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2019-06-29 11:40

クルマ談義


 先日クルマを車検に出した。クルマは車歴17年のアルテッツア。もうこんな名前のクルマが無くなって久しいが、この車は普段あまり使わないので、まあ今は問題ないこともあり、まだ当分使うつもり。

担当のメカニックには「ベルトが少し音が出るので点検してほしい」と頼んだりしたので、そんな関連で一寸車談義を。
これは私には時代の変化を感じさせる話なのだが・・・。

メカニック氏曰く。
最近は車の電動化でベルト類などの消耗品がみんな無くなってしまった。所がそうなってみると、車として壊れる所が無くなったので、我々整備屋の仕事が大幅に減ってしまった。
今は車の点検整備は、線をつないでコンピュータの画面で見る事ばかり。昔とは違いますね。
こんな話だった。
タイミングベルトのチェーンへの切り替えはと聞くと、もう全部チェーンに変わりました。だからコッグドベルト時代は10万キロで交換しましたが、サイレントチェーンでほぼ交換不要。良いモノが出来ましたが、私らの仕事は無くなりましたね。
こんな話だった。

この後は最近のクルマは燃費が無茶苦茶良くなったよねえ。おかげでガソリンスタンドがどんどん廃業して、隣のガソリンスタンドもコンビニになってしまった。時代だねえ・・・。

世の中は静かに、しかし着実に進化している。そんな事を実感したわけです。


オマケ
ディーラーに車を預けてから、自宅まで約5キロを徒歩で帰ったのだが、その途中で見かけたクラシックカー。小さな工場だが、こんなクラシックカーを整備しているようだ。

2019-6-29クラシックカー

いいクルマですねえ。趣味としてみるには素晴らしい。
こんな楽しい車は今は無くなりました。今のクルマは故障しないし、ガソリンは食わないし、走れば快適ですが、面白みがない。
こんな車はそれこそ走らせるのも簡単じゃない。天気のいい日に田舎道をトコトコ走るだけでしょう。でも楽しそう。


所で、そのクラシックカーのあった工場の隣に貸工場が二棟出来ていた。

2019-6-29貸工場


貸工場ですか。こんなものがどんどん出来てきて、若い人がどんどん仕事を始められる。いい傾向です。昔バブルの時代はこんな貸工場が雨後のタケノコの如く出来ていたものです。仕事はいくらでもある。若い人がやる気さえあれば、いくらでも起業できた。

やっと最近になって、失われた20年を取り戻す動きが出てきた、そんな傾向の一端かもしれません。

  1. 自動車
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2019-06-23 09:23

平成は左傾化の時代から始まった


 産経新聞の名物記者、阿比留瑠偉さんがご自身のFBに面白いことを書いている。(6/19付)
平成の30年を振り返ると、最初の10年は猛烈な左傾化の時代だったが、そんな事が良く分かる時代だと思う。
丁度いい事例なので記録のためアップします。
尚、阿比留瑠偉さんは昭和41年(1966年)生まれ、丁度社会人として仕事を始めた時期が平成と重なります。

<以下引用>

https://www.facebook.com/rui.abiru/posts/2499030780141558
Rui Abiru
June 19 at 11:45 PM · 
以前も似たようなことを書いたことがありますが、私が新人記者だった30年近く前には、マスコミの主流・本流の左派や和式リベラルの人たちと違うことを書くと、地元紙の先輩記者らに「だからお前はバカなんだ」などと面罵されたものでした。東北の地方都市を歩くと、電信柱に革マルあたりが「ブルジョア産経新聞」とか、冗談にもならないビラを貼り付けていることもありました。

 朝日新聞が主催する夏の甲子園大会の地区予選に取材に行き、国旗掲揚・国歌斉唱時に立つと、他紙の同期記者から指を指されて笑われもしました。当然、お前の言動のほうがおかしいと思うわけですが、言っても虚しい時代でした。居酒屋で一人で飲んでいて、大将と北朝鮮はとんでもない国だと話していると、「北朝鮮はそんな国ではない!」と知らない客に怒鳴られたこともあります・

 政治部に配属された約20年前にも、ある政党のパーティーで国家斉唱時に歌うと、民放テレビ局の女性記者に「勇気がありますね」と感心(?)されたのでした。ホント、苦々しくもアホらしい思いを抱えての記者生活でした。

 実際、左派・和式リベラルの連中は同業他社でも政治家でも、常に上から目線で、自分たちは良心的で正しいけど、それ意外の意見は反動的で愚かで野蛮だという意識を隠そうともしませんでした。実は何の根拠もないのに。人をバカにするだけの何が彼らにあったのでしょうか。

 今でも、彼らはこの業界や一部界隈では強い勢力を持っています。しかし、以前とは全く違いますね。実害があるので無視はなかなかできませんが、実態としてはぐだくだに弱っています。自業自得ですね。やりたい放題にデタラメを続けてきたツケが回ってきたということでしょう。

<引用終り>


この阿比留瑠偉さんの体験談は非常に重要だと思います。こんな事がまかり通って日本を暗くし、最後にはあの「悪夢の民主党政権」へと繋がり、その後遺症は今もなお日本中に蔓延っています。

この問題の淵源をたどれば、GHQの占領政策に有るのは間違いありませんが、それだけではこんな左傾化の原因は分かりません。ここに焼け木杭(ヤケボックイ)に火をつけるどころか、火の気もない所に火をつけまくった連中(朝日新聞など)がいるのですが、この件はいずれまた別の機会に。
  1. マスコミ
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2019-06-21 19:25

矢ノ川(やのこ)峠から新幹線へ


 前回6月17日のエントリー「矢ノ川(やのこ)峠の思い出」でちょっと気になることを見つけたので調べてみた。

最初に美しい現在の矢ノ川峠の風景・尾鷲湾方面(これは矢ノ川小僧さんのブログより拝借)

2019-6-20矢ノ川峠から尾鷲湾方面
http://yanoko.blog85.fc2.com/blog-entry-98.html

これは前回も紹介した雪の矢ノ川峠を通るバス2台

2019-6-17雪の矢ノ川峠とバス

こんな山道を昭和10年代~30年代前半までの非力なバスで通る。鉄道の保線と同じで道路も保全しなければ安全な運航は不可能だったでしょう。保全マンの苦労がしのばれる写真である。

尚参考までに、現在のパワフルな自動車が当たり前の方には分からないので補足。当時は勿論オートマなど有りません。ミッションは勿論マニュアルですが、ノンシンクロ(シンクロメッシュ:嚙合わせる歯車同士の周速を合わせる装置、これが付いていない)なのでダブルクラッチを踏まないとギヤシフトもできません。そしてこんな急坂はローギヤに入れっぱなしで、エンジンをわんわん言わせながら登ります。下りもローギヤのまんまで、エンジンブレーキをフルに使って下ります。
(当時のクルマは現代では想像もできないくらいブレーキが非力でした)

元に戻ります。
何が気になるかというと、この矢ノ川峠越えのバス路線(国鉄バス)が昭和34年に廃止されたのだが、その廃止に当たって、営業所の閉所式に当時の十河国鉄総裁が出席している。
(昭和34年7月14日)
2019-6-20国鉄バスの閉所式に出席する十河総裁
http://yanoko.blog85.fc2.com/blog-entry-140.html
前列中央の蝶ネクタイの人が十河総裁 (椅子に座っている人が9人いますが、その真ん中です)

その十河総裁が同じ年に新幹線の起工式を行っている。
新幹線起工式で鍬入れする十河総裁 昭和34年(1959年)4月20日 新丹那トンネル東口にて
2019-6-20新幹線起工式で鍬入れする十河総裁昭和34年4月20日
https://41-31.at.webry.info/200802/article_1.html


十河総裁は新幹線生みの親。それだけこの路線が重要だということだが、昭和34年?、この年は忘れもしない伊勢湾台風の襲撃を受けた年だが、東海道新幹線が起工式を行った年でもある。そんな忙しい中で国鉄総裁が出席する。よくよくの事情があったはずだ。
この矢ノ川峠越えのバス路線廃止は、国鉄(現JR)紀勢線が全通したためだが、恐らく十河総裁は紀勢線全通の開通式出席と峠越えバス路線の閉所式、両方に出席されたのだろう。

尚十河総裁と言っても若い人には分からないが、当時大事故が相次いだ国鉄を立て直すため、昭和30年(1955年)に71歳という高齢で国鉄総裁に就任した人である。
だから上掲新幹線起工式とか矢ノ川峠越えバス路線閉所式当時は74歳か75歳。今なら後期高齢者などとトンデモナイ言われ方をする年齢だ。

十河総裁がこの閉所式で何を話したかは分からないが、最初に昭和11年の開業以来23年間、無事故を通したという大記録に感謝し、悲願だった紀勢線が全通し、陸の孤島状態だったところに鉄道が出来た、この東紀州も新しい時代に入る。更に当時の国鉄は新幹線という世界のどこにもない、時速200キロ以上の高速鉄道を建設を始めた。つい3か月前にその起工式をやったばかり。これから新しい時代が始まる。皆さんもこれから新しい所で頑張ってください。多分こんな事なのだと推測します。

矢張り、人間たるもの夢を持たなければいけません。
十河信二はこの時、今でも後期高齢者といわれる年代だったと思うのですが、夢を語っている筈です。その夢が日本から世界に羽ばたいていく。素晴らしいことです。

