2016-03-23 23:09

島根県の弥生時代遺跡

 出雲でどうしても見たかった所、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡に行ってきました。
荒神谷遺跡は国内最多の358本の銅剣と銅鐸などが出土した所、加茂岩倉遺跡は39口の銅鐸が出土した所で、今までの考古学の常識を一変させる凄い発見でした。どちらの遺跡も幸いなことにキチンとした考古学的発掘調査が行われていた事でも重要な所でした。



これが荒神谷遺跡

2016-3-23荒神谷遺跡現地

人里離れた谷筋の奥の急斜面にこんな埋納用のテラスを作って埋納してありました。
左側が銅剣358本が埋納してある所。
発掘当時の姿で、銅剣のレプリカを展示してあります。

右側が銅鐸と銅矛が埋納してある所。
銅鐸と銅矛が同時に出土するのは日本で初めての事でした。


そしてこれは島根県立古代出雲歴史博物館が作成した荒神谷遺跡の昔の銅剣埋納の様子想像図

2016-3-23荒神谷遺跡埋納想像図

古代出雲歴史博物館の検討結果では現地は現在でも人里離れた谷の奥の奥、そこから急峻な傾斜地を登った所にこんな埋納用に場所を作った。相当の準備と人手がかかったと思われるが、埋納の段階では少数の人で行ったはず。
こんな話だった。

行ってみて古代史のなぞが一層深まった、そんな思いがする遺跡訪問だった。

しかし結局銅鐸の謎は深まるばかり、これからいろいろな事が分かって来るだろう。楽しみだ。
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コメント

銅鐸に関しては分からぬことだらけですが、発掘状況が遺跡の発掘にともなって出てきたことが皆無であること(工事か何かの偶然で発見されたものばかり、その結果が遺跡となる場合のみ)、明らかに廃棄されたり破壊された形跡のあるものがあること、からおそらくは支配者の変更に伴う祭祀物の廃棄ではなかったかと言われていますよね。これは銅剣銅矛についても同じでここからごっそり出てきたことは考古学者を当惑させたと聞いています。

とにかくこの遺跡から発掘されるまで歴史の教科書には銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏なる地図が出ていたものですがこれがそっくりなくなりました。出雲なり吉備なりが大和と違った文化圏でありそれが征服されたのだろうとしか言えないのですがこの辺は完全に不明としか言えないのでしょう。

小生は基本記紀に欠かれたことはあったものだろ考えて良いと思ってます。ところがこれらは全く記述がないのですから、大和と無関係な歴史ということになるわけです。特に銅鐸は大陸も含めて類似物が殆どありません。越の国との関係を仰られてましたが全く謎としかいえません。

ただ少なくとも言えることはこのようなものを製作できたことは当時の日本列島の文化水準を表してるはずです。当時の倭国の地位を表すものだと思っています。

  1. 2016-03-25 08:12
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  3. kazk #cPv2SIBE
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To:kazk さん

> 銅鐸に関しては分からぬことだらけですが、発掘状況が遺跡の発掘にともなって出てきたことが皆無であること(工事か何かの偶然で発見されたものばかり、その結果が遺跡となる場合のみ)、明らかに廃棄されたり破壊された形跡のあるものがあること、からおそらくは支配者の変更に伴う祭祀物の廃棄ではなかったかと言われていますよね。これは銅剣銅矛についても同じでここからごっそり出てきたことは考古学者を当惑させたと聞いています。
>
> とにかくこの遺跡から発掘されるまで歴史の教科書には銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏なる地図が出ていたものですがこれがそっくりなくなりました。出雲なり吉備なりが大和と違った文化圏でありそれが征服されたのだろうとしか言えないのですがこの辺は完全に不明としか言えないのでしょう。
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> 小生は基本記紀に欠かれたことはあったものだろ考えて良いと思ってます。ところがこれらは全く記述がないのですから、大和と無関係な歴史ということになるわけです。特に銅鐸は大陸も含めて類似物が殆どありません。越の国との関係を仰られてましたが全く謎としかいえません。
>
> ただ少なくとも言えることはこのようなものを製作できたことは当時の日本列島の文化水準を表してるはずです。当時の倭国の地位を表すものだと思っています。


全くご指摘の通りで、今までの考古学、古代史の常識をガラッとかえる発見です。
私も是非その現場を自分の目で見たかった。
結果は謎は深まるばかりでした。

特に驚いた事、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は直線距離では3.4キロしか離れていません。しかし車で走っても30分以上かかるのです。二十数キロ走ります。
荒神谷遺跡博物館の係員の方に道を聞いたとき、とても申し訳なさそうに距離は近いのですが30分以上かかりますと言われたのが印象的でした。出雲平野からいきなり険しい山間に入った所に遺跡があるのです。

それで古代出雲歴史博物館の学芸員の方と話をしたのですが、銅鐸にせよ銅剣にせよ非常に丁寧に埋納してある。
特に加茂岩倉遺跡の銅鐸は大部分が2個セットで入れ子状態で発見された。その入れ子の中に詰まっている砂は埋納現場の砂とは違うモノ。つまり何処かで銅鐸を入れ子状態にセットし、砂をつめ、現地まで運んで埋納した。だから単に廃棄したと言う事は決してありえないと言っていました。

同博物館の資料によると、銅剣や銅鐸のの埋納場所は極めて見通しの悪い山の斜面であり、他の事例でも山の頂上付近から出土した例はない、こんな事でした。
だから埋納理由は土中保管説、隠匿説、地鎮説、境界説が有ると言っています。

それと加茂岩倉遺跡で印象的だったこと。現地は極めて細い谷の一番奥ですが、車の通れる道から更に細い道を500メーター位のぼり、谷の一番奥から絶壁上の所を見上げると谷底から18メーターの高さにその遺跡がありました。
もうビックリ仰天でした。

それから記紀に書いてない、この問題は私は記紀以前に有った書物類は焚書に有ったと見ています。
そんな事の片りんが分かるモノ、太宰府天満宮に国宝で翰苑が有ります。これは魏志倭人伝の元になった魏略の残欠が残っていまして、こんなモノが故意に無視されています。
今後の研究に期待したいですね。
  1. 2016-03-25 18:02
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  3. 短足おじさん二世 #-
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