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2019-04-29 06:21

青森へ行ってきます


 青森の三内丸山遺跡を見に行きます。
帰ってくるのは令和元年の1日の予定です。

でも気の早い人がいるもんですね。
2019-4-29七里御浜 
  1. 日常の話題
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2019-04-28 16:15

平成の30年で何が変わったか


 あと2日で平成も終わる。新しい令和を前にして、平成とは何だったのか、私なりの解釈を纏めてみたい。

一言でいえば、東西冷戦終結とともに始まった平成時代は、アメリカとの経済戦争の時代。そしてその経済戦争の勝者は中国だった。この第二の敗戦で日本国内はデフレに沈み、雇用は就職氷河期。そして企業は海外で稼ぐ時代へと経済構造を転換した。そしてやっとアベノミクスでその停滞から抜け出そうともがいている。そんな所と見ています。

私個人でいえば、日本国内ではもうこれ以上成長できない。だから海外に打って出よう。落下傘部隊で敵地深くに降りていき、そこでひと暴れしてこよう。あるのはやる気と知恵だけ。武器は敵の武器を分捕って使うんだ。こんな心意気でタイに行きました。

この事は海外に進出した多くの日本人が共通して心に持っていた想いでした。
その心意気は兎も角、家族がノイローゼになったりといった涙ながらの話も沢山聞きました。今もそんな思いの方が沢山みえると思います。

そんな事で日本がこの30年何で苦しんできたか、このグラフが一番良く分かります。名目GDPの推移です。

2019-4-28名目GDP推移日本アメリカ中国 
https://ecodb.net/exec/trans_country.php?d=NGDPD&c1=JP&c2=US&c3=CN

平成の初めには中国のGDPは日本の七分の一でした。それが2010年には日本を追い越し、現在は日本の2倍を超え3倍に迫ろうかと言う勢い。

その大発展の原動力がこれ、為替です。人民元レートを安く誘導し、中国を育て日本を叩きつぶす戦略。これが1993年のクリントン政権から始まりました。

2018-7-7ドル元レート推移

以下参照ください
アメリカの対中融和政策と日本 2018-07-10 17:25
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1541.html

このグラフを見ると、アメリカが無茶苦茶をやってきたことが良く分かります。
それに対し、日本の政治は余りにも無力でした…


そんな中で日本の産業構造がどうなったか。

これは日本の経常収支(国際収支)の推移

2017-10-1日本の経常収支推移グラフ1
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1453.html

これを見るとターニングポイントは2005年。ここからは国際収支の黒字は貿易収支を上回っている。
つまり海外への投資の「アガリ」が大きくなったわけだ。この事は2011年、未曽有の大震災と大津波、そして原発事故と言う大災害にも拘わらず「日本の経常収支(国際収支)が赤字にならない」という奇跡を起こしたことでわかる。

今でも新聞テレビでは日本は貿易立国だなどと戯言を言う羽織ゴロ、電波芸者が後を絶たないが、こんな実態をよく理解したいものだ。

もう一つ、製造業が収益構造を変えてきた証拠がこれ

2019-4-28製造業の収益構造の変化 
https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/201806/201806e.pdf

従来は、第一次所得収支の大半を証券投資収益が占めていたが、最近では、M&Aをはじめ活発な対外直接投資を背景に、直接投資収益の割合が高くなってきており、その海外資産からの収益が日本に還流することで我が国経常収支の収入源の様相が変わってきているように見える。

このような貿易収支の縮小と、所得収支、特に直接投資収益の拡大は、必ずしも独立の事象ではなく、一部産業の構造変化も反映していると考えられる。例えば、製造業では、海外展開の進展に伴い、これまで収益を支えてきた貿易による稼ぎ」から「投資による稼ぎ」へシフトし、収益が反映される項目が「貿易収支」から「所得収支」へ振り替わっていることが見て取れる。



冒頭紹介した「アメリカの対中融和政策と日本 2018-07-10 17:25」でトランプ大統領が戦っているのは過去3代の大統領(クリントン・ブッシュ(子)・オバマ)の失政と書きましたが、まさにその通りだと思います。

そしてアメリカの反日の大転換点は2015年3月、中国主導のAIIBにイギリス・ドイツ・フランスはじめ主要国が雪崩を打って参加する中、日本は不参加を貫きました。この結果対中国政策でのアメリカの孤立が回避されたこと。これが大転換点になりました。
そして現在は、トランプ大統領と安倍首相が4月5月6月と毎月のように有って会談する。恐らくペリー以来の日米交渉の歴史の中で前代未聞の緊密な関係。大変いいことだと思います。


以上が大きな平成の日本を取り巻く環境の変化ですが、そんな中で特に若い人に言いたい事。それはこれからの日本は世界に投資をして稼いでいかねばなりません。そのためには言葉はもちろんですが、世界に誇りうる日本を語れるような知識経験を身に着けて欲しいと思います。
特に発展途上国に対してはそんな感覚が必要ですが、アメリカなど先進国に対しても同じだと思います。

最後に現在の日米関係は大変良好と言えますが、アメリカのエリート層の本音はまた別です。
これは20世紀末にアメリカのメディア・エリート層対象に調査したもの。20世紀の最大のイベントは何かというアンケート結果。アメリカのメディア・指導層の考えている本音が分かります。
そのTOP10はこうなっている。
THE TOP 100 NEWS STORIES OF THE 20TH CENTURY 
1 1945 アメリカが広島・長崎に原爆投下 日本降伏し第二次世界大戦終了 
2 1969 アメリカ人宇宙飛行士ニール・アームストロングが人類初の月面歩行
3 1941 日本が真珠湾攻撃 アメリカが第二次世界大戦参戦
4 1903 ライト兄弟 飛行機発明
5 1920 (アメリカの)婦人参政権
6 1963 ケネディ大統領 ダラスにて暗殺さる
7 1945 ナチのホロコーストの恐怖 強制収容所公開される
8 1914 第一次世界大戦 ヨーロッパで始まる
9 1954 ブラウン教育委員会 学校の人種隔離撤廃
10 1929 アメリカの株式市場暴落 (世界大不況始まる)

参考エントリー
アメリカのメディア、指導層の歴史観 2017-06-14 18:43
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1402.html
国連の日本叩きは文明の衝突 2017-06-10 18:34

20世紀最大のイベントが人類が初めて月に行ったことでもなければ飛行機の発明でもない、「日本に原爆を落としてやった」です。そして3番目が「日本の真珠湾攻撃」です。
これだけは決して忘れてはいけません。

  1. 経済
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2019-04-27 15:42

使えない人物をトップに据えたらどうなるか


 4月27日の産経新聞のコラム「産経抄」が面白い。オバマ政権の副大統領だったバイデン氏についてだが、まさに正論を言っている。このバイデン氏については私もブログに取り上げているので、この問題を考えてみたい。
そしてその産経抄に関して阿比留瑠偉さんがFBで書いていることがまさしく本音。これは最後に。

先ずはどんなものか。
最初はその産経抄から。

<以下引用>
https://special.sankei.com/f/sankeisyo/article/20190427/0001.html

【産経抄】

4月27日

 オバマ米政権の副大統領だった民主党のバイデン氏が25日、来年の大統領選への出馬を表明した。党の指名候補争いでは最有力と目されている。折しも日本時間27日には、安倍晋三首相とトランプ大統領との10回目の首脳会談が開かれる。バイデン氏の動向も話題に上るのではないか。

 ▼バイデン氏といえば2016年8月、共和党大統領候補だったトランプ氏を批判してこんな発言をしたのが印象深い。①「日本国憲法を、私たちが書いたことを彼は知らないのか学校で習わなかったのか」。事実ではあるが、日本人としては忸怩(じくじ)たるものがある

 ▼「韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領には『安倍氏は靖国神社に参拝しないと思う』と言っておいた」。バイデン氏は13年12月12日、首相との電話会談でこう言い放ち、首相を驚愕(きょうがく)させた。当時、首相は近く参拝する意思を固めており、バイデン氏の勝手な発言はいい迷惑だった。

 ▼首相が2週間後の26日に靖国を参拝すると、②駐日米大使館がホワイトハウスの指示だとして「失望」を表明する。日米関係にひびを入れ、中国や韓国を喜ばせる異例の声明が出た背景には、メンツをつぶされたと激怒したバイデン氏の意向があったという。

 ▼首相はこの頃、周囲にオバマ政権下で2年半にわたり国防長官を務めたゲーツ氏の回顧録を薦めることがあった。そこにはこんな記述がある。③「バイデン氏は過去40年間、すべての重要な外交施策と安全保障に関する判断でミスを犯してきた」。

 ▼オバマ政権は「戦略的忍耐」とやらで北朝鮮が核・ミサイルを伸び伸びと開発するのを放置したほか、拉致問題への関心も薄かった。大統領選の行方は分からないが、少なくとも日本にとってはトランプ政権の方がずっとましであろう。

<引用終り>

以下は取り上げた私のブログ

①「日本国憲法を、私たちが書いたことを彼は知らないのか。学校で習わなかったのか」。事実ではあるが、日本人としては忸怩(じくじ)たるものがある

「日本の憲法はアメリカが書いた」とバイデン副大統領が言った 2016-08-18 16:13



私は今でもこの動画を見るたびにこみあげてくる悔しい思いが有る。
そんな思いを青山繁晴さんは雑誌正論2019年2月号でこんな事を書いている。
>先日に「日米の保守派が激論」とうたうフォーラムに招かれた。素晴らしい試みだと思う ただし、わたし自身は保守派という言葉をあまり使わない。
> その席で米側に「日本社会の歪みの多くは米軍による占領政策に淵源がある。そこに踏み込んで議論すべき時だ」と申しあげた。米側の代表は「心臓がドキドキする」と仰った、

日本社会の歪みの淵源を議論すべき時 2019-01-05 17:40

時は平成から令和に変わる。日本が過去の頸木を外して、真の独立国への第一歩としたい、そう思います。


駐日米大使館がホワイトハウスの指示だとして「失望」を表明する

「靖国参拝、アメリカには失望した」  2013-12-29 20:44

アメリカは日本に対し「失望した」と声明を出した。
無礼な発言である。
しかしこの件、宮崎正弘氏が面白い事を言っている。。
> 靖国神社参拝は日本人の宗教的感情と行為であり、これを批判するのは
  ウェストファリア条約に違反した野蛮国がなすこと、軽蔑するほかはない!