そして矢ノ川峠で悪戦苦闘してきたバスの関係者の方も、その後の新天地に希望を持って行った事でしょう。


今度はバス路線廃止理由となったその紀勢線全通の話です。
JRでは紀勢線全通60周年を記念し、こんなイベントをやると言っています。

2019-6-20紀勢本線全通60周年
https://shupo.jr-central.co.jp/kisei_60th/

この尾鷲-熊野間34.2㎞は工事の難度が極めて高く、殆どがトンネルと橋梁。そしてそれまではバスで標高807mの矢ノ川峠越えの国道42号線で2時間40分巡航船なら5時間かかっていたものが38分~1時間ということになりました。
それだけ価値のある鉄道だったということでしょう。
JRではこれを記念して、7月13日~15日、特急「紀勢本線全通60周年号」を運転する計画。いろんなイベントやお土産まであるようです。
以下参照ください
https://trafficnews.jp/post/87022


話しがあちこちに飛びました。

私が何故新幹線との関連を書くかというと、こんな小冊子を持っているためです。

昭和33年9月20日発行の「特急物語 東海道線の今昔」交通新聞編集局編と言う小冊子。

この件は以下エントリー参照ください
「新幹線の生い立ち 2014-10-24 15:10」
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1023.html

さてその小冊子の内容です。
東海道線が能力いっぱいなので、新しく高速鉄道を作るということが書いてあります。
2014-10-24特急物語-02


昭和33年当時、すでに新幹線という名前が決まっていたんですね。
2014-10-24特急物語-03

この当時は現在の標準軌(1435㎜)は広軌と言っていました。

昭和33年の答申内容が載っています。
2014-10-24特急物語-04

2014-10-24特急物語-05

敗戦から13年。其処から立ち上がった先人の苦労、本当に素晴らしいです。

こんなものができるということは、当時の国鉄総裁十河信二が執念で新高速鉄道を作ろうとした証拠です。十河総裁が就任した当時、経済性の問題から当時の技師長は反対でした。その為技師長を交代させ、新たに島秀雄を技師長にしてこの計画を推進したのです。


こんな事で世界で初めての、時速200キロを超える高速鉄道が完成した。

2014-10-24新幹線21
東京駅で1964年10月1日に行われた東海道新幹線の出発式


東京駅新幹線ホーム(18・19番線)の端に十河信二の記念碑が有ります。
鉄道建設記念碑  一花開天下春(十河信二の座右の銘)

2019-6-20十河総裁鉄道建設記念碑 一花開天下春東京駅1819番ホーム

そして新幹線開通50周年がこのように祝われました。

2014-10-24新幹線11
東海道新幹線開業50周年出発式で、出発合図とともに発車する「のぞみ1号」 2014年10月1日
(1日午前6時、JR東京駅で)


最後にこんな記事
信念で新幹線建設を推し進めた十河信二 2016.12.05 文春写真館
https://books.bunshun.jp/articles/-/2585

この記事の最後はこんな言葉で締めくくられている
『 昭和五十六年十月没。遺骨とともに遺影が新幹線で故郷に戻る時、車窓の外に向けられ、各駅で駅員ら国鉄マンはこれを敬礼で迎えた。』

以上で矢ノ川峠から新幹線の話、一見何の関係も無さそうな話はこれで終わりとします。
矢ノ川峠で見た夢が新幹線になり、それが今に繋がる。素晴らしい話だと思います。

  1. 鉄道
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2019-06-17 17:33

矢ノ川(やのこ)峠の思い出


 この所重い話題が続いたので、今日は思いで話でも。

私は峠道を走るのが好きである。峠を越えた途端、ぱっと広がる景色とそこを苦労して歩いた人の思いが感じられるわけで、そんな中でも特に思い出深い峠として、「矢ノ川峠(やのこ・とうげ」」がある。と言っても実は今までたった一度しか行った事が無い。そして多分二度と行けないであろう、そんな峠の思いで話を書いてみたい。

紀伊半島を走っている国道42号線、この道の三重県尾鷲市から熊野市へ抜ける所。現在は矢ノ川トンネルという長大トンネルで簡単に抜けられるが、今から50年ほど前までは海抜807メートルの矢ノ川峠を越える大変な悪路だった。

丁度50年前のこと。「尾鷲・熊野間の矢ノ川峠に新トンネル開通。悲願の陸の孤島解消へ」、こんな報道を目にした。この国道42号線の新トンネル、開通は今回改めて確認してみたが昭和44年(1969年)4月6日だった。

私がぜひ新道開通前に行って見ようと思い、3月末にその矢ノ川峠に行って見た。

最初のどんなところか。当時の地図で見てみると。

アルプス出版社 道路地図 昭和44年3月1日刊
2019-6-15昭和44年の道路地図2

この地図は珍しい地図で、昭和44年4月には矢ノ川峠の新道開通で旧道は廃道(市林道)なのだが、両方書いてある。尚矢ノ川峠部分は見にくいので下に拡大図を載せました。
もう一つ、現在の地図帳には有りえない表示だが、道路が舗装路・砂利道・通行困難と分けて表示してある(一番下の部分)。


これが矢ノ川峠周辺の拡大図

2019-6-16尾鷲熊野周辺地図S44年拡大図最終版


さて矢ノ川峠です
これが、現在の国道42号線と旧道との分岐点。尾鷲側です。

2019-6-16矢ノ川峠旧道入口
(グーグルアース、ストリートビューより)

この右側に見える細い道が旧国道42号線です。この道を昔はバスもトラックも走っていたんですね。今では小型の四駆車なら辛うじて峠までは行けるらしいですが、通り抜けはできません。

正面に高い山が屏風のように立ちはだかっていますが、矢ノ川峠は正面の山のさらに向こうに有ります。峠の標高は807m(地図では808mになっている)。
この辺りで標高は257m。ここから矢ノ川峠まで、直線距離なら1.5キロほどですが、それで標高差550mを上ってゆきます。

此処からは古い写真。実はこの時は私は写真を撮っていなかったので、尾鷲市在住の矢ノ川小僧さんと言う方が書いている「哀愁の矢ノ川峠」と言うブログから拝借します。(借用了承済み)
哀愁の矢ノ川峠
http://yanoko.blog85.fc2.com/

最初はこの写真。尾鷲側から矢ノ川峠を目指して上る中間地点辺り(?)。写真の右上、丁度山の鞍部が見えますが、ここが矢ノ川峠。正面の山の絶壁の上部に左から右上に向かって細い線が見えます。これが矢ノ川峠に向かう当時の国道42号線。
この写真にはバスが写っていますが、昭和34年7月14日でこのバス路線は廃止(国鉄紀勢線全通により)となりましたので、それ以前のものです。
この写真が私の記憶にある矢ノ川峠の印象に近いものの一枚。

2019-6-16矢ノ川峠への道


雪の矢ノ川峠、バスを通すため雪道に滑り止めの石炭ガラを撒いています。
(この写真は大林正巳さんのアルバムから矢ノ川小僧さんが借りたもののまた借り)
2019-6-17雪の矢ノ川峠とバス

私がここを通った昭和44年3月末でも山の北側斜面を通るときには(日陰で雪が解けない為)、路肩に相当雪が残っていました。所々路面全体に雪が残り、走ると車が横にザザッと滑ります。所によっては右の崖側ぎりぎりまで滑って、大いに肝を冷やしました。(スタッドレスタイヤはおろかスノータイヤも無かった時代です)
この写真を見て、そうだったなあ、こんな凄い道だったなあ。そんな記憶が蘇りました。

尚この写真で良く分かりますが、この道路は対向車が来たらすれ違い不可能です。従って対向車が遠くに見えたら、手近な待避所で対向車がやって来るのを待たねばいけません。この写真の石炭ガラを置いてあるところもそんな待避所だったのではないでしょうか。

もし今こんな道が有ったら・・・。マナーの悪い連中が無理やり突っ込んできて、あちこちで喧嘩だらけかもしれません(笑)。

尚バスの話が出たので、これは矢ノ川小僧さんのブログに有るのだが、このバス路線が昭和34年に廃止となるのだが、その閉所式には当時の国鉄十河総裁が出席されています。こんな峠道がいかに重要だったかが良く分かります。
以下参照ください
http://yanoko.blog85.fc2.com/blog-entry-140.html


話を元に戻します。
そしてこれが頂上の峠の茶屋
2019-6-16矢ノ川峠の茶屋S33年10月

実は私がここを通った時、この茶屋があったかどうか定かでない。峠の茶屋は国鉄バスが廃止になって一旦閉店。その後も時々営業していたようだが詳細は不明。私のおぼろげな記憶では何かあったような気がするが、何せ半世紀前です。


そして矢ノ川峠からの絶景
この写真だけ、「奈津子のパトロール」さんより拝借
2019-6-14矢の川峠写真by奈津子さん

私が見た50年前の景色は、多分この写真が一番近いと思います。
唯々息をのむ景色です。
参考までに、正面に見える海は賀田湾。この賀田湾まで直線距離なら6キロほど。そこに標高差800mです。この山がいかに険しいかが分かります。



所で、ではこんな所は今どうなっているか。大きな変貌を遂げています。
これは現在の尾鷲-熊野間の道路事情

紀勢自動車道・熊野尾鷲道路の全線開通から1年
「命・絆・元気の道」そして東紀州を一つに
平成27年3月 東紀州地域高速道路整備効果検討会資料より

2019-6-16熊野尾鷲道路周辺
http://www.cbr.mlit.go.jp/kisei/news/assets/pdf/topics/150225_2.pdf

尾鷲・熊野方面は劇的に便利になりました。特に尾鷲熊野間の国道42号線は雨に弱く、連続雨量300ミリで通行止めになります。上掲資料でも「平成26年度にも延べ8回、84時間の通行止が発生」と書いてありますが、今年に入ってからも5月にも通行止めが発生しています。
そしてこの通行止めは生鮮食料品などの物流にも重大な影響が有ります。特にこの地域は漁業がメインの地域。それだけに尾鷲熊野間が通行止めになると物流にも影響が大きいです。また観光客もスケジュールが組みにくく、この方面の観光が二の足を踏む原因の一つでもあります。
しかし、この熊野尾鷲道路の開通で通行止めでも迂回路が出来、物流の停滞も無くなりました。インフラの整備が地域にどれだけの好影響を与えるか、そんないい事例になりました。

