2017-02-23 19:05

江戸は眠っていたか

 「国際派日本人の情報ファイル」というメルマガがある。
http://melma.com/backnumber_256_6480697/
ここに大変興味深い記事があった。
【江戸は眠っていたか】、これがその記事タイトルで、何故江戸が眠っていたかというと
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も寝られず」
こんな狂歌で言われるように、江戸幕府は泰平の世にすっかり平和ボケして居眠りしていた、だから黒船=蒸気船=上喜撰4杯夜も眠れない。こんな話である。
黒船来航図
2017-2-22黒船来航図 

この記事を見てみると、『驕れる白人と闘うための日本近代史』 松原久子著より となっている。
そこでこの松原久子氏の著書を買ってみた。
2017-2-22松原久子氏の著作 

原著は松原久子氏が1989年にドイツでドイツ語で出版したもので、それを2005年に邦訳したものである。しかし内容は大変面白く、日本人が押し付けられた自虐史観とは大いに違う所がある。

その中で上掲メルマガで紹介している「江戸幕府は居眠りなんかしちゃいませんぜ」というくだりを紹介したい。

引用文に入る前に簡単に当時の年表を
・1767年 田沼意次側用人二田沼時代始まる
・1778年 ロシア船蝦夷地に来航、通称を求める
       以降最初ロシア、次にイギリスも通商を求めに来るが全て拒否
・1783年 天明の大飢饉
・1800年 伊能忠敬、蝦夷地を測量
1808年 江戸湾沿岸に砲台修築起工
1840年~42年 アヘン戦争(イギリスが清国を攻撃)
1853年 ペリー浦賀来航
・1854年 ペリー再度来航 日米和親条約


さてこんな時代背景をみながら以下松原久子氏の言っていること。
<以下該当部分を引用>

【江戸は眠っていたか】

 『驕れる白人と闘うための日本近代史』 松原久子著より

(転載 始)

■居眠(いねむ)りはしていなかった日本
 江戸幕府が不安だった理由はまさにここにある。

 アヘン戦争を、江戸幕府ほど高い関心を持って注目していた政府が世界のどこにあったろう。アヘン戦争に至るまでの前史、敗北した後の中国の惨状を、日本の政府ほど熱心に分析した政府も他にはなかった。

 危機感は幕府内部にとどまらず、広く一般大衆の間にも広がって、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が行なわれた。アヘン戦争に至る経緯に関する本と、戦争が終わってからの中国の惨憶たる有様が書かれた本が出版され、多くの人に読まれた。

 二百年前に鎖国が始まって以来、政府のタカ派の人たちがいつも言っていた「白人は与し難く、危険である」という警告が正しかったことを、初めて一般世論が認めたのだった。

■「白人」の悪い性格
 白人は何かが欲しいとなれば、絶対譲歩しない。彼らは欲しいと思ったものが手に入らなければ、別の方法を考え出して目的を達成する。彼らに扉をほんの少しの隙間でも開けば、彼らはそれを無理やりこじ開ける。彼らをうまく説き伏せることができても、彼らは笑って、やりたかったことを強甲に実行する。

 彼らに断固として立ち向かっても、彼らは恐ろしい武器の力を使って情け容赦なく反撃してくる。 白人からどのように身を守ることができるのだろうか。

■防衛力増強に大転換
 アヘン戦争に関連した中国の出来事すべてを目の前にして、幕府は細心の注意を払わねばならないことを痛感させられた。西洋人は信用できなかった。

 アヘン戦争が終わる一八四二年、幕府は全ての大名と各沿岸砲兵中隊の指揮官全員に、アメリカの船が江戸湾に入ってきた一八三七年の時のように挑発して砲撃をするようなことを絶対してはならない、そうなったらどんな事態に発展するか予測がつかない、という厳重な指示を与えた。

 と同時に幕府は、兵器を早急に近代化し、沿岸と港の防備を徹底的に強化し、二百年もの間放棄していた艦隊を建設するだけでも、さしあたり国の最低限の防衛になり得ると考えた。

■何と「蒸気機関」等の国産が始まっていた
 そういう事情だったので、ペリー司令長官が例の黒船、すなわち東インド艦隊を率いて現れる十年前にはすでに溶鉱炉は操業し、鍛造工場や鋳物工場が建設され、大砲を製造することができる旋盤とフライス盤の開発が始められていた。蒸気機関はオランダの設計図に基づいて造られ、固定した動力装置として次々に工場に設置されたり、エンジンユニットとして船に取り付けられ始めていた。

 残念なことに、日本がヨーロッパの技術を早急に取り入れた動機は、ヨーロッパ人の独創性を讃美したからではなかった。そうではなくて、むしろその動機は、欧米列強の隠れた意図に対する不安と不信感にあったといわねばならない。そしてその不安と不信感が日本人をかくも大急ぎにさせたのであった。

■「平和ボケ」していなかった幕府
 その不安と不信感がいかに正当であったか、そして再三江戸湾に姿を現す欧米の船団に対する幕府の極度な慎重さがいかに理に適っていたか、中国の悲劇が明らかにしてくれる。

 「アヘン戦争後、中国は欧米列強に対して実に大幅な譲歩を行なったが、欧米列強はそれでも不服であった」 これはブリタニカ百科事典からの一文である。それでイギリスは、一八五六年にごく些細な出来事を新たな戦争を始める言い掛かりにしたのだった。中国船籍のアロー号が密売のためにアヘンを積んでいた。(転載終)

