2016-11-01 13:32

飛燕を見に行ってきた

 一昨日の日曜日、神戸まで旧日本軍の戦闘機「飛燕(ひえん)」を見に行ってきました。
飛燕は日本に現存するのは一機のみ、終戦後奇跡的に破壊を免れた機体が残っていて、昨年まで鹿児島県の知覧特攻平和会館に展示されていた。
それを飛燕のメーカー川崎重工が創業120周年記念事業としてレストアすることにし、それが完了したので展示されたもの。

川崎重工創立120周年記念展 (10月15日~11月3日 神戸ポートターミナルにて)
http://www.khi.co.jp/120th-Hien/

2016-10-31飛燕@ポートターミナル

展示会場は神戸ポートターミナルの一角、決して広い所ではない。だから展示してあるのは飛燕と川崎の新型バイクNinja H2R 750Turboというレースコース用バイクだけ。
しかしこの人出である。
それだけ皆さん飛燕に興味があるようだ。


 三式戦闘機飛燕は悲劇の戦闘機である。日本ではほかの飛行機は殆ど空冷エンジンだが、これは液冷(水冷)エンジン。
ドイツのメッサーシュミットに搭載されているDB601というエンジンを国産化したものである。
しかしこのエンジンは日本の当時の工業力に合わず、故障が極めて多く、整備にも多大な時間がかかる代物で、結果として稼働率が低下し、戦場では苦労の連続だった。
さらにエンジンの生産がうまくいかないため、飛行機の生産工場ではピークで200機とも言われるエンジン無しの機体が出来てしまった。その為昭和19年の終わりころに急遽空冷エンジンを搭載することにし、五式戦闘機ができた。
この五式戦闘機は非常に出来が良いものだったが、まもなく終戦となった。


今回、レストアしようとしても、図面もすでに無く、レストア作業は大変だったらしい。
元々製造時にも当時の技術では大変苦労が多かったと言われている。

私が若いころスキーにいつも行っていたが、定宿にしていた民宿のご主人は「戦時中、各務原の工場(川崎重工岐阜工場、各務原にある)に徴用で働いていた。そこでは飛燕を毎日1機ずつ生産していた」、こんなことを話していたのを思い出します。

でもそんな未熟練工で、まったく新しい飛行機を作るのは苦労の連続だったのでしょう。
今回のレストアした飛燕の展示ではそんな苦労の分かる話がパネルに書いてあった。

例えば、操縦席の風防の修理、ガラス アクリルパネルの交換という所では
「割れやすいアクリルパネルと薄い板の風防フレームをリベットで止める作業は、達人級の職人が必要でした。
特に後部風防は手が入らないので、リベットを切る作業も、打つ作業も難航しました」

2016-11-1飛燕レストア


 さてここからは私のもう一つの思い出話。
私の若いころの話・・・(・・・遠い思い出です・・・)
日本はなぜアメリカに負けたのか、それを物作りの面から考えよう、そんなことでいろいろ勉強もしたし、いろんな面の改善活動をしてきた。合言葉は「追いつき、追い越せ」。
何せ生産管理も品質管理も生産技術も、言葉はあっても中身のない時代。
そんな時、日本の何が至らなかったのかを考えるのに、この飛燕をはじめとする沢山の事例は立派な反面教師。

そんな経験が実はその後海外で仕事をするようになった時、本当に役に立ちました。
特に現地スタッフに言葉の概念を教える、これが大変でしたが、技術者を養成するのに役に立ったです。


最後にオマケ
飛燕の展示と一緒に展示されていた川崎の新型バイク  Ninja H2R 750Turbo

2016-10-31NINJAH2R750turbo

これはレース専用モデルで、これで一般公道を走れるモデルではない。
でもバイク好きな若い人の真剣に見ている様子がうれしいですね。
バイクにしろ車にしろ、こんなカーガイ(クルマ好きの人)がもっと増えてほしいと思います。
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コメント

父は日本軍(建築)に勤めていました。
昭和18年から19年にかけて1年間 母とともに各務原にいました。飛燕の格納庫を作っていたのかもしれません。
召集で転出しましたが、その後 各務原空襲が有って、あのままあそこにいたら死んでいたと言っていました。
  1. 2016-11-02 10:00
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  3. 八目山人 #4lXsiBFM
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To:八目山人さん