所で。尾鷲はサンマの干物が美味しいんですよねえ。目黒のサンマは脂がのって美味しい。尾鷲のサンマは脂が落ちて身がしまって美味しい。間もなくそんな季節になります。オッとこれは脱線しました・・・。食いしん坊はいかんです。


そしてその新しい道路の完成で地域が様変わりしました。
上掲資料に紀勢自動車道・熊野尾鷲道路の全線開通(平成26年)について、こんなキャッチフレーズを書いています。
~「命・絆・元気の道」そして東紀州を一つに~

中でも何故「」なのか、先ずこれについて説明します。

南海トラフの地震については、その可能性が喧伝されています。しかしでは具体的にどうしたらよいか。特に尾鷲周辺のリアス式海岸地帯は湾の奥で高い津波が予想されています。しかし逃げようにもそれでなくても交通の不便な地域。そんな所に熊野尾鷲道路のような大きな道が完成したのです。万一にも物流も救急にも車が自由に使える。この安心感は大きいと思います。

他にも色々ありますが、思いで話が横道にそれそうなのでこのくらいにします。
紀伊半島は長いこと不便な所でした。それが変わろうとしています。そんな事で古い古い話を思い出したわけです。では古い話はこれにて。

  1. 社会一般
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2019-06-14 17:34

ウナギ完全養殖への一歩<韓国への技術流出を考える


 庶民には値段が高くなりすぎて、なかなか食べられないウナギ。このウナギの完全養殖へ一歩前進と言う報道が日経にあった。
何せウナギの稚魚「シラス」の値段は1キロ当たり400万円とか500万円とか、「金(きん)」と同じくらい高価なモノになってしまった。

これは河口で集魚灯をともして浮かび上がってくる「シラス」を捕まえる「シラス漁」の様子(高知県四万十川)。これだけ見れば美しい風景ですね。

2018-1-22シラスウナギ漁
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1488.html

二ホンウナギは絶滅危惧種に指定されているし、先月スリランカで行われる予定だったワシントン条約締約国会議でも取り上げら得る予定だった。(テロ事件の影響で延期された)

こんな話だけ見れば、将来安くて美味しいウナギが食べられる。そんないい話なのだが、実はこの報道には引っかかるものが有る。
技術の海外流出が懸念されるのだ。
そんな事でこのニュースと並べて、2年ほど前「アレっと思う報道」が韓国から流れてきた。そんな事で調べてみると、日本の技術が如何にして海外に流出したか良く分かる。そんな所を書いてみたい。


最初に日経の明るい報道から。

<以下日経より引用>
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45725410V00C19A6EA1000/

ウナギ「完全養殖」へ前進 人工ふ化の稚魚生育 
2019/6/10 6:30

 国立研究開発法人の水産研究・教育機構は九州の業者と連携し、人工ふ化させたウナギの稚魚を養殖池で成魚まで育てる実験に成功した。試食会を開いて成果をアピールする計画もある。卵から成魚まで育てる完全養殖は技術的には可能になったが、商業化には生産効率を高めコストを大きく引き下げる必要がある。ウナギの生態のナゾの解明に取り組みながら、突破口を探っている。

ウナギ「完全養殖」へ 人工ふ化の稚魚生育
国立研究開発法人の水産研究・教育機構は民間業者と連携し、人工ふ化させたウナギの稚魚を養殖池で成魚まで育てる実験に成功した。
2019-6-14ウナギ1
(注:原文は動画)

九州南部、大隅半島の付け根にある鹿児島県志布志市。ウナギの養殖や加工を手がける山田水産(大分県佐伯市)の養殖場の一画で、特別なウナギが育っている。水産機構が人工的に育てた稚魚(シラスウナギ)が通常の養殖池で育つのかを調べるための実験だ。

2018年7月、山田水産は水産機構から約150匹のシラスウナギを提供された。天然モノと同じように育て、ばらつきはあるものの多くが食べられる大きさに成長した。「育ちのいいものは天然ものに引けを取らない」と、同社養鰻(ようまん)部の加藤尚武部長は満足げだ。

2019-6-14ウナギ2
ウナギ完全養殖用の特殊な水槽が並ぶ水産研究・教育機構の増養殖研究所(静岡県南伊豆町)

水産機構は2010年、研究施設の中でニホンウナギの完全養殖に成功した。日本人が食べるウナギの99%は天然のシラスウナギを育てたものだ。しかし、生息環境の悪化や過剰な漁獲によってシラスウナギの不漁が続き、価格も大幅に上昇した。完全養殖による商業生産への期待はこれまでになく高まっている。

技術開発を担う同機構増養殖研究所南伊豆庁舎(静岡県南伊豆町)では、1千リットルの大型水槽で数百~1千匹を飼育している。ただ、最新の水槽は非公開だ。ウナギ種苗量産研究センターの山野恵祐センター長は「海外に技術を盗まれる恐れがある」と説明する。

2019-6-14ウナギ3

商業生産へのハードルとなっているのは、卵からシラスウナギまで育てる間に多くが死ぬことだ。現状では「よくても1割くらい」(山野センター長)しか生き残らない。いかに多くのシラスウナギを育てられるかがカギとなる。

完全養殖のシラスウナギの問題は、天然モノに比べてエサを積極的に食べずひ弱なことだ。水質の管理などに気を使い、人手をかけて育てなければならない。

天然と人工の差はなぜ生まれるのか。「実は天然のシラスウナギの稚魚が何を食べているのかがわかっていない。生態にはまだナゾが多い」と中央水産研究所沿岸・内水面研究センターの黒木洋明副センター長は明かす。

養殖で使うエサは詳細を明かしていないが、サメの卵が主体とされる。天然ではサメの卵を食べているとは考えられない。エサの改良も、成長するシラスウナギの数を増やすカギとなる。中央水産研では毎年、黒潮に乗ってくるシラスウナギを採集して何を食べているのかなど、生態の解明に地道に取り組んでいる。

様々な技術開発と基礎研究の積み重ねで商業生産への道は徐々に開けている。海外では、韓国が日本と同様に完全養殖に成功し、実用化を目指している。欧州では、完全養殖は実現していないものの、ヨーロッパウナギの研究が進む。

効率的な生産システムが完成すれば「商業生産にめどがつく」と山野センター長はみる。持続的なウナギ生産が実現し、完全人工養殖のかば焼きが口に入る日も遠くないかもしれない。

(編集委員 滝順一)
<引用ここまで>


一寸ここで、韓国の話の前にどうしてウナギの養殖がそんなに難しいか、簡単に説明します。

これはウナギの一生
2019-6-14ウナギ4
この図の右側半分、青色の部分が海で過ごす部分だが、この部分が全く分かっていなかった。
親ウナギが海に帰る所までは分かっても、どこをどう通って産卵場所にたどり着くのか(これは未だに謎)、どこでどう産卵し、卵が孵化して最初は小さな「仔魚(しぎょ)」、それが親ウナギと同じ形になった稚魚(ちぎょ)にどうなるのか、全く分かっていなかったのです。

そんな事で、これはウナギの海洋調査に今までの歴史

2019-6-14ウナギ5

何十年も苦労して、やっと見つけた産卵場所ははるか太平洋の沖、マリアナ諸島近くだった。2005年のことでした。
我々が食べているウナギは、想像を絶する長い旅をしてきた、そんな事が分かったのがつい十数年前のことだった訳です。

産卵場所を突き止めたことで養殖研究が一気に進むのだが、そこに割り込んできたのが韓国。
2016年に韓国も完全養殖に成功したと報道されている。日本がこれだけ苦労してやっと突き止めたウナギの生まれる秘密。それが大した調査もせずにどうして養殖技術を獲得したのか。不思議ですよね。その不思議の秘密、僅かな期間で養殖技術が進んだ理由が分かる報道があった。

この報道は最初見た時、私もフーンという感じで忘れていた。しかし今回の日経報道で思い出したので調べてみた訳です。
内容は如何に日本の技術が盗まれるか、それが良く分かる。
警告の意味で2016年の韓国の報道を添付します


<以下引用>

韓国、日本に続き世界2番目ウナギ完全養殖に成功(1)
2016年06月22日10時26分 
[ 中央日報/中央日報日本語版] 
  「これでいい」。先月7日、釜山市機張郡(プサンシ・キジャングン)の国立水産科学院ウナギ養殖研究室。2008年からウナギの完全養殖の研究をしてきた研究陣10人余りは歓声を上げた。受精卵をふ化させてシラスウナギに育てた親魚から第2世代10万匹が生まれる瞬間だった。 

  これで韓国が日本に続き世界で2番目にウナギの完全養殖に成功した国になった。日本が人工ふ化から完全養殖まで36年かかった研究期間を韓国は5分の1の8年で実現した快挙でもあった。 

  完全養殖というのは受精卵からふ化させた仔魚を育てて再び受精卵を生産するようにする技術をいう。天然ウナギなしに人工ふ化したウナギだけでずっと養殖をつないでいける技術だ。 

  韓国の水産養殖専門家たちは1970年代に国内技術者が日本から苦労して半導体技術を学んできた過程を同じように体験しなければならなかった。4兆ウォンに達する世界のウナギ市場の中で70%を占める日本は、1800年代から養殖技術の開発を始めて2010年に完全養殖に成功した。苦労して成功しただけに日本のウナギ養殖技術のセキュリティーも徹底していた。 

