2009-09-29 18:06

食べる物がなくなった時民族移動が始まる<タイの事例です 最終回

タイ族に人たちがタイの地にやってきた事について、3回にわたって考えてきた。

では何故彼らがタイの地にやってきたのか?

特にタイ族の沸騰と言われる13世紀中から14世紀中(1250年~1350年)までの約100年間、彼らに何があったのだろうか。

 

日本で1250年頃と言えば鎌倉時代のこと第一回の元寇(文永の役:1274年)の24年前、1350年頃と言えば室町時代(1338年~)が始まって12年後と言うことになる。そう古い話ではない。

そんな頃彼らに何が起こったのか?

 

長い間これは蒙古がタイ族を攻めたので、これから逃れる為に南下したと言われてきた。

言い出したのはフランスの著名な歴史学者セデス(1888-1965)である。言い出した人が非常に高名な学者だった為、永い間これが定説になっていた。然し現在ではこれは完全に否定されている。

 

 

 

長い間謎だったタイ族の民族移動の原因、その手がかりが最近見つかった。それは古代の気候に関する研究からである。

 

中国西部崑崙山脈の氷河から長さ132mの氷柱サンプルが採取され、ここに過去2000年間の気候が記録されていた。これの研究から古代の気象が明らかになり、

1075年~1375年は非常に乾燥した時代であったことが分かった。

また中国南部雷州半島(海南島の隣、ベトナムとの国境近く)にある湖光岩湖という火口湖から湖底の堆積物を取り出し調査した結果からは、880年~1260年は非常に乾燥した時代であったことが判明した。

 

タイ国とタイ人の故郷雲南省、そして崑崙山脈と雷州半島はこんな位置関係

 

 

両者のデータにはかなり違いがある。然し両者がラップする1075年~1260年は中国雲南省あたりでも、非常に乾燥した時代だったと考えていいだろう。

多分その頃、何年に一度かは激しい旱魃が襲ったのではないかと思われる。

 

 

 

これがタイ族が故郷を捨て民族移動を始めた原因であろう。

つまり食べるものがなくなった時、その民族は移動を開始するのだ。 

 

そしてこの時の飢えの記憶、これはタイ人のその後の性格を形成する上で大きな要因のひとつになったのではないかと私は見ている。

微笑みの国と言われ、いつもニコニコしているタイ人が時折見せる驚くような凶暴性、そして食べることに対する執着心、そのルーツにこんな事が有ると見ていいだろう。

 

タイで仕事をしてきた経験から

「腹を減らしたタイ人ほど厄介なものはない」 ・・・これは色んな場面で言えることだ。

 

 

 

話は変わるが、

食べるものが無くなる、今の日本では考えられないことのようだ、しかしそうだろうか?

鳩ポッポのCO2の25%削減をはじめとする出鱈目な政策は、日本の基幹産業の海外移転を加速させている。

新日鉄もトヨタ・ホンダも今まで以上に海外展開を加速させるだろう。

つまり日本にはもはや仕事が無いのだ

 

タイ族は旱魃の追われ命がけでタイの地へ移動した。

日本人は鳩ポッポに追われ、日本を後にせざるを得ないかもしれない

そう言えば今年の4月、鳩ポッポは「日本列島は日本人だけの所有物ではない」と言った。

だが良く考えてみるとこれは「だから日本人は日本列島から出て行け」と言っているのかもしれない。

困ったことである。

<終り>

 

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2009-09-29 17:32

食べる物がなくなったとき民族移動が始まる<タイの事例です その3

タイに移住してきたタイ族が作った町をムアン(グ)という。

現在タイではムアン(グ)といえば「国」とか都市という意味で、一般的には各県の県庁所在地をムアン(グ)といっている。

回りくどい話だがタイでは県名は県庁所在地の名前なので、例えばチェンマイ県チェンマイ市というチェンマイ市の部分がムアン(グ)になる。

 