> 父は日本軍(建築)に勤めていました。
> 昭和18年から19年にかけて1年間 母とともに各務原にいました。飛燕の格納庫を作っていたのかもしれません。
> 召集で転出しましたが、その後 各務原空襲が有って、あのままあそこにいたら死んでいたと言っていました。


そうでしたか、各務原も当時は超巨大工場出現で大変だったでしょう。
私は中島飛行機半田工場の事情は分かりますが、当時人口5万人の市に従業員3万人の巨大飛行機工場が突如出現。
当然働く人の宿舎も不足し、地元の多くの家で徴用などで働く人を泊めていました。
多分お父様もそんな風で働いていたのではないでしょうか。

尚本文にあるレストアされた飛燕は最終的に各務原の航空博物館に展示されるようです。
  1. 2016-11-02 17:54
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  3. 短足おじさん二世 #-
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三式戦ほど日本の技術とマネージメントの問題点を浮き彫りにしてくれるものはなかったと思います。

あまり知られていませんが三式戦のエンジン換装機である五式戦と同じエンジンを積んだ零式艦戦64型は基本設計が零式戦のほうが2年ほど早いだけで機体の大きさや重量も非常に似通っていますが性能は段違い、五式戦が圧倒しています。これは本来1942年中に登場できた機体で、この3年間の遅れが最大の問題でした。

機体設計をやった土居武夫はその限界を知り早期にハ40からハ112に積み替えろと言ってたのですが陸軍が頑として言うことを聞かなかったという経緯があります。機体に問題があったとすればそれはモーゼルの20ミリ機関銃を採用してしまったことですがこれは13ミリにでも換装できましたから問題ではなし、本来は陸軍が大東亜決戦機と呼んだ四式戦にかけるべきエネルギーを全て投入しても良かった機体です。

海軍だって大戦後半には相対的に零式戦の性能低下が甚だしかったのですからこれにかけるくらいの決断が必要だったんです。そうすれば戦局の様相はかなり変わったと思ってます。

ブログ主様は中島の半田製作所の近くにお住まいとのことですが、小生は過去30年以上この手の経緯を研究してきましたが中島飛行機の技術は徹頭徹尾二流だったというのが結論です。中島飛行機の採った施策とそれに乗っかった、もしくはそれを指導した陸海軍のマネージメントが劣悪であった、そうとしか言えないと思ってます。

極論ですが中島の作った飛行機の中で褒められるのは陸軍のキ27、キ46と海軍の97艦攻だけだと思ってます。

三式戦の悲運は日本の悲運の象徴であったような気がしてなりません。

後年、飛燕の設計者、土居武夫はYS11の図面を引きました。記録ではそうではないはずですがその戦闘機のような操縦性は戦闘機乗りの出身者が多い小国のパイロットたちが絶賛しました。それがすべてを物語ってます。

堀越も本庄も小山も皆戦後飛行機を断念しましたが土居武夫と菊原静雄は戦後飛行機を作りました。YS11とPS-1は彼らの執念を感じます。
  1. 2016-11-02 23:05
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  3. kazk #cPv2SIBE
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戦闘機開発競争は製品開発競争です

