2015-03-27 15:11

人とは心を引き継ぐ存在

 同じ市内に住んでいる私の叔母が一昨日夜倒れた。脳出血(脳溢血)だった。
昨日叔母の長男(つまりイトコ)と話をしたのだが、現在集中治療室にいるが、意識はなく昏睡状態。
主治医の見立てでは出血量が多く、高齢の為手術も難しいとのこと。結局手術せず延命治療だけという事にしたようだ。
叔母は意識が戻ることは恐らくないだろう。
死は突然やって来る。そんな事を実感した日になった。


さて今日のテーマはそんな事で死生観について考えてみたい。

9年ほど前のこと、家人の先輩で私ら夫婦とは親戚同然にしていただいていた方が乳癌で亡くなった。
何度か見舞いに行ったのだが、その方が死の直前、最後に発した言葉が「悔しいわ」だった。
この「悔しいわ」と言う言葉、その後家人とも何度も話をするのだが、何故悔しいのか良く分からない。
この方の乳癌は十数年前の癌が再発したのだが、1年くらい前の検診では全く再発の心配はないと言われていたので其れが悔しいのか・・・
その方の一人娘の方も同じ頃乳癌が見つかったので、其れが悔しいのか・・・
或いはその方は仕事上で女だからという事で色々困難が有ったので、それが悔しいのか・・・

そんな事で結論は出ていなかったのだが、数日前シンシアリー氏のブログを見ていたら、同じ「悔しい」と言う言葉を見つけた。
「韓国人の来世観・・「悔しくて行けないよ」(※さらに追記しました」
http://ameblo.jp/sincerelee/entry-12005037934.html

詳細は上掲ブログを見ていただくとして、韓国人の場合信仰は儒教を永年信仰してきた、だから今でも考え方の基礎に儒教が有る。
そして儒教では来世と言う考え方が無い、だから死を怖がるのだと言う。

そうか、だから死にたくないので船長が乗客が放っておいて自分ひとり逃げるのか。なるほど。
この話は理解できるが、これは韓国の話。


私は日本の場合は色んな所で死生観についての話や諺がある。知らず知らずにそんな事を身に着けるのだろう。
でも中には死生観をしっかり持っていない方もいる、そう思っている。
仏教でもキリスト教・イスラム教でもメインテーマは死、そして必ず「死後の世界、来世」を説いている。
日本の場合、宗教でなくても色んな所で死生観に関連した諺も有る。
宗教を信じるも信じないも勝手だが、その人なりの死生観をしっかり持つこと。
これは老人になってからではなく、若い人たちもしっかり持つべきだと思う。


さてこんな死生観を考えるうえでとてもいいTV番組が有った。
随分古いがこんなモノ。
これはDVDにとって有ったので、今回見直してみた。

NHK シリーズ「人の謎に迫る⑦」 「死と向き合う心} 2009年4月25日
http://www.nhk.or.jp/zero/contents/dsp255.html

この番組は古いので上掲リンク先からNHKオンデマンドへ行けば手に入ると思いますが有料。
概要はこんな風です。

地球で生命が誕生したのは約38億年前、しかしその生命は環境が悪くなったり、他のモノに食べられたりしない限り死と言うモノは無かった。
約15億年前、有性生殖が始まった時、死と言うモノも始まった。
つまりオスとメス、男と女が出来たので死も出来た。こんな話です。
プレゼンター : 田沼靖一東京理科大学薬学部教授

田沼さんはここで一番のキーワードとして「人とは心を引き継ぐ存在である」と言っています。

人は死ぬけれど、その心は「その人から次の人・世代へ、そして更に次の人・世代へと引き継がれてゆく」。

そしてそんな死生観を兼好法師の徒然草に「死は生きて行く先に有るのではなく、背後から迫ってきている」と書いてあると言っています。
2015-3-25徒然草


調べてみるとこの言葉は徒然草の155段に有りました。
「死期(しご)は序(ついで)を待たず。死は、前よりしも来(きた)らず、かねて後(うしろ)に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来(きた)る。」
{口語訳}
死期(臨終の時)は、順序を待たない。死は必ず前方からやってくるものとは限らず、 いつの間にか、人の背後に迫っている。人は誰しも皆、死があることを知っているものの、しかも死が急にやってくると思って待っていないうちに、死は不意にやってくる。


全く昔の人は良い事を言っているモノです。
こんな事を頭の片隅に置いといて、日々を過ごしていればイザというとき後悔することは無い。
そんな事なのでしょう。
そんな昔の人の心得は、例えば「一期一会」などと言う言葉になったり、こんなさりげなく置かれた蹲(つくばい)にこんな文字を書いてみたりする。