このムアン(グ)、外敵から住民を護る為の城壁都市といったもので、初期の形は環濠集落。

日本でも弥生時代に各地で環濠集落がつくられたが殆ど同じものと考えてよい。

 

代表的なムアン(グ)の例としてタイの古都スコータイ

 

航空写真があまり鮮明ではないが、東西1800m、南北1600mの三重の城壁に囲まれた中が昔のムアン(グ)、現在はスコータイ歴史公園になっている。

これが今のスコータイ歴史公園

 

 

倒れかけた仏塔も

 

現在の城壁 (英文の説明はThe City Wall)

 

 

 

外敵の目標は食料と人(奴隷として)なので、住民を護ることが非常に重要となる。それがこの様な城壁都市をつくる原因。

 

ではその外敵とは誰なのか。先住民族や隣の国なども外敵となるが、私は移住初期の頃の外敵は「同じように移住してきた移住民が最も多かったと考えている。

新天地に入植してきた移住民は元々そんなに食料を豊富に持っていたわけではない。そして農業では苦労して農地を開拓してもすぐに収穫が得られるわけではない。

運良くすぐに種まきできたとしても収穫は半年後、その間何も食べずにいるわけには行かない。

つまり移住民とは先にそこに住みついた人から見ると「腹を減らした凶暴な襲撃者」となるわけだ。

 

黒澤明監督の映画「七人の侍」は落武者が盗賊となり村を襲う話だ。程度の差はあっても移住民もこんな傾向を持っていたと考えられないだろうか。

<続く>

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2009-09-29 14:27

食べる物がなくなった時民族移動が始まる<タイの事例です その2

中国南西部雲南省あたりに住んでいたタイ族の人たちが、現在のタイ国の地を目指して南下したのは11世紀頃から14世紀頃のこと。特に13世紀中から14世紀中までの100年間は「タイ族の沸騰」と言われる時期だった。

 

 

その移動の形態はというと主に血縁関係を中心にしたグループを作り、男たちは先頭で「戦闘集団」、その後ろに女子ども、老人が従い、家畜なども連れての大移動だったらしい。

戦闘集団は兵士(平民)5人が1人の頭(ホワ・ナー)に仕え、5人のホワ・ナーが1人のムアット・ナーに仕え、5人のムワット・ナーの上に最高責任者としてナーイ・」ムワットがいたという。

多分こんな軍隊組織はタイ族の故郷長江中流域にあった古代国家の軍事組織の系統ではないか。

 

その組織はこんなもの (創元社刊 図説中国文明史 第3巻春秋戦国より)

これは中国の戦国時代(前475年~前221年)頃の軍事組織

 

 

タイ族は侵略民族では有ったが征服民族ではなかった。つまり敵に囲まれ敗者となれば、とらえられて奴隷となるという過酷な状況の中で定住地を求めてきた。

 

この様な移動の形態は、今から60年程前までタイとミャンマーの国境付近で見られたと言う。そこでは数千人の集団が家畜なども連れて移動していたそうだ。

 

 

そして事情は違うが戦闘部隊がタイに定住した最近の事例、

それは第二次大戦後中国国民党の残党がタイ北部の山間部に定住した事例が有る。彼らが武装解除に応じ、タイ国籍を取得したのはつい20年ほど前だ。

詳しくはここを参照ください

 

特筆すべきこと、それは中国の戦闘部隊は後ろに家族を連れてきていること。それだから各地を転戦しても、そこに居つくことが出来るわけだ。国民党軍のタイへの移住もそのようになっている。これが中国の永年の伝統らしい。

 

日本ではここ1ヶ月、民主党政権の暴走振りが際立っている。

国民には何の説明もせず、国会の審議もせずに「CO2の25%削減(2005年基準では30%以上の削減)」、「東アジア共同体」、「建設中のダム工事中止」、そして亀さんの「徳政令」等など、これでは日本企業は故郷・日本を捨てて、海外に新天地を求めていかざるを得ない。

