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2019-05-26 17:30

大英博物館でマンガ展


 イギリスの大英博物館で日本の「マンガ展(The Citi exhibition Manga)」が開催されている。
日本のマンガがとうとう大英博物館で紹介される。
もう手放しで素晴らしの一語と思います。

これがポスター
2019-5-26大英博物館のマンガ展ポスター

登場したのはゴールデンカムイのアシㇼパ
(注:アシㇼパの「ㇼ」は小文字です。アイヌ語のカナ表記で、読みは「aーsi-pa」です)


日本国外では最大のマンガ展。葛飾北斎や河鍋暁斎から、手塚治虫、鳥山明、尾田栄一郎など江戸時代から現在までのアーティストの作品が通覧できる。
会期は2019年5月23日〜8月26日。入場料は19.5ポンド(約2800円)


これは大英博物館の公式ブログ
https://blog.britishmuseum.org/manga-a-brief-history-in-12-works/
2019-5-26大英博物館のマンガ展北斎

今改めて見てみても北斎の凄さが分かりますね。
(左上の良く分からない物は「天狗の面を風呂敷に包む」と書いてある。「の」は変体仮名)


所で今日(5/26)の読売新聞のコラム欄「編集手帳」はこのマンガ展を取り上げている。読売の編集手帳士も良い事を言っています。

読売新聞 5月26日 編集手帳
 その昔、図書閲覧室ではマルクスや孫文、ガンジーらが研鑽けんさんを積んだという。知の殿堂との異名が似つかわしい。260年の歴史を刻むロンドンの大英博物館には世界中から年間600万人が訪れる◆お墨付きをありがたがるわけではない。けれど、超一級の館が最大規模の展覧会を開いたと聞くと、誇らしさが隠せない。日本マンガを紹介する「Manga」展が開幕し、盛況だそうだ◆権威や定義を拒む、ある種の猥雑(わいざつ)さ、背徳性が、マンガを始めとするサブカルチャーの要諦と言えよう。大衆にこそ支持される文化をどう学術的に解き明かして、論じるのか。様々難しさがあっただろう◆本展を企画した研究者は日本留学時代に虜(とりこ)となり、膨大な量を読みあさったのだという。制作現場や書店の役割、同人誌にまで踏み込み、明治期の戯画とも比較展示した内容に愛の深さを思う。看板キャラに選んだアシリパさんは当代屈指の人気作のヒロインで、アイヌの少女である◆ジャパノロジー(日本学)の一分野として国内外で探究が深まればいい。日本人の精神性、行動様式に与えてきた影響は決して小さくない。
<引用終り>


さてそのマンガ展だが、全体はこんな風になっている。

<以下読売オンラインより引用>
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190523-OYT1T50177/

マンガ、英国文化「ど真ん中」で…サプライズも
2019/05/24 05:00

2019-5-26大英博物館のマンガ展1
Manga展の巨大な看板が掲示された大英博物館

 一言で言うなら「おもちゃ箱をひっくり返したような」――というのが、大英博物館「Manga」展の内覧会を見た第一印象だ。


 セインズベリー・エキシビジョンズ・ギャラリーは1100平方メートルの広大な場所だが、それでも日本マンガ史の「全て」が展示できるほど広くはない。ところが、同展はアクロバット的な手法でそれをやろうとしている。日本人の目から見て、それを無謀と言う人もいるだろうし、あっぱれと言う人もいるだろう。

 だが、これから一般公開が始まる同展への批評は、今の段階ではまだ早計。それは別の機会に譲ることにして、ここでは「どんな展覧会なのか」を簡潔に紹介していきたい。

 同展は大きく六つのゾーンに分かれている。

 ゾーン1:マンガという芸術 The Art of Manga こうの史代さんの「ギガタウン 漫符図譜」をテキストに、マンガを読むための基礎知識を紹介。校了前の週刊少年ジャンプ編集部にカメラを据え、早回ししたビデオが目を引く。「マンガはどう生まれるのか」がこのゾーンのテーマだ。

2019-5-26大英博物館のマンガ展2
Manga展会場。中央はニコル・ルマニエール教授

 ゾーン2:過去から学ぶ Drawing on the Past 戦後マンガの神様、手塚治虫の仕事をここで紹介。印象的なのは「本屋」の役割に大きなスペースを取っていることだ。本や雑誌の実物を手にとって読める棚や、電子書籍をダウンロードできるコーナーもある。今年3月末に閉店した東京・神保町の老舗マンガ専門店「コミック高岡」の店内写真パネルが飾られているのには驚いた。同展キュレーター(注:学芸員)のニコル・ルマニエール教授が大好きな書店だったそうだ。

 ゾーン3:すべての人にマンガがある A Manga for Everyone それまでの展示でマンガ初心者を脱した人に、自分が好きなマンガを発見してもらうコーナー。ある意味、ここがもっとも原画展らしいスペース。だが、同展のゾーンごとの仕切りはさほど厳密でなく、他のゾーンの展示が常に視界に入ってくる。そこがなかなか面白く、一筋縄ではない。

 ゾーン4:マンガのちから Power of Manga コミケやコスプレのビデオ、マンガを使った啓発ポスターなどを展示。読み手がマンガから刺激を受けて、何か違うものを“再生産”する「二次創作の欲望」のようなものに光を当てている。