京都竜安寺にさりげなく置かれた蹲
2015-3-27足るを知る竜安寺蹲写真


この蹲にはこんなモノが書いてある
2015-3-27足るを知るイラスト


我唯足知 (我 ただ 足るを 知る)、有名な言葉だが、こんな所にっさりげなく。

日本人は日々こんなモノに接し、日本人の死生観を作り上げてきた。
多分それの真骨頂がこれだろう。
「一期一会」

この一期一会はwikiによれば、「一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来する日本のことわざ・四字熟語。茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する」。
こんな事のようだが、まあ色んな解釈が有るだろう。

では最後にこれをどうぞ



  1. 社会一般
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コメント

こんばんは。

おばさまの報に接し申し上げる言葉がありません。
うちの父は30年前に同病で倒れてから半日も持たずに逝ってしまいました。多少たりとも看病して腹をくくる暇などなく、学生だったこともあり、言われるがままベルトコンベアーに乗った状態でことが進みました。今はなんとか元気な老母に対しては、毎日少しずつ腹をくくりつつある毎日ですが、いざその時が来たらどうなりますやら。
吉田兼好の段は「分かっちゃいるけど自分に降りかかることではない」と根拠なき安心感を持ちつつ、ついつい今日できることを明日に延ばしてしまう凡人の性。病に倒れて健康のありがたさを感じることに相通ずるものがあります。
  1. 2015-03-30 04:31
  2. URL
  3. koguma #-
  4. 編集

To:koguma さん

> こんばんは。
>
> おばさまの報に接し申し上げる言葉がありません。
> うちの父は30年前に同病で倒れてから半日も持たずに逝ってしまいました。多少たりとも看病して腹をくくる暇などなく、学生だったこともあり、言われるがままベルトコンベアーに乗った状態でことが進みました。今はなんとか元気な老母に対しては、毎日少しずつ腹をくくりつつある毎日ですが、いざその時が来たらどうなりますやら。
> 吉田兼好の段は「分かっちゃいるけど自分に降りかかることではない」と根拠なき安心感を持ちつつ、ついつい今日できることを明日に延ばしてしまう凡人の性。病に倒れて健康のありがたさを感じることに相通ずるものがあります。


人間いつかは死ぬのですが、いざその時が来るまではあまり意識しないですね。
実は私はかなり葬式慣れ(笑)しています。地域の仲間の家族などで葬式が有ると仲間が手伝う習慣のある地域に住んでいるので、色々お手伝いしているためです。
しかしそれでも実際自分の親などが死ぬとオタオタしてしまいます。
矢張り普段からそんな事を考えていくべきなんですね。
  1. 2015-03-30 09:37
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  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

竜安寺

ご愁傷さまです。
死は目の前にあるのではなく、背後から忍び寄るのですね。
恐ろしいです。

竜安寺は昨年行って、写真をとってきました。写真の石樽はレプリカで本物は国宝として他所で保管してあるそうですが、本物でもレプリカでも感じるものは同じです。
若者は、「我ただ足るを知る」を上昇志向の欠如とみて当然と思いますが、老いとともにその言葉の意味に思い当たります。日本仏教の真髄ともいえるココロに刻みたい言葉ですね。

ところで、石庭の石の配置の意味がわたしにはわかりませんでしたし、説明もできません。どこからみても石の数が同じという説明はわかりますが、もし、何を意味しているのかが文献等あればご教示ください。
  1. 2015-03-30 13:29
  2. URL
  3. NNJA300 #/xzFVZWc
  4. 編集

Re: 竜安寺

> ご愁傷さまです。
> 死は目の前にあるのではなく、背後から忍び寄るのですね。
> 恐ろしいです。
>
> 竜安寺は昨年行って、写真をとってきました。写真の石樽はレプリカで本物は国宝として他所で保管してあるそうですが、本物でもレプリカでも感じるものは同じです。
> 若者は、「我ただ足るを知る」を上昇志向の欠如とみて当然と思いますが、老いとともにその言葉の意味に思い当たります。日本仏教の真髄ともいえるココロに刻みたい言葉ですね。
>
> ところで、石庭の石の配置の意味がわたしにはわかりませんでしたし、説明もできません。どこからみても石の数が同じという説明はわかりますが、もし、何を意味しているのかが文献等あればご教示ください。


竜安寺の石庭は確かに見ているだけで心が洗われます。
でも石庭の医師の意味は私にも分からない、観光案内で言われている事位しか知らないですね。
全部で15ある石なのだが、どこから見ても最大14までしか見えない、そんな配置になっている。
15は完全を意味するが14は不完全で世の中はすべてそんなモノ。
こんな観光案内程度しか知らないです。

石庭に対面して、その人の心の目で見えるモノが石庭の意味、私は自分の不完全さを棚に上げて、そんな風でいいのではないかと勝手に思っています。
ご質問の答えにはなりませんが、未だ道半ばの私にはこの程度しか言えません。ご了承を。
  1. 2015-03-30 21:21
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  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

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