数百年前タイ族が新天地を求めて移動したように、日本人も新天地を求めて移動する時が目前に迫っている。

尚亀さんの徳政令のおかげで今中小企業の資金繰りは絶望的な段階だ。(徳政令直前に金を貸す銀行などいる筈がない・・自分が大損をするだけ)

 

 

ここでちょっと一息

 

上に書いたタイの国民党残党は今北タイの奥地で茶の栽培をしている。

これは彼らの茶のパンフレット

 

そしてこれが商品

この中でも左端の 凍頂烏龍茶、これは絶対お勧め。

彼らの茶の栽培、製品化は台湾の技術支援で行われている。だから本場台湾の凍頂烏龍茶に勝るとも劣らない品質。もしどこかで見かけたら是非お試しを!

<続く>

 

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2009-09-27 18:32

食べる物がなくなった時民族移動が始まる<タイの事例です その1

日本人のルーツを考える一環として弥生人が何処からどうやって渡来したか、さまざまに議論されている。

今回視点を変えて同じ稲作民であるタイ人がどのようにタイに移動してきたかを考えて見たい。

 

現在未曾有の不況の真っ只中だが、こんなときこそ歴史の中に学ぶものがあるのではないか・・ そんな思いで考えてみた。

 

 

最初に分かり易くする為、タイ国とタイ人について、

 

タイ国 人口約6700万人、内広い意味でのタイ族・・5000万人

     華僑系・・900万人、その他モンクメール系等

 

タイ人 広い意味でのタイ語系の言葉を話すタイ族の人はタイ以外に

     中国雲南省南部・・約100万、ベトナムに約100万

     ミャンマー(ビルマ)に約250万、ラオスに約600万住んでいる

      (ラオス人はタイ族の一部ラオ族だが、タイ東北部もラオ族で言葉も同じ)

 

 タイに住んでいる人=タイ人だが

 タイ語系の言葉を話すタイ族の人=タイ人とも言える、しかし両者は同じではない

 

 

 

さてこのタイ族の人は、昔は中国南西部雲南省あたりに住んでいた。そして或る時民族移動を始め、現在のタイの地に来たと言われている。

その時期は諸説あるものの11世紀頃から南下を始め、13世紀中頃から14世紀中ごろの100年間は「タイ族の沸騰」と呼ばれ、現在のタイ・ラオスにタイ族の王国を建設した。

この時期は日本では鎌倉時代から室町時代のこと、そう歴史が古い話ではない。

 

またこのタイ人のタイの地への南下は、従来の学説は蒙古(元)が攻めてきた為、それに押されての南下と言われていた、然し現在ではこれは否定されている。

(タイ人の民族移動の原因についてはこのエントリーの最終回で考えたい)

 

 

前置きが長くなった、ではその移動の形態はというと

1) 移住先は最初は山間部の盆地で水田稲作の出来るところ

   後に平原の水田稲作の出来るところ

 

2) 移住は血縁関係を中心とした一種の戦闘部隊をつくり三々五々南下したと見られている

   (注:タイ人は侵略民族であったが征服民族ではなかった)

 

3) 入植地ではムアン(グと呼ばれる防御機能を持った集落を作った

   後にはこれが拡大し城壁と堀で囲まれた都市になった

 

 

タイ人が最初に選んだ入植地は山間部の盆地や谷筋の低湿地である。

こんなところが最初の入植地

 

タイ人がここに容易に入植できた理由、それはこの様な水田稲作に適した土地がマラリヤなどが跋扈する、人が住むには不向きな土地だったためだ。

中国人はここを瘴癘(しょうれい:風土病)の地と呼び、恐ろしい土地として恐れた。

稲作には良いが人が住むには危険、だから先住民が少なく比較的容易に入り込めたのだが、入植してみると一村全滅と言ったことも有ったらしい。

 