 ゾーン5:マンガとキャラクター Power of Line 会場を取り囲む壁を使って、有名キャラクターのパネルと原画が並ぶ。そこに河鍋暁斎の「新富座妖怪引幕」を同列に並べるのが最大のたくらみ。こうして見ると、暁斎と現代マンガの間には、意外と差はないのかもしれないと気づかされる。

2019-5-26大英博物館のマンガ展3
赤塚りえ子さんの作品

 ゾーン6:マンガ 制限のない世界 Manga:no limits 同展の真骨頂と言えるゾーン。陶芸家で現代美術家の三島喜美代さんと細野仁美さんの「マンガ」をモチーフにした驚きの作品、赤塚りえ子さんが父、不二夫さんの作品にインスパイアされて作った立体アートなど、マンガを超えたマンガというべきものを展示している。

 この六つのゾーンの後に、井上雄彦さんの3点の描き下ろしという「サプライズ」が用意されている。見事な締めくくりというべきだ。井上さんがこの題材を選んだ理由に思いをはせる。

2019-5-26大英博物館のマンガ展4
Manga展会場

 英国はマンガの読者は決して多くないはずだが、同展の広報担当者ニッキー・エルビンさんは「普段は中高年層の来場者が多い大英博物館に、このManga展で若者が詰めかけてくるかもしれない」と期待する。

 大英博物館という、ある意味英国文化の「ど真ん中」で開催されるManga展。その成否は、私たちにとっても大いに気になるところだ。いや、それどころか、日本人が見てこそ、得るものの多い展覧会かもしれない。

 (編集委員 石田汗太)
<引用終り>

日本の文化がヨーロッパで紹介される。昨年から今年にかけて、パリを中心にフランス各地で行われた『「ジャポニズム2018:響きあう魂」 2018年5月~2019年3月』に続く日本文化の紹介であり、大変いいことだと思う。
尚ジャポニズム2018については以下参照ください。
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1602.html

  1. 海外
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2019-05-25 16:03

ごんぎつね


 筑波大学准教授の掛谷英紀氏がツィッターで「ごんぎつね」について興味深いことを言っているので紹介したい。
童話ではあるが、その言っている意味は深い。それは現代に生きる人にも大事なことだという話。
どんな事かと言うと・・。


<以下掛谷英紀氏のツィッターより引用>
https://twitter.com/hkakeya/status/1131918796212527104

Hideki Kakeya  2019年5月24日
 こんなことを言ったら怒られるかもしれないが、今自分が一番教えたいのは、小・中・高の国語。以前紹介した「ごんぎつね」しかり、夏目漱石しかり、今の国語教育では作品の良さが全然伝わっていない。初等・中等教育は人格形成に大きな影響を与える。高等教育より遥かに重要。

関連のツィッター 
@hkakeya
 2018年8月25日
 入試よりも深刻な国語教育の問題は、作品の意図を捻じ曲げて教えること。「ごんぎつね」を大人になって読んだとき、小学校で習った記憶のないシーンがあり、そこが作品の肝だった。多くの学生に確認したが、そのシーンを覚えている人はほぼゼロ。ご自分で確認できるよう、解説まで少し間をおきます。
 
@hkakeya 
 2018年8月26日
 ごんぎつねの最も重要なシーン。ごんが撃たれる前日、兵十と友達の会話を盗み聞ぎして・・・
「ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれが、くりや松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼を言わないで、神さまにお礼を言うんじゃあ、おれは、ひきあわないなあ。」

@hkakeya
 2018年8月26日
 ほとんどの先生は、単に可哀想なごんの話として教える。一見悪い狐も本当は優しいと。けれども、さきほどのシーンに注目すると解釈は変わる。最初はお詫びのつもりでも、次第に傲慢な気持ちになる人の習性への戒めの話と解釈するのが順当。自分の善行だと知ってほしくなったから、見つかって撃たれた。

@hkakeya
 2018年8月26日
 ごんきづねは童話であっても非常に深い作品。その文学性を無視して、アムネスティ運動のイデオロギー色に染めて教えてしまう現状は非常に残念。ちなみに、過去このシーンを覚えている学生が1人だけいた。親が学校の先生でこのシーンが一番大事だと教わったらしい。そういう先生が増えるとよいのだが。

<引用終り>


 ちょっと補足
愛知県半田市に新美南吉記念館と言うものが有ります。そこから北を見るとごんぎつねの住んでいたと言われる「権現山」(ここは阿久比町植大)が見えます。
そしてここには今でもキツネが住んでいる。そんな事が見つかってます。

これが権現山。桜の季節の写真です。

2019-5-25ごんぎつね4

この山の頂上にはその名の由来になった権現さんが有ります
(正式名称は五郷社だが、現在でも地元では権現さん(権現社)と呼んでいる)
2019-5-25ごんぎつね3

石段の左の掲示板にはこんな事が

2019-5-25ごんぎつね2

これがその写真、もしかしたらゴンの末裔だったりして・・・

2019-5-25ごんぎつね1
  1. 教育
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2019-05-22 17:33

津輕の印象<太宰治のこと


 青森で三内丸山遺跡を見てきたのだが、青森、津輕と言えばどうしても太宰治を忘れる訳にはいかない。三内丸山の次に太宰治の生家「斜陽館」を見てきた。

斜陽館
2019-5-20斜陽館1

2019-5-20斜陽館2

凄い豪邸である。


所でこの斜陽館に行く途中で「アレッ」と思ったことがある。実はその事には私の若いころの経験が絡んでいる。もう古い古い話だが、私が20代の頃、青森県に来たことがある。
本当は北海道一周ドライブを考えていたのだが、今日のように高速道路網が出来ている訳ではない時代(東名高速が部分開通したばかり、東京までは全部下道の時代)、まず手始めに盆休みに名古屋から青森まで車で走って行き道路事情を確認しよう。翌年北海道一周だ。そんな事で青森まで行きました。
そしてどうしても見たかった所が竜飛崎、丁度青函海底トンネルの工事が始まったばかりなので、そこを見たかったわけです。