③「バイデン氏は過去40年間、すべての重要な外交施策と安全保障に関する判断でミスを犯してきた

「元国防長官によるオバマ大統領批判」  2014-01-08 22:23

ゲーツ元国防長官は気骨のある人物である。
日本にとってはつい先日来日したバイデン副大統領の二枚舌ぶりに大いに落胆したところなので、そのバイデン氏に対する評価が「過去40年間、ほぼすべての主要な外交政策や国家安全保障問題で間違った判断を下している」とのことで「やっぱりねえ」と感じた人も多いだろう。



最後のこのバイデン氏に関して阿比留瑠偉さんはこう言っている。
以下阿比留瑠偉さんのFBより

Rui Abiru
7 hrs · 
オバマ政権をどう味方につけるかについて、外務省は当初、バイデン副大統領を籠絡しようと試みたものの、相手が思った以上に使えない人物だったので、標的をケネディ駐日大使に変えたという話を聞いたことがあります。
<引用終り>

オバマもバイデンも無能のパンダハガーで間違いありません。
しかしその結果が、現在の「南シナ海のシナ基地化」、現在の「北朝鮮の核問題」へと繋がります。無能な人間をトップに据えたことの悲劇はまだまだ尾を引いています。
まあ日本もミンスの土鳩・空き缶時代の後遺症でいまだに苦しんでいる訳ですが・・・。

  1. アメリカ
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2019-04-22 18:30

北斎の波から危険な三角波まで


始めにお詫び、下書き段階で保存したつもりが私のミスで公開になっていました。題名なども付けて不足分も書き加えました。読者の皆様には題名のない変なエントリーをお見せしてしまい恐縮です。後半の三角波に関する部分が追加した部分です。よろしくお願いします。
以下本文です。

  19日のエントリー「北斎はなぜこんなに愛されるのか」にコメント欄でこんな情報をいただいた。
>先日NHKでやった北斎の話はお札の裏側の波ですね。
>あの波頭はどうしてあの形なのか?
>シャッタースピードを5000分の一秒位でとるとあの形に波頭は成るそうです。

こんな話は北斎の「瞬間を記憶し、表現する能力」の凄さ、こんな話なのですが、それとは関係が有るのか無いのか、こんな事が今年初めに話題になっていました。

今年1月、イギリスのオックスフォード大とエディンバラ大の共同研究チームが、「ドラウプナー波」と呼ばれる発生原因が不明だった大波の再現に成功。
所がその再現された大波が北斎のあの波そっくり。それで大騒ぎになったようです。
以下参照ください。

2019-4-21波1 

2019-4-21波2 




このドラウプナー波、さっぱり分からないのだが、1995年1月1日、Draupner platform という海底油田の施設を襲った波高25mの大波です。
Draupner waveについては以下参照ください(英文です)
https://en.wikipedia.org/wiki/Draupner_wave

上掲記事で
>研究チームによると「2つの小さな波が約120度で交差する場合だけこの波を再現することが可能である」と判明しました。
こんな記述が有ります。
またこの波は
>ドラウプラー波は予測不可能な巨大波
こんな記述もあります。


流石海洋大国イギリス、素晴らしい研究です。特に巨大な水槽で実験し、再現に成功したのは大きな成果と言えるでしょう。
がしかし同じく海洋大国の日本では、この巨大波の問題は以前から海難事故の原因として対策が研究されてきました。
特に切っ掛けとなったのは2つ
一つ目は、戦前の話だが1935年(昭和10年)9月26日、旧日本海軍の空母、重巡、軽巡、駆逐艦など10数隻が演習中に三陸沖で台風に遭遇し、その中心付近に巻き込まれ、船体などと多数損傷されました。中でも駆逐艦2隻が激浪の為船首を切断されて沈没と言う重大海難事故が有りました。この当時ながら流石日本海軍、かなり詳しく風浪を観察していまして、2つの方向からの波がぶつかると巨大な波を発生させるという現象が捉えられています。
この波を三角波と言っていました。

これは重巡那智が三角波を受けた状況
2019-4-22重巡那智の三角波を受けた状況 
川上益男氏の論文より
https://www.jstage.jst.go.jp/article/zogakusi/638/0/638_KJ00001779136/_pdf

イギリスの大学の実験で、
>(ドラウプナー波は)2つの小さな波が約120度で交差する場合だけこの波を再現する
こんな事が分かったとしていますが、日本の事故の調査からも同じことが出てくるわけです。



但しこの件は戦前の話だし、軍事機密でもあったので、この話は一部の人だけが知る話だったのだが、次の2番目の事件でさらに問題となった。

その2番目の事件と言うのは
昭和44年~45年、日本の東方海上で巨大船沈没事故が多発したことである。

2019-4-22昭和44・45年海難 

わずかな間に巨大船が4隻遭難。この当時、この野島崎沖の海域は「魔の海域」と呼ばれ、原因と対策が叫ばれたものです。
(注:さらに10年後の1980年12月30日、尾道丸の事故も有りました)
特に造船関係では船の構造の抜本的な見直しが図られ、大型船の強度は大幅に改善されました。

また日本の気象庁では、気象予報にこんな危険な波浪の情報を出すよう研究を進めてきまして、現在では「外洋波浪予想図・実況図」として公開されています。

これは本日の外洋波浪実況図
2019-4-22外洋波浪実況図 
野島崎東方沖から三陸東方沖にかけて波浪の高い所が見えます。


またこの危険な波浪は三角波と呼ばれ、wikiでは
三角波(さんかくなみ) pyramidal wave
進行方向の異なる波がぶつかったときに出来る、峯の尖った波をいう。進行する重力波の頂は120度より尖らず、それ以上になると砕ける。しかし定常波(standing wave)の場合には頂角は90度まで尖り得るため、重複波では波形勾配の大きな波が起こり得る。風系の複雑な台風の中などでは、規模の大きな典型的な三角波が立ち、非常に危険である。

こんな事で、この危険な三角波は今も船の安全にとって重要だということです。
なにか北斎からとんでもない所に飛んでしまいました。

*追記します
イギリスの大学では「ドラウプラー波は予測不可能な巨大波」と言っているこの巨大波(イギリスではドラウプラー波、日本名は三角波)。実は日本では昔から研究していまして、2017年2月からはその予報も発表されるようになりました。

重大事故から半世紀近く、気象庁では問題意識を継続し、観測と研究の積み重ねでこんな予報ができるようになったということだと思います。
以下気象庁発表を参照ください。
波浪予想図の改善 -三角波などの大波の発生しやすい海域の情報を追加します-
報道発表日
平成29年2月15日
詳細は以下で

流石海洋大国日本です。
尚この追記はコメント欄のkazkさんの意見への返事にも書いたものです。
kazkさんの意見は大変有意義、大いに参考になる意見です。

  1. 社会一般
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2019-04-19 18:48

北斎はなぜこんなに愛されるのか


 14日のエントリー「新紙幣の顔に思う事 2019-04-14 」でCNNの報道を取り上げた。
CNNが何と「北里柴三郎をノーベル賞受賞者扱い」にした。まあ喜んでもいいんでしょうねえ。

 これは考えてみれば、この当時(1901年)の業績でいえば北里柴三郎の業績は絶対ノーベル賞にすべき業績だった。しかしこの当時は白人以外にはノーベル賞なんか出すもんかと言う人種差別が酷く、結局受賞できなかった。そんな事を知ったうえで、CNNはノーベル賞受賞者扱いにしたのだと思うのだが、もっと不思議な事がある。

それはCNNでは初めに一番大きく「新千円札の裏面」を紹介。次に新千円札の表面(肖像は北里柴三郎)、次に写真を小さくして新5千円札の表面裏面、最後にもっと小さく新1万円札の表面裏面を紹介していることだ。(下記リンク先参照ください)

2019-4-14新千円札裏面byCNNCNNの報道は以下で
日本が新紙幣発表、千円札に北斎の浮世絵
2019.04.10 Wed posted at 15:45 JST


北斎の浮世絵がなぜこのように高い評価を受けるのか。どうも日本での評価とは違った面から見て、西欧では評価しているようだ。

そんな事情が分かるものが有る。
もう1年前だが、シンクタンク「日本政策研究センター」の情報誌「明日への選択」2018年5月号にこんな記事が有った。
北斎はなぜこんなに愛されるのか』 東北大学名誉教授の田中英道氏のインタビュー記事です。

この記事は冒頭
 「世界に最も影響を与えた日本人は誰か。織田信長や黒澤明を挙げる人もあるようだが、米国の雑誌『LIFE』は「この千年に最も重要な功績を残した世界の人物百人」に、江戸時代の絵師、葛飾北斎を日本人として唯一人選出している。」
こんな所から出発しています。

この『LIFE』の記事は今は廃刊になっていますが、以下で読むことができます。
この中で
1、トーマス・エジソン (アメリカ)
2、クリストファー・コロンブス (イタリア)
3、マルティン・ルター (ドイツ)
4、ガリレオ・ガリレイ (イタリア)
5、レオナルド・ダ・ヴィンチ (イタリア)
6、アイザック・ニュートン (イギリス)
7、フェルディナンド・マゼラン (ポルトガル)
8、ルイ・パスツール (フランス)
9、チャールズ・ダーウィン (イギリス)
10、トーマス・ジェファーソン (アメリカ)
こんな風なのですが、画家では三人だけ、78位がピカソ、多分ゲルニカが評価されたんでしょうね。そして86位が葛飾北斎です。もう一人59位に北宋初期の山水画家の范寛 (中国)が入っていますが、この人は良く分かりません。


さて本題に戻って、こんな風で日本人が考えるよりも北斎の評価が高いのは何故なのか。そんな事を考えてみました。

田中先生は『西洋画を一変させたジャポニスムの衝撃』と言っています。その要旨は
 ちょうどその頃、ヨーロッパでは既存の価値観が揺らぎ、「近代」への模索が続いていました。例えば、フランス革命(一七八九)は「自由・平等・友愛」の名のもとに、民衆が立上り、ギリシア・ローマ文明を尊ぶルイ王朝を打倒し、ノートルダム大聖堂はじめ多くのキリスト教会を破壊しました。神も王も全否定したのです。一方、ヨーロッパでは十六世紀のデカルト以来、「理性」ということを言い始めて科学を生み出し、大変な勢いで発達しますが、その科学が本当に人問を救うのかと確信を持てないでいました。
 そこに、日本人の自然のままでいいという概念、また富士山に象徴される自然信仰が浮世絵を通じて入って来たのです。神話や宗教に代わる新しい「近代」の表現を探し求めていた西洋の芸術家たちにとって、それはまさに東方からの福音でした。「これこそが新しい思想だ」という熱狂がアトリエを制し、セザンヌは「サント・ヴィクトワール山」を三十六景以上描き、リヴィエールは「エッフェル塔三十六景」を描きました。北斎の「富嶽三十六景」の影響であることは明らかです。これが「ジャポニスム」です。
 