いかに危険なところであったか、それは映画「戦場に架ける橋」で有名な第二次大戦中の泰麺鉄道建設での死者の多さで分かる。

5年かかるところを1年半で建設した超突貫工事、栄養失調なども多かったが、主な死因はマラリヤなどの風土病、

その死者は

連合軍捕虜 6万2千人中 1万2千6百人死亡

アジア系労働者 約10万人中 3万人死亡

日本人(日本兵と技術者) 1万人中 1千人死亡

この話は日本軍の残虐行為として語られることが多い、しかし死亡率は低いものの日本人も1千人もの犠牲者を出している、つまりそれだけ危険な土地なのだ。

 

 

本題に戻ろう。

しかしタイ人は不思議なことにあまり蚊に刺されない、その理由はこの当時タイ人にはビンロウの実や葉を食べるキンマと言う習慣があり、これがタイ人が蚊に刺されにくい体質を得た原因と言われている。

ところがキンマが過去の習慣となった現在でもタイ人は蚊に刺されにくい、私の体験でも日本人が20~30ヶ所も刺されるのにタイ人は殆ど刺されない。

(余談だが、だから日本人はタイでは蚊に注意が必要、タイ人が平気だからと言って日本人は同じではない、バンコクでは今でもデング熱などが有る)

 

つまり風土病に打ち勝つ何らかの特性を持ったことが、タイ人が今のタイの地に移住できた原因のひとつとなっているようだ。<続く>

 

 

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2009-09-18 17:31

日経新聞さん! 科学に記事にウソは駄目ですよ<今分かっているのはこんなこと

前回前々回エントリーで弥生人の渡来ルートの関する日経新聞の記事についての疑問を書いた。

 

では彼らは何処から来たのか、その可能性のひとつが中国江南地方から直接来たと言うものだ、しかし直線距離で800キロ以上離れた所を航海する技術があったのか?

 

このエントリーでは中国と日本を結ぶ海の道についての私なりの考えを述べてみたい。

 

 

 

最初に「古代日本には中国と日本の間を航海する様な航海技術は無かった」と言ういわば常識的な考え方がある。

 

この考え方の出てきた原因は、多分後の時代、遣唐使船が大変航海に苦労し多くの犠牲を出した。また唐招提寺をつくった鑑真和上が日本に来る為何度も遭難し、最後失明までしてやっとたどり着いた、こんな事実からこのルートはきわめて困難との見方が定着したと思う。

 

遣唐使船の渡航ルート (Wikiによる)

この内特に九州から中国に直行するルートは困難を極め、従来の定説は遣唐使船は季節風に対する知識も無く、無謀な航海をしたといわれていた。

然し最近の研究では遣唐使は朝貢の使いとの性格から、元日朝賀に出席する為気象条件の良くない時期に出航せざるを得なかった、これが遭難多発の原因と言われている。

 

 

 

では日本と中国の間の往来の実態はどうであったのか。

実は時代は下るが、ここを4~5人乗りの小船で自由に往来していた海の民がいる。倭寇である。

 

倭寇の実態はよく分からない、殆ど唯一の倭寇の船を描いたものはこんなもの。

 

倭寇図巻:部分 (東京大学史料編纂所蔵)

右側が倭寇、乗っているのはこんな小船

 

では彼らがどんなルートを使ったかと言うと

 

倭寇の侵略地とルート(中国の海商と海賊:山川出版社刊より)

 

 

この様に時代が違うとはいえ、遣唐使船のような大きな船でも手こずった東シナ海の航海、それがあんな小さな船でも可能、その理由は上に上げた「中国の海商と海賊」では以下のように書いている。

 

 万暦「温州府志」兵戎志、海防、「入寇海道」の条を引用する形で、

「日本から帆船で東北風が多く吹けば、その風を受けて薩摩、長崎県の五島からただちに浙江省中部沿海地区に到達する航路となった。その際の目標が寧波府の象山県東部の海上に位置する菲山列島であった。そこから沿海にそって南下すれば温州が襲撃地となり、北上すれば舟山列島が襲撃地となるとみられたのである。