青森から青森湾・陸奥湾沿いに(右手に海を見ながら)北上すると蟹田と言う町に着きます。そこから海岸沿いを離れ、山越えの道を進み、三厩(みんまや)を越えて竜飛崎に着きます。

2019-5-19津軽半島の観光地図

蟹田の町は上掲観光地図で「津軽鉄道」という吹き出しが有りますが、その「道」と言う文字の上あたり、鉄道が左に折れ曲がっているところが蟹田の町です。

この町で道を聞こうと車を止め、地元の人に聞きました。竜飛崎に行きたいが、どの道が良いか。
地元の人は親切に教えてくれましたが、それより車のナンバーを見て「名古屋から来たのか、懐かしいなあ。俺も名古屋にいたことがあるんだ。今の名古屋の様子を聞かせてくれ。」そう言いだしました。そしてちょっと待てと言って家の中に入って行き、大きなスイカを一つ持ってきました。「丁度冷えている。珍しい客人が来たんだから、まあ、スイカでも食べてくれ」。道を聞いただけなのに、小一時間そこでスイカを食べながら話をしました。何せ昭和40年代です。車そのものが珍しかった時代。津軽の人は親切なんだなあ、そう思ったわけです。
こんな事情で青森・蟹田・三厩・竜飛のルートは私には思い出深い道。


所が今回三内丸山(青森市)からナビを頼りに斜陽館のある金木に行こうとすると、蟹田の大分手前から左折し山道に入ります。この山道、走ってみるとどうも道の感じが私には違和感がある。昔から人の通った道ではなく、比較的最近できた道のように感じるのです。

それでも人知れず桜が咲いていました。
2019-5-20県道2号線沿いの桜

斜陽館で話を聞いていた時、或る人から太宰治は「津輕」を執筆するため、津軽各地を回ったが、その時は船も使っていたよ。でもどうして船なんか使うんかねえ。そんな話を聞きました。

これが太宰治が「津輕」に自筆で書いた津軽の地図。

2019-5-19太宰治の描いた津軽半島に地図

太宰治の津軽での行程
東京発 - 青森経由、蟹田泊(中村貞次郎宅) - 三厩泊 - 竜飛泊 - 蟹田泊帰(中村宅) - 金木泊(生家) - 五所川原、木造経由、深浦泊 - 鯵ヶ沢経由、五所川原泊 - 小泊泊 - 蟹田泊(中村宅) - 東京帰着

そして上掲行程のうち何処で船を使ったのか、それは蟹田青森間です。この間はバスも使ってますが、天候が良ければ船も使っています。

この話には津軽半島の地形などを見てみないと分からない所が有ります。

最初にこれは津軽半島の衛星写真(主要な地名と特徴を追記しました)

2019-5-20津軽半島衛星写真1

この衛星写真と冒頭の観光案内図を見比べると青森県の特殊性が分かる。青森県の県庁所在地はもちろん青森市だが、土地としては青森市のある青森平野はさほど大きくない。
歴史的には弘前の津軽藩のイチ出張所的存在として港を開いたのが青森市の地だった。

そして重要な事は津軽半島は津軽山地で完全に分断されていること。
太宰治が津軽執筆の為津輕にやってきたのは昭和19年。この当時、津軽山地を横断する道路は南の鶴ヶ坂、この一か所だけだった。
津軽山地横断道路は戦後3本の県道が開かれたが、いずれも冬季閉鎖(11月中旬~3月一杯くらい)される道路。一番北側の県道12号線の峠にトンネルが出来、通年通行可能になったのは平成9年のこと。
また西海岸を北上する方法は、小泊から先はやはり道らしい道はなく、陸路で竜飛まで行けるようになったのは、自衛隊の手を借りて道路が出来た昭和59年以降のこと。

またもう一つ、青森ー蟹田ー三厩を結ぶ鉄道「津軽線}があるが、これも戦後の開通。この路線は現在は北海道と本州を海底トンネルで結ぶ貨物列車が大量に通っている。多分太宰治が津輕に取材に来た折には現在の状況は想像もできなかっただろう。
(注:海底トンネル内は三線軌道といってレールが3本あり、新幹線の標準軌(1435㎜)と在来線の狭軌(1067㎜)に対応している)

だから太宰治が蟹田まで友人を訪ねていくにはバスか船ということだった。それだけ津軽半島東部は不便な所だったということでしょう。

もう一つ、衛星写真の一つ上に太宰治自筆の地図が有り、津軽半島東海岸を「外ヶ浜(上磯トモイフ)」と書いてあります。太宰のこの地図は地名はみんな「正式の名前」が書いてありますが、この外ヶ浜(勿論上磯も)だけは市や郡、町村の公式名称ではありません。現在は外ヶ浜町が有りますが、平成17年(2005年)の平成の大合併でできた町名。この外ヶ浜という地名そのものは平安時代からの古い地名で、津軽半島北部から陸奥湾沿岸、そして夏泊半島辺りまでを指していたもの(諸説あり)。そして外ヶ浜と言う地名はさいはての地とか化外の地(けがいのち)と言われる辺境とみられていた。江戸時代に入って津軽藩になってもこの辺境の地という見方は変わっていないかったようで、津軽半島北部から浅虫(温泉)までを上磯、浅虫以東の夏泊半島辺りを下磯と呼んでいたようです。太宰治の地図はこんな事が書いてある。そう見ていいと思います。
外ヶ浜は以下参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E3%81%8C%E6%B5%9C