日米戦争について日本は色々と反省が必要であることは周知と思われますが、戦闘機開発競争に敗れたことに言及している書物は少ないように思います。
これについて最初に書かれたのは日下公人先生ではないかと思います。日下先生の詳細な分析がありますが、私が申し上げることはその受け売りです。
戦闘機の命は、何と言ってもエンジンにあるのですが、日本は米軍のように小型軽量で馬力の大きいエンジンを開発することができませんでした。
またB29のエンジン部分の写真を見て、アメリカが過給器の開発に成功したことを知りましたが、日本は作ることができませんでした。
新型エンジンの開発競争に敗れたことは仕方のない面もあるかもしれませんが、日本の場合、戦闘機の機種が多すぎると言う欠点がありました。限られた資源を極め付けのところに集中してこそ競争に勝てるのですが、日本の場合、軍官僚の担当者ごとに一機の戦闘機となってしまい資源の集中に失敗しました。
製作会社ごとに規格が違っており、一つの会社で余っている部品を他社の戦闘機に転用することができませんでした。
周辺の技術にも差がありました。アメリカ軍の戦闘機は機体が滑らかに作ってありましたが、日本の戦闘機はどうしても凹凸が出ました。
戦艦武蔵は、艦内電話がすぐに不通になりました。全く役に立たなかったようです。何でもない技術のように見えますが、日本にはなかったようです。中国の航空母艦はどうなのでしょうか。きっと信じられないところに信じられない技術の不足があるはずです。
それでも川崎のキ45改によってB29の損耗率は、P51が護衛につくまでは、50%を超えていたと日本の記録にあると聞きました。場合によってはほぼ全滅に近い時もあったと言う話ですが。
いずれにしろ戦闘機の機種が多かったと言うのは、意外に深い問題であると言うことです。
アメリカのように軍需産業を数社程度に絞り込むことは決して良いこととは思いませんが、そうではなく、軍の方で戦闘機開発について方針が統一されていなかったと言うことが致命的であると言うことです。
翻って現在の自衛隊はどうなのであろうかと心配です。
  1. 2016-11-03 15:51
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  3. 縄文人 #-
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日本は自国産の武器の生産をやらないといけませんね。アジア各国の武器はシナ製に置き換わりつつあります。シナ製の武器に依存すれば、当然、シナに情報が集まります。シナに有利になります。大量生産すれば、価格は劇的に下げる事が出来ます。
日本人は平和主義とか憲法9条とか念仏ばかり唱えていないで、現実を直視しなければなりませんが、無理かな。

渡辺昇一先生の本で昔読んだ記憶があるのですが、戦前の日本はマザーマシン(機械を作る機械)の生産を海外に100%依存していたようです。したがって、戦争がはじまって時がたつにつれ、機械が老朽化して不利になっていったようです。いまは世界の工作機械は日本とドイツがほぼ独占しているようです。工作機械は日本の強みなんですが、この産業も日本政府が武器輸出を前面許可すればびっくりするほど拡大余地があると思います。

  1. 2016-11-03 18:54
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  3. NINJA300 #/xzFVZWc
  4. 編集

機体表面はアルミニウム製のようにみえますね。当時はチタニウムなんてないでしょうし。
日本の戦闘機といえば、竹材を上手く使ったとかそういうイメージがありますが、どういう風に使ったのか?

H2Rはかっこいいですね。飛燕と並ぶなんてすごいです。
  1. 2016-11-03 19:02
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  3. NINJA300 #/xzFVZWc
  4. 編集

To:kazk さん

> 三式戦ほど日本の技術とマネージメントの問題点を浮き彫りにしてくれるものはなかったと思います。
>
> あまり知られていませんが三式戦のエンジン換装機である五式戦と同じエンジンを積んだ零式艦戦64型は基本設計が零式戦のほうが2年ほど早いだけで機体の大きさや重量も非常に似通っていますが性能は段違い、五式戦が圧倒しています。これは本来1942年中に登場できた機体で、この3年間の遅れが最大の問題でした。
>
> 機体設計をやった土居武夫はその限界を知り早期にハ40からハ112に積み替えろと言ってたのですが陸軍が頑として言うことを聞かなかったという経緯があります。機体に問題があったとすればそれはモーゼルの20ミリ機関銃を採用してしまったことですがこれは13ミリにでも換装できましたから問題ではなし、本来は陸軍が大東亜決戦機と呼んだ四式戦にかけるべきエネルギーを全て投入しても良かった機体です。
>
> 海軍だって大戦後半には相対的に零式戦の性能低下が甚だしかったのですからこれにかけるくらいの決断が必要だったんです。そうすれば戦局の様相はかなり変わったと思ってます。
>
> ブログ主様は中島の半田製作所の近くにお住まいとのことですが、小生は過去30年以上この手の経緯を研究してきましたが中島飛行機の技術は徹頭徹尾二流だったというのが結論です。中島飛行機の採った施策とそれに乗っかった、もしくはそれを指導した陸海軍のマネージメントが劣悪であった、そうとしか言えないと思ってます。
>
> 極論ですが中島の作った飛行機の中で褒められるのは陸軍のキ27、キ46と海軍の97艦攻だけだと思ってます。
>
> 三式戦の悲運は日本の悲運の象徴であったような気がしてなりません。
>
> 後年、飛燕の設計者、土居武夫はYS11の図面を引きました。記録ではそうではないはずですがその戦闘機のような操縦性は戦闘機乗りの出身者が多い小国のパイロットたちが絶賛しました。それがすべてを物語ってます。
>
> 堀越も本庄も小山も皆戦後飛行機を断念しましたが土居武夫と菊原静雄は戦後飛行機を作りました。YS11とPS-1は彼らの執念を感じます。


