カテゴリ:歴史 の記事一覧

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2017-03-23 17:05

「不都合」な史実の抹消狙う左翼に警戒を<平川祐弘先生<追記あり

 文科省のお役人様が聖徳太子の呼び方を変える、こんな可笑しな話があったが取りやめになり、私もエントリーした。
聖徳太子の勝ち<追記あり
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1365.html

ここで青山繁晴さんの「中国から学者や役人にいろんな工作があり、その結果こんな事が起こった」と書いたのだが、調べてみるといろんな学者の方がこの問題を大問題として取り上げている。

例えば、
東京大学名誉教授・平川祐弘
【正論】 聖徳太子を「厩戸王」とし、「脱亜入欧」を貶める 「不都合」な史実の抹消狙う左翼に警戒を

拓殖大学客員教授・藤岡信勝
【正論】 周到な「聖徳太子抹殺計画」 次期指導要領案は看過できない 
http://www.sankei.com/life/news/170223/lif1702230029-n1.html

ほかにも色々あるだろうが、皆さん問題にしているのが日本の国体を貶める動きに対する批判で、決して容認できないというものだ。官・学の腐敗に対する問題提起だと思う。
これからも問題は大きくなっていくと思うのだが、特に平川先生の意見は重要と思うので、記録のためアップします。


<以下引用>
http://www.sankei.com/column/news/170315/clm1703150005-n4.html
2017.3.15 08:26
【正論】
聖徳太子を「厩戸王」とし、「脱亜入欧」を貶める 「不都合」な史実の抹消狙う左翼に警戒を 東京大学名誉教授・平川祐弘


 昭和の日本で最高額紙幣に選ばれた人は聖徳太子で、百円、千円、五千円、一万円札に登場した。品位ある太子の像と法隆寺の夢殿である。年配の日本人で知らぬ人はいない。それに代わり福沢諭吉が一万円札に登場したのは1984年だが、この二人に対する内外評価の推移の意味を考えてみたい。

 ≪平和共存を優先した聖徳太子≫

 聖徳太子は西暦の574年に「仏法を信じ神道を尊んだ」用明天皇の子として生まれ、622年に亡くなった。厩(うまや)生まれの伝説があり、厩戸皇子(うまやどのみこ)ともいう。推古天皇の摂政として憲法十七条を制定した。漢訳仏典を学び多くの寺院を建てた。今でいえば学校開設だろう。

 仏教を奨励したが、党派的抗争を戒め、憲法第一条に「和ヲ以テ貴シトナス」と諭した。太子は信仰や政治の原理を説くよりも、複数価値の容認と平和共存を優先した。大陸文化導入を機に力を伸ばそうとした蘇我氏と、それに敵対した物部氏の抗争を目撃したから、仏教を尊びつつも一党の専制支配の危険を懸念したのだろう。

 支配原理でなく「寛容」をまず説く、このような国家基本法の第一条は珍しい。今度、日本が自前の憲法を制定する際は、前文に「和ヲ以テ貴シトナス」と宣(の)べるが良くはないか。わが国最初の成文法の最初の言葉が「以和為貴」だが、和とは平和の和、格差の少ない和諧社会の和、諸国民の和合の和、英語のharmonyとも解釈し得る。日本発の世界に誇り得る憲法理念ではあるまいか。

 ≪独立自尊を主張した福沢諭吉≫

 ところで聖徳太子と福沢諭吉は、日本史上二つの大きなターニング・ポイントに関係する。第一回は日本が目を中国に向けたとき、聖徳太子がその主導者として朝鮮半島から大陸文化をとりいれ、古代日本の文化政策を推進した。第二回は Japan’s turn to the West 、日本が目を西洋に転じたときで、福沢はその主導者として西洋化路線を推進した。

 明治維新を境に日本は第一外国語を漢文から英語に切り替えた。19世紀の世界で影響力のある大国は英国で、文明社会に通用する言葉は英語と認識したからだが、日本の英学の父・福沢は漢籍に通じていたくせに、漢学者を「其功能は飯を喰ふ字引に異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨る食客と云ふて可なり」(学問のすゝめ)と笑い物にした。

 このように大切な紙幣に日本文化史の二つの転換点を象徴する人物が選ばれた。二人は外国文化を学ぶ重要性を説きつつも日本人として自己本位の立場を貫いた。聖徳太子はチャイナ・スクールとはならず、福沢も独立自尊を主張した。太子の自主独立は大和朝廷が派遣した遣隋使が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」と述べたことからもわかる。日本人はこれを当然の主張と思うが、隋の煬帝(ようだい)は「之(これ)を覧(み)て悦(よろこ)ばず、〈蛮夷の書、無礼なるもの有り、復(ま)た以(もっ)て聞(ぶん)する勿(なか)れ〉と」いった(隋書倭国伝)。

 中華の人は華夷秩序(かいちつじょ)の上位に自分たちがおり、日本は下だと昔も今も思いたがる。だから対等な国際関係を結ぼうとする倭人(わじん)は無礼なのである。新井白石はそんな隣国の自己中心主義を退けようと、イタリア語のCina(チイナ)の使用を考えた。支那Zh●n★(Zhīnà)は侮蔑語でなくチイナの音訳だが中国人には気に食わない。

 東夷の日本が、かつては聖人の国として中国をあがめたくせに、脱亜入欧し、逆に強国となり侵略した。許せない。それだから戦後は日本人に支那とは呼ばせず中国と呼ばせた。

 ≪学習指導要領改訂案に潜む意図≫

 アヘン戦争以来、帝国主義列強によって半植民地化されたことが中華の人にとり国恥(こくち)なのはわかるが、華夷秩序の消滅をも屈辱と感じるのは問題だ。

 その中国はいまや経済的・軍事的に日本を抜き、米国に次ぐ覇権国家である。中華ナショナリズムは高揚し、得意げな華人も見かけるが、習近平氏の「中国の夢」とは何か。華夷秩序復興か。だが中国が超大国になろうと、日本の中国への回帰 Japan’s return to China はあり得ない。法治なき政治や貧富の格差、汚染した生活や道徳に魅力はない。そんな一党独裁の大国が日本の若者の尊敬や憧憬(しょうけい)の対象となるはずはないからだ。

 しかし相手は巧妙である。日本のプロ・チャイナの学者と手をつなぎ「脱亜」を唱えた福沢を貶(おとし)めようとした。だがいかに福沢を難じても、日本人が言語的に脱漢入英した現実を覆すことはできない。福沢は慶応義塾を開設し、英書を学ばせアジア的停滞から日本を抜け出させることに成功した。だがそんな福沢を悪者に仕立てるのが戦後日本左翼の流行だった。

 これから先、文科省に入りこんだその種の人たちは不都合な史実の何を消すつもりか。歴史は伝承の中に存するが、2月の学習指導要領改訂案では歴史教科書から聖徳太子の名前をやめ「厩戸王」とする方針を示した由である。(東京大学名誉教授・平川祐弘 ひらかわ・すけひろ)
<引用終り>

平川先生の言う「福沢諭吉貶め」については、私は具体的に把握していない。判明したら別途紹介しようと思います。


* 追記します
コメント欄で「かんぱちさん」から福沢諭吉貶めについての情報をいただきました。
重複になりますが、コメント欄の話をそのまま本文に引用します。かんぱちさん、どうも有難うございました。

<以下かんぱちさんのコメント>
17/03/25 かんぱち
反日左翼たちが福澤諭吉を攻撃し始めたようです

以前、まとめサイトで漫画「美味しんぼ」の原作者である雁屋哲が、福澤諭吉を批判していたのを読んだことがあります。雁屋氏は、あの「美味しんぼ」の登場人物たちが「福島へ行った後、鼻血を出した」というストーリーを考えた反日左翼です。 

雁屋哲 - Wikipedia 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%81%E5%B1%8B%E5%93%B2 

今、検索してみたら、その福澤諭吉批判を本にまとめたようで、左翼メディアや左翼系弁護士のサイトで宣伝していました。 

まさかの福沢諭吉 | 雁屋哲の今日もまた 
http://kariyatetsu.com/blog/1850.php 
「まさかの福沢諭吉」、発刊、そして緊急のお願い | 雁屋哲の今日もまた 
http://kariyatetsu.com/blog/1856.php 

福澤諭吉は民主主義者ではなく軍国主義者だった〈週刊朝日〉|朝日新聞出版 
https://dot.asahi.com/wa/2017011800026.html 

雁屋哲氏『まさかの福沢諭吉』発刊 70年戦争史観への転換点?: 街の弁護士日記 SINCE 1992 at 名古屋 
http://moriyama-law.cocolog-nifty.com/machiben/2016/11/j-875d.html 

「福沢諭吉が日本を大日本帝国に引き戻す!」 | IWJ Independent Web Journal 
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/347887 
>「美味しんぼ」雁屋哲氏らが会見!「チャンコロ」「豚尾兵」…アジア人を罵った元祖ヘイトスピーカー福沢諭吉の正体が12月4日、明治大学で暴かれる! 