こんな事で田中先生は「北斎をはじめとする浮世絵を見て、向こうの画家たちは絵をガラリと変えた」と言っています。

そして例えばゴッホについて
 その典型がゴッホです。ゴッホの人生は挫折続きで、ある時期から牧師になろうとしていたのですが、浮世絵に出合い、牧師になるのを完全にやめる。それと同時に、ゴッホの絵は急に変わって行くのです。
 例えば、「ラザロの蘇生」という作品があります。聖書にはキリストが死せるラザロを復活させた話が出てきますが、西洋画のならいでは、そこに必ずキリストが立っていなければならない。ところが、ゴッホはキリストが立つべき位置に太陽を描いたのです。つまり、新しい救い主として太陽を持ってきた。
 日本という言葉は、フランス語で「ル・ソレイユ・ルヴァン (Le Soleil Levant) 」(太陽が昇る国)と言うのですが、「日本が救い主だ」という概念を持つたからこそキリストの代わりに太陽を描いたのです。

そして田中先生はこう言っています。

 もともとゴッホはオランダ生まれで、ロンドンやパリなどで働いていました。パリやロンドンは日が射す日は少ない。だから、絵も暗かった。ところが、浮世絵に衝撃を受けて以来、印象派の画家たちはみんな明るい色でパリやロンドンを描き始めるのです。

こんな事の時代背景をもっと見てみたいと思います。
丁度この頃は産業革命で世の中が激変していました。例えばフランスだけ見ても、フランス革命(1789年)、ナポレオンの登場と没落(1799-1815)、フランス王国(1814-1848)、第二共和制(1848-1852)、第二帝政(1852-1870)、第三共和制(1870-1940)・・・う~ん、訳分かりませんね・・・。しかしこんな政治の混乱の中でもパリ大改造(下水道整備と都市再開発など)などは着々と進んでいました。こんな混沌とした社会の中で、印象派のような新しい絵画が出来、それに日本の浮世絵、就中北斎などが大いに影響を及ぼしてきたわけです。


さて、こんな歴史は兎も角、では現代に今の話がどう生きるか考えてみたいと思います。
今アメリカは中国と経済戦争の真っ只中、さらにアメリカは右と左に分断され、これから先何処へ行くのか分かりません。
こんな時こそ「新しい価値観、新しい思想、文化」が必要で、その思想、文化、価値観の一つの表れを北斎に見ているような気がします。

そんな目で日本が紙幣を新しくする。その紙幣にはあの北斎の絵がある。こんな思いでCNNの記事が書かれたのではないでしょうか。



参考までに田中英道氏のインタビュー記事全文を如何に引用します。

以下このインタビュー記事全文です。スキャンしOCR変換しました。
尚所々どうも妙な表現が有りますが、多分インタビューの文字起こしでのミスだと思います。

<以下引用>
シンクタンク「日本政策研究センター」の情報誌「明日への選択」2018年5月号より

北斎はなぜこんなに愛されるのか
田中英道(たなか ひでみち)
東北大学名誉教授

2019-4-17北斎-01-1 

   世界に最も影響を与えた日本人は誰か。織田信長や黒澤明を挙げる人もあるようだが、米国の雑誌『LIFE』は「この千年に最も重要な功績を残した世界の人物百人」に、江戸時代の絵師、葛飾北斎を日本人として唯一人選出している。
(引用者注:この世界の人物百人を選定した1999年は丁度20世紀の最後に当たります。だからこんな事が色々記事になる。類似のものに「20世紀を代表する最大の事件100」がある。
以下参照ください
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1401.html
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1402.html
尚この当時は、冷戦終了して十年、次の敵は日本だという反日の嵐が吹き荒れていた時期です)

 確かに北斎といえば、その作品が十九世紀ヨーロッパの印象派画家たちに決定的な影響を与えたことで知られる。現代においても、英国のオークションでは北斎に特化した競売が行われ、イタリアの自動車メーカーロシアのデザイナーも北斎をモチーフとした作品を発表している。さらに最近では日本でも、相次いで北斎展が開催され、二、三十万人規模の入場者を集めている。
 いったい、なぜ北斎はこれほど人気なのか。北斎が世界に与えた影響や作品の特徴について、最近『葛飾北斎 本当は何かすごいのか」(育鵬社)を上梓された美術史家の田中英道東北大学名誉教授に話を聞いた。


西洋を凌駕する技術

 ーーー 一方で日本の歴史にも造詣が深い田中先生は、もともとレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど西洋美術史研究で大きな業績を上げられました。世界的な視野からご覧になって、北斎はどのように位置付けられるのでしょうか。

 田中 レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロは、その作品を見れば西洋の思想がおおむね分かるというほどの天才です。そして北斎は、日本の思想を理解する上でも、この二人の位置と同じほどの巨匠だというのが私の見解ですね。
 江戸末期の十九世紀に、北斎や歌川広重をはじめとする日本の浮世絵がオランダを通じてヨーロッパへ行きますが、特に印象派画家たちはそれまでの画風を一変させるほどの影響を受けたのです。セザンヌの「サント・ヴィクトワール山」の連作も、モネの「睡蓮」の連作も、ゴッホの風景も、ゴーギャンのクロワニズムも、すべて浮世絵の影響で生まれたものです。最近も国立西洋美術館で「北斎とジャポニスム」展が開かれましたが、その点の説明では必ずしも十分ではありませんでした。

 --― なぜそれほど影響を与えたのですか

 田中 まず何と言っても、視覚的な表現の秀抜さですね。北斎は西洋人があみだした遠近法を彼ら以上に咀嚼し、彼らを遥かに飛び越える水準の技術を持っていました。
 江戸時代の日本は「鎖国」と言われるけれども精神的な意味ではそうではなく、オランダを通じてヨーロッパの情報も文物もたくさん取り入れていました。日本の絵師たちも、江戸中期から入ってきた蘭画、つまり西洋両を見て西洋の遠近法を取り入れて行くのですが、とくに北斎はよく研究していました。遠近法は通常、近景から中景、中景から遠景というふうにして奥行きを出して行きます。ヨーロッパ・ルネサンスではこの技術が建築や町づくりに適用されていました。
 ところが、北斎は中景を完全に抜いて絵を描いた。これは大変効果的で、奥行きがかえって深く見えるのです。
 例えば、北斎は七十歳になってから、有名な「富嶽三十六景」を描いています。「富嶽三十六景」はわが国の新パスポートにデザインとして採用されることになりましたが、皆さんもご存じの「神奈川沖浪裏」(=右上図)という作品は、大きな波に漁船が翻弄されその向こうに富士山が見えます。また、「東海道程ケ谷」という作品では、街道沿いの細い松の向こうに富士山が見えます。これらは西洋の遠近法を最も自家薬籠中にした図です。まさに「富嶽三十六景」は゛中抜き遠近法」の傑作と言ってもよいでしょう。
 色彩も斬新でした。北斎は「富嶽三十六景」を描くときに、べ口リン藍という新しい色を初めて使います。これはプロシアから輸人された化学顔料(プルシアンブルー)で、植物由来の藍色では出せなかった鮮やかで深みのある青色が出ます。北斎はこのベロリン藍で繊細なグラデーションや奥行きを出して行く。浮世絵にこの色彩を絶妙に配合させた最初の例です。
 西洋の画家たちは、こうした北斎の絵を見て、その技術に目を見張ったのです。それだけではありません。やはり自分たちの知らなかった日本のヴィジョンに目を見張ったのです。
 そもそも西洋の芸術家は皆インテリですから、自分たちが持っているものをちょっと洗練させたとか応用させたとか、そういうものには見向きもしない。そうではなく、思想自体が彼らの思惑を凌駕していたのです。

富嶽三十六景にみる日本人の自然信仰

 田中 その思想で重要なのは、自然が人間を造るものだという自然観、キリスト教的な神というものに縛られない自然信仰、これが向こうの画家たちの心を捉えたことです。とくに北斎の「富嶽三十六景」は、自然は人間と敵対するものだという西洋の概念を強く揺さぶりました。
 「富嶽三十六景」の半分の十八点は江戸から見た富士山の風景です。従って富士の姿が遠景でしかない。それでも描くというのはいかに江戸が富士山と結ばれているかを表したかったからです。
 例えば、「江戸日本橋」(=下図)

2019-4-18富嶽36景江戸日本橋 
葛飾北斎「富嶽三十六景 江戸日本橋」

という作品は、日本橋の上を歩く人、倉庫のようなお蔵、その奥に江戸城があり、その遥か向こうに小さな富士山が見えます。
 この絵はいったい何を表しているのかといいますと、江戸城を守っているのは富士山だという概念なのです。つまり、江戸という都市は富士山で守られているという考え方を北斎は表現しているのです。
 北斎が生きた江戸時代には「富士講」が大流行し、「富士塚」が各地にできるほどでした。富士塚は富士山を模した小さな山ですが、身近なところに小さな富士山を造ったのはやはり自分たちが住む町を富士山が守ってくれているという自然信仰の一つです。
 ちなみに、日本人の富士信仰は縄文時代から始まっています。静岡県富士宮市の千居遺跡は、今から四千~五千年前、縄文中期のものと推定される遺跡で、富士の霊峰を臨む場所からそれを模した富士山型の石とその石を祭壇のように取り囲む配石遺構が発掘されています。
 また、万葉集には「天地の分かれし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる布士の高嶺を・・・」で始まる山部赤人の歌をはじめ富士山を詠んだ歌がたくさん収録されています。赤人が「天地の分かれし時ゆ」と歌ったように、私は富士山は「高天原」のイメージに繋がっていると考えていますが、それほど日本人と富士山は密接なのです。

 ーーー北斎は、日本人の富士信仰、自然信仰の上に立って絵を描いた

 田中 その通りです。だから、さっきの「神奈川沖浪裏」(=4頁図)は、迫真の力をもって描かれている場面ですが、よく見ると二艘の和船が描かれています。そして、乗っている人々はみんな船の縁に伏せています。同時に、遠くに見える富士山にも伏しています。この姿は、人間が自然に帰依している様子がよく分かります。
 さらに、北斎は人間そのものを自然の一部として見て、表情の変化、態度の変化、肉体の変化を、様々な自然現象として表現しました。有名な「北斎漫画」はその典型です。
 北斎は十九歳で絵帥になり九十歳で亡くなるまで何度も名前(号)を変えているのですが、北斎号は妙見信仰と関係があると考えられています。妙見菩薩は北極星、北斗七星を神格化した菩薩で、国土を守り、災害を減らし、人の福寿を増す。天の中心に輝く北極星は、天皇のことですから、尊皇の意味も含まれます。
 北斎はこの号を使い始めてから、「師造化」という非常に重要なことを言っています。造化とは、自然の摂理や天地宇宙そのもののことです。つまり、北斎は自然を師として絵を描いていたのです。