また津輕に人がやってきたのはずい分古いようで、津軽弁(ズーズー弁)には「古語由来の言葉」が残っています。
例えば津軽弁で「わどな」と言うと「私(わたし)と貴方(あなた)」です。これは『「」と「」』、「わ」は古語の「われ(吾)」由来、「な」は「なんじ「汝」」由来です。

この「わ」ですが、沖縄や奄美も同じように残っていて「わん」だと思います。
また出雲でも「わ」が私の意味があると聞いたような・・・。砂の器の世界ですかね。


話があっちこっちに飛んでしまいました。
今回青森市から金木の太宰治の生家に行って見て、「山道を走りながら、人の行き来した気配の少ない土地」という感想には、こんな土地柄が関係していることが分かりました。

そんな目で太宰治のあった人を見てみると、
小泊の「たけさん」、この人は乳母ですが、実際は太宰の心の母だったのでしょう。この人の住む小泊は津軽平野の行き止まりの地。ここ以上何処へも行けない土地でした。
また親友の蟹田のNさん(中村氏)は津軽平野から見ると深い山の向こうの辺境の地の人でした。
此処に太宰治のモノの見方のルーツを見るように思います。

こんな事で、太宰治の津輕はこんな言葉で締めくくられています。

津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ。命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬

私の長い長い青森談義もこれにて終りといたします。

  1. 社会一般
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2019-05-18 15:35

三内丸山遺跡<巨木は縄文文明の象徴


 三内丸山遺跡でどうしても腑に落ちない事。それはこの巨木についてである。

2019-5-13三内丸山の巨大建物 
こんな巨木、1本の重さが約8トン、樹種は栗の木である。日本にはこんな大木は無いので、ロシアのソチから持ってきたもの。

しかし栗の大木は兎も角、ヒノキの大木をどうしても使わねばならない所が日本にはある。伊勢神宮の式年遷宮である。20年に一度の式年遷宮で、建物から鳥居、宇治橋など全部作り替える為、式年遷宮ではヒノキの木が約1万本使われる。中でも主要な柱などには樹齢200年から300年の巨木が使われる。
このヒノキ材を現在供給しているのが岐阜県と長野県にまたがる木曽谷。そこに戦前は神宮備林と言われた地域が有り、現在も国有林だが通称備林と呼ばれている地域。ここから江戸時代初めころから継続して伊勢神宮用の巨木を供給している。広さは訳8,000ha。
神宮備林
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%82%99%E6%9E%97

伊勢神宮用の木材供給の為、上記神宮備林の外に伊勢神宮でも用材を育てようとしている。かつて(鎌倉中期以前)式年遷宮用用材を供給していた御杣山(みそまやま)と言われていた伊勢神宮周辺の山を大正12年(1923)に計画策定し、200年計画で用材確保を進め、毎年2万本のヒノキを植林し、管理している。もう100年近く前からやっていますが、まだやっと半分になろうかという所。
神宮林(神宮宮域林)

神宮林ではこんな風にして管理している
2019-5-14神宮林のヒノキ管理状況   

200年かけて1メーターの太さのヒノキを育てようという計画。国家百年の計と言いますが、現実に200年先を見越したプロジェクトを百年も前から実行している。素晴らしいことです。


さて三内丸山です。
三内丸山は5900年前から4200年前まで1700年間継続して定住していた所。1700年間と言えば、古墳時代から現代までの期間。そんな所に住んでいた人たちは、多分現代人とは時間の感覚が違うのでしょう。
伊勢神宮がその悠久の歴史から式年遷宮用材確保の為、200年計画のプロジェクトを進めている。これと同じことが三内丸山でも実行されていたのではないかと思えます。

つまり周辺の山に栗を植え続け、その中の良いモノは百年二百年と手入れを続けていく。結果として1メーターもの巨木が育つ。
そしてこんな巨木は単に自分たちの住居や構築物に使うだけでなく、筏に組んで荷物の運搬だけでなく、木材そのものも交易の対象にしていたのではないかと。これは私の独断と偏見からではありますが、有力な可能性ではないかと思っています。

その理由は三内丸山からはヒスイの完成品だけでなく原石も出土していること。
ヒスイは約600キロ離れた新潟県糸魚川周辺で採れたものなので、重い原石を運ぶのは大変。しかし船とか筏なら重さはほとんど問題にならない。

三内丸山遺跡のヒスイ出土品のうち原石
2019-5-17三内丸山のヒスイ原石
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/sandaimaruyamaiseki/ibutu_kouekihin/hisui/IPA-san1030.htm

もう一つは、栗の巨木を使った縄文遺跡が石川県でも発見されており、縄文時代の日本海側に巨木文化が有ったと言われていること。

金沢市のチカモリ遺跡
掘立柱の環状木柱列(ウッドサークル)が発見され、直径30から85センチメートルの巨木柱が発見され、円を描くように配置されていた。

能登半島の真脇遺跡
円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。その太さは直径80 - 96センチもある