※IWJは、テレビのコメンテーターもしていたことがある反日左翼のフリー記者、岩上安身が運営している動画ニュースサイトです。
<引用終り>

雁屋哲がシナに取り込まれ、日本貶めに走るのも困ったことですが、それに提灯をつける反日マスミの存在が悲しいですね。
この件は別エントリーでも取り上げたいと思います。




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2017-02-24 21:59

厩戸王(聖徳太子)は戦後出てきた呼び方らしい

 文科省が聖徳太子を厩戸王(うまやどのおう)と言わせたいらしい。
この件はコメント欄で質問があり、また裏の桜さんも取り上げている。
ガンは文科省か???
http://sakuraura.blog.fc2.com/blog-entry-4150.html

そこで私の現在知っていることを書いてみたい。と言っても研究者の受け売りです。
駒澤大学の石井公成先生が「聖徳太子研究の最前線」というブログを書いています。この分野での最新研究の成果を纏めて見えるのですが、石井先生もこの「厩戸王(うまやどのおう)」は可笑しいと言っています。
またこのエントリーは都民ですさんへの回答でもあります。


指導要領改定案の問題点:「厩戸王」は戦後に仮に想定された名、「うまやどのおう」も不適切【訂正】

全文は以下引用しますが、私の独断と偏見でまとめた結論
・ 「厩戸王」は戦後に仮に想定された名、江戸時代末期に使用例はあるが、全く飛鳥時代とは縁のない所での使用例でこの当時こんな事を言われていたとは考えにくい。
また「うまやどのおう」は現代の読み方、飛鳥時代なら「うまやと(濁らない)」「のみこ」又は「のおおきみ」と訓まれている筈。
第一「うまやど」は訓読み、「おう」は音読みの重箱読み。飛鳥時代から重箱読みなんてあったんですかねえ。

・ 聖徳太子という名前は奈良中期の『懐風藻』の序に見えるのが最初、しかしこれは天皇の漢字諡號(天皇没後に贈られるおくり名)で奈良時代になって定められたもの。だからと言って、これで聖徳太子はいなかったなどとは言えないはず。そんな事を言ったら欽明天皇も推古天皇も天智天皇も天武天皇も使えないことになる。

・ だから聖徳太子(厩戸皇子)で何ら問題ないとおもう。


では研究者の方の言っていることを紹介します。

<以下「聖徳太子研究の最前線」より引用>

指導要領改定案の問題点:「厩戸王」は戦後に仮に想定された名、「うまやどのおう」も不適切【訂正】
2017年02月23日 

 2月14日に小学校や中学校などの指導要領の改定案が公表され、新聞などでも報道されました。その歴史教科書の改定案を見てみました。文部科学省は、パブリックコメントを受け付けるとのことですので、出しておく予定です。

 報道によれば、文科省の説明としては、聖徳太子という名は没後になって使われるようになったため、歴史学で一般的に用いられている「厩戸王(うまやどのおう)」との併記の形とし、人物に親しむ段階である小学校では「聖徳太子(厩戸王<うまやどのおう>)」、史実を学ぶ中学では「厩戸王<うまやどのおう>(聖徳太子)」とする由。

 これは奇妙な話ですね。後代の呼び方はいけないのであれば、天皇の漢字諡號は奈良時代になって定められたのですから、欽明天皇も推古天皇も天智天皇も天武天皇も使えないことになります。さらに重要なのは、奈良時代から用いられるようになった漢字諡號などと違い、「厩戸王」という言葉は、使われた証拠がまったくないことでしょう。どの時代の史料にも見えません。

 「聖徳太子」という名は、現存史料による限りでは、奈良中期の『懐風藻』の序に見えるのが最初であり、生前に用いられていたことを示す資料はないのは事実です。聖徳太子という名称を用いると、後代の伝説化されたイメージが強くなりすぎるという懸念はあるでしょう。

 しかし、「厩戸王」はもっと問題があるのです。このブログで何度も書き(こちら)、拙著『聖徳太子-実像と伝説の間-』(春秋社、2016年)でも強調したように、「厩戸王」というのは、良心的な研究者であった広島大学の小倉豊文氏が、戦後になってから後代のイメージに縛られずに研究するために仮に用いた名であって、史料にはまったく見えない名だからです。これを実名であるかのように扱うのは不適切です。あるいは、これは史料に見えない仮の呼び方だと説明するのでしょうか。

 『聖徳太子-厩戸王とその時代-』という題名で人間としての聖徳太子を描く本をまとめようと苦闘した小倉氏は、「私は『厩戸王』というのが生前の称呼ではなかったかと思いますが、ここには論証を省略」します(『聖徳太子と聖徳太子信仰』、綜芸舎、1963年、22頁)と書いたものの、その本は断念し、論証できないまま亡くなりました。

 ところが、この翌年、九州大学の田村円澄氏が『聖徳太子』(中央公論社、1964年)を刊行し、冒頭の「生いたち」という章の最初に「厩戸王」という一節を設けました。史料の根拠を示さずにこの名を用いたのです。末尾の参考文献には小倉氏の上の本も記されています。田村氏のこの著書は、入手しやすい中公新書であったこともあってロングセラーとなり、歴史学者や一般の人を含め、多くの読者を得ました。

 以後、田村氏は、実在人物としては厩戸王、信仰の対象としては聖徳太子というように、名を使い分けるようになっていきます。むろん、論証はしていません。このため、史料に厳密な学者はこの「厩戸王」という名称は用いないようです。

 しかし、この仮の名がいつのまにか世間に広まり、史学者の中にも聖徳太子の実名は厩戸王だと思い込む人が出てきました。その代表が、大山誠一氏です。大山氏は、「聖徳太子はいなかった。実在していてそのモデルになったのは、ぱっとしない皇族で勢力がなかった厩戸王だ」という趣旨のセンセーショナルな議論を展開し、マスコミで話題になったわけです。大山氏は、著書の中で「本名は厩戸王」と明言し、「うまやどおう」というルビを付しています。

 指導要領改定案もう一つの問題点は、「厩戸王」の訓みを「うまやどのおう」としていることです。しかし、「厩戸」の語については、当時の漢字発音としては「うまやと」と清音で訓まれていたことが知られています。また、『日本書紀』の古訓では、「~王」という人名は「~のみこ」とか「~のおおきみ」と訓まれています。

 ですから、現在の高校の日本史の教科書の中には、「厩戸皇子(聖徳太子)」と表記し、慣用音も考慮して「うまやと(ど)のみこ」というルビを付けているものもあるのです。これが無難な表記でしょう。

 「上宮王」の場合、「かみつみやのみこ」が普通であって、漢字音で訓むなら「じょうぐうおう」でしょう。史実を重視したというなら、六世紀の末から七世紀初めにかけて、「うまやど + おう」といった重箱訓みの例、それも「の」を入れて「~のおう」とした例があるのか知りたいものです。そもそも、「厩戸王」という言い方をしている史料が無いわけですが。

 なお、聖徳太子の真実の姿を追い求め、客観的に研究しようとしていた小倉氏は、文献批判を行って太子に関する不確かな伝説を否定していたものの、太子を過度に凡人扱いしたり過度に神格化したりする傾向には反対していました。

 このため、太子が天皇絶対主義の元祖として尊崇されていた戦時中に、しかも太子の国家主義的利用を推し進めていた文部省主催の研究会で、そのことを勇気をもって明言したのです。私は小倉氏のこうした姿勢に共感しており、氏を尊敬しているため、拙著の冒頭に小倉氏のその言葉を掲げました。

「又性急に太子を常人として過小評価することも、或ひは又非凡人として過大評価することも、何れも慎まなければなりません」(小倉豊文)

【訂正:2019年2月24日】
「厩戸王」の語は、いかなる資料にも見えないと書きましたが、『甲斐国志』巻四八に見える由(こちら)。ご指摘、ありがとうございます。江戸後期の編纂ですね。

(引用者注:この文書は私も読んでみました。江戸時代末期に甲斐国に使用例があると言っても、まったくポツンと出てきたものなので、これが一般的とはまったく言えません。勘違い・誤用のたぐいと考えるのが妥当と判断します)

<引用終り>

 こんな事で、私の言いたいことは冒頭書きましたが、こんな事が出てくる理由が他にあります。
それは聖徳太子の「太子怨霊説」。これはは昔からありまして、それの決定的な証拠は『法隆寺の国宝の中でも秘仏中の秘仏である「救世観音像」』。何せ明治17年に開けてみたら、白布でぐるぐる巻きになっていた。いったいなぜこんな事になってしまったのか。太子怨霊説が消えない原因の大きなものだと思います。 
但しこの白布は木綿だそうで、そうするとこれは戦国時代後期以降に巻かれたもの。ですから太子怨霊説が随分前からあったことは間違いなく、話をややこしくしています 
まあおかげで救世観音像があのように美しい姿で残ったんだから、それはそれでよしとすればいいかもしれません。
しかし聖徳太子の怨霊の力は凄いと思います。こんなバカなことを言い出した文科省のアホ役人には聖徳太子の怨霊が取り付いて、行く末は哀れなものになりそうな気がします。
アホ役人覚悟せよ!!
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2017-02-23 19:05

江戸は眠っていたか

 「国際派日本人の情報ファイル」というメルマガがある。
http://melma.com/backnumber_256_6480697/
ここに大変興味深い記事があった。
【江戸は眠っていたか】、これがその記事タイトルで、何故江戸が眠っていたかというと
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も寝られず」
こんな狂歌で言われるように、江戸幕府は泰平の世にすっかり平和ボケして居眠りしていた、だから黒船=蒸気船=上喜撰4杯夜も眠れない。こんな話である。
黒船来航図
2017-2-22黒船来航図 

この記事を見てみると、『驕れる白人と闘うための日本近代史』 松原久子著より となっている。
そこでこの松原久子氏の著書を買ってみた。
2017-2-22松原久子氏の著作 

原著は松原久子氏が1989年にドイツでドイツ語で出版したもので、それを2005年に邦訳したものである。しかし内容は大変面白く、日本人が押し付けられた自虐史観とは大いに違う所がある。

その中で上掲メルマガで紹介している「江戸幕府は居眠りなんかしちゃいませんぜ」というくだりを紹介したい。

引用文に入る前に簡単に当時の年表を
・1767年 田沼意次側用人二田沼時代始まる
・1778年 ロシア船蝦夷地に来航、通称を求める
       以降最初ロシア、次にイギリスも通商を求めに来るが全て拒否
・1783年 天明の大飢饉
・1800年 伊能忠敬、蝦夷地を測量
1808年 江戸湾沿岸に砲台修築起工
1840年~42年 アヘン戦争(イギリスが清国を攻撃)
1853年 ペリー浦賀来航
・1854年 ペリー再度来航 日米和親条約


さてこんな時代背景をみながら以下松原久子氏の言っていること。
<以下該当部分を引用>

【江戸は眠っていたか】

 『驕れる白人と闘うための日本近代史』 松原久子著より

(転載 始)

■居眠(いねむ)りはしていなかった日本
 江戸幕府が不安だった理由はまさにここにある。

 アヘン戦争を、江戸幕府ほど高い関心を持って注目していた政府が世界のどこにあったろう。アヘン戦争に至るまでの前史、敗北した後の中国の惨状を、日本の政府ほど熱心に分析した政府も他にはなかった。

 危機感は幕府内部にとどまらず、広く一般大衆の間にも広がって、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が行なわれた。アヘン戦争に至る経緯に関する本と、戦争が終わってからの中国の惨憶たる有様が書かれた本が出版され、多くの人に読まれた。

 二百年前に鎖国が始まって以来、政府のタカ派の人たちがいつも言っていた「白人は与し難く、危険である」という警告が正しかったことを、初めて一般世論が認めたのだった。

■「白人」の悪い性格
 白人は何かが欲しいとなれば、絶対譲歩しない。彼らは欲しいと思ったものが手に入らなければ、別の方法を考え出して目的を達成する。彼らに扉をほんの少しの隙間でも開けば、彼らはそれを無理やりこじ開ける。彼らをうまく説き伏せることができても、彼らは笑って、やりたかったことを強甲に実行する。