西洋画を一変させたジャポニスムの衝撃

 ーーー 北斎の絵に込められた高い技術と自然信仰が、ヨーロッパの画家たちに衝撃を与えたと。

 田中 そういうことです。ちょうどその頃、ヨーロッパでは既存の価値観が揺らぎ、「近代」への模索が続いていました。例えば、フランス革命(一七八九)は「自由・平等・博愛(引用者注:友愛が正しい)」の名のもとに、民衆が立上り、ギリシア・ローマ文明を尊ぶルイ王朝を打倒し、ノートルダム大聖堂はじめ多くのキリスト教会を破壊しました。神も王も全否定したのです。一方、ヨーロッパでは十六世紀のデカルト以来、「理性」ということを言い始めて科学を生み出し、大変な勢いで発達しますが、その科学が本当に人問を救うのかと確信を持てないでいました。
 そこに、日本人の自然のままでいいという概念、また富士山に象徴される自然信仰が浮世絵を通じて入って来たのです。神話や宗教に代わる新しい「近代」の表現を探し求めていた西洋の芸術家たちにとって、それはまさに東方からの福音でした。「これこそが新しい思想だ」という熱狂がアトリエを制し、セザンヌは「サント・ヴィクトワール山」を三十六景以上描き、リヴィエールは「エッフェル塔三十六景」を描きました。北斎の「富嶽三十六景」の影響であることは明らかです。これが「ジャポニスム」です。
 今はジャポニスムというと、単なる異国趣味のように捉えられていて、特に日本の研究者はジャポニスムを「過剰に日本を評価しすぎている」「あんなのは幻想だ」などと矮小化するけれども、よく分かっていない。とにかく、北斎をはじめとする浮世絵を見て、向こうの画家たちは絵をガラリと変えたのですから。
 そのことは、浮世絵が入る以前と以後を比べれば一目瞭然です。
 浮世絵が入ってくる以前の西洋画は、人間が中心でした。風景はそれを説明するための二次的なものだった。また、神話画や宗教画には、それを見て善悪を知らしめるといった意味が必ずあった。ところが、日本の絵を見て、そうした概念から解き放たれて行くのです。
 その過渡期において一番重要な人はマネです。マネは『草上の昼食』という作品で、初めて人間の女性の裸体を描く。これは大スキャンダルになりました。なぜなら、それまで西洋で裸体を描くときは、必ずヴィーナスやダナエ(引用者注:ギリシア神話に登場するアルゴスの王女の名、愛の神の代表的なシンボル)など神話の登場人物でなければならなかった。それをマネは飛び越えてしまったからです。
 どうしてそんな大転換が生まれたのかというと、浮世絵に出てくる女性は何気なくただ立っているだけ。物語の要素はほとんどない。これが「ああ、物語がなくても描けるんだ。裸体をそのまま描いてもいいんじゃないか」という概念を与えたのです。
 それから、セザンヌは日本の風景両を見て、形の美を見出した。
「山ってこんなに美しく見えるんだ」と。そこにはキリスト教的な道徳律も何もない。それ以降、彼はあらゆるものを形として見ることを覚え、あらゆるものの意味を抜いてしまう。だから、サント・ヴィクトワール山は「聖なるヴィクトワール山」という宗教的意味があるはずなのですが、その宗教的意味は一切描かないで、形と色だけで表現した。

日本への憧れ

 田中 そこからさらに進むと、今度は自然というものの価値に目覚めて行きます。
 その典型がゴッホです。ゴッホの人生は挫折続きで、ある時期から牧師になろうとしていたのですが、浮世絵に出合い、牧師になるのを完全にやめる。それと同時に、ゴッホの絵は急に変わって行くのです。
 例えば、「ラザロの蘇生」という作品があります。聖書にはキリストが死せるラザロを復活させた話が出てきますが、西洋画のならいでは、そこに必ずキリストが立っていなければならない。ところが、ゴッホはキリストが立つべき位置に太陽を描いたのです。つまり、新しい救い主として太陽を持ってきた。
 日本という言葉は、フランス語で「ル・ソレイユ・ルヴァン (Le Soleil Levant) 」(太陽が昇る国)と言うのですが、(引用者注:辞書にはこんな言葉も・・「Empire du Soleil Levaut」:旭日帝国=日本(出典:大修館・仏和辞典))「日本が救い主だ」という概念を持つたからこそキリストの代わりに太陽を描いたのです。ゴッホは弟のテオに宛てた手紙にこう書いています。
 「いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるのではないだろうか。
 日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因習的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ」
 それでゴッホは太陽の日差しにあふれた南仏のアルルヘ行くんですよ。

 ―--―そこから明るい絵を描き始める

 田中 ええ。もともとゴッホはオランダ生まれで、ロンドンやパリなどで働いていました。パリやロンドンは日が射す日は少ない。だから、絵も暗かった。ところが、浮世絵に衝撃を受けて以来、印象派の画家たちはみんな明るい色でパリやロンドンを描き始めるのです。

 -- 日本の絵は明るい

 田中 そう、日本人は暗いものを描かない。日本にはもともと陰影法がありません。太陽が照っているということを前提に描くから、絵巻物をみても夜の風景はない。描いたとしても、「平治物語絵詞」のように松明(たいまつ)を回しているだけで夜討ちの場面を表現する。日本人にとって暗いということは絵の対象にならないのです。キリスト教徒のような罪の意識がないからでしょう。

 ー- モネはどうですか。

 田中 モネもゴッホと同じですね。浮世絵を見てから、「ああ、自然こそが神の代わりなんだ」という概念をもった。以来、人間も自然の一部として描く。光という自然を描くのです。
 モネは最初は「印象」という小さい港の絵を描きます。これは港かどうかも分からないぐらい太陽が照っている光だけの絵です。光への憧れ、太陽への憧れ、日本への憧れです。モネは家の壁一面に浮世絵を飾っていました。別荘には、水を引き込んで池をつくり、太鼓橋をかけて、日本庭園のような庭を造り出しました。そうした中で「睡蓮」を生み出して行く。日本の自然信仰を「形」として感じ、絵画化したのです。

美は先ず「形」で見よ

 田中 ちなみに、もう一つ強調しておきたいのは、北斎は風景画だけでなく、人物画も世界クラスだということです。これは切手にもなっている「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」など役者絵で知られる東洲斎写楽と、北斎とが同一人物であるという私の研究から提出している説です。「写楽=北斎」となれば、北斎の評価は今にもまして高まり、まさにレオナルド・ダ・ヴィンチと並び立つ評価を受けることになるでしょう。

 ーー 写楽の絵も世界クラス。

 田中 ええ、ドイツの美術研究家タルトは、写楽はベラスケス、レンブラントと並ぶ世界三人肖像画家だと高く評価しています。
 写楽は北斎と同時代の絵師で、現在は百四十五点の絵が残っています。しかし、その活動期間はたった十ヶ月で、謎が多く、正体不明とされてきました。詳細は『実証 写楽は北斎である』など私の一連の著書に譲りますが、日本の美術史学界では、能役者であった斉藤十郎兵衛が写楽の正体だという説が有力です。
 しかし、写楽の絵のディティール、線の描き方、筆のさばきはじつに見事なもので、ちょっと絵の上手い役者が描けるようなレベルではない。逆に、北斎が勝川春朗と号していた時代に描いた役者絵と、写楽の役者絵は、非常によく似ています。
 そもそも美術作品は、絵の形象を見て判断するものです。これは西洋の美術研究・鑑定では基本中の基本です。しかし、日本の美術史学界では形象を見るということが主ではない。美術研究にとってあくまで1次的なものに過ぎない文献だけで判断している。これは理解に苦しみます。
 西洋の美術研究だけでなく、日本人は本来、美を「形(フォルム)」で表現してきました。縄文人が富士山型の石を造ってその美しさを称えたのがまさにそれです。美というものを「形」でなく「言葉(ロゴス)」で捉えようとすると、不正確にならざるを得ません。ロゴスには一貫性が求められますが、美は極めて多様だからです。だからこそ、日本人は美を「形」で認識し、表現してきたのです。

日本美術には普遍性がある

 -- 北斎をはじめとする日本の美術とそこに込められた自然観が世界に影響を与えたことがよく分かりました。しかし、それは決して過去の話ではないですね。
 田中 その通りです。ニ年前(2016)に伊勢でG7が開催された時、安倍首相が各国首脳を伊勢神宮に案内しましたね。その時、キリスト教徒の首脳たちはみんな感動しました。何に感勤したかというと、やはり自然なんです。そして全員で植樹をした。つまり自然を育てる、自然と調和するという日本の自然信仰を伊勢神宮で学んだのです。ですから、日本人は自信を持っていい。また、神道の自然信仰は例えば「タオ・ネイチャー」(自然道)というふうに発信の仕方を工夫すれば、世界の人々にも充分に受け容れられると思います。
 問題はむしろ、日本人自身がこうした価値に気付いていないところにあるのではないでしょうか。
 例えば、今は外国人観光客を一生懸命呼び込もうとしていますが、約二千九百万人の訪日客のうち、ほとんどは中国、韓国、台湾からです。欧米人の訪日客は約三百万人で、中国、タイ、香港、マレーシアなどを訪れる欧米人の数と比べてもだいぶ差を付けられています。これは「おもてなし、おもてなし」と言うばかりで、日本人自身が日本文化の価値を発信できていないからです。
 私はやはり神社仏閣の文化財を観光のキラーコンテンツにすべきだと思います。日本には浮世絵以外にも、法隆寺ので百済観音像」、東大寺戒壇院の「四天王寺像(引用者注:四天王像が正しい)」、「平治物語絵詞」などの絵巻物、宗達・光琳に代表される琳派、狩野派の金地障壁画や禅画……等々、世界レベルの傑作が数多くあります。
 美術作品はたとえ言葉がわからなくとも見るだけで感動できる「形」の世界です。たとえ神道や仏教を知らなくても、また外国人であっても、目の前にあるその姿かたちを見るだけで、万人が心を打たれる。それだけの普遍性・普遍的価値が日本美術にあることは、今日お話した通りです。
 その価値を知るには、私たちも旅をすることです。神社仏閣を巡ったり、富士山や京都・奈良や各地の世界遺産を歩きながら形を見て行けば、日本には素晴らしい伝統と文化が残っていることがわかるし、それらと自然・風景とが見事に調和していることがわかる。「日本の価値」が自ずと認識できると思いますね。
     (2018年四月三日取材。文責・編集部)