  92~97年に東京大学で水産物繁殖技術を学んできたキム・デジュン国立水産科学院研究員(50)は「大学のウナギ研究チームに外国人は入れてくれなかった。ちょうどウナギをテーマに論文を書いていた日本人の同期を助けながら技術を習得できた」と話した。 

  キム・シングォン国立水産科学院研究員(45)はそれなりに運が良かった。済州(チェジュ)大学で養殖飼料を専攻したキム研究員は東京海洋大学で修士・博士過程を終えた後、ウナギの養殖研究を総括する日本水産総合研究センターに入ることができた。彼は「ちょうど飼料を集中的に研究する職員を選んでいた。技術を伝授してくれた教授も『韓国と台湾でも成果が出てくれば日本も善意の競争ができる』と好意的だった」と話した。 

  しかしキム・シングォン研究員が韓国に戻って2012年に受精卵からふ化させたウナギの幼魚を変態直前まで育てたという成果が相次いで発表されると、日本政府は直ちに技術流出阻止に出た。彼が勤めていた水産総合研究センターの外国人共同研究を最初から禁止させた。このためウナギの仔魚を育てる飼料は独自開発するほかはなかった。

韓国、日本に続き世界2番目ウナギ完全養殖に成功(2)
2016年06月22日10時27分 
[ 中央日報/中央日報日本語版] 
  絶え間ない試行錯誤の末に彼は、たんぱく質が豊富なサメの卵をさまざまな栄養分と混ぜて仔魚の飼料を作ることに成功した。ミョン・ジョンイン国立水産科学院養殖管理課長は「ウナギの仔魚に自然状態と類似したエサを与えることが核心」としながら「最初は原材料の購入も容易ではなかったが、数百回の失敗を繰り返した末に飼料開発に成功した」と話した。 

  養殖過程で最も難しい段階と呼ばれる変態過程も、ある日本人の助けがあって可能だった。日本政府の牽制が激しくなった2012年、国立水産科学院は日本人のウナギ養殖の大家を釜山に苦労して招いた。 

  彼は10匹余りの仔魚のうちの3匹だけを選んで「エサを与えないように」と助言した。すると3匹のうち2匹で体の組織と機能が変わる変態が起きた。韓国の研究陣は2匹の過去の成長記録を隅々まで探して変態を可能にする環境条件を探し出した。 

  完全養殖技術を世界で2番目に成功させることによって韓国はウナギの大量生産を通じて輸出の先行獲得効果まで期待できることになった。韓国は60年代に海苔、70年代にカキ、80年代にヒラメ、90年代にアワビの養殖を順に成功させて国内価格を安定させ輸出で漁業関係者の所得増大効果も出した。 

  現在国内のウナギ生産額の規模は2500億ウォン(約226億円)だが天然ウナギの確保が難しく、このうち60~90%は輸入に依存している状況だ。ユン・ハクベ海水部次官は「国際的なウナギ資源が枯渇しながら供給が減って価格が上がり続けている」として「2020年までに大量生産技術を確保して、国内だけでなく中国や日本など主な海外消費市場に進出する」と話した。 

  ◆ウナギ…ハモやアナゴとは違い、ウナギ類の中で唯一海で生まれて川にのぼって生活する回遊性魚類だ。水深300メートルの暖かい海で卵を産んで6カ月後にシラスウナギに変態して川にのぼり成長する。世界的には極東・欧州・北米・東南アジアにニホンウナギやオオウナギなど5種類が主に流通している。韓日中の3国では極東産のウナギが主に消費されている。

<引用終り>

韓国の報道は技術がいかにして流出するかをよく表しています。
これを読んでいると日本人の甘ちゃんぶりが良く分かります。
アメリカが今「知的財産権」保護に躍起になっていますが、日本ももっと本気で取り組むべきですね。
特に問題なのは『善意の日本人の存在』ですね。みんなで考えねばいけません

  1. 科学技術
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2019-06-13 15:20

フィリピンで仕事をすることの難しさ


 フィリピンについて「人件費が安いからフィリピンに行くという選択  2019-06-02 17:02」をエントリーしたのだが、皆さんからいろいろ有意義なコメントをいただいた。しかしコメントの回答が十分ではないので、改めてkazkさん、PB生-千葉さんのコメントを紹介し、これを問題提起として私なりの考えを纏めてみました。メクラが象に触るような話ですが、私なりの見方です。

最初にkazkさん、PB生-千葉さんのコメントを紹介します。

これはkazkさんのコメント

 フィリピンのことについてはよくわかりませんが、おそらく有史以来、国というものをまともに持ったことがない地域なんだろうと思います。おそらくは多くの島嶼に部族単位で居住し国家の統一、というよりフィリピンという地域での民族意識の様なものも持たなかったんじゃないでしょうか。

こういう苦労をしない民族はまともな国が持てるわけがないだあろうと思ってます。ある程度喰えてしまうと進歩というものはないのだろうと思います。4大文明なんてもう嘘であるということは明らかですが、現在まで続く文明というものは北半球の特定の地域でしか生み出しえなかったものでしょう。いやな話ですがそういう国は最初から決まってるんだと本当に思います。

研究によると江戸末期のGDPはすでにして世界の一桁は確実であったらしいといいます。

とにかく近代でのスタートからして全く違う。とにかくこの国がおかしいと思った方が正解でしょう。
世界のほかの国々が日本人と同じことをできると思う方がおかしい、そう割り切ることが必要でしょう。

民度とか宗教とかいろいろ原因はあるのでしょうが、民族としてどれだけ国づくりに苦労してきたかその蓄積の差がすべてだという気がしてなりません。
2019-06-09 01:38  kazk 



次にこれはPB生-千葉さんのコメント

フィリピン文化とはなんなのでしょう
 日本が戦争で占領した東南アジア。インドネシアでは戦後もインドネシア独立のために多くの日本兵が参加し、インドネシアの歌は戦後の日本で流行歌にもなりました。新宿のインドネシアラヤというレストランは戦後50年以上も本場の味を提供してきたのに、いつの間にか閉店。日比谷にあったタイ料理の店チェンマイが閉店したときもショックでしたが歴史ある店がなくなるのは悲しいですね。

 フィリピンには何度も行きましたが、フィリピン独自のものはなにがあるのだろうという疑問。タイ・ミャンマー・ベトナム・インドネシアなど、どの国にでもある伝統衣装や伝統工芸・伝統舞踊などがフィリピンにはない。
 もしかするとあるのかもしれませんが、あったとしてもフィリピン人が価値を認めていないことになります。料理もしかり。日本にはフィリピン人が多く暮らしますがフィリピンレストランはない。タイ料理店やインド・ネパール料理店がどこにでもあることを思うとフィリピン人が根無し草なのだと実感します。日本で働くフィリピン人が帰国する際は日清のカップヌードル(シーフード)をお土産に箱買いしていく。明治のチョコレートも好きですね。

 フィリピン料理といえば豚の丸焼きは中国だし、一番人気のジョリビーはアメリカのハンバーガーにライスをつけるというローカライズしたもの。一般のフィリピン料理は中華の亜流でやたら甘い味付け。
 テレビでは英語のドラマやアニメが字幕なしで放送され、映画館でも字幕なしのアメリカ映画で大笑いしているほど英語に堪能。とはいっても高等教育がすべて英語で行われるため、否応なしに英語が話せるようになるだけ。低学歴では英語もろくに話せずまともな仕事もない。

 アメリカ大使館前にはビザを求める人々が行列を作り、書類の代書屋が繁盛する。どうみてもアメリカの植民地そのもの。国内にろくな産業がなく高学歴の人材は米国他の国へ流れてしまう。人件費の安さに進出した企業もフィリピン人の権利意識ばかり高く外国企業を目の敵にするような政策もあってASEANの他国へ移転してしまいました。

 フィリピン人の明るい性格は好きですが、仕事中に歌いだしたり踊りだしたりするのは困り物。10月くらいからクリスマスのことでそわそわしだし、11月にはクリスマスの飾り付けが始まってしまう。

 国外で働く同胞からの仕送りで消費は盛ん、巨大なショッピングモールがいたるところにある。最新のモノは溢れていても基礎的な技術力がないため維持管理ができないのはマニラのMRTの事例で明らか。
 三菱重工の銘板が貼られた車両はレールブレーキ付きの珍しい形式でした。保守管理が韓国企業に変わり故障が多発、まともな運行ができず結局は日本企業の保守に戻りました。タイやインドネシアでも同様ですが定期点検の概念がなく故障したら整備するというやり方では稼働率はどんどん低下してしまいます。
 JR東日本はジャカルタやバンコクの都市鉄道の運営にも参画していますが、定年退職した日本人が第二の人生で現地の人々を実地で教育していくのも基礎づくりとして大事なことですね。

2019-06-09 10:09  PB生、千葉 

<引用終り>


kazkさん、PB生-千葉さん、お二方の意見は要約すれば同じ一点を指しています。フィリピンは元々まともな国だったのか、まともな文化が有ったのか、こうだと思います。
そんな事で時計の針を500年ほど戻して、16世紀頃の東南アジアを見てみたいと思います。

最初に民族の問題。
フィリピン、マレーシア、インドネシアに住んでいる人をオーストロネシア人と言うのですが、この人たちが何処から来てこの広い地域に拡散していったのか、これがほぼ分かっています。

オーストロネシア系民族の拡散
2019-6-11おーすとろネシア人の拡散

約5千年前に台湾にやってきたこの民族は、それからフィリピン、マレーシア、インドネシアからポリネシア、ミクロネシアなど太平洋に拡散。遠くはマダガスカル、イースター島にも至っています。

余談ですが、この時台湾に残ったのが台湾の先住少数民族のパイワン族。現在人口7万ほどの少数民族ですが、台湾総統蔡英文氏もこのパイワン族の血を引く一人(祖母がパイワン族)