 彼らに断固として立ち向かっても、彼らは恐ろしい武器の力を使って情け容赦なく反撃してくる。 白人からどのように身を守ることができるのだろうか。

■防衛力増強に大転換
 アヘン戦争に関連した中国の出来事すべてを目の前にして、幕府は細心の注意を払わねばならないことを痛感させられた。西洋人は信用できなかった。

 アヘン戦争が終わる一八四二年、幕府は全ての大名と各沿岸砲兵中隊の指揮官全員に、アメリカの船が江戸湾に入ってきた一八三七年の時のように挑発して砲撃をするようなことを絶対してはならない、そうなったらどんな事態に発展するか予測がつかない、という厳重な指示を与えた。

 と同時に幕府は、兵器を早急に近代化し、沿岸と港の防備を徹底的に強化し、二百年もの間放棄していた艦隊を建設するだけでも、さしあたり国の最低限の防衛になり得ると考えた。

■何と「蒸気機関」等の国産が始まっていた
 そういう事情だったので、ペリー司令長官が例の黒船、すなわち東インド艦隊を率いて現れる十年前にはすでに溶鉱炉は操業し、鍛造工場や鋳物工場が建設され、大砲を製造することができる旋盤とフライス盤の開発が始められていた。蒸気機関はオランダの設計図に基づいて造られ、固定した動力装置として次々に工場に設置されたり、エンジンユニットとして船に取り付けられ始めていた。

 残念なことに、日本がヨーロッパの技術を早急に取り入れた動機は、ヨーロッパ人の独創性を讃美したからではなかった。そうではなくて、むしろその動機は、欧米列強の隠れた意図に対する不安と不信感にあったといわねばならない。そしてその不安と不信感が日本人をかくも大急ぎにさせたのであった。

■「平和ボケ」していなかった幕府
 その不安と不信感がいかに正当であったか、そして再三江戸湾に姿を現す欧米の船団に対する幕府の極度な慎重さがいかに理に適っていたか、中国の悲劇が明らかにしてくれる。

 「アヘン戦争後、中国は欧米列強に対して実に大幅な譲歩を行なったが、欧米列強はそれでも不服であった」 これはブリタニカ百科事典からの一文である。それでイギリスは、一八五六年にごく些細な出来事を新たな戦争を始める言い掛かりにしたのだった。中国船籍のアロー号が密売のためにアヘンを積んでいた。(転載終)

■歴史教科書とは違う雰囲気だった
 高校の日本史などで学んだ幕末の様子とは違う、松原さんの本は嬉しくなりますな。私たちの頭の中を書き直す気迫で迫ってきます。

 江戸の「鎖国」はいわゆる「管理貿易」の事であり、「国防政策」でありました。江戸時代が遅れた時代の様に書かれたりするのは、それで得をする勢力が“戦後にも”いたからでしょう。祖先たちは一生懸命やっておりました。だから今日の日本がある。

<引用終り>

こんな話なのだが、上掲の狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も寝られず」、これがあまりにも強烈で、ペリーがやって来るまで日本は居眠りしていたという印象がある。
しかし実際は松原さんが言うように、日本はアヘン戦争をしっかり見ていたのだった。
そういえば私は愛知県の知多半島在住なのだが、ここにもそんな時代の遺跡がある。砲台跡だ。
内海砲台跡というその遺跡は知多半島の先端に近い南知多町内海にある。

内海海岸、海岸沿いの国道から下に降りると目の前が海
2017-2-23内海砲台3 

そして目を後ろに移すと、国道わきにこんな岩山、海抜は30メーターほど
2017-2-23内海砲台2 

この岩山の中腹に小さな神社がある、そこまで登っても
2017-2-23内海砲台4 
こんな風で樹木が茂っていて眺望が利かない

しかし海と反対側に400メーターくらい行くと
2017-2-23内海砲台1 

「尾張藩海の防備 内海砲台跡 嘉永3年(1850年)築造通路」と書いてある

1850年と言えばペリー来航の3年前。泰平の眠りではなく、海の防備を固めようとしていたことが分かる。

この砲台に設置された大砲類は
・12貫目ホウイッスル砲 1挺
・5貫目矢筒 2挺
・1貫目矢筒 1挺
・3貫目カノン砲が略台車とセットで備えられたという。

この大砲だが現物はもちろん残っていない。参考までに他所のあるものを拾ってみると

これは品川区の浜川砲台の「6貫目ホーイッスル砲」
2017-2-23浜川砲台 

これは火矢筒の例
2017-2-23火矢筒の例 

これはカノン砲の例
2017-2-23品川台場の80ポンドカノン砲 

さてこれで最新式大砲を備えた黒船に対抗できるものだっただろうか??。
しかし内海砲台の試射した際のことが地元に伝えられている。
試射したら、すぐ目の前の砂浜に着弾し、砲術師は大いに恥をかいたとか。現地を見る限り、多分3~400メーターくらいしか飛ばなかったのだろう。
こういった失敗がその後の西洋式軍備へと繋がっていくわけなのだが・・・。

このアヘンの話や黒船の話を見ていくと必ず出てくる悪徳商人の名前がある。ラッセル商会という。
このラッセル商会はアヘンと奴隷貿易で莫大な富を得た悪徳商人。そこの中国広東での代表者がウォーレン・デラノでなんと日本に来たペリーとも関係があるらしい。その孫(娘の子)がアメリカの大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト・・・。
以下参照ください
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1316.html

この悪徳商人の話はまた別の機会とします。

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2017-01-26 16:46

沖縄に東日本の縄文土器 2500年前の交流示す

 沖縄で縄文時代晩期(今から約2500年前)の縄文式土器が発見されたという。
以下そのことを報道する沖縄タイムズの記事

<以下引用>
https://this.kiji.is/196595438335983619
沖縄に東日本の縄文土器 2500年前の交流示す
2017/1/24 20:171/25 07:35updated
 沖縄県の北谷町教育委員会(川上啓一教育長)は24日、北谷町伊平の遺跡で出土した土器破片が、縄文時代晩期(約2500年前)の東日本の大洞系(おおほらけい)土器である可能性が高いと発表した。関係者によると東日本の土器が県内で確認されるのは初めて。

 大洞系(亀ケ岡系)土器は、東北を中心に分布する縄文晩期の土器形式。確認された破片は4センチ~5・5センチの台形で、浅鉢の高台の一部とみられる。表面に複雑な筋状の文様が重なり、朱色の塗料の跡がある。
(引用者注:土器の形式は他の報道は亀ヶ岡式土器だが、なぜか此処では大洞系となっている)

 町教委では「県内の遺跡ではこれまで縄文晩期の新潟産の翡翠(ひすい)などが出土しているが、東日本の土器の出土は初。縄文晩期から弥生前半にかけての沖縄との文物の交流を示すものだ」としている。
2017-1-26沖縄で発見された縄文土器

<引用終り> 

亀ヶ岡式土器と言えば、あまりにも有名なのがこれ。遮光器土偶である。

2017-1-25遮光器土偶 

素晴らしいものです。縄文時代の日本が高度な文化を持っていた、そのいい証拠ではないでしょうか。

沖縄はDNAの研究などから縄文人と琉球人との関係が深いことが指摘されており、こんな遺物の発見でさらにその証拠が固まったと言える。
沖縄は古来日本人だったという良い証拠である。

そんな日本列島の南と北、2000キロも離れたところで交流があったかと不思議だが、日本の周りの海流にそのヒントがある。
これは日本近海の海流の図
2017-1-26日本近海の海流と移籍 

沖縄辺りでは沖縄の西を流れていた黒潮はそこから一部が分流(黒潮本流の約1割)、対馬海流となって日本海を流れてゆく。特にその一部は比較的日本列島に近い所を流れているので、この海流を上手く使えば日本海の船での往来には都合がよい。
縄文・弥生の時代にはこの日本海ルートが交易の主流だった。


所で沖縄タイムズさん、あなた方は琉球独立論をぶっていませんでしたっけ。
良かったですねえ、沖縄は縄文の昔から日本人だった。そんな事が大手を振って言える確かな物証が出てきたわけですから。
しかも遮光器土器に代表されるような高度な文化を持っていたんですから。
沖縄は縄文の昔から土人国では無かった、今も土人は要らないですね。
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2016-11-20 09:41

焚書の事例から現代へ

 11月10日のエントリー「トランプが大統領になる」でGHQによる焚書の事例を取り上げた。またこの焚書は永らく戦後の闇に隠れていたが、西尾幹二先生が精力的に取り上げていることも前回紹介した。
今日はその焚書に事例とそれが現代につながる話を取り上げます。

最初に10日のエントリーで取り上げた焚書の例

2016-11-10GHQ焚書大衆明治史 
「大衆明治史 國民版」 菊池寛(著) 汎洋社 昭和十七年
41頁~61頁 (マリア・ルーズ号事件

2016-11-20マリア・ルーズ号事件 


さてこのマリア・ルス号事件、Wikiではこう書いている。この件の問題を理解するため、少々長いが我慢してみてください。
以下wikiの「マリア・ルス号事件」

マリア・ルス号事件(マリア・ルスごうじけん)とは、明治5年(1872年)に日本の横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の清国人苦力を奴隷であるとして日本政府が解放した事件。日本が国際裁判の当事者となった初めての事例である。

事件の概要
1872年7月9日、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス(Maria Luz マリア・ルーズ[1]、マリア・ルースと表記する書籍もあり[2])が横浜港に修理のために入港した[3]。同船には清国人(中国人)苦力231名が乗船していたが、数日後過酷な待遇から逃れる為に一人の清国人が海へ逃亡しイギリス軍艦(アイアンデューク号)が救助した。そのためイギリスはマリア・ルスを「奴隷運搬船」と判断しイギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。
そのため当時の外務卿(外務大臣)副島種臣は、神奈川県権令(県副知事)大江卓に清国人救助を命じた。日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかったため、政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は人道主義と日本の主権独立を主張し、マリア・ルスに乗船している清国人救出のため法手続きを決定した。
マリア・ルスは横浜港からの出航停止を命じられ、7月19日(8月22日)に清国人全員を下船させた。マリア・ルスの船長は訴追され神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする特設裁判所は7月27日(8月30日)の判決で清国人の解放を条件にマリア・ルスの出航許可を与えた。だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし清国人をマリア・ルスに戻すよう主張した。これに対し2度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効であるとして却下した。また、この裁判の審議で船長側弁護人(イギリス人のフレデリック・ヴィクター・ディキンズ[4])が「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており、奴隷売買を非難する資格がないとの批判により日本は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年10月に芸娼妓解放令が出される契機となった。裁判により、清国人は解放され清国へ9月13日(10月15日)に帰国した。清国政府は日本の友情的行動への謝意を表明した[5]。しかし問題はこれで終わらなかった。
翌年2月にペルー政府は海軍大臣を訪日させ、マリア・ルス問題に対して謝罪と損害賠償を日本政府に要求した。この両国間の紛争解決のために仲裁契約が結ばれ第三国のロシア帝国による国際仲裁裁判が開催されることになった。ロシア皇帝・アレクサンドル2世によりサンクトペテルブルクで開かれた国際裁判には日本側代表として全権公使の榎本武揚が出席。1875年(明治8年)6月に法廷は「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決を出し、ペルー側の要求を退けた。
<引用終り。

