. 2017-11-20 09:41
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

少し遅レスになりますが、この硯で書いていた文字は果たして漢字だけなのでしょうか。

小生はそれを知りたいところです。筆は出ることは期待できないでしょうし、竹簡だって残ってる可能性はえらい低いですがこのあたりどうなんでしょうか。実は日本各地に縄文の文字と思われるものがあるんです。

歴史家は完全に無視してますがね。このあたりの定説とやらがひっくり返るのを見てみたい気がします。
  1. 2017-11-24 17:36
  2. URL
  3. kazk #cPv2SIBE
  4. 編集

To:kazk さん

> 少し遅レスになりますが、この硯で書いていた文字は果たして漢字だけなのでしょうか。
>
> 小生はそれを知りたいところです。筆は出ることは期待できないでしょうし、竹簡だって残ってる可能性はえらい低いですがこのあたりどうなんでしょうか。実は日本各地に縄文の文字と思われるものがあるんです。
>
> 歴史家は完全に無視してますがね。このあたりの定説とやらがひっくり返るのを見てみたい気がします。



この硯の話はもっといろんな角度から研究してほしいテーマです。
特に後漢から金印をもらう際、「使人自称大夫」とありますが、この「大夫」というのは西周の頃の官名で、その後も何度かの使者が自称大夫と称しています。そしてこれが魏志倭人伝の元になった「魏略」(現在断簡のみだが、太宰府天満宮にある)に「自称大夫、呉王大伯が後(すえ)なり」とあるのですが、この大伯というのは呉の国(呉越同舟の呉の国)を作った人物ですが、その当時でさえ千年以上昔の人物。ですから相当前からこんな言い伝えを書き記すことができたと見ています。

尚この魏略の研究はどういう訳かあまり進んでいません。推測するに日本の国の成り立ちに係る話になるので、学者が避けているのかも知れません。

それから縄文の文字の問題ですが、最近ある学者が縄文土器の文様に意味があるのではないかと調査しています。何らかの読み方が分かると面白いと思います。
私は三内丸山遺跡の研究から、当時の縄文人は「一尺35センチの縄文尺を持っていた」といわれています。こんなものを持つくらいなので何がしかの文字を持っていても可笑しくない、そう思います。
  1. 2017-11-24 19:08
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

OKDnotoです。11-18の拙コメントを訂正させてください。
(1)志賀島の金印のサイズは「漢印」の標準でした――名著「文字の文化史」(1971 藤枝晃著)によると、

「木簡に書いた文書は、封印をして送達される」「印がないと、文書は文書としての効力をもたない。」「中国では漢の時代に文書の制度が十分に整ったのに応じて、印象の制度も整い、いわばその発達の一極点に達したといってよい。」
「今日では、印章は書類の末尾、名前の下に朱肉をつけて捺すが、こんな使い方はもちろん紙ができてからのことである。漢印は粘土に捺して、専ら封印に使う。」
「漢印の基準になるのは官職印である。その制式は漢代にはじまるが、それが固定してしまって、5、6世紀頃まで、つまり文書に紙が普通に使われるようになるまで、そのまま使われる。そういう後世の印も、やはり漢印と呼ばれる。」
「そのかたちは次のようなきまりになっていた。材質は青銅、印面の寸法は1寸四方、当時の1寸は2.2センチばかり。」
「他にいろいろ特別のかたちがある。まず材質では金、銀、あるいは金銀メッキ、何れも儀礼的な印に使われる。つまり実際の官職でなくて、勲功や外交儀礼のために与えられた称号の印などである。」「「漢委奴国王」は南方用と同じく蛇のツマミであるが、類例のないほど念入りに仕上げてある。」
(2)儀礼的優品とはいえ、実用――文明制度の標準器物として、これを賜与された倭国人が、そのご、漢字に無関心でありえたとは考えられません。
(3)「北部九州の広い範囲で文字文化が普及していたことを示す傍証になる」これは朝日新聞の弥生硯の記事ですが、古田武彦氏がそのことは早くから主張していました。
(3)いわゆる始皇帝の玉璽、あれは何なのでしょう?あんなものは紙に捺すしか使えず、紙が普及するのは隋唐以降ですから。

  1. 2017-12-05 09:34
  2. URL
  3. OKDnoto #-
  4. 編集

To:OKDnoto さん

> OKDnotoです。11-18の拙コメントを訂正させてください。
> (1)志賀島の金印のサイズは「漢印」の標準でした――名著「文字の文化史」(1971 藤枝晃著)によると、
>
> 「木簡に書いた文書は、封印をして送達される」「印がないと、文書は文書としての効力をもたない。」「中国では漢の時代に文書の制度が十分に整ったのに応じて、印象の制度も整い、いわばその発達の一極点に達したといってよい。」
> 「今日では、印章は書類の末尾、名前の下に朱肉をつけて捺すが、こんな使い方はもちろん紙ができてからのことである。漢印は粘土に捺して、専ら封印に使う。」
> 「漢印の基準になるのは官職印である。その制式は漢代にはじまるが、それが固定してしまって、5、6世紀頃まで、つまり文書に紙が普通に使われるようになるまで、そのまま使われる。そういう後世の印も、やはり漢印と呼ばれる。」
> 「そのかたちは次のようなきまりになっていた。材質は青銅、印面の寸法は1寸四方、当時の1寸は2.2センチばかり。」
> 「他にいろいろ特別のかたちがある。まず材質では金、銀、あるいは金銀メッキ、何れも儀礼的な印に使われる。つまり実際の官職でなくて、勲功や外交儀礼のために与えられた称号の印などである。」「「漢委奴国王」は南方用と同じく蛇のツマミであるが、類例のないほど念入りに仕上げてある。」
> (2)儀礼的優品とはいえ、実用――文明制度の標準器物として、これを賜与された倭国人が、そのご、漢字に無関心でありえたとは考えられません。
> (3)「北部九州の広い範囲で文字文化が普及していたことを示す傍証になる」これは朝日新聞の弥生硯の記事ですが、古田武彦氏がそのことは早くから主張していました。
> (3)いわゆる始皇帝の玉璽、あれは何なのでしょう?あんなものは紙に捺すしか使えず、紙が普及するのは隋唐以降ですから。



了解しました。
所でこの文書に封をする話ですが、この当時は木簡、竹簡でそれに穴を開けてひもを通し、それを綴じて文書にしていました。
木簡ですので、紙の文書程たくさんの文字を書くことはできません。それで木簡に穴を開けてひもを通し、沢山の木簡をつないで文書にしていました。ひもを通すだけなので紐が切れればバラバラ。ですから封印が要るわけです。
木簡がバラバラになり、順番が狂う事を「錯簡」と言います。紙の本で「乱丁、落丁」と言いますが、それが木簡の場合「錯簡」という訳です。
こんな事で印章が必要な理由が分かると思います。

余談ですが論語なども最初は木簡に書いてありました。後世それが紙になったんですが、木簡時代(勿論日本に伝わる前の時代)に錯簡が有ることが分かっています。それを突き止めたのは江戸時代の日本の学者。日本の学問のレベルはそれくらい高かったという一つの証拠でした。

尚始皇帝の玉璽、これは私にも分かりませんし、実物が無いので何とも言えませんが、伝承では鼎の代わりに作ったものとなっています。鼎は王権の象徴、日本で言えば「三種の神器」と言った所でしょうか。ですから実用に使うものではないので、形大きさ共実際に使うモノとは違うと思います。
  1. 2017-12-05 18:35
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する