先に進みます。

東南アジアの言語グループ
2019-6-10交易の時代の東南アジア-01
出所:アンソニー・リード著 SOUTHEAST ASIA IN THE AGE OF COMMERCE より
邦訳:大航海時代の東南アジア 1997年9月30日 法政大学出版会 刊
(注:この邦訳、題名が甚だ不適切で折角の好著が台無し、だから英文の題名を記載。将来改題を希望)

この地図で見て欲しいのは、現在のフィリピン、マレーシア、インドネシアがオーストロネシア語の範囲と云う事。だからたくさんの言語が有るように見えますが、オーストロネシア語の方言と解釈できる。つまりこの範囲の人たちはある程度言葉が通じる。この事は大航海時代にスペイン人がこの地にやってきたとき、すでに気が付いていた。


そしてもう一つが1600年当時の国境
2019-6-10交易の時代の東南アジア-02
出所:アンソニー・リード著 SOUTHEAST ASIA IN THE AGE OF COMMERCE より

この図で言いたい事。マレー半島南部の現マレーシア領からボルネオ島のマレーシア領、ボルネオ島のインドネシア領、そしてフィリピンにかけて、「主要な国の中心地(■印)」は有るが、国境を表す点線が無い。つまり国境と言う概念のない未成熟な部族国家しか無いことを表している。


こんな事なので、フィリピンではないが、隣のボルネオ島マレーシアには、時代は下るが白人を国王とするサラワク王国(1841 - 1946)」ができ、こんな王国が100年続いたなどと言う摩訶不思議な事が起こる。
つまりこの一帯は「まともな国家のない状態」でした。そこをスペイン、イギリス、オランダに付け込まれ、植民地とされた訳です。

その後のフィリピン、マレーシア、インドネシアは旧宗主国の違いで大きく姿が変わることになります。

さてフィリピンです。
スペインによる植民地支配の前にもう一つ重要な事が有ります。ヨーロッパ人が大航海に乗り出した15世紀半ばより前、13世紀に南宋が亡びましたが、このモンゴル-南宋戦争(1235-1279)で多数の中国人が海に逃げ、それがベトナム、タイ、マレーシア、フィリピンなどに定着したと思われることです。但しこの中国人は丁度平家の落人みたいな感じで出自を隠して暮らしていたようで、殆ど記録が有りません。そんな移民グループの存在は墓などの発掘でわかるだけのようです。特に凄いのはタイとミャンマー国境の山岳地帯がそんな連中の居住地の一つになっていたようですが、組織的な調査が進んでいないですね。
だれかこんな所、調査研究してくれませんかねえ。
現在のアセアンのルーツに繋がる華人集団の存在が分かるんですが・・・。

この華人集団は各国の支配階級に入り込んでいきます。
そして植民地時代になると、スペイン、イギリス、オランダなどの植民地支配の実働部隊として現地人の搾取と宗主国への上納を担当して富を蓄えていきます。

更にフィリピンだけの事情として、アメリカがスペインに戦争を仕掛け(米西戦争)、スペインの植民地だったフィリピンを分捕って支配したという問題が有ります。その結果米比戦争(1899-1902、明治32年~35年です)が起こる訳ですが、この戦争で少なくとも20万人以上(アメリカ議会への報告)とも150万人とも言われる民間人の犠牲者がでます。この事がフィリピンが親米国のはずなのに一部に猛烈な反米感情がある理由です。

もう一つの問題として海外への出稼ぎ問題があるが、話が長くなるので今回は省略します。

結論です。
フィリピンはその成り立ちから、まともな国家のない、部族国家の集合体と言った地域でした。
こんな所なので当然社会のエリート層も育たず、独自の文化と言うモノも育ちませんでした。これが今日まで尾を引いています。
更にこれに追い打ちをかけたのがスペインの植民地支配。スペインの植民地支配は中南米の植民地支配と同じです。結果は一部の特権階級と大多数の貧民だけの国になってしまいました。

そして現在のフィリピンの状況ですが、国の発展を支えるべき技術者や医師などの高度な人材の海外流出が一層激しくなっています。
例えば医師の場合
海外在住フィリピン人委員会(Commission on Filipinos Overseas)調査のデータによると、 海外移住した医師数が2005年には297名であったのに対し、 2015年には3,082名に増加した」、こんな情報が有ります。僅か10年で海外に流出した医師の数が10倍。これではまともな病院など出来ません。
これがフィリピンの現状なんですね。

6月2日のエントリー「人件費が安いからフィリピンに行くという選択」でこんな事を書きました。

フィリピンに工場進出する場合に考えねばいけない事として、
一つは、あの民度の国でモノ作りをすることの大変さは多分ベトナムの比では無い。
もう一つが、企業の社会的責任、渋沢栄一の言の通り、これを忘れた企業は失敗する。

こんな風に考えています。
これは私がタイに行く前に進出先を検討する中でフィリピンを外した理由でして、その後フィリピンに進出した企業とも付き合って、一層この思いを強くしたことでもあります。

  1. 海外
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2019-06-07 15:33

核武装は抑止力そのもの


 藤井厳喜さんの出版物の宣伝メールを見ていたら加瀬英明氏との対談の件が出ていた。
この加瀬英明さんの話は大変いい話なので記録のため纏めてみた。

<以下6/5付ダイレクト出版のメールより抜粋引用>

福田、中曽根内閣で首相顧問を務めた男
加瀬英明氏との対談、
日本再興戦略「明治維新150年の意義」編 ですが、、 
======== 
終戦直後、一面焼け野原だった東京で、当時小学3年生だった私は、外務省北米課長だった父に尋ねた。
「東京がこんなに壊されてしまったけど、日本はこれからどうなるの?」
父はこう答えた。
アメリカは日本中を壊すことができるが、日本人の心を壊すことはできない。」
父の顔には、悔しさが滲んでいた。しかし、その目は光を失っていなかった。日本人としての誇りを保っていた。
私、加瀬英明は、父の悔しさと誇りを胸に成長した。
そして時は過ぎ、、、海外との仕事を行う中で、ある人物に話を聞けることになった。
その人物は、元陸軍次官ジョン・マクロイ氏
1945年、ホワイトハウスでトルーマン大統領が広島に原爆を投下することを決めた会議に出席した人物である。
私は、原爆投下の決定に居合わせた人にどうしても、直接聞きたいことがあった。
「もし、あの時、日本が原子爆弾を一発でも持っていて、アメリカのどこかに落とすことができたとしたら、日本に核攻撃を加えたでしょうか?」
マクロイ氏は答えた。
「聞かなくてもわかっているでしょう。」
「あなたのいう通りだ。日本が原爆を一発でも持っていたら、日本に対して原爆を使用することはあり得なかった。」
これは、加瀬氏の海外経験のほんの一部にすぎません。
<以下略>


此処で加瀬英明氏が「外務省北米課長だった父」と言っているのは加瀬俊一氏のこと。
その加瀬俊一氏はこれを見れば分かるでしょう。

昭和20年9月2日、東京湾上でのこと。
加瀬俊一氏は「生涯忘れられぬこと」と言っているそうですが、日本人なら皆同じでしょう。
2019-6-6戦艦ミズーリでの降伏文書署名


さてその加瀬英明氏がマクロイ氏に聞いたという話。これは加瀬氏の著書「今誇るべき日本人の精神」に詳しく書かれている。
大変参考になるので同署を引用し紹介します。

尚以下の記事にはこのマクロイ氏に話したというのが何時なのか記載が有りませんが、こんな事情のようです。
昭和53年(1979年)、「ニューヨーク・タイムズ」の社主だったサルツバーカー夫人が、加瀬氏夫妻が来ることを知り、マンハッタン郊外の私邸で晩餐会を開いてくれた。そこに夫人の古い友人であるマクロイ氏も招待されていたということです。

では加瀬氏の著書から
<以下引用>
加瀬英明著 「今誇るべき日本人の精神」 2016年5月 KKベストセラーズ

第四章 目本人の精神を取り戻す
P116-118

 私は、トルーマン大統領が一九四五(昭和二十)年八月に、広島、長崎に原子爆弾を投
下することを決定した、ホワイトハウスの会議に出席した、ジョン・マクロイ元陸軍次官
と、夕食をとったことがある。
 私は広島、長崎に対する原爆投下を話題にして、「もし、あの時、日本が原子爆弾を一発
でも持っていて、アメリカのどこかに落とすことができたとしたら、日本に対する核攻撃を
加えたでしょうか」と質問した。 

 少人数の夕食会だった。「ニューヨーク・タイムズ」の大記者と呼ばれた、ジェームズ・
レストンも招かれていた。
 すると、レストンが驚いて、私に「なぜ、そんな当たり前のことを質問するのか。きか
なくても、答えが分かっているだろうに」と、口をはさんだ。
 私は「これまで原爆投下の決定に参画した人に会ったことがないので、確かめてみたか
った」と、答えた。
 すると、マクロイが「もちろん、君も答えを知っているだろう。もし、日本があの時に
原爆を一発でも持っていたとしたら、日本に対して使用することは、ありえなかった」と、
いった。
 それ以来、私は日本は世界で唯一つの被爆国として、あの惨劇を二度と繰り返さないた
めに、核武装すべきであり、どの国よりも被爆国家として、そうする権利があると、信じ
てきた。
 私は広島の平和記念公園の慰霊碑を詣でるたびに、「過ちは二度と繰り返しません。安
らかにお休み下さい」という碑文を、核兵器を持たないために、悲惨な核攻撃を招くよう
な過ちを、繰り返しませんという、誓いの言葉として読むべきだと、思う。
 日本が平和国家であれば、核兵器を持ったとしても、核攻撃を防ぐ抑止力として用いら
れ、外国を攻撃することはない。