所でこの当時、多数の中国人が苦力(クーリー)として海外に出ていった。中国には永年にわたる人口排出・奴隷輸出の歴史があるが、その一つである。
この件はピッグ・トレードという事で、ドイツ在住の丸山光三さんがブログに書いている。

ピッグ・トレードという名のシナ人奴隷貿易


このピッグトレードで輸出されたシナ人に関しては、私がタイで雇用したスタッフのうち、華僑系のスタッフから聞いても「おじいさんがゴザ1枚持って船に乗ってタイにやってきた」と言っていたりするので、そんな連中には別に古い話ではないと思う。

さて本題に戻ってマリア・ルス号事件だが、この件は高山正之さんが雑誌正論2016年8月号の「折節の記」にペルーに関してという事で一文を書いている。私がゴタゴタ書くより面白いので、それを引用したい。

<以下引用>
折節の記  雑誌正論 2016年8月号
高山正之

  日本とペルーの出会いは明治5年に始まる。その年、横浜港に入ったペルー船マリア・ルス号から積み荷の苦力1人が逃げ出し、英国艦に助けを求めた。
 英国は揉めごとが大好きだ。日本政府に彼を引き渡し、ついでに「奴隷廃止のいまどき、奴隷船が大手を振っている」とけしかけた。
 外務卿は曲がったことが嫌いな佐賀の藩士、副島種臣。法務卿は同じく江藤新平だった。ペルー船の船長を拘留し、苦力を解放すればお前を許すと言った。
 苦力は米国のラッセル商会の商品で、船は移送だけが仕事。船長はすぐOKして231人の苦力は船底の牢から解放された。
 大損したラッセル商会は怒った。ペルーを通して日本政府に賠償請求訴訟を起こした。
 国際法廷はロシア皇帝アレクサンドルニ世を裁判長にして開かれ、日本は榎本武揚を送って非道の苦力貿易を批判した。
 米陣営はパソナの竹中平蔵と同じに「苦力は奴隷でなく契約労働者だ」と主張した。
 しかしロシア皇帝はルーズベルトの義父、ウォーレン・デラノ(引用者注:義父ではなく、母方の祖父)が仕切るラッセル商会が阿片と奴隷貿易で儲ける悪徳商会と知っていたから、日本の勝ちを認めた。
 ペルーには多くの苦力がいた。彼らは日本の勇気に感謝したが、苦力を使う側のスペイン人は奴隷補給を絶たれて日本を恨んだ。
 報復のときは70年後に来た。(引用者注:フランクリン・デラノ・ルーズベルトが大統領の時)日本が真珠湾を攻撃すると米国は日系人をマンザナの収容所に放り込んだ。ペルーにも声をかけ、スペイン人は邦人1770人の財産を没収し、米国の収容所に送った。白人たちの報復はいつも陰湿だ。
 それから半世紀、ペルーの大統領選にアルペルト・フジモリが立ち、驚いたことに対抗の白人候補を破って当選してしまった。
 何で驚きかというと、ペルーを含む中南米諸国はどこも白人が支配階層にいて、彼らがインディオを犯して生ませたメスチソが中間階層を占め、その下に黒人奴隷と苦力の末裔、それと日本人移民が最下層を構成していた。
 フジモリは白人の血の入らない最下層に属していたが、彼を非白人層が支持し、それにメスチソたちが相乗りした結果だった。
 大統領になった彼はまずメスチソたち3万人を殺した共産ゲリラ、センデロルミノソを退治し、次にベラウンデ家とかプラド家とかこの国を支配してきた白人が独占する国会の改革に乗り出した。
 世に大統領のクーデターといわれる荒療治で、軍隊をして国会を制圧し、上下院計182人をクビにし、改めて120人定数のI院制に改めた。さらに国民所得が100ドルなのに毎月1千ドル出ていた議員年金を廃止した。
 白人の縁故で占められた役所にもメスを入れ、新たに公務員試験を導入する一方で、例えば3500人いた文部省は700人に人員を削減し、その分を学校建設に回した。フジモリ治世のころ、毎週、どこかで学校が開校されていたとエクスプレソ誌が伝えていた。
 おかげでインフレ率2千%の破綻財政は5年で立ち直った。
 これに白人が危機感を持った。フジモリ再選のとき彼らは国連事務総長で名門のデクエアルを担いだ。出馬宣言の日、彼はヘリでチチカカ湖に降り立った。インカの王がその湖から生まれたという神話をなぞったものだ。
 これにメスチソが反発した。そのインカ王も民も殺したのはお前らスペイン人ではないか。フジモリは記録的な圧勝で再選された。
 フジモリはその後、汚職と無事の市民虐殺の嫌疑で捕まった。汚職を追放した大統領が汚職をするわけもない。それは無実となったが、共産ゲリラを退治するとき、無事の民を巻き添えにしたという言いがかり訴因は白人判事によって認められた。報復はなった。
 今回の大統領選に白人側は東欧生まれのユダヤ系白人クチンスキを立て、フジモリの娘ケイコを何とか倒した。日本の新聞報道には一切人種が出ないから、読んでいてもさっぱり判らない。
<引用ここまで>

明治5年の話が延々と尾を曳き、日系人強制収容問題になった。
2016-11-20強制収容される日系アメリカ人 

ペルーと言えば、私には首都リマでの日本大使公邸人質事件を思い出すのだが、これを取材していた青山繁晴さんがその後勤務先の共同通信社を退職せざるを得なかったのには、このあたりの闇の世界が関係していると思っている(私の個人的感想です)。


焚書の話があちこちに飛んでしまいました。
焚書とはこんなアメリカにとって都合の悪いことを隠すために仕組んだものだった、そういう事が7700点もの膨大な書籍の一点ずつに色々ついている、そう思って間違いないでしょう。

日本を取り戻すためにはこんな歴史を一つずつ掘り起こしていく作業がどうしても必要ではないかと思うのです。

このマリア・ルス号事件でも、これだけで明治の日本が実に毅然とした態度で欧米の奴隷体制に対峙していたことが分かります。
多分焚書の中にはこんな話が沢山埋もれている、そう思います。

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2016-03-23 23:09

島根県の弥生時代遺跡

 出雲でどうしても見たかった所、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡に行ってきました。
荒神谷遺跡は国内最多の358本の銅剣と銅鐸などが出土した所、加茂岩倉遺跡は39口の銅鐸が出土した所で、今までの考古学の常識を一変させる凄い発見でした。どちらの遺跡も幸いなことにキチンとした考古学的発掘調査が行われていた事でも重要な所でした。



これが荒神谷遺跡

2016-3-23荒神谷遺跡現地

人里離れた谷筋の奥の急斜面にこんな埋納用のテラスを作って埋納してありました。
左側が銅剣358本が埋納してある所。
発掘当時の姿で、銅剣のレプリカを展示してあります。

右側が銅鐸と銅矛が埋納してある所。
銅鐸と銅矛が同時に出土するのは日本で初めての事でした。


そしてこれは島根県立古代出雲歴史博物館が作成した荒神谷遺跡の昔の銅剣埋納の様子想像図

2016-3-23荒神谷遺跡埋納想像図

古代出雲歴史博物館の検討結果では現地は現在でも人里離れた谷の奥の奥、そこから急峻な傾斜地を登った所にこんな埋納用に場所を作った。相当の準備と人手がかかったと思われるが、埋納の段階では少数の人で行ったはず。
こんな話だった。

行ってみて古代史のなぞが一層深まった、そんな思いがする遺跡訪問だった。

しかし結局銅鐸の謎は深まるばかり、これからいろいろな事が分かって来るだろう。楽しみだ。
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2016-03-16 19:25

銅鐸の作り方の一考察

 13日に「ベトナムが日本語を「第1外国語」に」をエントリーし、そこでベトナムと日本との縁についてベトナムのドンソン銅鼓(青銅鼓)と日本の銅鐸について私の思い出話を書いてみた。
ベトナムと日本、古代史の話だがベトナムの銅鼓と日本の銅鐸には製造方法に共通点がある、そんな事を書いたのだが皆さんから色んなご意見などを頂いた。
そこで銅鐸について私の知る所を書いてみたい。

尚、別にこの件とは関係ないのだが、丁度私は今週末に出雲へ行くことになっているので、出雲の博物館なども見て来るつもりです。


最初に銅鐸最大の謎、それは見つかるのが偶然山中から発見されるだけ、普通の墓とか古墳、住居跡などからは見つかっていない、また文献には記載がない事である。
(銅鐸の発見は、最古の記録は668年から有るが、この時すでに何なのか分からなくなっている)

こんな謎だが最近島根県の荒神谷遺跡から大量の銅剣とともに銅鐸も発見され、更に直ぐ近くの加茂岩倉遺跡からは一度に39口の銅鐸が発見された。幸運な事にどちらの遺跡もキチンとした考古学的発掘調査が行われ、その埋納状況が分かってきた。
さらに昨年、淡路島でも銅鐸が発見され、内部に舌(ぜつ)が有る事が確認され、鳴らして使うと言うその使用方法がハッキリわかってきた。

銅鐸は祭祀に使用され、祭祀が終わったら土の中に埋めて保管、次に使うときは又掘り出して使う。こんな使い方をしたと言う説が有力になってきた。また淡路島での発見は銅鐸が鳴らして使うものと言う事の有力な証拠でもある。

