2015-01-11 11:54

寝正月

 いつの間にかもう11日、正月早々風邪をひきましてとうとう寝正月で過ぎてしまいました。
その間法事をやらねばならなかったので無理をしたせいなのか、やっと今日マトモになった次第。

大いに遅ればせながら・・・
明けました、おめでとうございま~す・・・


所で正月早々興味深い報道が有った。
シベリア抑留について新たな資料が約700冊見つかったのだと言う

http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20150104-118-OYTPT50045

http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20150104-118-OYTPT50022

シベリア抑留新資料 旧ソ連700冊 不明者情報多数 日本政府4月から調査
2015年1月4日3時0分 読売新聞



 【モスクワ=緒方賢一】第2次世界大戦後、数多くの日本兵や民間人らが旧ソ連全土で強制労働に従事させられた「シベリア抑留」を巡り、旧ソ連政府が作成していた抑留者についての資料が、モスクワのロシア連邦国立公文書館に保管されていることが分かった。日本政府は今年4月から調査に乗り出す。

 政府の事前調査の結果、新資料には抑留中に死亡した人や、いまだに消息が不明となっている人々の情報も多数見つかった。収容所での日常や抑留者の回想なども含まれており、戦後70年の節目の年に、シベリア抑留を巡る歴史の闇に、光が差し込みそうだ。
・・・以下略、詳細は上記リンク先参照ください。

<引用終り>

 シベリア抑留と言っても聞いた事も無い人も多いかもしれない。
日本の敗戦直前に突如参戦してきたソ連によって捕虜となった軍人・民間人(しかも女性まで)約57万5千人を強制労働させたものである。過酷な環境で食べるモノも満足に与えられず、死者は約5万5千人、未だに1万6千人の身元が判明していない。こんな問題である。

2015-1-4シベリア抑留をめぐる経緯

日本人のロシアに対する不信感の原点であり、未だにキチンとした処理のされていない問題で、これが解決に向かう事はとてもいい事だ。

そしてこの問題のロシア側資料が調査されていくうちもっと期待している事がある。
それは此れが分かってくることで「ヤルタの密約」が明るみに出てくることだ。
第二次大戦末期の1945年2月、クリミア半島の保養地ヤルタで行われたヤルタ会談。
アメリカのフランクリン・ルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンの三者会談でドイツと日本の戦後処理を決めた会談である。
ヤルタ会談は以下参照ください
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87

このヤルタ会談が戦後の世界秩序を決めたものなのだが、その最初からこの会談での合意そのものが問題視されていた。おまけにルーズベルトが会談に連れて行った随員にはアルジャー・ヒスの様にその後ソ連のスパイであることがハッキリした人物のいたくらい。要するにスターリンの想いのままの内容と言って良いと思われるのだ。

しかも一番の当事者のルーズベルトは会談直後の4月に急死してしまった。

これが20世紀の不幸のはじまりであった。

なおこの件は上掲wikiではこんな事を書いている。
<「なお、1956年に共和党アイゼンハワー政権は「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出している。また、アメリカ合衆国上院は、1951年のサンフランシスコ講和条約批准を承認する際、決議において「この承認は合衆国としてヤルタ協定に含まれているソ連に有利な規定の承認を意味しない」との宣言を行っている[8]。」>

さてシベリア抑留は非常に悲惨な話だが、その中には美しい大輪の花を咲かせた話もある。
シルクロードの年で有名なウズベキスタンのタシュケント市、ここに国立ナヴォイ劇場という美しい建物が有る。

ナヴォイ劇場
2015-1-11ナヴォイ劇場タシュケント

これが日本人抑留者が完成させたものであり、しかも20年後の大地震に際しても市内の三分の二の建物が倒壊してもビクともせず、ウズベキスタンと日本のつながりの象徴になっている。

このナヴォイ劇場完成秘話は小名木善行さんの以下ブログに詳しい
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-797.html

またナヴォイ劇場については以下参照ください
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E5%8A%87%E5%A0%B4

上掲wikiにこんな記述がある。
「1966年4月26日のタシュケント地震では、78,000棟の建物が倒壊したにもかかわらず、ナヴォイ劇場は無傷であり、[5]市民達の避難場所としても機能した。」