倭寇の襲撃時期は旧暦の清明節(陽暦の4月上旬)から5月までの1~2ヶ月と、重陽節すなわち旧暦の9月9日から1ヶ月弱のあいだがその時期であった。」

 

つまり日本から中国に行き、そして帰ることに出来る時期は年2回あり、この時期であればあのような小さな船でも往来できたわけだ。

船乗りにとって風を読むことは命にかかわること、だから海の民は風のことを熟知していたのであろう。

 

 

中国江南地方と日本・朝鮮との航路が有る季節だけ往復可能であったことを裏付ける資料が同じ文献に出ている。

 

これは朝鮮半島の高麗の記録「高麗史」の中に記載された宋代の中国商人の記録の中に出身地の分かるものがあり、それを纏めたもの。

 

 

 ここには西暦1017年~1059年までの間に詳細不明の1件を除く20回の来航記録がある。

その20回中15回は7月~8月に到着している。

また同じ名前の人物が2回来ているものも有る。

つまり中国江南地方と朝鮮(日本もたぶん事情は同じ)との航路は、安全な季節があり、彼らはそれを良く知っていたと思える。

(尚この様なことは資料豊富な日本の方がもっとハッキリするだろうが・・・)

 

 

 

弥生人の話を2000年以上後の話で推測する、これはムチャクチャなことではあるが、弥生人のことが直接分からないのでこんな事を例として出してみた。

 

2000年以上後の時代ではあるが、倭寇などは中国と日本の間を4~5人乗りの小船で自由に往来できた。

海図も六分儀も羅針盤も無いといえば、弥生人も倭寇も条件はほとんど同じだと思う。

 

尚倭寇が有るグループなどは数百隻の船団を組んでいたと言ったことは承知しているが、2~3隻の小集団もあった。

この話はこの小集団の倭寇を念頭においていることを了解いただきたい。

 

 

弥生人、彼らは実は優秀な航海者ではなかったか、そう考えている。

 

最後に日経新聞記事に対する私の考えを述べてみたい。

 

 

 

これが日経新聞に出ていた弥生人の渡来ルート図

 

 

 

然し最近の研究で有力なルート

 

 

然し稲の遺伝子解析からこれしかないと見られているルート

(佐藤洋一郎氏の説)

 従来このルートはきわめて困難なルートと考えられてきた。

然しはじめに述べたように、季節を選べば安全なルートであった可能性が高い。

 

 

 

上の中国江南地方から山東半島⇒朝鮮西部⇒朝鮮南部⇒九州北部と言うルートは今でも考古学者に強く支持されている。

 

然し遺伝子解析からは、中国江南地方から直接渡来したとしか考えられない。この事実に対して現在の考古学者は答えを出していないのが実情だ。

 

面白いことに以上の二つのルートは最初にあげた遣唐使船のルートとぴったり重なっている。

 

以上がこの問題についての現在の研究状況といえる。

日経新聞さん、記事にするならこんなことくらい調べて記事にすべきですよ!

こういった姿勢がネット時代の新聞に要求されていることに早く気がついて欲しいと思う。

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2009-09-09 15:43

日経新聞さん! 科学の記事にウソは駄目ですよ<続>

日経新聞に9月6日掲載された科学記事がトンデモの部分があることを前回指摘した。

所でこの議論、未だに決着はついていないが、どうも今までの常識(と言われていたもの)が間違っていたようだ。

 

前回も掲載したが日本への弥生人の渡来ルートの図

 

 

 

この図の何処が間違っているかの前に弥生人=稲作人の渡来ルートにどんな説があるか

 

稲の伝来ルート(他にも説はあるようだがマイナーなので除外)

 

1) 遼東半島から朝鮮半島を南下して九州北部に伝来(上の図のルート)

 

2) 長江(揚子江)下流域原産米が山東半島経由で朝鮮半島南部に伝来、そこから九州へ伝来した

 

3) 長江下流域(今の上海あたり)から直接九州北部に伝来

 