田中英道
たなか ひでみち
東北大学名誉教授
昭和17年。東京生まれ。東京人学文学部仏文科。同美術史学科卒。ストラスブール人学に留学し。ドクトラ(博士号)取得。文学博士。フランス、
イタリア叉術史研究の第一人者として世界各地の学界で活躍。日本美術史研究においても斬新な論考を発表し、高い評価を得ている。また日本の歴史を文化を中心に見る歴史観を提唱し、中学校歴史教科書『新しい日本の歴史』(育鵬社)の編集にも協力。現在、日本国史学会の代表理事。「レオナルド・ダ・ヴィンチ」『ミケランジェロ』「日本美術全史」(以上、講談社学術文庫)、『光は東方より』(河出書房新社)、「実証写楽は北斎である」(祥伝社)。「葛飾北斎 本当は何がすごいのか」{育鵬社}など著書多数。
<引用終り>


最後に一言。
これは私も知りませんでした。
フランス語で「ル・ソレイユ・ルヴァン (Le Soleil Levant) 」(太陽が昇る国)と言う
そして辞書にはこんな言葉も・・「Empire du Soleil Levaut」:旭日帝国=日本(出典:大修館・仏和辞典))
こんな温かい目で見てくれていることをもっと知ってほしいものです。
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2019-04-14 17:32

新紙幣の顔に思う事


 日本の紙幣、一万円札、五千円札、千円札が更新されることが発表になりました。
新しい紙幣の肖像は「渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎」、これは大変素晴らしいことだと思います。
特に渋沢栄一、北里柴三郎について書いてみます。

2019-4-14新一万円札 
2019-4-14新五千円札 
2019-4-14新千円札 


何が素晴らしいか、最初に渋沢栄一について。

渋沢栄一は日本資本主義の父と呼ばれる人物だが、単に沢山の会社を作っただけでは無い。沢山の会社を作っただけなら明治の財閥の創始者たちはみんなそれに該当する。
渋沢栄一が凄いのは、「道徳経済合一説」を唱え、経済・経営に道徳と言う概念を織り込んだこと。
この「道徳経済合一説」はwikiではこう書いている。

道徳経済合一説
大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。

富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。
そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。


実はこの概念は、江戸時代初期の鈴木正三(しょうさん)、江戸時代中期の石田梅岩(ばいがん)、そして明治の渋沢栄一、昭和の松下幸之助と続く日本人の労働観・価値観の根底を為す概念だと思う。
一寸簡単に鈴木正三、石田梅岩を紹介。(松下幸之助は説明不要でしょう)

鈴木正三については以下ブログ参照ください。
「切支丹伴天連から鈴木正三の労働観まで  2018-10-31 16:13」
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1580.html

ある農民の問いに対し正三はこう答えます。
「農業にいそしむことがすなわち仏道修行です。信心とは暇な時にやって、成仏を願うものではありません。また、そもそも来世で楽することを願っているようでは、成仏はおぼつかないでしょう。煩悩の多いわが身を敵と見立てて畑をすき返し、煩悩を刈り取る心で耕作するのです。辛苦の努力をし、心身を責めている時には、煩悩が生まれる余裕はありません。こうして常に仏道修行として農業にいそしめば、どうして改めて仏道修行する必要があるでしょうか」

正三のこの考え方は、農業だけでなく、どんな職業においても同じである(職業に貴賤はない)とし、世俗的生活のすべてが仏道修行であるという結論に至ります。いわば「労働即仏道」という思想で、日々の仕事の中に宗教性を持たせることで、人々に「生き甲斐=成仏」を与えようとしたのだといわれます。そしてこの思想は、日本資本主義の精神の先駆ともいわれるのです。


石田梅岩については、以下の記事が分かりやすいと思う。
「石門心学の祖・石田梅岩~その生涯と思想、名言」
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4337

その要点は
「商人の得る利益とは、武士の俸禄と同じで、正当な利益である。だからこそ商人は、正直であることが大切になる。水に落ちた一滴の油のように、些細なごまかしがすべてを駄目にする」
商人に俸禄を下さるのはお客様なのだから、商人はお客様に真実を尽くさねばならない
「真実を尽くすには、倹約をしなくてはならない。倹約とはけちけちすることではなく、たとえばこれまで3つ要していたものを、2つで済むように工夫し、努めることである。無駄な贅沢をやめれば、それでも家は成り立ってゆくものである」
「商人の蓄える利益とは、その者だけのものではない。天下の宝であることをわきまえなくてはならない」
「まことの商人は先も立ち、われも立つことを思ふなり(正しい商人とは、相手のためになって喜ばせ、自分も正当な利益を得る者をいう)」
等々。


こんな日本の、日本人の労働観、日本資本主義の精神に大きな影響のあった渋沢栄一が紙幣の顔になった。考えてみれば、今アメリカ流の強欲資本主義が破綻しようとしている。そんな時にでは代わりにどんな思想があるのか、そんな答えになるのが日本的なものの考え方だと思う。

例えば諸外国に発信することとして、紙幣の顔が渋沢栄一なら、「この紙幣の顔(渋沢栄一)を見てください。日本資本主義の父と言われる人です。かれは『「道徳経済合一説」という理念を打ち出し、富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ』と言いました。これこそ資本主義の未来、労働の価値だと思います。」
こんな事が言えるのではないでしょうか。



次に北里柴三郎です。
北里柴三郎は1901年の第一回ノーベル賞で受賞者にノミネートされていました。しかし結果は北里柴三郎の共同研究者が受賞してしまいました。(メインは北里柴三郎)
そんな事が以下で紹介されています。

第一回ノーベル賞の有力候補に
http://kitasato-respectlife.com/shibasaburo/3275.html
世紀を越えて成し遂げた悲願のノーベル賞
http://kitasato-respectlife.com/shibasaburo/3988.html


そして、ああ、何と言う事でしょう。
あのCNNがノーベル賞を北里柴三郎に与えてくれたのです。何だってと言う前に以下記事をご覧ください。

<以下CNNより引用>
https://www.cnn.co.jp/style/design/35135543.html
日本が新紙幣発表、千円札に北斎の浮世絵
2019.04.10 Wed posted at 15:45 JST

2019-4-14新千円札裏面byCNN
新千円札に描かれた北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」

Oscar Holland, CNN
財務省は9日、2024年度から使用される1万円札、5千円札、千円札の新たなデザインを発表した。千円札に印刷される図案には、江戸時代の有名な浮世絵師、葛飾北斎が描いた木版画「冨嶽(ふがく)三十六景 神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」が初めて採用された。

北斎の代表作としてなじみ深いこの作品は、現在の東京湾に当たる「神奈川沖」に現れた大波と、その奥にたたずむ富士山の姿を描いたもの。表面にはノーベル賞を受賞した細菌学者、北里柴三郎の肖像が印刷されている。

2019-4-14新千円札表面byCNN 
新千円札の表面には細菌学者、北里柴三郎の肖像が印刷される/Kyodo News/Getty Images

5千円札と1万円札の肖像には、20世紀への変わり目に日本の女子教育発展のため尽力した津田梅子、日本経済の近代化を進めた実業家の渋沢栄一がそれぞれ選ばれた。
・・・以下略・・・


北里柴三郎の業績は、この当時の基準で見てもノーベル賞に値するものだが、残念ながらノーベル賞受賞はできなかった。黄色人種がノーベル賞など以ての外ということで、ノーベル賞の汚点の一つになっている。
CNNはそんな事情を理解したうえで、こんな報道をしてくれたのであろう。
有難う、CNNさん。

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2019-04-13 15:56

ドイツに咲く桜


 4月9日のエントリー「春と言えば、やはり桜です」で、コメント欄に縄文人さんからドイツの桜について情報をいただいた。またよもぎねこさんからも情報をいただいた。
実は私もドイツの桜は初耳。ちょっと調べてみたらドイツは各地に桜があるようだ。

そこでその桜の由来の分かるものについて紹介したい。
都市はハンブルク、ハノーファー、ベルリンです。
他にもありますが、それはベルリンの記事の引用元参照ください。


最初はこれ。ハンブルクの桜。多分この桜がドイツでは最も古いのではないか。
引用元:http://www.newsdigest.de/newsde/regions/reporter/hamburg/8425-1046/

2019-4-13ドイツの桜1ハンブルク 
ハンブルク アルトナ区役所前公園の桜

日独友好の象徴、桜の木 市民に愛される花火大会
17 März 2017 Nr.1046 文・写真 井野 葉由美
 
もうすぐ桜の季節がやって来ます。日本人の心の中で、桜の花は特別な位置を占めています。ドイツで目にする桜は、鞠(まり)のように房になってたっぷりと花をつける、濃いピンクの八重桜が多いようです。これもまた綺麗なのですが、日本人の郷愁を誘う桜は、花のいのちが短く、散り際の美しい、ほんのりピンクではかなげな、ソメイヨシノだと感じるのは、きっと私だけではないでしょう。

ハンブルクは、ドイツのほかの都市と比べても、桜の木を見かけることが多いような気がしますので、その理由を調べてみました。外務省が発行している機関誌「経済と外交」(1971年2月号)に、当時の経済局国際機関第1課の川上俊之氏が「在外勤務思い出の記」コーナーで「ハンブルクの桜まつり」と題して、桜の木の寄贈に関する記事を書いています。

川上氏は1968年当時の谷盛規在ハンブルク総領事が「ハンブルクで一番人目につくアルスター公園に日本の花のシンボルである桜を植えたら、日本人だけでなくハンブルクの人びとにも喜ばれ、しかも日独友好の象徴として生き続けるであろうと思いたたれた」と振り返り「ハンブルクに住む1200人に近い日本人たちが、とかく海外日本人社会が現地社会から孤立しがちなのをおそれて、その生活と企業活動の基盤をおいている町に、感謝の意をこめて3年前に贈った」とあります。時を同じくして「桜まつり」が開催され、アルスター湖上で花火が打ち上げられました。

その後も日独友好関係を増進する目的から、ハンブルクの市内各地に桜の木が次々と植樹されました。一例を挙げると、エルベ川河畔や外アルスター湖と内アルスター湖の間、シュタットパーク内、ハーゲンベック動物園内、アルトナ区役所前公園などです。
・・・以下略
<引用終り>




次はハノーファー(ハノーバー)、広島祈念の杜の桜
(引用者注:別に突っ込む訳では無いが、原爆の死者数位は正確に書いて欲しいものだ・・・)