■歴史教科書とは違う雰囲気だった
 高校の日本史などで学んだ幕末の様子とは違う、松原さんの本は嬉しくなりますな。私たちの頭の中を書き直す気迫で迫ってきます。

 江戸の「鎖国」はいわゆる「管理貿易」の事であり、「国防政策」でありました。江戸時代が遅れた時代の様に書かれたりするのは、それで得をする勢力が“戦後にも”いたからでしょう。祖先たちは一生懸命やっておりました。だから今日の日本がある。

<引用終り>

こんな話なのだが、上掲の狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も寝られず」、これがあまりにも強烈で、ペリーがやって来るまで日本は居眠りしていたという印象がある。
しかし実際は松原さんが言うように、日本はアヘン戦争をしっかり見ていたのだった。
そういえば私は愛知県の知多半島在住なのだが、ここにもそんな時代の遺跡がある。砲台跡だ。
内海砲台跡というその遺跡は知多半島の先端に近い南知多町内海にある。

内海海岸、海岸沿いの国道から下に降りると目の前が海
2017-2-23内海砲台3 

そして目を後ろに移すと、国道わきにこんな岩山、海抜は30メーターほど
2017-2-23内海砲台2 

この岩山の中腹に小さな神社がある、そこまで登っても
2017-2-23内海砲台4 
こんな風で樹木が茂っていて眺望が利かない

しかし海と反対側に400メーターくらい行くと
2017-2-23内海砲台1 

「尾張藩海の防備 内海砲台跡 嘉永3年(1850年)築造通路」と書いてある

1850年と言えばペリー来航の3年前。泰平の眠りではなく、海の防備を固めようとしていたことが分かる。

この砲台に設置された大砲類は
・12貫目ホウイッスル砲 1挺
・5貫目矢筒 2挺
・1貫目矢筒 1挺
・3貫目カノン砲が略台車とセットで備えられたという。

この大砲だが現物はもちろん残っていない。参考までに他所のあるものを拾ってみると

これは品川区の浜川砲台の「6貫目ホーイッスル砲」
2017-2-23浜川砲台 

これは火矢筒の例
2017-2-23火矢筒の例 

これはカノン砲の例
2017-2-23品川台場の80ポンドカノン砲 

さてこれで最新式大砲を備えた黒船に対抗できるものだっただろうか??。
しかし内海砲台の試射した際のことが地元に伝えられている。
試射したら、すぐ目の前の砂浜に着弾し、砲術師は大いに恥をかいたとか。現地を見る限り、多分3~400メーターくらいしか飛ばなかったのだろう。
こういった失敗がその後の西洋式軍備へと繋がっていくわけなのだが・・・。

このアヘンの話や黒船の話を見ていくと必ず出てくる悪徳商人の名前がある。ラッセル商会という。
このラッセル商会はアヘンと奴隷貿易で莫大な富を得た悪徳商人。そこの中国広東での代表者がウォーレン・デラノでなんと日本に来たペリーとも関係があるらしい。その孫(娘の子)がアメリカの大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト・・・。
以下参照ください
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1316.html

この悪徳商人の話はまた別の機会とします。

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コメント

こんばんは。

江戸時代の支配層の海外事情の収集能力は、偏りはあったかもしれませんが、それなりに海外の見聞を承知していたことは事実のようです。通商をしていたのですから完全な鎖国ではなかったのですしね。
それよりも、ペリー来航に始まる開国の動きに対して、支配層の武士ではない庶民が欧米列強に隷属せず海外の知識や技術を取得できたことが、同時期の他のアジアやアフリカの国々と違う、その後の日本の道筋をつけたと思います。
江戸時代は国内で戦乱はありませんでしたし、飢饉やその他非常事態があったにせよ、国が安定したことにより庶民は読み書きや知識を得ることができました。
この200年強の安定した時代が、不平等にせよ外国と条約を結ぶことに成功し、その後条約改正に成功し、明治の富国強兵を可能ならしめたものと思います。
  1. 2017-02-24 21:14
  2. URL
  3. koguma #-
  4. 編集

To:koguma さん

> こんばんは。
>
> 江戸時代の支配層の海外事情の収集能力は、偏りはあったかもしれませんが、それなりに海外の見聞を承知していたことは事実のようです。通商をしていたのですから完全な鎖国ではなかったのですしね。
> それよりも、ペリー来航に始まる開国の動きに対して、支配層の武士ではない庶民が欧米列強に隷属せず海外の知識や技術を取得できたことが、同時期の他のアジアやアフリカの国々と違う、その後の日本の道筋をつけたと思います。
> 江戸時代は国内で戦乱はありませんでしたし、飢饉やその他非常事態があったにせよ、国が安定したことにより庶民は読み書きや知識を得ることができました。
> この200年強の安定した時代が、不平等にせよ外国と条約を結ぶことに成功し、その後条約改正に成功し、明治の富国強兵を可能ならしめたものと思います。


同感です。
その時代の一般庶民が結構色んな知識を持っていた、そんな傍証になるものが有ります。
私の住む町の市立図書館には江戸時代から明治にかけての和綴じの本、約1万冊がコレクションとしてあります。
この町の金持ち商人たちが自主的に勉強会をやっていまして、その時使った本です。地元の素封家が保管していたものを図書館に寄贈したもので、結構貴重な書籍があるそうで、東京の先生方も調査に来られるとか。
こんな話がどこでもあるのでしょう。こんな基礎があるから明治の発展があるのだと思います。
  1. 2017-02-25 15:52
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

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