そしてベトナムなどの田舎では、現在でも銅鼓が使われている所があるが、その銅鼓の保管方法が土の中に埋めて保管、使うときは掘り出して使う。こんな事も有るようだ。


加茂岩倉遺跡出土銅鐸
2016-3-16加茂岩倉遺跡出土銅鐸
39口全部が国宝になっている

そしてこれは昨年淡路島で発見された銅鐸、CTスキャンで内部に舌があることを確認した時のモノ。


ソースは
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201506/0008155962.shtml



さてこれからは銅鐸の製造方法について

これは復元銅鐸を造っている様子


但しこの動画に有る造り方は現代の技術、弥生時代の技術は似ているがかなり違う。

例えば、動画では、鋳型に砂を詰める時水ガラスを混ぜる、そして砂をつめたら炭酸ガスを注入して固めると言っているが、これが現代の鋳造法
昔は水ガラスも炭酸ガスも無い、それで如何して作ったか。

以下は大変古い文献だが、そこに銅鐸の作り方が記載されている。
最近の研究で銅鐸は小型のモノは石型大きいものは土型で製造されたことが分かってきたが、この造り方はその大型銅鐸の作り方。

尚古い文献だが、銅鐸の作り方をこれだけ詳しく書いたものは見たことがないので、参考用として全文引用する。
銅鐸に興味のある方には役に立つと思う。
それからこの造り方はベトナムのドンソン銅鼓(青銅鼓)と共通するものがある。どなたか研究してくれませんかねえ。

それから以下引用文は古い文献をスキャンしたので大変読みにくい、そこで適当に改行して多少読みやすくした。

引用文献
日本考古学講座 第6巻 歴史時代(古代) 昭和31年4月 河出書房刊 より (・・・古いなあ・・・)

この項目の著者は香取正彦氏

<以下引用>

銅鐸鋳造法
 
 銅鐸・銅鉾・銅剣・鏡などは前に述べたように惣型鋳物であるが、その型作りの方法の如何なるものかを知っていた方が研究上役立つこともあり、また便宜でもあるかと考え、銅鐸についての型作りを一応述べてみよう(第3図)。

2016-3-16doutaku3.jpg


 まず木の板に鐸身の平面図縦半分を描いて鐸の外線の形をのこし、幅規(はばき:作られる品物にはならぬところで型と型の合せるのに必要な部分)を付けたもの(図印1)を作る。
これを規型という。
規型の上下の中心となるべき垂直の丸の軸を取付ける。木枠甲乙二箇を用意し、木枠の甲乙の上下に軸受木を取付け、規型Iをその軸受木の中央に置いて上部は軸受木の穴鳥目(型を作る時規型の軸木をあてる中心になるところ)にさしこみ手前は軸受に落込むように切込鳥目をして置く。
1は木枠の鳥目を軸として旋回するようにして置く。
枠内は型土を詰めるのであるが、型土は粘土を濃く水に溶 した埴汁(はしる)と砂とをこねまぜたもので、真土(まね)という。
真土にわらを切った「つた」を入れた荒真土(あらまね)をつけ、次に「つた」を入れない、やや細末のもの,次に粉末またぱ水こしした微細なものとの順に枠内に詰め、規型を左から
右に下方に回し、また右から左と旋転させ凹の型を作り、木枠の縁を定規に枠内の土を箆でならし、上下の軸受と共に規型を取除けば、木枠乙3ができあがる。
こうして2、3の木枠内型のできたのが鐸身の前後面になるのである。これを横挽法という。

 銅鐸は上部の肩の方が底の方よりいつも深めな扁円であるのは、正面に近い上部の軸を手前の底の方より深めに装置するからであろう。
凹んで作ら札た雌型が、半截の正しい半円形でないのは枠の縁より高く軸を装置するからであり、また型の縁の鰭(ひれ)の付根が破損するのを防ぐことと、なおできた鐸を取出すのに便利なためである。それが惣型の特長である。
 雌型ができたらば、鈕(つまみ)も鰭も箆をもって彫込み、細末土で塗りならし、文様を描き凹める。
これは作家独自に格子文なり、斜交交・流水文なり、好みの文様を線彫に描きこむ。その時細心の注意を要することは、両面の鈕が軸を中心に上下四方を正しく合致させねばならぬことはもちろんであるが、鈕も左右の鰭も各平均に出入なく、また雌型の
深さも両面とも同一でなくてはならない。要するに甲乙両型を合せて厘毛の差もないようにすることが肝要である。

 次に中空にするためには中型(なかご)の装置が必要である。鐸身側面の双孔は中型を雌型に持たせかけ、型持として必要であり、下方縁の双凹入は肩の上鈕の中間の双孔と共に中型の移動を防ぐため必要である。型持は中型と雌型の間隔の
役にも立たせる。
幅規(はばき)は中型を鐸身の中型と共に作り、全体の中型をもたせ、また横転するのを予防する役目もある。
小形のものには孔のないものもあるが、これは幅規だけで型持ちがなくても持つからである。
溶銅を注入する鋳口(いぐち)は、幅規の一部をけずり取って付ける。この場合雌型でも中型でもよい。
中型を作るにはまず「中型砂」を用意する。それは砂を篩(ふるい)にかけて、濃い埴汁を交ぜ合せ揉合せ、手に握りしめて固まる程度の、ぼろぼろの砂をつくる。
これが中型砂である。
雌型は炭火を型内に盛りあげて煉瓦色になるまで焼く。
焼けたら炭火を去りきれいにして、甲の雌型の凹んだ所に中型砂を詰め込み手でたたき、締めつけて固める。
乙の雌型にも同様な作業をする。
甲と乙との中型砂を詰めたらば、その上に埴汗を砂に交ぜた泥を置いて、甲型の上に乙型の枠の把手(とって)を持って覆い合せる。
甲乙両型を合わせて少しの食違いもないように型を合わせ枠外に合口の印を付けておく。泥砂のためこのようにすれば甲乙の中型が粘着する。
そこで乙型を取除けば、乙型の中型は甲型の上に置去られて残る。
それを炭火で乾して甲型から抜き取れば、中型砂で鐸身ができる。砂の鐸身をよく乾燥して銅の厚さとなるだけ削り落す。できあがったのが図の中型である。

 さて中型を削り終ったらば、中型の外面と雌型の内面とに木炭の細末を薄い埴汁水に溶したものを塗り、あるいは松のひで(松の木の油の多い部分)を燃し真黒く燻べる。
これは溶銅の流れをよくするためといい、銅と型と分離し易いためで、また型のこわれを防ぐためでもある。
そして一方の雌型に中型を納め、前に印を付けた合口を目標に他の一面の雌型で覆い、両面の型の開かぬよう繩で二ヵ所か三ヵ所をかたく縛る。
そして中型を納めた型は多少動かしても、いざることや開くことのないようにして、鐸の上部を下に鋳口を付けた方を上にして土中に穴を掘り、入れて周囲をよく埋める。

そして溶銅を注ぎ込む。このように型を動かす作業があるので、肩や側面に型持が必要なので、中型を削り残して型特にする場合もあり、粘土と砂を練り合わせた一片を置くこともある。だから不整形な孔となるので、
これで鐸などに約束的に孔のあることが了解されたと思う。
鋳損じて銅の回りの不十分なものが往々あるが、それは色々の原因で最も普通には雌型の焼方が不十分か、焼けていても湿気をふくんだこと、乾燥がたりないこと、溶銅がとけきれなかったことなどが原因で、文様が不鮮明などのことができる。以上が銅鐸の鋳造法の大体である。

<引用終り>

大変長く読みにくい文章で恐縮です。
しかしこんな製造方法ですが、現代の製造方法とは似ていますがかなり違います。

まあこんな製造方法だったと言う事で理解していただければいいかと思います。
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2016-01-21 19:13

1万年前、集団で争いか=殺害された人骨多数-ケニア

 1万年前に戦争が有ったことを裏付ける人骨が発見されたと報道されている。
発見されたのは「人類発祥の地、東アフリカの大地溝帯」、先ずはどんな話かというと。

<以下引用>

1万年前、集団で争いか=殺害された人骨多数-ケニア
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2016012100037

英文はこちら
http://www.theguardian.com/science/2016/jan/20/stone-age-massacre-offers-earliest-evidence-human-warfare-kenya


2016-1-21ケニア・トゥルカナ湖付近の発掘調査写真


 アフリカ・ケニアのトゥルカナ湖近くで、約1万年前に狩猟採集民の集団同士が争い、こん棒ややりなどで殺害されたとみられる人骨が少なくとも27人分見つかった。英ケンブリッジ大などの国際研究チームが20日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。
 農耕が始まると、土地や収穫物をめぐる争いが増えるが、狩猟採集時代の集団的な争いの跡は珍しい。人骨の発掘場所は当時の湖岸付近で、水や魚介類などの食料を得やすい場所だったとみられる。縄張りや食料などをめぐる争いか、出合い頭の偶発的な戦いかは不明だが、人類の戦争の起源を考える手掛かりになるという。
 27人のうち子供が6人おり、大人は男女8人ずつで性別不明が5人だった。埋葬された形跡はなく、大人10人のほぼ全身がそろった骨格には、こん棒などで殴られて骨折したり、やりや矢を受けたりした跡が見つかった。
 男性1人の頭骨には、やりの先か矢尻とみられる鋭い黒曜石があった。女性のうち1人は妊婦で、手足を縛られて殺害されたとみられる。胎児の骨も見つかった。(2016/01/21-03:33)

<引用終り>


凄い発見である。1万年も前の人骨がそのまま残っていた。現在でもトゥルカナ湖は琵琶湖の10倍も有る巨大な湖。
しかも流れ込む川は有っても流れ出る川の無い砂漠の中の湖。そんな環境が幸いしたのだろう。

トゥルカナ湖はこんな所

2016-1-21ケニア・トゥルカナ湖付近のchizu



そして東アフリカと言えば人類発祥の地、そこからの大移動は大体こんな風と考えられている。

2016-1-21世界中に広がるホモサピエンス


私がこの話で興味深いと思うのは、東アフリカを約10万年前に出発した人類、それは4~3万年前には日本列島にもやってきていた。そしてそこで石器時代を経て縄文文化を誕生させる。
その長い長い縄文時代を通して「戦争とか殺人が有ると言う証拠は全く見つかっていない」、つまり日本人の祖先は1万年以上の縄文時代、戦争などは全くなく平和に暮らしていたのだ。
しかも更に驚くべき事が発見されている。
 北海道洞爺湖町の入江貝塚で発見された人骨。そこには子供時代にポリオの感染し、ほとんど寝たきりだった女性であったことが分かっている。
20歳くらいと思われるその女性は殆ど歩けなかった筈で、手足の骨は細くボールペン位、それでも十数年介護されていた訳だ。
そして死んだとき、丁重に葬られている。
日本人のご先祖様はこんな心優しい人たちだったのだ。