2019-4-13ドイツの桜2ハノーファー 

ドイツ/ハノーファー特派員ブログ 旧特派員 田口 理穂
2012年4月30日
(引用者注:7年前のブログです。そのつもりで見てください)
桜祭り
29日の日曜日午後、市の南西にある「広島記念の杜」で桜祭りが開かれました。春の恒例行事で、今年で12回目。ハノーファー市は広島市と姉妹提携しており、この杜には、広島の原爆投下の犠牲者11万人(引用者注:1945年末までの死者数は約14万人)を追悼し、広島市から贈られた110本の桜の木が植えられています。

祭りでは弓道や習字、折り紙、茶道など伝統文化が披露され、おにぎりや饅頭など日本の味が楽しめました。満開となった桜は、ちらちらと花びらを落とし始めたところ。明るい曇り空とあって約500人が訪れ、大賑わいでした。多くの人が木の下でござを広げ、くつろいでいました。子どもコーラスも盛況でした。ハノーファー漫画クラブでは、ドイツの若者たちがアニメのキャラクターの衣装で登場。漫画講座も開かれました。

この杜には花崗岩で作られた碑が立っています。1992年に広島市よりハノーファーに贈られたもので、観音様の優しい顔が掘り込まれています。この碑は原爆投下地より200メートル離れた線路の石でした。戦争を二度と起こさないという誓い、そして平和を求める気持ちがこの碑に込められています。この碑が広島市から来たというと、いまだにドイツ人の中には「放射能が出ているから危ない」という人がいます。まったく近づこうとしない人も。現在でも広島市は焼け野原で、草木一本生えていないと思っているのです。桜祭りなど日独交流を通して、このような誤解が少しでもなくなってくれればと願っています。
<引用終り>

引用者注:広島とハノーファーの関係
ドイツ北部の主要都市ハノーファーは、1940年から1945年の間に88回の爆撃にさらされ、市の2/3が破壊され、死者は約6,800人。
広島とハノーファーの関係は、1968年に広島市の中学教師が当時の文部省と厚生省による日独青少年交流プログラムを利用し、ドイツ・ハノーファーに生徒を連れて行ったことにはじまる。その後も、交流は継続して続けられ、1983年にはハノーファー市と広島市は姉妹都市関係を結ぶ。一教師が始めた運動が姉妹都市関係締結にまで至った稀有な例。




ベルリン

ベルリン在住ライター 河内秀子さん推薦:家庭画報4月号(世界文化社)にて
「ベルリンに咲く平和のSAKURA」コーディネート、インタビューを担当。
日独桜エピソード
ベルリンの壁跡地に桜が咲く理由

2019-4-13ドイツの桜3ベルリン 
グリーニッケ橋と桜東と西のスパイが交換された場所だった、グリーニッケ橋と桜。1990年11月10日、ここに桜植樹キャンペーンの最初の2本が植えられた
  
ベルリンの壁崩壊後まもなく、日本で「ベルリン市民の心の安らぎと平和を願って、壁跡地に桜の植樹をしよう」と、呼びかけたテレビ朝日の「桜植樹キャンペーン」が始まり、視聴者約2万人から当時の額で約1億4000万円の募金が集まりました。

当時、テレビ朝日社員としてベルリン支局に駐在していた寺崎哲夫さんは、植樹のため、ベルリン市とポツダム市の緑地課との交渉を任されましたが、「壁跡地に桜を植えると言われ、途方に暮れました」と振り返ります。当時の壁跡地には、桜の植樹を拒むいくつかの問題がありました。「まず、壁跡地の所有権利が誰にあるのかはっきりしない。冬になると野生のウサギに桜の苗木の樹皮をかじられる。さらに分断当時、東から西への逃亡者を見逃さないよう、見通しを良くするため、草一本生やさないようにまかれた除草剤で、“死の帯”と呼ばれた壁跡地の土壌はひどく汚染されていたのです」

緑地課の担当者と何度も話し合い、1990年11月10日、ポツダム市とベルリン市の境にかかるグリーニッケ橋のたもとに、最初の2本の桜が植樹されました。その後、両市の緑地課の協力を得て、壁跡地、市民公園、幼稚園、学校、墓地など、様々な公共地に、桜キャンペーン募金による植樹は続きました。「ありがたかったことは、日本の募金者の気持ちに感動した市の担当者が、桜を市(区)のものとして受け取り、桜の管理世話維持費を負担し、責任のある育成管理を継続してもらえたことです。」

2010年11月9日、ベルリンの壁が最初に開いたボーンホルマー通りでの植樹を最後にキャンペーンは終了。寺崎さんはベルリンを永住の地と決め、今も桜を通してドイツと日本をつなぐボランティアとして活動しています。「東日本大震災の後、桜の植樹場所に立つ記念碑には献花と共に被災者を悼む手紙が添えられていました。それを見たとき、桜がつないだ日独国民の思いやりに涙がこぼれました。」

ベルリンでは、今も春になると約8000本の桜が可憐な花を咲かせています。

<引用終り>


以上です。ベルリンだけで約8000本もの桜がある。こんな事は知りませんでした。
尚この記事はいやにテレ朝をよいしょしていますがまあ良いでしょう。
8000本の桜、これは半端ではありません。
桜の名所上野公園が約800本、動物園を入れて1200本だそうです。ちなみに日本で本数が一番の桜は
吉野山で3万本、2位が埼玉県の狭山湖で2万本、こんな所を見ると8000本の桜は凄いと思います。

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2019-04-09 19:29

春と言えば、やはり桜です


 今年は桜が早そうと言われていたのですが、3月に寒波が来たせいで、当地方では丁度小学校の入学式頃に桜が満開。
なので重い話題はやめて、春らしい花の話題など。

今日も出先からの帰りに近くの緑地を通りかかったら、この辺りは丁度見ごろでした。

2019-4-9本日の桜2矢勝緑地 

1週間前にこの桜の下で花見の宴を開いたのですが、残念ながら花はちらほら。まあ花より一杯なのでよかったんですが・・・。

近くのちょっとした山道風の所
2019-4-9本日の桜1 
ピンぼけ写真なので小さめにしました(笑)。撮影者がボケかも・・・。


こんな所を見ると、万葉集のこんな歌を思い出します。

高橋麻呂(たかはし むしまろ)の詠んだ歌です。
原文: 射行相乃 坂之踏本尓 開乎為流 櫻花乎見兒毛欲得  (9-1752)
訓読: い行(ゆ)き逢(あ)ひの、坂のふもとに、咲きををる、桜の花を、見せむ子もがも
意味: 国境(くにざかい)の坂のふもとに咲き乱れている桜の花を見せてあげられる娘がいたらなぁ。

来月から新しい時代が始まりますが、早速変なが湧きだしまして、「年号の令和の字が気に入らん」などと言っていますが、虫は虫でも万葉の虫麻呂はこんな歌での字を使っています。
現代の虫は万葉の虫よりアホなのかもしれません。


桜と言えば吉野、これは6日の吉野の桜(吉野へ花見に行った人から拝借)

2019-4-9本日の桜6日の吉野 


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2019-04-06 14:59

エチオピア航空機墜落、737MAXシステムが原因=調査報告


 新鋭旅客機ボーイング737MAXの事故について、3月10日発生したエチオピア航空機事故の中間報告が4月4日に発表された。
一言で言って深刻な話である。

しかも、この件は特に日本の報道はどうにも靴の底から足の裏を掻く感がある。
そこで最初にWSJの報道から。

<以下WSJより引用>
https://jp.wsj.com/articles/SB10330143325861623706704585222280219850888

エチオピア航空機墜落、737MAXシステムが原因=調査報告
2019 年 4 月 4 日 21:24 JST

 【アディスアベバ】3月10日に当地発のエチオピア航空302便が墜落した事故を巡り、エチオピア当局は4日、米ボーイング「737MAX(マックス)」の飛行制御システムの誤作動が原因だとする中間報告を公表した。

 報告書は、乗員は承認された緊急時の手続きに従ったが体勢を立て直すことができなかったと指摘。また、ボーイングはMAXの飛行制御システムを見直し各国当局は見直し内容を確認した上で同型機の運航停止措置を解くべきだの見方を示した

 別の737MAXが昨年インドネシアで墜落して以来、MAXの失速防止機能「MCAS」に注目が集まっている。昨年の事故の初期調査では、センサーの不具合でシステムが機首を押し下げたため、パイロットの修正措置が間に合わずに墜落したことが判明した。エチオピア航空機の事故も同じような展開で、搭乗していた157人全員が死亡した。

 ボーイングの広報担当者は、エチオピア当局の報告を確認し、追ってコメントを出すと話した。同社は昨年からMCASの改良に取り組んでいる。

 エチオピアは米運輸安全委員会(NTSB)やボーイングなど外国専門家の協力を得て調査を進めている。
<引用終り>

最初にこの事故、フライトレコーダーやボイスレコーダーの解析は事故機の製造国であるアメリカではやっていない。フランスのBEA(フランス航空事故調査局)で解析している。製造国でもなければ、墜落場所でもないフランスに調査依頼すること自体が異例であり、事の異常性を示していると言える。

参考記事
「737 MAXの墜落調査、仏で開始 エチオピアが米国に不信感、ボーイングは納入停止」


所でこの事故の異常性はもう一つある。

(参考ウィキペディア(Wikipedia)ボーイング737 MAXにおける飛行トラブル

それは殆ど報道されていないが、アメリカのサウスウエスト航空でも類似のトラブルが8件発生している。

<以下引用>
737 MAX、サウスウエスト航空でも類似不具合 手動操縦で回避
2019年3月26日 11:39 JST

 墜落が相次いだボーイング737 MAXについて、米国のサウスウエスト航空(SWA/WN)でも類似のシステムトラブルが8件起きていたことが、関係者への取材でわかった。いずれもパイロットが手動操縦に切り替えて問題を回避し、事故には至らなかった。
・・・中略・・・
 関係者によると、サウスウエスト航空の737 MAX 8でも、MCASが原因とみられる不具合が8件発生8件とも、パイロットがオートパイロット(自動操縦)を解除し、手動操縦で不具合を回避したという。
・・・中略・・・
 ボーイングによると、サウスウエスト航空は2月末時点で737 MAXを280機発注しており、31機が引き渡されている。サウスウエスト航空の社内では、MCASの不具合は運航時の注意事項として回避策が共有されているという。

<引用終り>


このサウスウエスト航空の事例は、2回目のエチオピア航空の事故の直後から分かっていた筈だが、なぜか2週間以上たってから報道されている。若し最初のインドネシアでの事故直後から騒いでおれば、2回目の事故は回避できた可能性があるのではないか、そんな議論がこれから出てくるはずだ。
何故サウスウエスト航空では共有化されていた事故回避策が、横並び展開されていなかったのか? 恐らくこの問題が今後大問題になると予測します。