<引用ここまで・・・詳しくは上掲著書参照ください>


いま世界は米中の貿易戦争が一段とキナ臭くなり、暴発の危険が迫ってきています。
こんな話をもっといろんな人に知ってもらいたい。そんな意味で纏めてみました。 

  1. 政治
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2019-06-06 15:41

阿比留瑠偉さんのFBから<つかこうへいさんのインタビュー


 産経新聞の阿比留瑠偉さんがFBで慰安婦について書いている。
つかこうへいさんのインタビューに関する記事で、2013年のFB記事を引用しているのだが、大変分かりやすく良い話だ。
記録の為アップします。

<以下引用>
https://www.facebook.com/rui.abiru/posts/2474113502633286
Rui Abiru
6 hrs · 
つかこうへいさんにインタビューしてから、もう22年か。状況は少し変わりました。

Rui Abiru   (注:以下は6年前のものを引用したもの)
June 5, 2013
 もう16年も前の話になりますが、直木賞作家で在日韓国人2世でもあったつかこうへい氏に慰安婦問題についてインタビューしたことがあります。つか氏がご存命ならば、現在のぎすぎすした大騒ぎをみて、どのようにコメントされただろうかと思うのでした。著書執筆に当たり、元兵士や慰安所関係者らに取材を重ねたつか氏が、率直に語ってくれた言葉をいくつか紹介します。

 《ぼくは「従軍」という言葉から、鎖につながれて殴られたり蹴られたりして犯される奴隷的な存在と思っていたけど、実態は違った。将校に恋をしてお金を貢いだり、休日に一緒に映画や喫茶店に行ったりという人間的付き合いもあった。不勉強だったが、ぼくはマスコミで独り歩きしているイメージに洗脳されていた》

 《悲惨さを調べようと思っていたら、思惑が外れてバツが悪かったが、慰安婦と日本兵の恋はもちろん、心中もあった。僕は「従軍慰安婦」という言葉が戦後に作られたことや、慰安婦の主流が日本人だったことも知らなかった。彼女たちの境遇は必ずしも悲惨ではなかったことが分かった》

 《日本はよくないことをしたし、中には悪い兵隊もいただろう。でも、常識的に考えて、いくら戦中でも、慰安婦を殴ったり蹴ったりしながら引き連れていくようなやり方では、軍隊は機能しない。大東亜共栄圏をつくろうとしていたのだから、業者と通じてはいても、自分で住民から一番嫌われる行為であるあこぎな強制連行はしていないと思う。マスコミの多くは強制連行にしたがっているようだけど》

 《人間の業というか、こういう難しい問題は、自分の娘に語るような優しい口調で、一つひとつ説いていかなければ伝えられない。人は、人をうらむために生まれてきたのではない。歴史は優しい穏やかな目で見るべきではないか》

 つか氏の著書「娘に語る祖国 満州駅伝--従軍慰安婦編」はお薦めです。でももう、一般の書店には置いてないだろうなあ。あれからこの本は忘れられていく一方、マス・メディアの慰安婦問題への反応はたいして進歩していないのが残念でなりません。

<引用終り>


今の若い人は慰安婦問題の本質を知る機会が少ないと思います。こんな短い一文で問題の本質が見えてくるのではないでしょうか。

尚、つかこうへいさんが書いていますが、「慰安婦の主流が日本人だった」、こんな事がどうしてその後さっぱり報道されなくなってしまったのか。
理由は簡単です。日本人女性はたとえこんな事をしていたとしても、その後ピッタリ「口を閉ざし」ています。更にそれを知っている人も何も語りません
実は私も従軍ではありませんが、その手の仕事をしていた人を知っていますが、本人は勿論何も語りませんが、周りもその事は何も言いません。そしてその方は地域の人格者の方と結婚され、幸せに暮らしていましたし、周りもそれを認めていました。
これが日本人なんでしょうね。

  1. 社会一般
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2019-06-05 16:33

縄文時代の噓


 宮崎正弘さんのメルマガ「国際ニュース・早読み」5月31日号に興味深い記事が載っている。
本文は「中国の社債起債は1兆ドルを超えていた。企業債務はGDPの155%。 海外送金、ついに2000ドルが上限となっていた」と言うもので、これも衝撃的なのだが;それより書評が面白い。

同氏の書評は、『河合雅司著「未来の透視図――目前に迫るクライシス2040」』について。
> おそるべき未来図、2035年には男子の三分の一、女子の五人に一人が未婚という状況が訪れ、甲子園は地区大会さえ開催できなくなる。「出産可能な女性が消えていく」という、真っ暗闇がやってくる。
 >日本女性の未婚状況は、いずれ国を滅ぼしかねない。
 >かくして「日本消滅のスケジュール」が本書で示された。河合雅司氏が未来を透視すると、こういう地獄が控えているようだ。

こんな書き出しで始まる少子化への警告の書
 
 評者(宮崎)は、この悲観的未来透視シナリオを提示する、本書を読みながら、じつは百八十度異なることを考えていた。
 なぜ子供を産んで増やそうとしなくなったのか。それは未来の夢を描くなくなり、情感の希釈化、情緒の不在であり、共同体の喪失感からきているのではないのか。

宮崎正弘氏はこんな風で少子化に対しどうすればいいのかを提言している。
大変いい話なので、このエントリー本文末にこの書評全文を引用しますが、私が興味を持ったのは、宮崎氏がこの話のネタとして三内丸山遺跡と言う縄文遺跡について書いているので、これについて感想を書いてみたいわけです。


本題に入る前に、その少子化について、最近の私の感想を書いてみます。

私は1997年のアジア通貨危機直後の1998年からタイで仕事を始めました。その時の経験です。
アジア通貨危機直後のタイはと言えば、あちこちに建築途中で取りやめになったビルが無残な姿をさらし、町にもまったく活気が有りませんでした。タイで仕事を始めて1年半くらいのことです。従業員からピンクの封筒をもらうようになりました。ピンクの封筒はタイでは結婚式の招待状で、その封筒に祝儀を入れて渡すのが習慣でした。殆ど毎月のようにこんな封筒をもらうに至って考えました。安定した会社で安心して仕事ができる。だから結婚するのだなあと。そしてそれからしばらくすると今度は出産ブーム。そんな所を見ていたので、地元のショッピングセンターなどに行くとおなかの大きな女性がいやに目につきだしました。丁度通貨危機から立ち直りかけて、街に活気が戻ってきたころです。

こんな経験を持っていますので、日本に帰国してあちこち見ていく中で、地元の食品スーパーのようにお母さん方が出入りするところでもおなかの大きい人や赤ちゃんを連れた人を見かけないことに衝撃を受けました。なるほどこれが少子高齢化かと実感したのです。
でも昨年初めあたりから地元の食品スーパー辺りで子ども連れやおなかの大きな人の姿をよく見るようになりました。
私のタイでの経験から見ても明らかに何か変わっている。こう見えます。
多分そのうちにそんなデータが出てくるのではないか、そうひそかに期待しています。


余談が長くなりました。
では宮崎正弘氏の書評から縄文文化についての部分を抜萃引用。

<以下引用>
 たとえば縄文時代、集落の全員が、お互いに助け合い、徹底的に面倒を見合った。
縄文集落の代表例である三内丸山遺跡では、三十人ほどが一つの屋根の下で一緒に暮らした竪穴住居が再現されているが、その建築技術の見事さには誰もが舌を巻くだろう。共同作業で分担し合い、木材の伐採、調達、運搬から、資材の組み立て、わらぶき屋根、部屋の中の祭壇つくりまで、全員参加のコミュニティがあった。
だからお祭りが尊重され、祭祀が恒常的に営まれ、精神の紐帯が強固だった。
縄文集落の典型とされる三内丸山遺蹟の規模は五百人前後だったと推定され、集落にはまとめ役の長(おさ)がいて、春夏秋冬の季節に敏感であり、様々な作業を分担し合い、クリ拾い、小豆の栽培、狩猟、漁労はチームを組んだ。各々の分担が決められ、女たちは機織り、料理、壷つくり、食糧貯蔵の準備、そして交易に出かける斑も、丸木舟にのって遠く越後まで、黒曜石や翡翠を求めて旅した。
縄文の社会には「保険」もなく、医者もおらず、幼児死亡率は高かったが、適者生存がダーウィンの言う人間社会、動物社会の原則であり、むしろこの大原則を忘れての偽善の平和、ばかしあい、生命装置だけの延命、植物人間だらけの病人という末期的文明の生態はあり得なかった。

<引用ここまで>

例えば宮崎さんが「三十人ほどが一つの屋根の下で一緒に暮らした竪穴住居」と言っているのはロングハウスなどと言われる「大型竪穴住居」のことである。

2019-5-6青森7


2019-5-7青森8

この巨大な建物は長軸32m、短軸9.4m、内部の面積は約250㎡、中央に1mx1.5mの炉が1か所。

2019-5-7三内丸山の大型竪穴住居

この巨大な建物はどのように使ったのか定かではない。共同作業場だったのではないかとか諸説ある。しかし宮崎さんが言うように「三十人ほどが一つの屋根の下で一緒に暮らした竪穴住居」、多分これは宮崎さんが最近三内丸山遺跡を訪問されているので、そこで誰かが仰ったのだろう。

しかしこれこそ「日本の考古学は嘘ばかり」の典型的な事例ではないかと思えるのです。
そしてこれを笑って見逃せないのは宮崎正弘さんのように見識の高く、影響力の大きい方が嘘吐き考古学者に騙される。これが私には我慢ならない訳です。