4) 長江下流域から西南諸島を経て九州南部へ伝来

 

この内1)の説が日経新聞に掲載された記事の図である。

然しこの説は遼東半島や朝鮮北部に古代の水耕田址が発見されていない事、遼東半島が元々稲作に不向きな寒冷地であることなどから、かなり以前から否定された説である。

 

参考までに現在の中国の地域別主要作物がどうなっているかを示す。

これを見ても米・稲作が中国北部から朝鮮半島北部経由で日本まで来るのが無理なことが分かるというもの。

 

また4)は途中の沖縄に稲作伝来の証拠が見つからず、逆に九州から後の時代に伝わったと考えられている。

 

残るは2)と3)だが

 

2)については今でもこの説を主張する学者は多い、

然し植物学者による稲のDNA研究から朝鮮半島から伝来したと考えるには無理があるとされている。

また2)なら途中の対馬・壱岐に伝来の痕跡があるはずだが未だ見つかっていない。

 

残るは3)だけ、長江下流域(今の上海あたり)から九州北部まで直線距離で800キロは有る。

こんな距離を弥生人が航海できたのか?

どんな船で、どんな方法で?

 

その答えの参考になるものが、兵庫県出石町の袴狭(はかざ)遺跡で発見された。それは弥生時代後期から古墳時代初期の木製品(板材)でそこに16隻の古代船が線刻されていた。

 

線刻画全体図

 

この線刻画を元に実物大の古代船が平成19年復元された。

現物は平成19年10月オープンの兵庫県立考古博物館にある。

 

復元された古代船

 

日経新聞の記事は一部は最新の科学情報だが、弥生人の伝来に関しては諸説ある中で、すでに否定された過去の説に基づいている。もっとシッカリしてよ、日経さん!と言わねばならない。

 

所で長江下流域からの800キロを越える航海、これについては次回詳しく考えて見たい。

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2009-09-07 14:32

日経新聞さん! 科学に記事にウソは駄目ですよ

9月6日(日)の日経新聞に科学記事として「感染症で探る日本人ルーツ」という記事が掲載された。

日経新聞はネットで見るのが有料なので、その内容をかいつまんで紹介すると、

 

 

宮城県の浅野史郎前知事が急遽入院した。病名は成人T細胞白血病という聞きなれない病気、この病気をもたらすウィルスは感染力が弱いが最初に日本人である縄文人から受け継がれたもの。そしてその後到来した弥生人が持ってきたのが結核だったと言うもの。

 

 

記事そのものは古代から今に続く感染症との闘いについての啓蒙記事なので大変良いものだ。

そしてこの成人T細胞白血病は最近日本で発見され、しかもこの発見が日本人のルーツの発見に繋がる(発見者は愛知県がんセンター田島研究所長)・・・ 日経の記事で紹介されたとおりで大変興味深い。

 

この成人T細胞白血病の件は以下の文献に詳しい。興味のある方はぜひご一読を!

 

科学朝日編 モンゴロイドの道

1995年 朝日新聞社刊

(この文献にも上記田島所長の書かれた記事がある)

 

 

さてここからが本論。

日経の記事では

弥生時代(紀元前5世紀~紀元後3世紀)になると新たにのっぺり顔の弥生人」が朝鮮半島から渡来。先住の縄文人と混じりながら、今の日本人が形成されていった。・・・原文どおり・・」

このようになっている。

そして以下のような図がついている。

 

 

 

何処がおかしいか?