こんな事で、三内丸山を中心にした物流ののネットワークがあった。そんな事が三内丸山では説明されています。

2019-5-4青森4

三内丸山を中心にして北海道から長野県辺りまでがその範囲。こんな事が遺跡から出土した黒曜石などの遺物から分かってきました。
私はこの交易ルートは主に海上ルートが中心ではないかと見ていまして、船は丸木舟なのですが、そのほかに筏も有力な手段と考えています。

筏と言ってもピンときませんので、一寸筏について書いてみます。

筏による木材運搬

これは江戸時代の筏による木材運搬の様子
2019-5-17筏による木材運搬風景(和歌山)
和歌山木材史より
http://www.wakayama-mokuzai.or.jp/his/s-0/hisph-024.html

そして江戸時代中頃(1763年頃)に秋田から姫路まで筏で木材を運んだ記録がある。
ソースは
高砂市教育委員会の記事より
http://matsuemonho.mods.jp/wp-content/themes/outspoken/img/matsuemonho_kazewoamu.pdf

もっと古くは出雲大社にこんな伝承がある。。

寄木(よりき)の御造営(1115年)
天仁3年(1110)7月4日のこと、出雲大社の近くの稲佐の浜辺に長さ10丈(約30メートル余)の巨大な大木約100本が漂着しました。

こんな伝承なのだが、出雲国総社六所神社の神官の方のブログによれば、その内訳が分かる。
https://ameblo.jp/kikkoumon/entry-11882333853.html

百本の大木と言うものの、その内訳は
大 十八本 長十丈、九丈、八丈、七丈、六丈、口七尺、六尺、五尺、四尺、
中 九本、長五丈以上、
小 六十本、三丈以下、 こうなっている。
(えッ、数が合わないですか、まあそう言わずに、昔のことですから・・・)
ここまで書いてあるということは、この大木、筏に組んで運んできたのでしょう。但しどこから持ってきたかは記録に残せない何かが有ったので(禁制の山に入って伐採したとか)、流れ着いたとしたのでしょう。
要はこんな大木を筏に組んで運ぶ技術が昔から有ったということだと思います。

こんな事実を拾い上げていくと、縄文時代から巨木を筏に組んで運んでいた、またその筏でいろんな物資も運んでいた。そんな様子が見えてきます。
思い切って想像でいえば、物流の船が集まるのは満月の日を目指す。そんな時、巨大な大型竪穴住居がシティーホールにもなり、船乗りの宿泊所にもなり、持ってきた物資の交換所にもなる。また巨大な六本柱の建物が、見張り台とか烽火台とかになったのではないか。そんな風に思えます。


そしてここまで見てくると、日本の歴史教育から見直すべきだということが見えてきます。

昔は学校では縄文時代を教えていましたが、ゆとり教育のせいなのか、反日教育のせいなのか、平成10年(1998年)から小学校学習指導要領改訂で、旧石器時代と縄文時代が教科書から消えてしまった。平成20年(2008年)にやっと復活したものの記述は僅か。その原因は「日本人の歴史は大陸や半島から稲作が伝えられて、やっと発展の糸口をつかんだ。だから未開の縄文時代など学んでも仕方ない。こんな事なのだろう。
現に今でも何か新しいことが見つかるとこれは半島由来、これは大陸由来。こんな証拠もない議論がまかり通っている。
こんな流れが大きく変わったのは2017年3月の聖徳太子抹殺失敗事件。この事件が明るみに出したのは中国から学者や役人に色んな工作があり、その結果こんな事が起こったというもの。

そしてもう一つ、日本人は子どもの頃から世界4大文明と言うものが有ると教えられ続けてきた。しかしこれも戦後の話で考古学では完全に否定されている嘘。
アメリカなどで教えられているのは世界の7大文明(西欧・イスラム・インド・中国・ロシア正教会・ラテンアメリカ・日本)では日本だけが一国一文明という唯一の存在だということ。
その唯一の日本文明は縄文文明から連綿と続いていること。
こんな事をこれからもっと教えていかねばけないと思うのです。

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2019-05-15 13:12

三内丸山遺跡からタイの思い出へ


 三内丸山遺跡で巨大な6本柱の建物を見て思ったこと。それが実は私のタイ時代の経験に繋がるので、三内丸山の話の途中だが、寄り道としてその一端を書いてみます。


三内丸山ではこんな巨木を使った建物を見てきました。柱の材質はクリでした。

2019-5-6青森7

また後ろの大型竪穴住居も柱などはクリ材を使っていたようです。

こんな大木が何処にでもある訳ではないことは誰でも分かる。しかし山に木が有るだけでは良い木材が取れるわけではない。

こんな時、私はタイでこんな経験をした。
タイでは山に緑が一杯なのに材木が貴重品で高価。だから日本では木っ端と言ってもいい材木でも貴重品なのである。そんな事の一例として・・・。

タイに工場を作るにあたって、日本から沢山の機械や装置を送り込んだ。そんな機械や装置は木枠に組んで運ばれてくる。
その木枠の一例。適当な写真が無かったので、これは中国景徳鎮の焼き物業者がタイに出店を作って売っていたところ。焼き物の話ではなく梱包用の木材の話としてみてください。
タイのシラチャと言う田舎町での風景。ショッピングセンター横の空き地に景徳鎮の出店。中にいるのは中国人。

2019-5-14シラチャに来た景徳鎮の陶器や-01
(余談だが中国人の商魂の逞しさは大したもの。日本人も見習わねば・・・)