実はこの巨大な大型竪穴住居こそ縄文文化が縄文文明だった証拠。そんな所を一つづつ解き明かしてみます。


最初に三十人ほどが一つの屋根の下で一緒に暮らした竪穴住居」について。
この住居は内部の広さは約250㎡あります。中学校などの講堂の設計基準で最大収容人数計算の基礎は一人当たり0.6㎡。それで計算すると学校の講堂のような使い方なら最大400人くらい収容できます。
若し30人が共同生活するのなら、下の写真のような竪穴住居を5棟とか10棟作れば済みます。

三内丸山の復元竪穴住居
2019-6-4三内丸山の竪穴住居の一例

そして三内丸山には長軸10mを超える竪穴住居跡が20棟以上発見されています。
若し30人程度が共同生活するだけなら、こんな竪穴住居を利用すれば済む話です。
この30人ほどが共同生活、これはこの巨大な建物の用途のごく一例にすぎません。それよりもっと壮大な使い方が有った筈です。

その壮大な使い方の参考になるのが、平成9年に発見された幅約12mの道路跡の発見でしょう。発見されているだけで集落中央から約420m以上も続いていたことが分かっています。

これが三内丸山の遺跡イラストマップ。赤丸内が如何論関せ得る説明。

2019-6-5三内丸山遺跡イラストマップ1

この道路はこの先どうなっているのは不明乍ら、海まで続いていたであろうと推測されている。
海から上陸した人たちがこの大きな道で当時の大都市に向かう。そんな事だったのではないか。


所で幅12mの道路と言ってもピンとこないと思いますが、何と現代の国道規格並みなのです。

参考までに幅員12mの国道とは
(半路肩と言う交通量の少ない所に適用する規格。路肩の幅が少なめ)

2019-6-5国道規格半路肩
国土交通省の資料より
https://www.mlit.go.jp/road/sign/pdf/kouzourei_2-2.pdf

ついでに言えば、古代ローマのアッピア街道などの道路規格は中央に車道(馬車道)4m、両側に歩道各3mで合計で幅員は10mでした。
参考:ローマ街道(紀元前312年から整備が始められた)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E8%A1%97%E9%81%93

これもオマケ、アッピア街道の現在
2019-6-5アッピア街道1996年

2000年以上前にこんな道路を作って運用していた。本当にローマ文明は凄いと思います。

本題に戻ります。
ローマの街道以上の幅員を持つ道路が、今から5900年前から4200年前の遺跡から発見されたということです。こんな事を正しく評価しないと、縄文時代とは何ぞやが見えません。

私は三内丸山の巨大な大型竪穴住居はシティホールであり、各地から交易にやってきた人たちのホテルであり、また持ってきた商品を並べる店(みせ)だったり、あるいは共同作業場だったのではないかと思います。

そんな事の根拠の一つがこの大型竪穴住居は屋根が地面についていません。外周に壁が有ります。
建築用語で「壁立ち」と言うそうですが、そんな構造なので、その壁部分を取り外せば明り取りになります。
上から2枚目の写真を見ると、入り口部分から光が入っている様子が分かりますが、外周の壁を外せばもっと明るくなるわけです。


日本の考古学は、偉い先生が自分の信念だけで「これはこうだ」と言ってしまうと、何年もその嘘に引きずられる傾向が強いです。
今回の宮崎正弘氏の話からもそんな事が分かりますので、考古学を知る人間としてぜひ考えて欲しいと思い記事にしました。

日本の考古学はその発祥の歴史がモースの貝塚発見からで、欧米の歴史観をそのまま適応しています。そんな所から見直してゆかねばいけないと考えています。あと何年か後には日本文明はハンチントンが言うように世界で唯一の「一国一文明」ですが、そのルーツは縄文時代までさかのぼる。そう言われる時代が来ると思っています。

縄文時代から続くという証拠ですか?。

簡単です。
5月1日に天皇陛下が即位されました。その時、天皇の証しとして継承した三種の神器、此れの一つが「勾玉」です。そしてその勾玉は三内丸山でも発見されており、縄文時代から宝物だった。これは縄文時代から続いている何よりの証拠だと思っています。

剣璽等継承の儀
2019-6-5剣璽等継承の儀

ここで持っているのは三種の神器のうち、 天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)(または草薙剣(くさなぎのつるぎ))・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。


まあこんな事で、日本の歴史は縄文時代から見直さないといけないですね。
最後に、宮崎正弘氏の書評全文を掲載します。
少子化への宮崎市の意見。大いに考えさせられます。


<以下引用>
http://melma.com/backnumber_45206_6824231/
「宮崎正弘の国際ニュース早読み」
令和元年(2019)5月31日(金曜日) 通巻第6094号 

 中国の社債起債は1兆ドルを超えていた。企業債務はGDPの155%
  海外送金、ついに2000ドルが上限となっていた

  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 

 2035年には男子の三分の一、女子の五人に一人が未婚となるようだが、
  それでは甲子園の野球大開は地区大会さえ開催できなくなる。

  ♪
河合雅司『未来の透視図  ――目前に迫るクライシス2040』(ビジネス社)
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 おそるべき未来図、2035年には男子の三分の一、女子の五人に一人が未婚という状況が訪れ、甲子園は地区大会さえ開催できなくなる。「出産可能な女性が消えていく」という、真っ暗闇がやってくる。
 日本女性の未婚状況は、いずれ国を滅ぼしかねない。
 かくして「日本消滅のスケジュール」が本書で示された。河合雅司氏が未来を透視すると、こういう地獄が控えているようだ。
 生活インフラを透視しても「美術館」が消え、ER(緊急病院)があちこちで消え、そして町から銀行が消え、向こう三軒両隣が空きやとなる。現実に現代日本の地方都市、田舎へ行けば駅前はシャッター通り、廃屋に近い空き家が数百万軒あり、昼でも町がしーんとしている。
公園はあっても、遊んでいる子どもがいない。早朝の公園は老人達のラジオ体操組がちらほら。過疎の農村では村の鎮守のお祭りも開けず、神社は廃り、孤独な老人が寝ている。
 介護現場も、居酒屋も、コンビニも建築現場も顕著なほどに人出が不足し、昨今は深刻な労働者不足を補おうと外国人の呼び込みに懸命だ。すでに令和元年現在、日本にいる外国人は270萬人。これは未曾有の異常事態ではないのか。
ところが、2040年には少子高齢化ではなく、「無子高齢化社会」となる。こういう暗鬱な社会がまもなく出現し、介護労働者は払底する。火葬場は満員となり、そのうち葬式の面倒をみる人材もいなくなる。

 評者(宮崎)は、この悲観的未来透視シナリオを提示する、本書を読みながら、じつは百八十度異なることを考えていた。
 なぜ子供を産んで増やそうとしなくなったのか。それは未来の夢を描くなくなり、情感の希釈化、情緒の不在であり、共同体の喪失感からきているのではないのか。
 かつての日本には精神的絆で固く結ばれた共同体があり、全員が参加する人生。農村であれ、漁村であれ、或いは貝の加工、或いは翡翠の鉱山集落であれ、日本人の起源である縄文時代にはこうした心配事はなにもなかった。
 この基本的な生活スタイルは江戸時代まで続いた。
 伝統的コミュニティでは、現代人のなやむイジメ、引き籠もり、生涯独身、少子高齢化などという問題はなかった。ストレスも少なく、突然切れて、保育園児を殺傷したり、通行人を刺したりという事件は稀だった。
 もちろん「中学お受験」もなければ入試地獄もなければ、まして現代の科挙といわれる東京大学法学部エリートの主知主義で、国家が運営されるというおかしな国家でもなかった。
 たとえば縄文時代、集落の全員が、お互いに助け合い、徹底的に面倒を見合った。
縄文集落の代表例である三内丸山遺跡では、三十人ほどが一つの屋根の下で一緒に暮らした竪穴住居が再現されているが、その建築技術の見事さには誰もが舌を巻くだろう。共同作業で分担し合い、木材の伐採、調達、運搬から、資材の組み立て、わらぶき屋根、部屋の中の祭壇つくりまで、全員参加のコミュニティがあった。
だからお祭りが尊重され、祭祀が恒常的に営まれ、精神の紐帯が強固だった。
縄文集落の典型とされる三内丸山遺蹟の規模は五百人前後だったと推定され、集落にはまとめ役の長(おさ)がいて、春夏秋冬の季節に敏感であり、様々な作業を分担し合い、クリ拾い、小豆の栽培、狩猟、漁労はチームを組んだ。各々の分担が決められ、女たちは機織り、料理、壷つくり、食糧貯蔵の準備、そして交易に出かける斑も、丸木舟にのって遠く越後まで、黒曜石や翡翠を求めて旅した。
縄文の社会には「保険」もなく、医者もおらず、幼児死亡率は高かったが、適者生存がダーウィンの言う人間社会、動物社会の原則であり、むしろこの大原則を忘れての偽善の平和、ばかしあい、生命装置だけの延命、植物人間だらけの病人という末期的文明の生態はあり得なかった。
だからこそ人間に情操が豊かに育まれ、詩が生まれ、物語が語り継がれたのだ。
 ましてや待機児童とか、老老介護、生涯独身、孤独死などとはほど遠い、理想的な助け合いコミュニテイィが存在し、平和が長く続いた。
縄文時代の一万数千年間、日本では大規模な戦争はなく、その証しは集落跡から発見された人骨から、刀傷など戦争の傷跡はなく、障害者の人骨も出てきたため集落全体が福祉のシステムであって、面倒を見合っていたことが分かる。
或る人口学者は縄文最盛期の人口を26萬人と推計し、気象状況もしくは地震、津波、寒冷化などによる飢餓で二万人にまで激減したこともあるとしたが、現代日本に当てはめると、一億二千万が1000萬人になるようなことがおきたのだろう。
やがて弥生時代という新しい、闘争社会がやってきた。渡来人がコメの栽培技術とともに流入し、日本に稲作が普及するが、この弥生時代から富の分配をめぐって、集落ごとの喧嘩、出入り、暴力沙汰、戦争が始まり、日本は一面で殺伐として社会となる。
この寓話は何を意味するか。
労働者不足だからと言って闇雲に外国人労働者を入れるという政治のパッチワークが国家百年の大計画に基づくとは、とても考えられない。
したがって問題は何か。解決策は奈辺にあるのか。
それは子供を増やすという古来から人間が自然に営んできた健全な社会に戻すことである。それも児童手当とか、保育所の充実とかの修繕的な対応ではなく、基本的、抜本的取り組み、それは女性が子供を産み、増やしたいという人類の基本の欲求が自然に起こるような社会の実現だろう。
男は男らしく、女は女らしく、強い男性の子供を産みたいという女性、生きて行くための食糧確保を一等優先して考える発想、まわりが皆、子供の成長を助けあう、縄文時代の思考、生活のパターン、人生のスタイルを取り返すことから、始まるのではないのか。