さすがにkazkさんはこの件に詳しいですね。
この話はコメント欄に置いておくのは勿体ない。そこで別エントリーで引用させていただこうと思います。
よろしくご了承いただくようお願いします。
三式戦飛燕の問題点が時間と場所、そして人を変えてまた出てきているなんて言う話は飛燕の悲劇を詳しく知らないと気が付かないけれど、それが現実でした。
もう少々お待ちください。
  1. 2016-11-04 14:37
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
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Re: 戦闘機開発競争は製品開発競争です

> 日米戦争について日本は色々と反省が必要であることは周知と思われますが、戦闘機開発競争に敗れたことに言及している書物は少ないように思います。
> これについて最初に書かれたのは日下公人先生ではないかと思います。日下先生の詳細な分析がありますが、私が申し上げることはその受け売りです。
> 戦闘機の命は、何と言ってもエンジンにあるのですが、日本は米軍のように小型軽量で馬力の大きいエンジンを開発することができませんでした。
> またB29のエンジン部分の写真を見て、アメリカが過給器の開発に成功したことを知りましたが、日本は作ることができませんでした。
> 新型エンジンの開発競争に敗れたことは仕方のない面もあるかもしれませんが、日本の場合、戦闘機の機種が多すぎると言う欠点がありました。限られた資源を極め付けのところに集中してこそ競争に勝てるのですが、日本の場合、軍官僚の担当者ごとに一機の戦闘機となってしまい資源の集中に失敗しました。
> 製作会社ごとに規格が違っており、一つの会社で余っている部品を他社の戦闘機に転用することができませんでした。
> 周辺の技術にも差がありました。アメリカ軍の戦闘機は機体が滑らかに作ってありましたが、日本の戦闘機はどうしても凹凸が出ました。
> 戦艦武蔵は、艦内電話がすぐに不通になりました。全く役に立たなかったようです。何でもない技術のように見えますが、日本にはなかったようです。中国の航空母艦はどうなのでしょうか。きっと信じられないところに信じられない技術の不足があるはずです。
> それでも川崎のキ45改によってB29の損耗率は、P51が護衛につくまでは、50%を超えていたと日本の記録にあると聞きました。場合によってはほぼ全滅に近い時もあったと言う話ですが。
> いずれにしろ戦闘機の機種が多かったと言うのは、意外に深い問題であると言うことです。
> アメリカのように軍需産業を数社程度に絞り込むことは決して良いこととは思いませんが、そうではなく、軍の方で戦闘機開発について方針が統一されていなかったと言うことが致命的であると言うことです。
> 翻って現在の自衛隊はどうなのであろうかと心配です。



興味深い話、ありがとうございます。
日下公人先生の戦闘機開発競争の話、私は知りませんでした。
機会があったら探してみますが、kazkさんへのコメントにも書きましたが、この飛燕の悲劇がその後の日本ン高度成長時代にも顔をさしています。そんな事を書いてみたいと思いますが、そこに縄文人さんのこのコメントも引用させていただきたく、よろしくお願いします。
  1. 2016-11-04 14:44
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

To:NINJA300 さん

> 日本は自国産の武器の生産をやらないといけませんね。アジア各国の武器はシナ製に置き換わりつつあります。シナ製の武器に依存すれば、当然、シナに情報が集まります。シナに有利になります。大量生産すれば、価格は劇的に下げる事が出来ます。
> 日本人は平和主義とか憲法9条とか念仏ばかり唱えていないで、現実を直視しなければなりませんが、無理かな。
>
> 渡辺昇一先生の本で昔読んだ記憶があるのですが、戦前の日本はマザーマシン(機械を作る機械)の生産を海外に100%依存していたようです。したがって、戦争がはじまって時がたつにつれ、機械が老朽化して不利になっていったようです。いまは世界の工作機械は日本とドイツがほぼ独占しているようです。工作機械は日本の強みなんですが、この産業も日本政府が武器輸出を前面許可すればびっくりするほど拡大余地があると思います。