商品の焼き物はこんな風に梱包されている
2019-5-14シラチャに来た景徳鎮の陶器や-02

そして出店の裏手にはこんな木枠の不用品が
2019-5-14シラチャに来た景徳鎮の陶器や-03

こんな木枠の不用品。日本では当然ゴミでカネを払って引き取ってもらわねばいけない。とそんな日本人の常識だが、タイでは全く逆。工場を作る際にはこんな木枠が大量に出る。大きな機械ならもっと太い木も使われるので、処分が大変だと、これは日本の常識。
しかしタイ人マネージャーはこれは売れるので大事だという。
オマケに売るより従業員が分けてくれと言ってくる。何に使うんだと聞くと家を作るんだという。
こんな木の切れっぱしで家ができるんかいな?、この疑問は尤もだが・・。

これはタイの民家の一例


これは私が奨学金をだして中学校を卒業させた子の一人の家。
奨学金で早速制服を買ってきて撮った記念写真。まさに一張羅です。
背景の家を見てください。タイの田舎の家ならこんなもの。上掲の梱包資材の木っ端でも使えるということです。


前置きが長くなりました。本題に戻って、どうしてタイは木材が無いのか。モノの本では昔山の乱伐が酷く、そのせいだというのだが、それだけだろうか。
そんな目で機会が有るごとに山林などを見渡してみても、タイでは建築用木材にするような長くまっすぐな木があまり見かけ無いことに気が付いた。日本の杉やヒノキみたいな木が無いのです。
植林で細長い木を育てたりしているが、製紙用の細いモノばかり。
そして大木はといえばこんなもの

2019-5-14タイの国道4号線沿いの巨木-01

これはバンコクからマレーシア方向に南下する国道4号線の十数年前の写真。
凄い木でしょう。
片側1車線の国道をすっぽり覆うような巨木。巨木だが、タイの樹木は上には伸びず横に広がる性質が有る。(太陽が真上に有るためで、熱帯地方ならではのモノ)
この為、大木であっても真っすぐ伸びないので建築用木材にはならない。(柱にならないのです)

以上が私のタイでの経験で、タイでは建築用の木材を育てるとか永年手入れするとか云う事をしていないので、建築用の木材が手に入らない。だから住宅がコンクリート製になっている。そう認識していました。


所で本題に戻って、冒頭の写真の三内丸山の巨大な6本柱建物の材料、これはクリでした。
しかし私の知る栗の木はこんなもので、杉やヒノキのように上へ上へと延びるわけではありません。

これが普通の栗の木
2019-5-14栗の木写真

こんな風に横に広がってしまいます。これでは建築用の木材には向きません。
(注:この写真の木は多分途中で上に伸びないように先端が止めてあると思いますが、若しそんな事をしなくても栗の木は横に広がります)

そして老木でもこんな風
2019-5-13青森県むつ市の栗の大木樹齢800年

推定樹齢は約800年。そんな大木ですが、こんな風に枝分かれしていては建築用には不向きですね。

こんな風で、栗を建築材として使うには苗木から育て、剪定して上に伸びるようにし、或る程度伸びても枝打ち・間伐などで長年管理していく。こうして柱に出来るような長くまっすぐな木材を育てていく。こんな事でないと巨大な柱は出来ないと思うのです。
しかもその永年と言うのは、例えばヒノキの場合、100年で40センチ位になるようで、1メーターもの巨木にするには200~300年も管理し続けないといけません。

三内丸山遺跡は今から5900年前から4200年前まで1700年間続いたと考えられています。1700年と言えば、現代でいえば古墳時代から現代までに相当する訳で、とてつもなく長い時間。そのかなりの年月を栗林の植林管理に費やしていた。そう思って良いのではないでしょうか。

結論として、三内丸山遺跡ん縄文人は千数百年と言うとてつもなく長い期間を通じて栗の木を育てていた。その結果があのような巨木の建物が出来た。そう思う訳です。

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2019-05-12 13:36

三内丸山遺跡<縄文人の数字認識能力


 三内丸山でどうしても見たいものの一つが縄文人がどれくらい数字を認識する能力が有るかということだった。三内丸山遺跡は今から5900年前から4200年前までの1700年間(注:従来は5500年前から4000年前までの1500年間と言われていた)、途切れることなく営まれた都市又は村の跡でした。今まで縄文人は定住ではなく狩猟採集で各地を転々としていたと言われていたが、実は縄文人が高度の文化(文明と言ってもいい)を持っていた証拠が数字の認識能力。そんな所が見たかったわけです。
(注:三内丸山遺跡の年代、従来は5500年前から4000年前までの1500年間と言われ、三内丸山遺跡発行の資料でもそうなっているが、最新の研究では5900年前から4200年前になった。2019年4月を目途に資料書き換え予定だが現在はまだ変更されていない。以下記事参照
https://www.toonippo.co.jp/articles/-/84991


そんな思いの原点がこれ、大型掘立柱建物という。(抑々この名前からして気に入らない。掘立小屋というと粗末な小さな安普請の小屋というイメージで、未開の縄文人と言わんばかりのイメージだが、縄文人は高度な文化を持っていたし、掘立柱建築はある意味合理的なのだが、この話は置いておきます)

2019-5-11三内丸山24ミリで撮影 
24ミリの広角で撮ったので、柱の上すぼまりが強調されています。それを念頭に見てください。

ちょっと目にはその大きさは分かりませんが、隣にいる人と比べてみてください。柱の太さは約1m。材質は栗です。但し栗はこんな風に真っすぐの巨木は日本には無いため、ロシアのソチから輸入したもの。柱1本の重さは約8トン、長さ17m、太さ約1m。1,996年10月に組み立てられたものです。