その人骨の出土状況
2016-1-21北海道入江貝塚の人骨(ポリオだった)

http://jomon-japan.jp/wp-content/uploads/2013/07/leaflet_6irietakasago.pdf


何処かの国が半万年の(有りもしない)歴史を喧伝しているが、日本には確かな物証が有る。
日本人は縄文時代の昔から心優しい人たちだったのだ。
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2015-04-18 08:11

戦後史を知るために

 宮崎正弘氏の4月17日のメルマガに面白いモノがあった。
記事も面白いが、読者の声と言う投稿欄に貴重な意見がある。

 GDPは二倍だが、中国は日本に40年遅れていると華字紙も自省
  ひとりあたりのGDPは中国7000ドル弱、日本は40000ドル


この本文記事もなのだが、そこに読者からのコメントを掲載している「読者の声」と言う欄がある。
そこに「PB生、千葉」と言う方が興味深いコメントを寄せている。
私はこの「PB生、千葉」と言う方は全く存じ上げていないのだが内容が面白いので紹介したい。

戦後70年、今年は戦後史に関して色々反省することの多い年になるが、矢張り戦前の日本人が何を考えていたか、そんな事をきちんと知ることも大事だと思う。

特に今回の中国のAIIB問題、私にはドイツの参加で新たなABCD包囲網に見えるのだが、そんな意味で戦前の日本の考えている事が興味深い。
現在の日本はあの戦争に引き込まれた時と同じような立場ではないだろうか。

何はともあれ、先ずは「PB生、千葉」氏の意見を引用したい。

<以下引用>

読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者之声

(読者の声2)国立国会図書館では「近代デジタルライブラリー」として明治以降に刊行された図書・雑誌のうち、インターネットで閲覧可能なデジタル化資料を公開しています。
 中国関係を検索していたら面白い本がありました。1931年に発行された松岡洋右著「東亜全局の動揺-我が国是と日支露の関係 満蒙の現状-」です。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453943

内容は国会議員として民政党の幣原外交を徹底的に糾弾している。対露では大正14年(1925年)の国交回復以降の変化として、貿易は日本の輸入超過、北樺太の石油・石炭事業に対する妨害、北洋漁業は昭和3年の漁区の割合が日本側8割6分1厘だったのに昭和6年には日本側4割9分6厘と押されっぱなし。国交回復しないほうが良かったのではないかとまでいう。
日本政府に対しては『我が帝国の総理大臣も外務大臣も、尚ロシアの善意と好意に固く信頼し、そのうちに、円満なる解決をロシアはしてくれるであろうと言っておられるのである。・・・ロシアは誠によい支持者と代弁人を我が政府者に有している事ではある』と批判する。
他にも「ルーブル」換算率問題、ウラジオの朝鮮銀行支店閉鎖などがでてきます。為替レートに関しては今も昔も大問題。廣田弘毅駐ソ大使が日本側の主張を押し通したのに対しロシア政府は大使の頭越しに直接幣原外相と交渉を試みた。
大使といえば国の代表ですから外相はあくまで廣田大使をバックアップすべきなのですが実態は『しかるにこの明白なる事理を無視し、出先帝国の代表使臣の面目を潰し、立場を失わしめ、しかも廣田大使の主張と態度とを覆すが如き譲歩を敢えてしたる幣原外相の真意は果して那辺にあったか』と対露外交の弱腰ぶりを嘆いている。

対支外交についてはもっと悲惨です。
江西・福建では共産党が勢力を強め、国民政府も広東政府あり、張学良・閻錫山・馮玉祥ありで、支那二十二省中、完全に南京政府の下に支配されているものは、わずかに江蘇・浙江の二省にすぎない。
経済問題では関税自主権の回収と国内産業保護により日本製品の輸出に大打撃。政治では小幡公使(現在の大使)のアグレマン問題があり中国側の気に入らない外交官は受け入れ拒否という滅茶苦茶ぶり。
中国側は中村大尉事件ほか日本人襲撃事件では日本の陰謀と言いつのる。
日貨排斥、上海では白昼公然、日本人商人の貨物を強奪、ついには海軍陸戦隊が出動する始末。『我が出先軍部のかかる直接行動は、取りも直さず、外交の破綻を意味するものでなくて何であるか。腕力の行使は外交ではない』、『由来敗北宗の信条は無抵抗であり、譲歩であり、叩頭である。自ら屈する者に敬意を払う国は今日世界に一国もない』と批判はさらに続きます。
戦後の対中国、位負け・叩頭外交と瓜ふたつ、福田元首相など、相手の嫌がることはしない、とまさに幣原外相そっくり。
蒋介石は国共内戦に負け台湾に逃げたために忘れがちですが、国民党はあくまで革命党でした。
条約も国際法も無視の「革命外交」に対し日本の「協調外交」などいかに無力であるか、『人足に小笠原流の礼式を以て臨んだり、荒くれ男に箱入り娘が立ち向かったりするのでは、夫(それ)は到底物にはならない』と表現する。
満洲事変以降の歴史を日本の侵略だった、軍部が全て悪かった、とする戦後の歴史教育がいかに偏ったものだったのかわかります。

  (PB生、千葉)

<引用終り>


今年は戦後70年とあって様々なイベントがあるだろう、問題も吹きだす筈だ。
しかしその戦争に至る経緯、特に満州事変辺りからの歴史は全く知らない人が多いと思う。教育もされないし報道もされない。只々軍部が悪いと言うばかり。

そんな歴史を認識することこそ大切だと思う。
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2015-03-10 22:49

BBCが東京大空襲を大きく報道<追記あり

 今日は3月10日、日本人には忘れられない日である。
3.11の前日?? 確かにそうだがもっと大変な日。
昭和20年、1045年3月10日、東京大空襲の日だ10万人もの人が命を落とした日だ。
ホロコースト ボミング トウキョウ、そう言っても良い日なのだ。


残念ながら日本のメディアは殆ど頬かむり、今日NHKを見ていたのだが、朝のニュースは色んなニュースの最後にちょっと。
午後9時のニュースでも番組の最後にほんの申し訳程度にチラッと・・・


しかしBBCは今日このニュースをどんどん報道している。何度も何度も繰り返し報道しているのだ。
http://www.bbc.com/news/world-asia-31809257
B29が334機も攻撃した、そして日本人が約10万人死んだ。
(本当は犠牲になったのは皆非戦闘員で、それを言ってほしかったが言わなかったが・・・)

そして今日は安倍総理は都内で行われた慰霊祭に出席していて、その映像も紹介していた。
(NHK・民放でこのニュース、報道しただろうか?)
また何処かの神社の本殿の裏に普段誰も入れない納骨堂が有り、そこにこの空襲の犠牲者の遺骨が納められている、でも日本人でもほとんど知られていないと報道していた。
(私も知らなかった、思わずテレビの前で合掌していた・・・)


これがBBCのトップ画面
2015-3-10BBCtoppupe-ji



これが大空襲犠牲者の納骨堂内部
2015-3-10BBC納骨堂



最後がこの画面、一面の焼け野原
2015-3-10BBC焼け野原


日本ではこの悲劇、殆ど報道されていない、NHKでもほんの申し訳程度だ。
しかしBBCはこんな風に報道している。
10万人も犠牲になった、当然であろう。

最後に放送ではこんな言葉で締めくくっている。
B29の搭乗員にこの件でインタビューした時の搭乗員の話。
「アメリカが戦争に勝ってよかった。もし戦争に負けていれば、私は戦争犯罪人として裁判にかけられ、処刑されていただろう」

BBCはマトモである。日本はどうなってしまったんだろう。


* 追記します
裏の桜さんから大変貴重な動画を紹介いただきました。
元アメリカ国防長官マクナマラの証言です。

ルメイは、負けたら我々は戦争犯罪人だ、と言った by マクナマラ


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2015-01-15 18:30

反日プロパガンダ戦争

 昨日ローマ法王の話を「広島への原爆投下「最も恐ろしい惨事」ローマ法王、平和訴え」としてエントリーしたのだが、最近反日プロパガンダ報道が溢れてきている。
特に私はWSJの「戦後70年、日本が謝罪しても東アジア情勢は改善せず」と言う記事が気になる。

しかしその前によもぎねこさんがこんなエントリーをしている。
「トンデモ史観で戦後賠償を!! 中国新聞」
http://yomouni.blog.fc2.com/blog-entry-5018.html

WSJの記事と中国新聞の記事は言っている事はほぼ同じ、多分どこかに黒幕がいてシナリオを描いているのだろう。
各社の記事はそれを多少味付けを変えてみたと言った具合。
誰だよ! こんな事をたくらむ黒幕は???

大きな反日プロパガンダ網が張り巡らされたと言ったところだろう。
中国新聞の記事はよもぎねこさんが上手く問題指摘されているのでこちらを見ていただくとして、私はWSJの記事を問題にしたい。


最初にお断り
WSJの記事で猛烈に腹が立っています。少々荒っぽい書き方もあるかもしれませんがご容赦を。

ではWSJの記事

「戦後70年、日本が謝罪しても東アジア情勢は改善せず」

この話は長いので全文は本文末尾に掲載しました。
英文:http://www.wsj.com/articles/for-japan-a-difficult-art-of-saying-its-sorry-1421127266?mod=ST1
和訳:http://jp.wsj.com/news/articles/SB11902364152700394302604580398243323166342?mod=trending_now_2
しかしどうもよく読んでも分かり難い、そこで原文(英文)を読んでみました・・・ビックリ仰天
ビックリどころか怒髪天を衝く思いですが、先ずはこれを見てください。

2015-1-15WSJ記事ハードコピー

電子版のこの記事を開くと・・・ いきなり出てくるのがこの動画、広島の原爆の写真です。
このきのこ雲の下に十数万人の死が有る事が分かっているだろうか。
(広島市の推定では45年12月末までの死者数は約14万人)
「Atomic holocaust in Hiroshima」である。

