「AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?」
結構面白い記事なのだが、これもコメント欄でかんぱちさんが指摘しているように記事の著者はこんな奴。
湯浅誠 | 社会活動家・法政大学教授
この湯浅誠なる左巻は自身のHPを見ると、京大原子力Gの小出裕章と繋がっているらしい。小出裕章は原子力の研究者ながら反原発論者である。そして京大原子力と言えば、北朝鮮の核兵器開発に協力した奴がいることで知られている。
「 国立大学研究者が北朝鮮核開発に協力」 西岡力 / 2016.04.04 (月)
要するに小出ナンタラもそんな仲間なのだと思う。そんな奴と付き合っているのが湯浅誠、なるほど類は友を呼ぶか・・。それで肩書が活動家になるわけだ。
この湯浅誠のFBを見ると、新井紀子教授と知り合ったのは一昨年、2015年7月にこの問題でインタビューをした時が最初と書いてある。左巻きの湯浅誠は新井教授の研究に貧困が読解力低下と結びつくとの日本貶めの匂いを嗅ぎつけたらしい。
(注:貧困と子供の成績に一定の関係があるのは昔から教育者の間では広く知られていること。と同時にトンビが鷹を生む、こんなことも有るので先入観は禁物、これも同様である)
何はともあれ、この研究は大変面白い。特に前回も書いたのだが、記事をじっくり読んでみると、私が海外で特に苦労してきたことが色々指摘されている。
そして、日本語に関する話ではあるが、こんな事を人前で話す必要がある人、海外で外国人と仕事をする人、こんな立場の人には自分の話す言葉、書き言葉を見直すいい教材だと思う。そんな見方でこの研究記事を読んでみた。
この関係の記事で読んでみたのは以下3本。
① 「AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?」
URLは上掲
② 「「東ロボくん」が偏差値57で東大受験を諦めた理由」
③ 「リーディングスキルテストで測る読解力とは」
<以下③より抜粋引用>
・・・前略・・・
文章(テキスト)と図表から成る初見のドキュメントを、人がどのように読解するかについては、いまだ解明されていない部分が多く残されていますが、少なくとも次のようなプロセスが含まれると考えられています。
1. 文節に正しく区切る。(例:私は学校に行く。→私は/学校に/行く。)
2. 係り受けの構造を正しく認識する。(例:美しい水車小屋の乙女。→美しいのは「乙女」である)
3. 述語項構造や接続詞を正しく解析する。(「誰が」「何を」「どうした」のような構造を正しく認識する)
4. 照応関係を正しく認識する。(例:私はハンカチを落とした。それを彼は拾った。→「それ」は「ハンカチ」である)
5. 日常生活での経験や伝聞から得られる常識と、小学校における学び等から得た知識と、簡単な論理推論によって、未知の用語の意味を実世界に関する知識の中に位置づける。(語レベルのマッピング)
6. 日常生活での経験や伝聞から得られる常識と、小学校における学び等から得た知識と、簡単な論理推論によって、未知の関係や概念の意味を実世界に関する知識の中に位置づける。(文構造レベルのマッピング)
7. 既存の知識と新たに得られた知識に対して、論理推論を働かすことにより、実世界に関するさらなる知識を獲得する。
8. 得られた多くの情報間の重要度を適切に付与する。特に、与えられた観点において、また問題解決の上で必要な情報を適切に取捨選択する。
9. 同様のことを、図やグラフ等、ほかの論理的表象手段についても実行できる。
10. テキストと図やグラフで表していることの同一性を実世界の意味を介してチェックすることができる。
11. 以上の各処理において誤りがないかをメタな視点からモニタリングして修正する。
1~4 は、一般には、記号列としてのテキストを処理するプロセスと考えられています。ただし、実世
界に関する知識が何もないと、1~4 についても、正しく処理できるとは限らないことが近年の自然言語処理等の研究から明らかになりつつあります(例:「私は岡田と広島に行った」と「私は岡山と広島に行った」では、述語項構造が異なるが、それを正しく認識するには、岡山と広島が隣接する県であることや、岡田というのは〈岡山より比較的多い〉苗字のひとつだという知識が必要)。リーディングスキルテストは、日常生活での経験や伝聞、小学校における学びから得られると考えられる範囲の知識および常識を前提とした上で、作問されています。
<引用終り>
ここで「1. 文節に正しく区切る。(例:私は学校に行く。→私は/学校に/行く。)」を見てみたい。
簡単なことのようだが、外国語にはこんな事も苦手な言葉が沢山ある。
例えば「タイ語」では文字は表音文字だけ、書くときは分かち書きもしていないので、タイ語の本はこんな風。

この本はタイのテレビでこの頃放映されていた「おしん」の話の本
こんな本をタイ人に読ませると、こんな風にして読む。指でなぞり読みだ。
上掲例文の「私は学校に行く」は「私は/学校に/行く」と文節を切って理解することもできる。
しかし「私〇学校〇行〇」と読んでもほぼ理解できる。
実は日本語の漢字かな交じり文は外国人には極めて理解しにくい所だが、話す・聞くは比較的簡単らしい。また読み書きは中国人・台湾人には漢字の拾い読みで相当意味が分かるようだ。
詳細は以下参照ください
「読解力について考えること」
次に「2. 係り受けの構造を正しく認識する。(例:美しい水車小屋の乙女。→美しいのは「乙女」である)」
詩としては「美しい水車小屋の乙女」で良いのだろうが、「水車小屋の美しい乙女」のほうが誤解されない。上掲のタイ語の例のように、左から右へ順に読むだけの言語では複雑な「係り・受け」を理解するには相当の訓練がいる。
(日本人の話す日本語が、日本語の読み書きできるタイ人通訳に理解されにくい理由の一つ)
尚、この言葉は原語を見ると、こんな誤解の起きる要素はない。
ドイツ語でこの言葉は「Die schöne Müllerin」ですが、「Müllerin」はMüller(粉屋:現代風に言えば製粉業、動力が水車なので水車小屋が仕事場)に女性接尾語-inをつけたもの。だから製粉所の娘さんといった意味(ロマンチックではないですね)
・・・ちょっと休憩・・・
美しき水車小屋の娘(Die schöne Müllerin)
私の大好きな歌曲の一つです。いいですねえ、フィッシャー・ディスカウ。
さてもう一つ、こんな事例。
「私は岡田と広島に行った」と「私は岡山と広島に行った」では、述語項構造が異なるが、それを正しく認識するには、岡山と広島が隣接する県であることや、岡田というのは〈岡山より比較的多い〉苗字のひとつだという知識が必要。
この事例を見た時、私はタイでいろいろやっていた事を一つづつ思い出していた。岡山県と広島県が隣同士で、新幹線が繋がっているという事を知らないとすると、この説明は極めて難しい。
私が今の若い人は本を読まないなあ、そう痛感したのはこんな場面だった。
こんなものをじっくり読んでみて、結局考えたのは読解力にしてもプレゼン力にしても、基本的な人間力だという全く当たり前の結論。がしかし、これが言うは易く、行うは・・・。私なんざぁ、いまだ鳥羽口をうろうろ。日暮れてなお道遠し・・・ですね。