さてこの巨大な建物ですが、柱穴は穴の直径は2m、深さは2.2m、そして2°内転び(内側に倒れる事)しており、そこには柱の根元部分が残存していました。柱は石斧で成形され、腐食防止で焦がしてありました。
そしてこれからが重要。柱穴のピッチは全て4.2mでした。この当時1尺35㎝の縄文尺が使われていたと言われ、その縄文尺を使うと12縄文尺になります。

上掲写真の奥、白いドーム状の建物が見えますが、この大型掘立柱建物の柱穴が出土した状態で保存公開されています。

2019-5-6青森6 
内部は乾燥やコケなどを防ぐため空調されています。前代未聞のモノなのできちんと管理しているということです。


この「12」でピンときたものが有ります。
3+4+5=12
この345と言えば

ピタゴラスの定理です。
2019-5-1112尺1  

ピタゴラスの定理で直角三角形が出来ます。
これを使えば、広い所でも紐と釘があれば直角が出来ますね。
2019-5-1112尺2 
こんな風に紐に印をつければ簡単に直角が得られる。

私は縄文人はこのようにして直角が得られることを知っていたと考えています。
(ピタゴラスの定理そのものを知っていたかどうかは今後の研究を俟ちたい)


一寸話は飛びますが・・・。

私は縄文人は12進法を使っていると考えているのですが、先ずはこんなものを見てください。
青森県の隣、秋田県の大湯環状列石遺跡(ストーンサークル)から出土した土版です。
(分かりやすいので参考用に出しました)

2019-5-7土版(大湯環状列石出土・秋田県鹿角市)  

縄文時代後期前葉から中葉(今から4,000年~3,500年前)のものと言われ、三内丸山より少し新しい時代のモノ。表側に1~5、裏側に6.つまり1~6までの数列が確認できる。

さてでは三内丸山遺跡では如何か。

2019-5-4青森5 

これは三内丸山の土偶。よく見ると口を1とし、その下に2,3,6,7などの数字が見える。

これを研究した人の記事では
2019-5-11三内丸山の土偶1~12の数列 
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/kitadai/j_kouza/kouza-17.htm

こんな風に1から12までの数列が確認できるという。

私も三内丸山遺跡の縄文時遊館でじっくり現物をみてきた。この土偶の数字マークは多分笹の茎のようなものでポンポンと手際よく文様を形作っている。
これは推定だが、こんな事を簡単にできるということは、多分「数え歌」のようなものを口ずさみながらやっていたのだろう。そんな手際よさを感じさせるものだった。
こんな所から、私は縄文人は相当数字を使いこなしていた。それは12進法である可能性が高い。そう見ている。



その12進法の理由、一番大きいのは1年が12か月だということだと思う。そしてその1ヶ月は月の満ち欠けを見れば日にちが分かる。現に今日でも時間・暦は12進法(半分の6進法もある)ですよね。
暦の話は、太陽暦の1年は365.2422日だから、4年に一度はうるう年で・・・とか
太陰暦の1ヵ月は29日か30日で、1年は354日又は355日で、3年に一度くらいは閏月が有るとか、色々あるが、まあザックリした話は1年12か月。

この暦の話は私のタイでの経験から、古代の人もきっと月の満ち欠けで日にちを見ていたと思うからである。
何故か?
タイではいろんな祭りが在るが、その祭りは満月に日にやるのが当たり前になっている。有名なのはローイ・カトン(ローイ・クラトン)という聖霊流しのようなもの。これはタイの陰暦12月の満月の夜に行う。

これはローイ・カトン(ローイ・クラトン)、カトンというバナナの葉で作った船に蝋燭を立てて流す(ローイは漂わせるの意)
2019-5-11ロイカトン 
(注:こんな風にしてカトンを流せば、川や池が流されたカトンで一杯になり汚れると思うのだが、実はカトンは願い事をかける為お賽銭(小銭)も添えておく。暫くすると何処からか「カッパ」が現れてお賽銭目当てでカトンを回収していく。そんな回収システムが有る)

他にも陰暦3月の満月の日にはマカ・ブーチャ(萬佛節・祝日)、陰暦6月の満月の日にはヴィサカ・ブーチャ(佛誕節・祝日)、陰暦8月の満月の日にはアサラハ・ブーチャ(三宝節・祝日)、アサラハ・ブーチャの翌日がカオ・パンサー(入安居・祝日)、陰暦11月の満月の日がオーク・パンサー(出安居)。
(注:タイの陰暦は日本の陰暦とは出発点(元日)が違うので、約3か月ずれている)

どうして満月の日に色んな行事が有るのか、色々聞き込みを行ってみた。その結論は・・・。
タイの田舎では、ほんの数十年前までカレンダーもなく有っても字が読めず月を見て日にちを知るだけだった。満月の日にお寺に行けば何かをやっているし、市が立っていたりする。また男と女の出会いの場でもある。そんな話だった。
縄文時代も事情は昔のタイの田舎と同じであろう。何かの行事は満月の日に行うのが一番わかりやすいのだと思う。