きのこ雲の次の映像がコレ、どこの写真か良く分からない、被爆直後の写真に見えるが・・・
2015-1-15WSJ記事の動画2

その次の映像が安倍首相 ・・・ 印象操作である。原爆は安倍の責任だ・・・と。
2015-1-15WSJ記事の動画2-1

そして此奴がペラペラしゃべっている。WSJの記者「ANDREW BROWNE」だ。
2015-1-15WSJ記事の動画3

そして次に出てくるのが何と唐突にコレ
こんなババア相手に戦争などする訳が無い、嘘もいい加減にしろ!
日本は大東亜戦争を闘ったのはアメリカ・イギリス・オランダ・そして当時の蒋介石チャイナである。
現在の南北朝鮮は当時は日本帝国の一部。(植民地支配ではない、日本国として全く同じ扱いをしていた)
2015-1-15WSJ記事の動画4

そしてコレ
2015-1-15WSJ記事の動画5

次がコレ、分かり難いが南京大虐殺の中国側の嘘八百の数字
2015-1-15WSJ記事の動画6

少し飛んで又出てくるのがコレ、南京大虐殺が有ったとされる時期が書いてある
2015-1-15WSJ記事の動画7
日本は中国と戦っていたと誰でもいうが正しくない。
当時の中国はまともに統治されていない状態だった。
その中で日本は主に蒋介石の国民党軍と戦っていた。アメリカも国民党にテコ入れしていた。
毛沢東軍は日本を挑発しては逃げて行ってしまう。ほとんど戦っていないのだ。

尚南京大虐殺はこの当時の蒋介石が日本を貶めるためにアメリカに頼んででっち上げたもの。
そんな77年も前の嘘が未だにまかり通っているのだ。

動画は未だ続きますが以下省略。詳細は上掲リンク先参照ください。


そして更に腹が立つのが本文中にこんな写真を入れている事。

2015-1-15WSJ記事西ドイツブラント首相の謝罪写真

安倍首相にクネ婆や習チンペイの前でこんな事をせよとでも言いたいのだろうか。
悪いけどねえ、
クネ婆のオヤジの代にこの話は完全かつ最終的に解決してるんだけどねえ。
習チンペイの言う大虐殺などは何一つ証拠はないよ。証拠と言われるものは全部出鱈目だ。
証拠たるものなどアカヒちんぶんの本多何某の捏造話なんだがねえ。

オッとその前に1937年~38年が最初の捏造話、それは蒋介石の仕組んだ捏造だった。
それに悪乗りしたのが後にコミンテルンのスパイと分かるアグネス・スメドレー。
そのスメドレーが「わが夫」と言っていたのが尾崎秀実・・・
アグネス・スメドレー、尾崎秀実、ゾルゲとソ連・コミンテルンのスパイにつながる話である。
細川のバカ殿こと細川護煕さんよ、あんたの御祖父さんの近衛文麿が腹心として可愛がっていた尾崎秀実だよ。
それがソ連のスパイだったんだ。
その情報で日本がソ連を攻めないと知って極東に配備されたソ連軍が全部対ドイツ戦線に配備され、結果ドイツが敗北した。
こんな事を書いていると歴史とは何と非常なものか、忸怩たる思いである。


そして・・・ 日本が反省せねばいけないことは確かにある。
それは捏造アカヒ新聞を長年放置してきたことだ。


とまあ、こんな話です。
酷い話と思われる方が多いと思いますが、此れが今日現在進行中の反日プロパガンダの実態。
是非とも色んな所から反論してゆかねばいけないと思っています。


尚12月30日に「米政府の慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず」をエントリーしました。
この話は産経の古森さんの記事なのですが、その内容が分かりました。
古森さんとマイケル・ヨン氏の調査で、ベースになっているのはマイケル・ヨン氏のフェースブックの記事らしい。
此れがそのマイケル・ヨン氏の記事
https://www.facebook.com/MichaelYonFanPage/photos/a.235978145664.135781.207730000664/10152528275045665/?type=1

そしてこれをケント・ギルバート氏が日本語訳しています。
http://ameblo.jp/workingkent/entry-11958461771.html

そしてこれが2007年にアメリカ議会に報告された報告書
http://www.archives.gov/iwg/reports/final-report-2007.pdf



最後に本文冒頭で書きましたWSJの記事全文を記載します。
読み進むと猛烈に腹が立ちますが、まあ心静かな時にでも読んでみてください。

<以下引用>

戦後70年、日本が謝罪しても東アジア情勢は改善せず

By ANDREW BROWNE
原文(英語)
2015 年 1 月 14 日 11:12 JST 更新

 第2次世界大戦の終戦から70年を迎える今年、「懺悔(ざんげ)のモデル」のドイツのように振る舞うよう日本に求める声が一段と高まる公算が大きい。

 ドイツほど深い悔恨を鮮明にした国はかつてない。史上最も破壊的な戦争のあと、ドイツは苦しみながら自己反省して謝罪した。それが再び平和が脅かされるとの恐怖を沈静化させる一助となった。安心した欧州は、和解が可能になった。

 これとは対照的に、日本が戦争という過去を振り返るとき謝罪していると感じられないことが多い。これが、日本の軍国主義によって辛酸をなめた中国と韓国との関係が依然としてとげとげしい理由だとされている。また、尖閣諸島(中国名は釣魚島)をめぐる日中両国の緊張の高まりが武力衝突につながるのではないかとの現実的な懸念にもつながっている。

 日本はきっぱりと全面謝罪すべきだとの議論がある。東アジアの緊張緩和のためだというのだ。そして東アジア地域の政治家、学者、そして戦争犠牲者のグループの間では、安倍晋三首相が日本の降伏70周年の8月に何を言うかに既に期待が高まっている。

 そんな簡単な話ならどんなに良いことか。

 だが第一に、日本がこれまで公式の謝罪を出し惜しみしてきたというのは事実ではない。

 日本が戦時中の自らの苦しみにひたる傾向があると批判することはできる。同様に、学校の教科書で戦時中の旧日本軍の残虐行為を過小評価する一方、広く行われた奴隷労働、南京大虐殺、そして旧日本軍のために性奴隷とされた「慰安婦」の強制徴用といった諸事実を公的な立場にある人々が声高に否定していることも批判できる。

 しかし日本の指導者たちが謝罪しないと非難することはできない。この数十年間、彼らは繰り返し謝罪してきたからだ。

 例えば1991年、当時の宮沢喜一首相はアジア太平洋で日本が与えた「耐え難い苦しみと悲しみ」に許しを請うた。また降伏50年目の1995年に当時の村山富市首相は植民地支配と侵略について「痛切な反省の意」を表し、「心からのおわび」を表明した。

2015-1-15WSJ記事西ドイツブラント首相の謝罪写真

ポーランドのワルシャワ・ゲットー蜂起記念碑の前にひざまずく西独のブラント首相(1970年) Agence France-Presse/Getty Images
 だが、日本の指導者で、ドイツ(当時西独)のウィリー・ブラント首相が1970年にワルシャワ・ゲットー蜂起の記念碑前でひざまずいた象徴的な行動に匹敵することを行った人は皆無だ。2001年に当時の小泉純一郎首相が韓国で花輪をささげ、植民地支配を謝罪したぐらいだ。

 第二に、安倍首相が本格的に謝罪するとしても、それが大いに役立つかどうか全く明白ではない。それはかえって事態を悪化させるかもしれない。

 「謝罪する国々:国際政治における謝罪(Sorry States: Apologies in International Politics)」の著者ジェニファー・リンド氏は、謝罪は和解のために必要であるとの広く浸透した考えに異議を唱える。同氏は、ドイツとフランスは、ドイツが実際にナチの残虐行為を償い始める以前ですら仲直りしていたと指摘している。一世代(20-30年)という年月が必要ではあったが。

 加えて、謝罪は政治的にリスキーだ、とリンド氏は言う。それは謝罪する国において反発を引き起こしかねないからだ。

 それこそ日本で起こっていることだ。日本では、公式謝罪は右翼のナショナリストやその他の過激主義者から否定の声が一斉に出てくる引き金になっており、謝罪に込められた誠意を台無しにしている。

 安倍首相につきまとう問題は、同首相がこの種の人物を重要なポジションに任命してきたことだ。それが、安倍氏の真意がどこにあるのかという疑念が持ち上がるきっかけになっている。安倍首相は2013年、A級戦犯が他の戦没者とともに合祀(ごうし)されている靖国神社を参拝し、同首相を批判する陣営に攻撃材料を提供した。それが中国と韓国をして安倍氏は悔い改めない軍国主義者とのレッテルを貼らせることになったのだ。

 これは厄介な事態だ。もっと謝罪をしても、それは東アジアにおける真の問題を解決しないだろう。歴史をめぐる議論は、同地域の政治家たちによってそれぞれの国内目標のために利用されているのだ。

 歴史論議は、この地域では競合するナショナリスト的なアジェンダ(目標)をあおる。それらは領土紛争をかき立て、実際的な外交上の解決を排除してしまう。

 中国では、反日感情がレジーム(体制)を支える不可欠なつえと化した。日本を悔い改めない悪漢として描くことは、中国の軍事的増強を正当化する一助になっている。

 同じように、日本では多くの人々が中国の経済的な興隆を日本の存立を脅かす脅威としてみるようになった。有権者にとっての安倍氏の魅力は、少なくとも部分的には、同氏が日本の強力な隣国である中国に対峙(たいじ)してくれるだろうという期待があるためだ。安倍氏をひざまずかせれば、北京とソウルでは万事うまく行くだろうが、東京では恐ろしいことになるだろう。

 世界のどこでも真の和解にこぎつけるのは極めて難しい。このため、政治家は追い込まれなければ和解しようとしないのが常だ。そこでは共通の脅威の存在が役に立つ。欧州ではそうだった。つまり、冷戦への対応という至上命題が欧州(西欧)の和解を促したのだ。

 しかし、残念ながら、東アジアにおける政治的な力は、おおむね正反対の方向に作用している。一層の敵意という方向だ。

 そこで、安倍氏は8月15日の終戦70年にあたり何を言うべきだろうか。安倍氏は「先の大戦への反省、戦後の平和国家としての歩み、今後アジア太平洋地域や世界にどのような貢献を果たしていくのか」を新たな談話に書き込むことを約束した。同氏はまた、これまで(歴代政権)の公式謝罪から後退させるつもりはないことを強調した。

 これらはすべて、世界的なステーツマン(政治家)としての安倍氏の立ち位置を改善するのに不可欠だ。しかし、安倍氏が何を言おうと、日本の近隣2国(中国と韓国)をなだめられる公算は小さい。リンド氏は「魔法の言葉」というものはないと述べ、「それでも、中国は不満だろう」と語った。

 たとえ日本がドイツをモデルとし、アジアにおける第2次世界大戦の傷を癒やそうとした場合でも、問題は、中国と韓国がその後、「赦(ゆる)しのモデル」であるフランスのように行動するかどうかなのだ。