所でこの事故、どうすれば回避できるのか、それが上掲wikiに記載されている。
以下引用する。

737MAXの操縦特性補助システム(MCAS)

737MAXではCFMインターナショナル LEAPエンジンが採用されたことによって約14%の燃費改善を実現したが、エンジンの大型化やナセルの形状変更に伴い、エンジンの取り付け位置を従来型の737よりも若干上方および前方に移動させる必要が生じた。この影響でエンジンナセルが仰角を取った時に揚力を生む事で機首がピッチアップのモーメントが働くという機体の特性があった。 そのため、ボーイングは失速を防ぐために「操縦特性補助システム」(Maneuvering Characteristics Augmentation System)と呼ばれる操縦支援システムを737MAXに導入した。

MCASは2機ある迎角(AoA)センサーの片方の値を取り込み、一定値を超えた状態で、機体コンフィギュレーション(フラップ角度等)および対空速度・高度が閾値を超えていた場合に作動し、水平尾翼の水平安定板(スタビライザー)を自動的に操作して機体を降下させる。MCASが作動した場合、スタビライザートリムホィールが動くが、パイロットが単にオートトリムを切っただけでは解除されないオートトリムを切りスタビライザー制御システムを切ってマニュアルにし手動でスタビライザートリムホィールを回さなければいけない

<引用終り>

この「パイロットが単にオートトリムを切っただけでは解除されない。オートトリムを切り、スタビライザー制御システムを切ってマニュアルにし、手動でスタビライザートリムホィールを回さなければいけない」、これは以下動画で説明されている。(英語です)




分かりにくいので一寸解説。トリムと言う言葉が出てきます。
飛行機は手放しでまっせぐには飛びません。機体の癖もありますし、積み荷や乗客数、燃料の状態などで傾いたり曲がったりします。これを調整し、手放しで真っすぐ飛ぶようにするのがトリム。中でも機首の上げ下げに関係するのが水平尾翼の水平安定板(スタビライザー)。こんな事です。

MCASという新しい仕組み。それが解除するためには2段階の操作が必要で、その上、手作業でトリムホイールを回して水平安定板の角度を調整する。簡単な事ではありません。
こんな事がキチンと徹底されていない。こんな所も問題だと思います。

またこのシステムは迎え角センサーを2個搭載していますが、コンピューターはそのうちの数値の大きいデータを使う、こうなっています。これでは実質的に1個のセンサーに頼るのと大して変わりません。万一故障で異常値が出てくれば、装置が誤動作する訳で、これは間違いなく設計思想が可笑しいと言えます。

この設計思想については、昔からDR(デザインレビュー~設計審査)とかFMEA(Failure Mode and Effect Analysis=故障モードとその影響の解析)などの考え方が声高に叫ばれてきました。しかし世の中が高度化してゆく中で、こんなモノ作りの原点ともいえるものが蔑ろになって、いつの間にか利益優先で事が進むようになってきたこと、これが原因の奥底に潜んでいるようです。
恐らくこんな事がアメリカの中でも言われる時が来たのではないか。そのきっかけが多分飛行停止がメーカーや規制当局(FAA)からではなく大統領令で出されたこと。こうではないかと見ています。


こんな事で、この問題の解決には相当の時間がかかるでしょう。エチオピアの運輸当局は、ボーイングはMAXの飛行制御システムを見直し各国当局は見直し内容を確認した上で同型機の運航停止措置を解くべきだの見方を示した。こんな事を言っています。運行停止が相当長期間になりそうです。


更にオマケ。
BBCによれば、アメリカではすでに訴訟が2件始まっていて、そのうちの1件は、何とあの「ラルフ・ネーダー」が絡んでいる。
ラルフ・ネーダーの姪の子どもがエチオピア航空機の犠牲者157人の一人だというのです。

ラルフ・ネーダーと言っても知らない人が多いと思う。今から半世紀も前、自動車が欠陥車だとしてアメリカに端を発した大騒動が有った。結果的には自動車の安全性に大いに寄与したこの動きの立役者がラルフネーダー。彼は1965年、彼は「どんなスピードでも自動車は危険―アメリカの自動車に仕組まれた危険」において、米国の乗用車の欠陥を指摘し全米に衝撃を与えた。アメリカの自動車産業がシートベルトなど安全装置の導入に抵抗し、安全性向上のための投資を渋っていると述べ、特にゼネラルモーターズ製「シボレー・コルヴェア」に欠陥が多いと告発した。こんな人物である。自動車関連の古い方なら決して忘れることのできない名前だ。私も散々苦労したので、懐かしい名前です。

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2019-04-03 17:47

浜辺の歌と万葉集 後編


浜辺の歌の続編です。
Ⅰ.最初に1番から3番までの歌詞の中の言葉の解釈について


最初に歌詞を全部掲載します。意味が難解なので、全部漢字表記してみます。


 1番

朝(または旦=あした)浜辺を 彷徨(さまよ)えば
昔のことぞ 偲(しの)ばるる
風の音よ 雲の様(さま)よ
寄する波も 貝の色も

2番
夕(ゆう)べ浜辺を 廻(もとお)れば
昔の人ぞ 偲ばるる
寄する波よ 返す波よ
月の色も 星の影も

3番
疾風(はやち)忽(たちま)ち 波を吹き
赤裳(あかも)の裾(すそ)ぞ 濡(ぬ)れ漬(ひ)じし
病(や)みし我は 既(すで)に癒えて
浜辺の真砂(まさご、orまなご) 愛子(まなご)今は


1.「はやち」と風、雲について


 「風の音よ 雲の様(さま)よ」と有ります。1番と2番だけでは分かりませんが、3番を見ると「はやち」と有ります。はやち(はやて)とは寒冷前線に伴う風のことですが、広辞苑によればこうなっています。

<はやち、はやて(疾風)について広辞苑の記事>


はやち:(「ち」は風の意)⇒はやて


はやて:(「て」は風の古語)急に激しく吹き起る風。寒冷前線に付随することが多く、降雨・降雹などを伴う事がある。


以上のことから1番の「風の音よ 雲の様よ」の風・雲は「はやち・はやて」を伴うような雲、つまり寒冷前線の雲と風の意味と解釈できます。


歌詞の「昔のことぞ 偲ばるる」は、そんな寒冷前線が近づいてくるときに起こった出来事と解釈したいと思います。


また広辞苑には出ていませんが、はやて雲(疾風雲)も有ります。

参考:はやて雲:https://furigana.info/w/%E7%96%BE%E9%A2%A8%E9%9B%B2


参考までに寒冷前線の雲の図


2019-3-20寒冷前線図

松江地方気象台HP天気の部屋より筆者改変

http://www.jma-net.go.jp/matsue/chisiki/column/front/front.html


 寒冷前線の雲写真2019-3-20寒冷前線による雲写真@出雲空港

(写真は宍道湖の湖畔、出雲空港方面を撮ったもの)

典型的な寒冷前線の雲写真 雲の底では雨が降っていることが分かる

ブログ「神名火だより 2012年08月15日」より

https://blog.goo.ne.jp/kannabi-dayori/e/bcbe16e4687f4c810a9cbe10d08baf7c?fm=entry_awp


「雲の様よ」とうたわれている雲はこんな雲と考えています。

「はやて(疾風)」の吹くようなときはこんな雲がわいている。浜辺の歌のメロディーから連想される雲は、多分穏やかな綿雲のようなものかもしれませんが、疾風の吹くときと言うのはこんな雲です。何か最初から歌のイメージを壊すようですが・・・(苦笑)。

 


2.「かひの色も」のかひは「貝寄風(読みはかいよせ)」の貝の可能性。


広辞苑によれば

かいよせ【貝寄】:「貝寄の風」に同じ。古契三娼「かいよせの吹く春の旦(あした)より」。


かいよせのかぜ【貝寄の風】(貝を浜辺に吹き寄せる風の意)。陰暦の2月20日頃に吹く西風。かいよせ。貝寄する風の手品や和歌の浦 芭蕉。


こんな事で江戸時代から「貝寄せ・貝寄せの風」は良く知られており、俳句にも詠まれています。貝の色はこんな風に吹き寄せられた貝の色と考えられる。


これは推測ですが、古契三娼のこの言葉との関連が考えられます。

かいよせの吹く春の旦(あした)」⇒あした浜辺をさまよへば・・・貝の色も

感じが似ています。曲想の参考になった可能性が有ります。


此処で古契三娼と言うのはこんなもの (Wikipediaによる)


『古契三娼』(こけいさんしょう)は、江戸時代中期の文学作品。山東京伝の洒落本の代表的な作品。1冊。発刊は1787年(天明7年)。京伝26歳の作品。 挿絵は山東京伝(北尾政演)自作。版元は鶴屋喜右衛門・蔦屋重三郎。

タイトルは、画題として有名な「虎渓三笑」のもじり。


 「虎渓三笑」について、 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説


虎渓三笑(読み)こけいさんしょう


中国の故事。虎渓は中国江西省九江県の南方の廬山東林寺の前の渓谷。この東林寺に住した晋代の高僧慧遠 (えおん) は白蓮社をつくって修業者の指導をしたが,客を送るときも虎渓の橋を越えることがなかった。ある日,陶淵明,陸修静の2人がきて寺で清談に時を過し,帰るにあたっても話が尽きず,慧遠が虎渓まで送ってきたが,気がついたときはすでに橋を渡っていたので3人が大笑いしたという。この故事は史実として疑問とする説があるが,中国,日本の画題として好まれ,多くの作品がある。

虎渓三笑図

2019-4-3虎渓三笑図 


 こう見てくると推測ではありますが、林古渓のペンネームもこんな所を参考にしていた可能性が有ります。

古渓のペンネームは本人の弁は「幼少時育った古沢村(現厚木市)にちなむ」との事ですが、古契三娼・虎渓三笑・林古渓、これも知っていたと思います。

(但し、古契三娼からとったとは言いにくいかも(笑))