こんな所を見ると、たとえ途中から引き継いだものであってもしっかり手を入れて完璧なものにしている事は確かだと思う。
こんな良い話もシベリア抑留の件が明らかになるうち、もっと一般に知られて良い事ではないだろうか。

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コメント

私も母から聞いた話だけなのですが。
祖父がシベリア帰りでして、戦争中や抑留中のことは
一切話さなかったそうなんですけど、唯一
ロシア人に牛革のベルトを取られて悔しいと言ってたらしいです。

もう10年以上前に他界したのですが、今を思えば
いろいろ聞いておけば良かったかな……とも思ったりもします。
  1. 2015-01-11 14:19
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  3. ハロン棒 #-
  4. 編集

To:ハロン棒 さん

> 私も母から聞いた話だけなのですが。
> 祖父がシベリア帰りでして、戦争中や抑留中のことは
> 一切話さなかったそうなんですけど、唯一
> ロシア人に牛革のベルトを取られて悔しいと言ってたらしいです。
>
> もう10年以上前に他界したのですが、今を思えば
> いろいろ聞いておけば良かったかな……とも思ったりもします。


そうですか、御祖父様も苦労されたんですね。
私の経験で言いますと、海外に出て苦労したけれど「苦も有り楽も有り」の人は色々語ります。
でも苦しい事ばっかりで毎日砂をかむ思いばかり、こんな人は大体何も語りません。
御祖父様も人に言えない苦労の数々をされたので何も語らなかったのでしょう。
しかし事実を明らかにする、これは今に生きる世代に課せられた課題ですね。
  1. 2015-01-12 07:49
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  3. 短足おじさん二世 #-
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戦後70年

私の叔父も学徒出陣で北支の守備隊にいたとき、ソ連軍の侵攻でシベリア抑留となりました。幸い連れて行かれた収容所は、劣悪に語られている部類よりは恵まれていたそうですが、それでも相当な苦労をしたようです。
引き揚げて大学に復学したものの、病気を含めて8年遅れで京大を卒業しました。

余談ながら台湾の李登輝元総統が母校である京大への訪問を希望した際、大学が「彼は卒業生ではなく中退だ」という理由で拒否したとき、「俺たちは望んで大学を去ったのではない!」と珍しく声を荒げていました。

ヤルタ協定については気になって買い込んだまま読み切らずにいる「消えたヤルタ密約緊急電」(新潮社)があります。
そこに名の出る杉原千畝は、戦後叔父が関係した会社(川上貿易--ソ連圏との交易会社)の嘱託顧問(?)として同じ空気を吸っていたようです。
一昨年、叔父は92歳で亡くなりましたが、聞いておくべき話が色々あった筈ですが、まさに戦後は70年を過ぎました。
  1. 2015-01-12 10:18
  2. URL
  3. 相模 #-
  4. 編集

Re: 戦後70年

> 私の叔父も学徒出陣で北支の守備隊にいたとき、ソ連軍の侵攻でシベリア抑留となりました。幸い連れて行かれた収容所は、劣悪に語られている部類よりは恵まれていたそうですが、それでも相当な苦労をしたようです。
> 引き揚げて大学に復学したものの、病気を含めて8年遅れで京大を卒業しました。
>
> 余談ながら台湾の李登輝元総統が母校である京大への訪問を希望した際、大学が「彼は卒業生ではなく中退だ」という理由で拒否したとき、「俺たちは望んで大学を去ったのではない!」と珍しく声を荒げていました。
>
> ヤルタ協定については気になって買い込んだまま読み切らずにいる「消えたヤルタ密約緊急電」(新潮社)があります。
> そこに名の出る杉原千畝は、戦後叔父が関係した会社(川上貿易--ソ連圏との交易会社)の嘱託顧問(?)として同じ空気を吸っていたようです。
> 一昨年、叔父は92歳で亡くなりましたが、聞いておくべき話が色々あった筈ですが、まさに戦後は70年を過ぎました。



叔父様も苦労されたんですね。
今考えてみると小野寺信氏の情報は実に貴重だった、しかし残念ながら日本には制反対を煽る勢力が跋扈していた。
代表的なのが朝日新聞です。
朝日新聞などはあの戦況になっても未だ不敗神話を垂れ流していた。
それとソ連・コミンテルンの息のかかった連中が政権・マスゴミの中に当時もいたようです。
だからソ連の脅威などと言う話は全て握りつぶされた。