上の白血病ウィルスの図では「①弥生時代に朝鮮半島から渡来人が入る」となっている。

 

下の結核についての図では「①中国の春秋・戦国時代(紀元前770~同221年)に各地に難民が流出」としてあり、図中の矢印は中国北京付近から朝鮮半島を経由して日本に至るルートが示されている。

 

だがこの渡来ルートは以前からある説の一つにすぎず、最近のDNA鑑定などのハイテクを使った調査ではだんだん影が薄くなってきた説の一つだ。

成人T細胞白血病ウィルスのように日本人が発見し、日本人のルーツにまで遡るような大発見と、弥生人のルーツのように諸説入り乱れてはいるが、中国江南地方から直接来たと言う説が有力になりつつあるのとは大違い。

 

これでは残念ながらうそと言わざるを得ない。

 

 

 

 

日本人のルーツについて上に紹介した「モンゴロイドの道」では最近の遺伝子研究の結果から以下のような図を示している。

但しこの図、縄文とか弥生とかそれ以後の渡来人とかを区別していない、全部ひっくるめてのものとしてみて欲しい。

 

遺伝子研究から見た日本人の移住ルート

「モンゴロイドの道」P160より転載

 

また弥生人=稲作人とすると稲作の伝播ルートは以下のルートが有力になっている。

 

 

こんな所が最近の研究の成果である。

日経新聞ともあろう所なら、もう少し注意して書いてもよさそうなものだ。

それとも日本人は朝鮮由来の民族だと言いたいが為の記事なのか、そんな勘繰りをしたくなる書きっぷりだ。

 

所でこの朝鮮由来説、朝鮮半島と日本の間なら対馬、壱岐を経由すれば比較的簡単にいけそう、それに対し中国江南地方はあまりにも遠い。こんな所からたいした根拠も無く信じられてきた面がある。

このあたりについては次回に。

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2009-09-06 18:05

GM オペル売却見送り<これがアメリカ流

GMが決定済みのオペル売却の方針を取りやめするようだ。

NIKKEI NET:クルマの報道から

 

(9/5)GM、独オペルの売却見送る方針 独紙報道

 【フランクフルト=下田英一郎】4日付南ドイツ新聞(電子版)は、米ゼネラル・モーターズ(GM)がグループの独オペル売却を見送る方針だと報じた。GM取締役会筋の話として伝えた。GMは5月末にオペルをカナダ自動車部品大手マグナ・インターナショナルとロシア銀ズベルバンクに売却することで暫定合意した。しかしGMはロシア側にオペルの技術が流出することを懸念しており、8日開催予定の取締役会でオペルの売却中止を正式決定するとしている。

 

<引用終り>

 

この話、最初からどうも胡散臭いと思っていた。

自動車部品メーカーに売っておけば、後で買い戻す事も出来るとの意見を言う人もいてナルホドと思ってはいたが・・

然しこうも早く決定済みのことをひっくり返す、これがアメリカである。

 

GMの世界戦略上重要な小型車は現在はオペルが中心、それをコリアのGM大宇に任せようと言うのが今回の作戦だった。

貧すれば鈍すとは正にこのことと思っていたが思い直したと言うことか。

 

まあ2日に発表された8月のアメリカの自動車販売実績などを見れば、危機感が募るのも無理は無い。

 

8月のアメリカの自動車販売実績

総販売台数 126万1977台で前年同月比1%増(1年10ヶ月ぶり)

 

メーカー         台数         対前年比

1) GM(除サーブ)     24万5066台  ー19、9%

2) トヨタ         22万5088台    +6,4%

3) フォード(除ボルボ)17万6000台    +17%

4) ホンダ          16万1439台    +9,9%

5) 日産           10万5312台    ー2,9%

6) クライスラー       9万3222台  -15,4%

7) ヒュンダイ         6万0467台     +47%

8) キア             4万0198台     +60,4%   

9) VW(含アウディ)    3万3008台     +14,1%

10)スバル            2万8683台     +51,5%

 

このようにGMとクライスラー負け組

8月はオバマ政権が自動車産業救済のために実施したスクラップインセンティブ(キャッシュ・フォー・クランカー)制度のおかげで販売が伸びた、然し狙いとしたGM・クライスラーはこの恩恵の蚊帳の外。

 

これからもオバマ政権とGM、何をしでかしてくれることやら。

日本にトバッチリが来ないことを祈る。

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