結論です。縄文人は未開の民ではありません。少なくとも12進法の数字を使いこなし、足し算引き算は理解し使えたと思います。

<続く>
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2019-05-08 13:39

三内丸山遺跡を見てきた<巨大竪穴住居はシティーホールの可能性


 青森市の三内丸山遺跡を見てきました。これで私としてはどうしても見たかった古代遺跡二つを煮たことになります。
一つ目は古代出雲の出雲大社の遺構(巨大な三本の柱を束ねた古代の高層建築遺構)。そして三内丸山遺跡です。


最初に目当てのモノの全体の姿はこれ

2019-5-6青森7

右側の巨木6本でできた「大型掘立柱建物」、これも大いに興味が有るのですが、それは次回に回して、最初は後ろの「大型竪穴住居」についてみていきます。

中の様子はこんな風

2019-5-7青森8


そしてこれは大林組プロジェクトチームによる復元図

2019-5-7三内丸山の大型竪穴住居  
三内丸山遺跡の復元 大林組プロジェクトチーム著  学生社 1998年7月刊 より


凄い大きさです。長さ32m、幅9.8mもあります。内部の広さは約250㎡。
これを中学校の講堂だとすると、大体一人0.6㎡とみれば416人分。この遺跡の近くに青森市立三内中学校が有りますが、この学校の生徒数はネットで見たら平成29年4月現在で411名、教職員が36名、こんな風になっていました。この生徒さん全部が入れる広さということになります。


実は縄文時代と言うのは昔から「縄文時代は狩猟採集民の時代、だから食べ物を求めてアチコチ移動していた。そんな移動の民だから文化もない」、こう言われてきました。
しかし私は遺跡の発掘などにも参加したことが有り、貝塚の貝の量の多さ、そして貝の層の深さで相当長い間そこに住んでいたことを知っていました。

そんな目でこの遺跡を見ると、私にはここが当時の縄文都市ではないか、この巨大な「大型竪穴住居」は公会堂とかシティーホールといった使われ方をしていたのではないかと考えていましたが、実物(復元建物)をみて、一層その感を強くしました。

この当時、縄文海進といわれ、気温は現在より2度ほど高く、また海面が5mほど高く、この遺跡のすぐ下が波打ち際になっていました。
この時期の海が現在より暖かかった証拠として私は「ハイガイ」という貝に注目しています。

ハイガイ


ハイガイは暖かい海を好む貝で、タイなどではよく食べられています。現在のハイガイの北限は学者は愛知県の三河湾と言いますが、こんな貝見たことは有りません。現在確認されているのは九州の有明海辺りが事実上の北限のようです。
こんな貝が三内丸山遺跡からの出たと聞いていたのですが、これはまさしく今より温暖な時代の証拠。それが見たかったのですが、今回は時間もなく確認できませんでした。


縄文海進での海面位置。現在の青森市街中心部は殆ど海面下になっている。

2019-5-8三内丸山遺跡の縄文海進図by青森県教育庁文化課


これが当時の三内丸山の復元図

2019-5-8三内丸山遺跡の復元図by青森県教育庁文化課
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/sandaimaruyamaiseki/zentaigaiyou/zentai/IPA-san0160.htm
上掲Hpの説明では、
【集落の復元CG】 三内丸山遺跡は日本最大の集落跡で、縄文人が長期間にわたって定住生活を営んでいた場所である。CGで復元された集落の左上の塔は大型掘立柱建物、隣接するのは大型竪穴住居、中央の盛土の間の建物は高床倉庫である。(資料提供:青森県教育庁文化課)

こうなっている。直ぐ近くに海が見えます。町に入る道路が有ります。高床式の倉庫群もあります。
住民の数の倍以上の人を収容できる大きな施設。これは周辺の人たちを含めた公会堂のような施設と言わざるを得ない。シティーホールと言って良いと思います。
しかもこのCGをみれば、巨大な掘立柱建物が望楼の機能を持っていたことは間違いないだろう。

更にこのCGでは分からないが、この遺跡周辺には栗などの林が有り、人の手で栽培されたものと考えられています。縄文時代とは狩猟採集民ではなく狩猟栽培民だった。そしてその中で三内丸山は物流の中心地でもあった。

2019-5-4青森4 

こんな事で、三内丸山遺跡は縄文時代が縄文文明と言ってもいい、そんな事が言えるのではないか。今回三内丸山遺跡を見て、その思いを強くしました。

<続く>
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2019-05-05 09:05

青森の印象


 青森へ行ってきました。
一番の狙いは三内丸山遺跡を見ることだったのですが、その話は次にして、最初は青森の印象記。


青森空港でレンタカーに乗り、1~2キロ走ったら道路わきの日陰部分に雪が残っていた。
レンタカーの担当者の方は昨日雪が降ったと言っていたがなるほど。ちなみに帰宅後調べてみたら青森空港は海抜198mだった。

そしてこんなもの

2019-5-4青森1

青森市から弘前市への国道7号線。岩木山が堂々たる風情。 

〽お岩木山で 今日も又 〽津軽の風と 待っている・・・
こんな歌が出来る訳ですね。

青森県は道路わきの電柱がとても少ない(殆ど無い)。だから車窓風景がとても素晴らしい。
変な所で感動しています。


最初に弘前城へ
この日(4月29日)は好天だが翌日から天気が下り坂予報なので、先ずは弘前で花見。

2019-5-4青森2

桜は満開を少し過ぎた、でもまあ見ごろでした。

2019-5-4青森3

城のお堀は花びらが水面(みなも)を埋め尽くしていて、遊覧船は花びらをかき分けて進む。
こんな風景はめったに見られないモノでした。

本命の三内丸山遺跡は次回に。
  
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