日本が武器輸出をするようになれば、文字通り飛ぶように売れるでしょう。
最前線で戦う連中にとって引き金を引いたら確実に弾を撃てる鉄砲、これが一番大事ですから。
まかり間違っても韓国製など誰も手を出さないでしょう。
現に今、アルカイダもISも車は全部トヨタ車。こんな現実が物語っています。

それから日本はマザーマシンがすべて欧米製だったから問題。これはまったく同意します。
昔話ですが東芝機械の人とモノづくりに関していろいろ話したことがあります。
その時東芝機械の方もまったく同じことを言っていました、
そして「だから我々は自前で作っている。外国任せではダメ。あの敗戦の悔しさを絶対忘れないのが会社のポリシーだ」、こんな事を言っていました。
  1. 2016-11-04 14:57
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

To:NINJA300 さん

> 機体表面はアルミニウム製のようにみえますね。当時はチタニウムなんてないでしょうし。
> 日本の戦闘機といえば、竹材を上手く使ったとかそういうイメージがありますが、どういう風に使ったのか?
>
> H2Rはかっこいいですね。飛燕と並ぶなんてすごいです。


アルミニュームです。正確には現在の言葉ではアルミ合金、戦時中の言葉はジュラルミンです。
アルミニューム自体は強度が弱いので銅などを添加し強度を上げたものです。
ただジュラルミンは腐食しやすいので外販には表面に腐食に強い純アルミをくっつけたクラッド板かもしれません。
又主翼の骨など強度のいる所には超々ジュラルミンが使ってあると思います。
ジュラルミンの開発から飛行機への応用の話は面白いです。
ジュラルミンはドイツで発明されました。そしてツェッペリン飛行船の骨組みに採用され、第一次大戦中ロンドン空襲に使われました。その空襲時に墜落したツェッペリン飛行船の残骸からジュラルミン部品を手に入れたのが当時の日本海軍の駐在武官。
それを日本に送って分析したところから日本のジュラルミン、航空機生産の歴史が始まります。
そこから飛燕まで20年少々ですから、この間の航空機開発競争はすさまじかったですね。
さらに日本は航空母艦も作りましたが、最初から空母用として設計して建造したのは1922年に竣工した空母「鳳翔」ですから、空母の歴史はアメリカより古いんですね。

Ninja H2Rは川崎の全部門が協力して製作したとなっていました。
エンジンにはスーパーチャージャーが付いていますが、これは川崎のガスタービン部門が協力、また他のところでは航空宇宙部門も協力しているそうです。凄いですね。
  1. 2016-11-04 15:25
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし
http://iyashitour.com/archives/2539
https://ja.wikipedia.org/wiki/松浦清

※kazkさんのコメントを見て上記の野村克也の名言を思い出しました。
しかし、調べてみると何と我が出生地である平戸の殿様の言葉が元になっているのを知って、びっくりしました。

戦争の反省というと、人道上の反省ばかりが声高に言われる現状ですが、戦略というものを再検証し同じ失敗を繰り返さないというのが今後の国益にとって大事でしょうね。
  1. 2016-11-04 18:25
  2. URL
  3. taigen #-
  4. 編集

To:taigen さん

> 勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし
> http://iyashitour.com/archives/2539
> https://ja.wikipedia.org/wiki/松浦清
>
> ※kazkさんのコメントを見て上記の野村克也の名言を思い出しました。
> しかし、調べてみると何と我が出生地である平戸の殿様の言葉が元になっているのを知って、びっくりしました。
>
> 戦争の反省というと、人道上の反省ばかりが声高に言われる現状ですが、戦略というものを再検証し同じ失敗を繰り返さないというのが今後の国益にとって大事でしょうね。


有名な言葉ですが、ルーツがそちらとは知りませんでした。
そしてご指摘のように額面だけでない奥深い意味があるのですね。良く噛みしめたいと思います。

所で戦争の反省なのでsが、実は次にエントリーするテーマが将にそれ。
飛燕の悲劇が時と場所、そして人が変わっても続いているという話です。
急ぎエントリーします。
  1. 2016-11-05 07:33
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

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