いずれにしても林古渓が「貝寄せ」を知っていたことは間違いないでしょう。




3.「赤裳の裾ぞ 濡れもひじし」、万葉集を参考にしている可能性


万葉集 巻7-1090 「我妹子(わぎもこ)が 赤裳の裾の ひづつらむ 今日の小雨に 我さへ濡れな」


「赤裳」 「裾」 「ひづつ」と出てきます。よく似ています。

原文は 集歌 巻7―1090  吾妹子之 赤裳裙之 将染埿 今日之霡霂尓 吾共所沾者

訓読 吾妹子し赤(あか)裳(も)し裾しひづちなむ今日し霡霂(こさめ)に吾(われ)さへ濡れは

訳 私の愛しい貴女の赤い裳の裾もぬかるみに汚れるでしょう。後朝の送りで今日の小雨に私までも濡れると。


尚この赤裳のはいった歌は万葉集には10首あります。

「赤裳」のはいった歌(9・174211・255017・396917・39736・10017・10907・1274、9・1710、11・2786、 15・3610)以上10首。

この10首のうち、アンダーラインの8首は「裾」が入っている。また7・1090、9・1710の2首には「ひづ」が入っている。


こうしてみると、万葉集には「赤裳」のはいった歌は10首あるが、「赤裳」、「裾」、「ひづ」と三つ揃ったのは巻7-1090だけということになります。


小野和彦氏によれば、林古渓は万葉集の研究者で、「万葉集外来文学考」という著書もある。だから「浜辺の歌」が万葉集を参考にしている可能性は十分ある。

(実は小野和彦氏の論文は、私が林古渓と万葉集の関係を調べていて見つけたました)


以上のことから、この3番前半の歌詞は、実際の愛子(まなご)が浜辺で遊んでいて波に濡れた情景を万葉集の世界に仮託しているとみてよいでしょう。


この事が失われた3番後半を復元するヒントになると思います。





 Ⅱ.失われた3番後半と4番前半の考察


浜辺の歌の失われた3番後半と4番前半の私なりの考察です。

Ⅱ-1復元のための考察・・3番

 失われた3番の後半は

 ・4番後半に「やみし我は ・・」とあるので「やみし(病みし)」が入るのではないか

 ・2番前半に「むかしの人・・」とあるので「人」が入るのではないか

  ⇒病みし人


古典のどこかに「浜」、「真砂」などを含む歌があるのではないか。

  こうしてみると万葉集596の「笠の女郎(いらつめ」」の歌が有りました。


引用元:

https://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/4967885.html


サ 596; [題詞](笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首)

八百日徃  濱之沙毛  吾戀二  豈不益歟  奥嶋守


八百日行く 浜の真砂も 我が恋に あにまさらじか 沖つ島守 

やほかゆく はまのまなごも あがこひに あにまさらじか おきつしまもり

(訳)

歩き尽くすのに八百日もかかるような長い長い浜 そんな浜の真砂(まさご)を全部合わせたって 私の恋心の果てしなさには敵いますまい。そうでしょう 沖の島の島守さん


この万葉集596の「八百日行く」と「浜の真砂」を歌詞の中に取り込んで作詞したのではないか、これは3番前半が現実に目にしたであろう情景を「赤裳、裾、ひづ」という万葉集の世界に置き換えている、こんな関連で見るべきかと思われる。


そう見ると、「病みし人」が、長い闘病生活を送るのだが、それを万葉の世界で、「やほか行く 浜辺の真砂(まさご)」と表現したのではないか。


3番の歌詞は、現実の苦しい情景を万葉の世界に仮託して描いたものと考えてよいと思います。

しかしこの高等手法が、初出時の理解不足を招いた、この件は後ほど説明します。


以上のことから、失われた3番後半を復元すると

病みし人は やほかゆくも

浜辺の真砂(まさご) 愛子(まなご)今も


病を得たあの人は、八百日もかかるような長い闘病生活に入っている。 浜辺の真砂の数より多くの苦しみがあるだろう。あの子(愛子)は今も


こんな風ではないか、


尚こんな事情が、小野和彦氏の研究で愛子(まなご)が誰かについて、

「 童謡研究家の池田小百合は、安西愛子(大正6年生まれ、東京音楽学校卒業の童謡歌手)から聞いた談話「失われた三・四節には、古渓の恋人が湘南海岸で結核の転地療養をして元気になった様子が書かれていて、古渓の本当の気持ちが織り込まれていたと思われます」を紹介している」。こんな記述があるが、なるほどと思います。




Ⅱ-2復元のための考察・・4番


次に失われた4番冒頭ですが、1番、2番で「あした」「ゆうべ」とセットになっているように3番と4番もセットの言葉があるのではないか。

3番冒頭の「はやちたちまち」に対応する「〇〇ち」と言う風を表す言葉が入る、こう見ると「あおち(煽ち)」が有ります。


「あおち(煽ち)、煽ち風」:広辞苑によれば


あおち:(アオツの連用形から)「あおちかぜ」の略

あおちかぜ【煽風】吹きあおる風。あおち。浄、薩摩歌「蚊帳うち上ぐるあおちかぜ」


下記を始め、風の名称を色々調べましたが、他に「〇〇ち」に該当するものは見つからないので、「あおち」でよいと思います。

参考:風の名称字典:http://accent.main.jp/kaze/na.htm


また4番後半は「病既に癒えて」と有りますので、4番前半の情景もあらしが収まってゆくように詠んでいる。こう見ると「たおやかに」「雲を鎮め」が浮かびます。

また「たおやかに」は3番の「たちまち」と韻を踏んでいると見えます。


また「さやか」ですが、万葉集にこんな歌が見えます。

「4474 大伴家持」  巻二十

武良等里乃 安佐太知伊尓之 伎美我宇倍波 左夜加尓伎吉都 於毛比之其等久 【一云 於毛比之母乃乎】 

群鳥(むらどり)の 朝立ち去(い)にし 君が上は さやかに聞きつ 思ひしごとく 【一云 思ひしものを】



そんな所を踏まえ、4番前半を復元すると、こうなるのではないか。


あおち たおやかに 雲を鎮め

浜辺の波も 今はさやか



Ⅱ-3復元のための考察・・3番・4番の真砂の読み方


真砂:普通の読みは「まさご」、これを同じ意味で「まなご」とも読める。

3番では「真砂(マサゴ)」と読んで、「八百日(やほか)ゆく」と関連づけた。

4番では「真砂(マナゴ)」と読んで、次の愛子と言う意味の「まなご」とかけた。

こんな風に推測する理由は、初出の歌詞を見ると、真砂に「マナゴ」とルビが振ってある。若し3番後半に同じ真砂がでてきて、同じ読みならあえてルビを振る必要はないのではないか。 したがって古渓の原稿では3番と4番で違う読み方をしていた可能性がある。

しかしこんな事は説明されなければ分かりません。


この真砂の読み方の問題は私の推測で、突拍子もない考えのようですが、初出時の事情に関係があるようにみえます。こんな見方もあるということで書きました。




Ⅲ 復元した歌詞 (復元私案)

以上の結果、私の独断と偏見による浜辺の歌の復元版はこうなります。


浜辺の歌 復元版

<1番>

あした浜辺を さまよえば

昔のことぞ しのばるる

風の音よ 雲のさまよ

寄する波も 貝の色も


<2番>

ゆうべ浜辺を もとおれば

昔の人ぞ 偲ばるる

寄する波よ 返す波よ

月の色も 星の影も


<3番>

はやちたちまち 波を吹き

赤裳(あかも)のすそぞ ぬれもひじし (古渓の意向で「も」をいれた)

病みし人は やほかゆくも

浜辺の真砂(まさご) 愛子(まなご)今も


<4番>

あおち たおやかに 雲を鎮め

浜辺の波も 今はさやか

やみし我は すでに癒えて

浜辺の真砂(まなご) まなご今は


尚、ここまで復元してみると、浜辺の歌は1番から4番で起承転結になっています。



Ⅳ 浜邊の歌が初出から原稿と違っていた理由


この問題は原稿が全部ひらがな書きだったことに起因すると推測しています。

そこで初出と同じように全部ひらがなにしてみました。


復元私案

1番

あした はまべを さまよえば、

むかしの ことぞ しのばるる。

かぜの おとよ、 くもの さまよ。

よするなみも かひの いろも。


2番

ゆうべ はまべを もとおれば、

むかしの ひとぞ しのばるる。

よする なみよ、 かえす なみよ。

つきのいろも ほしの かげも。


3番

はやち たちまち なみを ふき、

赤裳(アカモ)の すそぞ ぬれもひじし。

やみし ひとは やほかゆくも

はまべの真砂(マサゴ) まなご いまも


4番

あおち たおやかに くもを しずめ

はまべも なみも いまは さやか

やみし われは すでに いえて。

はまべの真砂(マナゴ) まなご いまは。




こんな風になりますが、特に3番後半から4番前半は読んで意味が分かりにくい。


赤裳と真砂だけがルビ付き


古渓の意図は

赤裳・・・ひらがなで「あかも」は多分意味が分からないので漢字書きした


真砂・・・普通の読みは「まさご」、これを同じ意味で違う読みの「まなご」とも読める。

3番では「真砂(マサゴ)」と読んで、「八百日(やほか)ゆく浜」と関連づけた。

4番では「真砂(マナゴ)」と読んで、次の愛子と言う意味の「まなご」とかけた。

あくまで推測ですが、こんな風にルビを振っていたのではないか、これも一つの考え方と思います。

しかしこんな事は説明されなければ分かりません。



印刷する過程でのやり取り推測 (印刷屋のオヤジと植字工職人が困ってます)


3番

やみし ひとは ・・・ここは分かる

やほかゆくも  ・・・何じゃこれ・・・やほか=八百日とは分からない

はまべの真砂(まさご) まなごいまも・・・マサゴ、まなご、重複してよくわからない

。最初の浜辺の真砂が「笠の女郎の八百日行く 浜の真砂も ・・・」との関連が分からないと理解できない。


4番

あおち たおやかに・・・あおち?何ですか? 煽ち(=煽ち風)とは分からない

くもを しずめ  ・・・どうしてこんな所に雲が? もしかして蜘蛛か? この雲は「はやち(はやて、疾風)」の元になったのがはやて雲(疾風雲)で寒冷前線の雲のこと。この雲の直下では疾風が吹く。1番の「くものさまよ」の雲に対応している。こんな背景も説明なしでは分からない。


こんな風で、ひらがな書きではほぼ意味不明。そんな事で意味不明な3番後半と4番前半を切り捨て、3番前半と4番後半をつなぎ、新しい3番にしたのではないかと思えます。


荒っぽい推論ですが、印刷時の経緯が荒っぽい(スペースの問題ではない)所を見ると、こんな荒っぽい話が意外に真相に近いとも考えられる。


印刷する過程で、こんな事情で初出で4番が無くなってしまったので、初出では4番があった場所が大きく空欄になっています。こんな所も印刷に至る経緯を示しているように推測しています。



最後は口直し、歌の無い浜辺の歌をどうぞ





 

  1. 社会一般
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