この流れは戦後もずっと続きます。
そしてそれがはっきり表れた事件が東芝機械の工作機械密輸事件。
未だに真相は闇ですね。
しかしこの事件の影響は激烈でして、私が海外進出の為機械類の輸出をしようとした時、一番手古摺ったのがこの問題でした。
その頃は既にソ連は崩壊し、東芝機械事件は10年位前の話、当然普通の人は忘れています。
しかし輸出申請の面倒な事、すべてはこの事件の影響でした。
そして未だに尾を引いていますね。
  1. 2015-01-12 11:37
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  3. 短足おじさん二世 #-
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聞けなかったこと。

こんばんわ。

お風邪を召されたとのこと、お大事にして下さい。
このところバカになったせいか、熱が出るような風邪はひかずに済んでます。少しでも調子が悪いと直ぐに風邪薬、薬中ですねw。

20年程前に他界した大叔父がシベリアに抑留されていたと聞いています。
タバコを吸わないので、配給のタバコを警備の兵士に頼んで角砂糖に交換してもらい、難を逃れたとのこと。
病院船で帰国したので、ラジオで読み上げられる帰還者の名簿にも載らず、突然に帰宅した驚かされたとか。中国語(満州語)とロシア語ができたので、通訳として重宝がられて、特別に乗せてもらえたとのこと。
逸話として聞いたのは、残念ながらその程度しかありません。

今から考えると、岐阜の師団だと中国大陸、末期は南方のサイパンになるはずなのですが、何故一人だけ満州へ赴任したのか、召集の段階から少し奇妙なのです。
商業学校を出てすぐの若い頃に、満州の商社に入り哈爾浜とウラジオストックを行き来していたそうで、言葉もその頃に覚えたらしく、その辺りで何か特殊な任務でもあったのかと、今となっては知る人も無く聞くに聞けません。
興味を持つのが遅かったと悔やまれるところです。

国立ナヴォイ劇場、素晴らしい建物ですね。
石造りは日本人には馴染みが薄い、やはり工兵が中心になって作業を進めたのでしょうか。
  1. 2015-01-13 02:26
  2. URL
  3. fcq821 #/lkjinTE
  4. 編集

Re: 聞けなかったこと。

> こんばんわ。
>
> お風邪を召されたとのこと、お大事にして下さい。
> このところバカになったせいか、熱が出るような風邪はひかずに済んでます。少しでも調子が悪いと直ぐに風邪薬、薬中ですねw。
>
> 20年程前に他界した大叔父がシベリアに抑留されていたと聞いています。
> タバコを吸わないので、配給のタバコを警備の兵士に頼んで角砂糖に交換してもらい、難を逃れたとのこと。
> 病院船で帰国したので、ラジオで読み上げられる帰還者の名簿にも載らず、突然に帰宅した驚かされたとか。中国語(満州語)とロシア語ができたので、通訳として重宝がられて、特別に乗せてもらえたとのこと。
> 逸話として聞いたのは、残念ながらその程度しかありません。
>
> 今から考えると、岐阜の師団だと中国大陸、末期は南方のサイパンになるはずなのですが、何故一人だけ満州へ赴任したのか、召集の段階から少し奇妙なのです。
> 商業学校を出てすぐの若い頃に、満州の商社に入り哈爾浜とウラジオストックを行き来していたそうで、言葉もその頃に覚えたらしく、その辺りで何か特殊な任務でもあったのかと、今となっては知る人も無く聞くに聞けません。
> 興味を持つのが遅かったと悔やまれるところです。
>
> 国立ナヴォイ劇場、素晴らしい建物ですね。
> 石造りは日本人には馴染みが薄い、やはり工兵が中心になって作業を進めたのでしょうか。


シベリアから帰った人は殆ど話していないようですね。
それだけ悲惨だったんでしょう。

所でナヴォイ劇場ですが実に素晴らしい建物です。
こんなモノは戦争を超えた友好のあかしとして世界遺産にでも申請しても良いのではないでしょうか。
とこれは私の正月早々の初夢です。
  1. 2015-01-13 15:25
  2. URL
  3. 短足おじさん二世 #-
  4. 編集

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