<引用終り>

  1. 歴史
  2. TB(0)
  3. CM(14)

2019-06-02 17:02

人件費が安いからフィリピンに行くという選択


 ベトナムの人件費が高くなりフィリピンへ工場を移転したという話がある。
宮崎正弘さんのメルマガの読者の声欄でR生ハノイさんが紹介しているのだが、「フィリピンの方がハノイより労賃が安いんだ」、こんな理由のようだ。但し、「治安が悪く、マンションと工場は高い塀で囲まれ、その間の車移動は大渋滞」、こんな事情もあるようだ。

しかしこの件は私の海外での仕事で一番気にしていたこと。そしてその大失敗事例がインドネシアにある。この失敗事例は私なりに調べてみたので、そんな事情を書いてみたい。

尚以下に紹介する宮崎正弘さんのメルマガ6094号には他にも私が注目している記事(宮崎さんの書評)がある。これは別にエントリーします。

最初はR生ハノイさんの声の紹介から。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み 令和元年(2019)5月31日 通巻第6094号 」
http://melma.com/backnumber_45206_6824231/

<以下引用>
(読者の声5)宮崎先生がベトナムについて、安い労働力もだんだんと競争力がなくなってきたとテレビで発言されていました。
 昨秋、ハノイから2.5時間位の立地の某ハーネス会社(労働集約産業)工場がフィリピン(マニラから1時間位)へ移転しました。その社長は、「フィリピンの方がハノイより労賃が安いんだ」とおっしゃっていました。但し、治安が悪く、マンションと工場は高い塀で囲まれ、その間の車移動は大渋滞とも聞きました。「しょうがないのでベトナムから愛人を連れて行く」とか(笑)。というのが現状です。
 ベトナムのグローバルバリューチェーンの上での魅力は、安い労働力に加えて貿易障壁が小さいこと、土地コストも安いこと。最近、電気料金が上昇ましたが、バングラやカンボジアやラオスにはないインフラインフレ環境が整っていること。バングラほどではないが、ラオスやカンボジアのような人口の少ない国ではないことなどです。また、バングラは先生がご指摘されたように、ムスリムで立命館大学の元准教授首謀のテロがありました。インドネシアは選挙後は混乱で「今は昔」になりましたが華僑への迫害もでてくる土壌があります。カンボジアは企業に所得税を前払いさせたうえに還付をしないという滅茶苦茶やっています。政府への信頼性の欠如で縮小効果がはなはだしい。
 ・・・中略・・・
一方、1月〜4月の外貨準備額は673億ドルで過去最高になりました。これは安全圏とされる輸入の3ヶ月分程度になります。
健康状態に問題があるベトナムの最高指導者グエン・フー・チョン共産党書記長兼国家主席は7月の訪米に向けて調整に入った様子です。脳梗塞の後遺症で左手に問題と噂されています。
  (R生、ハノイ)

<引用終り、詳細は上掲リンク先参照ください>



此処からは私の思い出です。
インドネシアの自動車部品メーカーK社で2001年に起こった事件です。もう18年も前の話ですが、何せ微妙な問題なので、実名は伏せおきます。老人の妄想ということでご理解ください。

2001年3月、インドネシアの首都ジャカルタの郊外東ジャカルタの工業団地にある自動車用シートメーカーK社で労働者がストライキを始めました。
このK社は日本の自動車部品メーカーA社(90%)とインドネシアのKDR社(10%)の合弁でシートなどを作っていました。またA社は日本の大手自動車メーカー系列の部品メーカーでした。
そこへどこからかオルグが入って労働者を焚きつけてストになり、話がこじれてしまい、労働者が工場を占拠し、そこで寝泊まりしてストを続けました。ストが10日近くになった時ある深夜のこと。正体不明のナイフ、刀、手製爆弾で武装した者たち約500人がバスで工場に乗り付け、襲撃を開始しました。
結局死者2名、負傷者は数知れずという大惨事になりました。怒った労働者達は工場を追い出されたものの工場を取り囲み、完全に封鎖してしまいました。

当時でも報道はこんな所まで、その後のことは良く分かりませんでした。

しかしこの事例は海外での事業展開とはどうあるべきか、どうすべきかの大変良い教訓で、私は独自で情報収集してきました。そして分かったことの一端です。


K社の日本の親会社A社は現地企業K社に殆ど丸投げ状態でした。ストがこじれても「その為に現地パートナーがいるんだろ。そいつ等にやらせろ」と言うばかりだったようです。また現地社長も現地パートナーのKDR社出身の副社長に何とかせよというばかり。その結果、現地パートナー企業が多数の無法者を雇ってスト破りをさせたのが実態だったようです。

しかし規模が凄いですね。
事件当日、ストをやっていた労働者は約600人、そのうち約400人が工場内で寝ていたようです。そこを約500人のスト破り集団が襲った。この連中はジャカルタから少し離れた町(ボゴールとかバンテンとか)から集められたものらしいのですが、こんな多数の人間を集め、指揮し、襲撃行動ができるのは軍が関係していないとできません。
もう一つ、インドネシア特有の事情で、オランダ統治が340年続いたが、その統治はインドネシア人を最下層に置き、その上に華僑などを置いて支配させ、その上にオランダ人が立って利益をオランダが収奪するという統治方式をとった。こんな事が有るので、インドネシアでは30年に一度くらいの割合でインドネシア人による暴動が起き、華僑が狙われます。この直前の1998年5月にもジャカルタ暴動と言われる暴動が起きました。標的になったのは華僑、約1000人が死亡したとされますが、正確な死者数は今も明らかになっていません。


とここまで書いて、「おいおい、工場が労働者に取り囲まれて稼働できなくなってしまったんだろ。そこでどうなったんだ」、こんな声が聞こえてきます。
自動車用シートメーカーK社の話に戻ります。K社のストが有ったのはジャカルタ暴動から3年後、まだ暴動の記憶も生々しい時期でした。


そしてK社はどうなったか。従業員600人が殆どいなくなった工場を何とか稼働させて生産は続けねばなりません。K社にも、日本の親会社A社にも解決能力が無いと見た自動車メーカーはグループ全社を挙げて支援体制を作りました。数百人もの緊急支援部隊を作り、現地工場に送り込みました。そんな大人数の移動なので日本からはチャーター機を飛ばしたとか、工場に入れないのでヘリコプターで入ったとか、日本人だけで生産ラインを動かしたとか、噂は色々ありますが確認できません。しかし日本では考えられないことですね。


この結果は自動車メーカーの部品メーカー再編の発火点になりました。結局A社は二つの部門に分割され、別々の会社と合併することになりました。
最近も車のEVだのコネクティングだのと喧しいですが、その為には色んなところで合従連衡が起こると思います。最後まで生き残るのは難しい。そんな話ですね。


此処でこの事例からどんな事を学ばねばいけないか、それは低コストを追求するだけでは事業が成り立たないということです。低コストが大事なのは言うまでも有りませんが、企業が利益を上げることで働く人も収入を得、幸せになることも同時に大事だし、さらに地域社会にも貢献しなければいけません。

この経営の社会的責任について、「論語と算盤」という言い方で経営の社会的責任を説いたのが渋沢栄一である。丁度一万円札の新しい顔に決まりましたね。

2019-4-14新一万円札


話しが取留めも無くなりました。
纏めてみると、冒頭、R生ハノイさんが紹介している、「フィリピンの方がハノイより労賃が安いんだ」、これが極めて危険な話であることが分かります。

例えば工場とマンションは高い塀で囲まれ・・・、こんな話はフィリピンの民度が低いことを表しますし、特にフィリピンはスペイン統治が長く、インドネシアのケースと同じ愚民政策が行われてきました。

冒頭の事例の「フィリピンの方がハノイより労賃が安いんだ」、こんな事を話すような社長さんには是非とも考えて欲しいことが有ります。

一つは、あの民度の国でモノ作りをすることの大変さは多分ベトナムの比では無い筈です。特にハーネスのように労働集約型の物は作業者の質の向上が不可欠。
ベトナムは色んな過去から親日国です。フランスの統治から解放されたのは日本がやってきたからですし、元寇を撃退した歴史も日本とベトナム共通です。それに何より2千年前の歴史を紐解けば日本人のルーツの一部とベトナム人(越南人)のルーツは重なる部分がある。
こんな歴史はフィリピンには無いことを知るべきでしょう。

もう一つが、企業の社会的責任、渋沢栄一の言を引用するまでもないですが、これを忘れた企業は失敗します。
それに関連して、日本人は欧米流の現地人を奴隷同様にこき使う統治方法は苦手だということも忘れてはいけません。

R生ハノイさんが紹介している、「フィリピンの方がハノイより労賃が安いんだ」、こんな話で思わず昔話をしてしまいました。これから海外に出ていかれる方には何かの参考になれば幸いです。

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