<引用終り>
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2014-11-24 17:52

古代の海の道から現在を考える

 私は昔から歴史、考古学好きなのだが、そんな古いものが現在の日本を考える上で大変役立つことを痛感するようになった。
そんな事で歴史的に見た日本周辺の海の道の問題点を考えてみたい。
とは言うものの弥生時代から始まって今日まで、長い話だがお付き合いください。


最初に縄文弥生時代からの日本の人口推移を

2014-11-24日本の人口超長期推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html

最初にここで何が言いたいか、ちょっと年代別に整理すると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

  年代                 人口(万人)
・紀元前6100年(縄文早期)    2万人
・紀元前3200年(縄文前期)   11
・紀元前2300年(縄文中期)   26     縄文時代の人口ピーク
・紀元前1300年(縄文後期)   16
・紀元前 900年(縄文晩期)    8     この時期には人口激減
・    200年(弥生時代)   59   弥生時代に入って(千年強で)人口は約8倍に
・    725年(奈良時代)   451     弥生・古墳時代で約500年で人口8倍に

・    1100年(平安時代)   684    奈良・平安時代400年強で人口1.5倍
・    1600年(関ヶ原合戦) 1227    鎌倉~安土桃山時代450年で人口1.8倍
・    1868年(明治維新)  3330万人 江戸時代260年で人口2.7倍に

この様に見てみると日本と言う国は弥生・古墳時代に人口が激増、多分人口爆発と言って良い時代を経て今日に至っている事が分かる。
そんな人たちは何処かから海を渡ってきた。これは定説だが、どんな船で渡ってきたか。

各地の古墳から船型埴輪が発見されている。
例えばこんなモノ

2014-11-22船型埴輪

この船の形、現代の目から見ると奇妙な形だがこれは準構造船と言って丸木舟が進化する過程で丸木舟に波除板をつけたもの。
これはその埴輪を基にした復元船
2014-11-24復元古代船なみはや

こんな船単独でやってきたのかと思われていたのだが、最近その常識を覆る発見が有った。

兵庫県の日本海側にある豊岡市にある袴狭(はかざ)遺跡から発見された木の板にこんな線刻が残されていた。

2014-11-21ハカザ遺跡出土の木の板の古代船団図

この木の板、良く見ると何か線刻が見える。
此処にはこんな風に大小15隻の船が描かれている。

2014-11-21袴狭遺跡出土の木の板の古代船団図

実に堂々たる大船団である。
こんな船に乗ってやってきた集団が有った。だから弥生時代から古墳時代にかけて人口が極端に増えたのだ。

そんな事を裏付ける遺跡がある。高地性集落という。
弥生時代から古墳時代にかけて、どう見ても農業には適さない高い土地に出来た集落である。

例えばこれは香川県の瀬戸内海沿いにある紫雲出山遺跡
2014-11-24高地性集落の例紫雲出山遺跡

高地性集落はこんな風に使われたであろうと考えられている
2014-11-24高地性集落の模式図

そしてその高地性集落の分布図
これは弥生時代中期後半から後期初頭にかけての分布
2014-11-24高地性集落分布図1


そしてこれは弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての分布
2014-11-24高地性集落分布図2

時代が下がるごとに高地性集落の分布がどんどん奥へと吐いてゆくのが分かると思う。
こんな集落が必要になったという事は、それだけ海の向こうから多数の船に乗った人が入ってきた。
そんな証拠だと思っている。

尚この高地性集落は今まであまり研究されてこなかった。今後の研究に期待するものである。

さてでは日本にやってきた人たちは何処から来たのか。
その人たちが稲作を持ってやってきたと言われているが、そのルーツは何処だろう。



この図は2001年にNHKスペシャル「日本人はるかな旅」で紹介された日本人の渡来ルート

2014-11-24稲の伝来地図
出典:http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/bunarintokodaisi/inenotami/inenotami/ine4/ine4.html


正直な所、このNHKスペシャルが放送されていた頃、私は海外で仕事をしていたので残念ながらこの番組は見ていない。
しかし改めて色々資料を調べるとどうも何やら強いバイアスがかかっている様に感じる。
とは言うモノの貴重な情報も有るのでここに取り上げた。

例えば上掲イネの渡来ルートだが、第一のルートが太い線で、第二がやや細い線で、第三のルートが細い線で表現されている。第一のルートが有力だと言わんばかりだ。しかし稲作が朝鮮半島由来と言う説は殆ど否定されている。

尚上掲イネの渡来ルート図で右下の赤枠内に興味深い事が書いてある。
以下のように書いてある

「現在でも上海付近の漁民が漁に出ていて天候のせい(多くは台風のようだが)で、長崎の西海岸に漂着することがある。
日本政府はこれらの漁民を国費で飛行機に乗せて中国の送り返しているが、彼らが日本に到着する日数はほとんでが1~3日である。平均すると毎年1,2名が飛行機に乗っている。
第二のルートで日本から大陸へ渡っていくのは非常に困難だと思われるが、その反対の方法ならいともたやすく日本へたどり着けるのである。」



ではイネは何処から来たのか、最近の稲のDNA研究がその答えを出してくれた。
これは日本、中国、朝鮮半島の稲のDNA調査の結果

2014-11-24DNAから見た稲の伝来地図

この図は日本の稲のDNAと中国・韓国の稲のDNA調査結果。
此処で調べたDNAは中国では8種類、その内「b」と言うタイプが一番多い。
日本では「a」、「b」、「c」の3種類だけだった。
そして韓国では「b」だけが見つかっていない。
つまり日本の稲は韓国には見つかっていないタイプのDNAを持った稲が沢山ある。これは朝鮮半島からイネが伝来したものではない証拠であると言える。

さてその中国の稲だが、イネが中国の長江中下流域で栽培されたのがその出発点であることが分かっている。
代表的な遺跡は河姆渡(かぼと)遺跡である。

河姆渡遺跡が何処にあるかと言うと
2014-11-24河姆渡遺跡地図


河姆渡遺跡は大都市上海から遠くない。しかし一番近いのは寧波(にんぽー)だ。
そしてこの寧波は古くからの港町で、日本からの遣唐使船が入港する窓口だった。
更にこの辺りを襲撃した倭寇の目標になった街でもある。


倭寇の侵略地とルート(中国の海商と海賊:山川出版社刊より)
2014-11-22倭寇の侵略地

その倭寇については良く分からないが、ほとんど唯一ともいえる倭寇を描いた図によれば
2014-11-21倭寇図巻(東京大学史料編纂室蔵)

2014-11-21倭寇図巻(東京大学史料編纂室蔵)その2(部分)

こんな小さな小舟でこの大海原を暴れまわっていたようだ。

この様に時代が違うとはいえ、遣唐使船のような大きな船でも手こずった東シナ海の航海、それがあんな小さな船でも可能、その理由は上に上げた「中国の海商と海賊」では以下のように書いている。

 万暦「温州府志」兵戎志、海防、「入寇海道」の条を引用する形で、
「日本から帆船で東北風が多く吹けば、その風を受けて薩摩、長崎県の五島からただちに浙江省中部沿海地区に到達する航路となった。その際の目標が寧波府の象山県東部の海上に位置する菲山列島であった。そこから沿海にそって南下すれば温州が襲撃地となり、北上すれば舟山列島が襲撃地となるとみられたのである。
倭寇の襲撃時期は旧暦の清明節(陽暦の4月上旬)から5月までの1~2ヶ月と、重陽節すなわち旧暦の9月9日から1ヶ月弱のあいだがその時期であった。」

つまり日本から中国に行き、そして帰ることに出来る時期は年2回あり、この時期であればあのような小さな船でも往来できたわけだ。
船乗りにとって風を読むことは命にかかわること、だから海の民は風のことを熟知していたのであろう。


中国江南地方と日本・朝鮮との航路が有る季節だけ往復可能であったことを裏付ける資料が同じ文献に出ている。

これは朝鮮半島の高麗の記録「高麗史」の中に記載された宋代の中国商人の記録の中に出身地の分かるものがあり、それを纏めたもの。

2014-11-24高麗史にみる宋代海商表

ここには西暦1017年~1059年までの間に詳細不明の1件を除く20回の来航記録がある。
その20回中15回は7月~8月に到着している。
また同じ名前の人物が2回来ているものも有る。
つまり中国江南地方と朝鮮(日本もたぶん事情は同じ)との航路は、安全な季節があり、彼らはそれを良く知っていたと思える。
(尚この様なことは資料豊富な日本の方がもっとハッキリするだろうが・・・)



さて延々と長いこの話、やっと結論です。
私が言いたかったこと。
中国と日本の間には東シナ海が有り、そう簡単には越えられないと思われていますが実は違う。

季節を選べば・・・ それは年2回あるのだが・・・
倭寇の伝馬船くらいでも中国から日本には来られるのだ。
一番可能性の高い長江下流域、上海や寧波辺りから日本の九州まで800キロ位の海路。
そんな所だが、いとも簡単に日本までたどり着ける、これは将来起こるであろう中国の崩壊を考えるうえで非常に重要な事だと思っている。

そして上掲NHKスペシャルに記事を載せたページには非常に興味深い事が書いてある。
取材したNHKディレクターの書いたもので、取材は恐らく2000年頃と思われる。その内容を以下引用すると

・・・前段略・・・
浙江省の沿岸は地形が複雑に入り組んでいて良質な漁港が無数にある。
やがて洪漁村(浙江省奉北市)という集落に辿り着いた。ここは中華民国総統であった蒋介石のゆかりの地だという。到着してまず驚いた。夕方で丁度漁民たちが海から戻り水揚げが始まったのだが、彼らの舟がどれも竹の筏(いかだ)まのである。長さ約10m、幅2m。どの筏も太い竹を20本ほど組み合わせただけの簡単な造りである。申し訳程度の小さな船外機が付いている。

ここは波は小さいが潮の干満の差が激しく、漁民は引き潮とともに漁に出て、満ち潮とともに港に引き揚げてくる。これはまさに太古さながらの漁である。主な獲物は浅瀬で海底をさらって獲るアサリなど貝類、そして仕掛け網で獲るアジやカニなどの近海魚である。舟を持つ費用は殆どかからないこの筏漁は、豊かな魚貝に恵まれた内海という環境に相まって、古くからずっと続いてきたそうで、もしかしたら河姆渡の昔から続いているのかもしれない。

さらに「日本まで流されることがよくある」という。潮の流れや風の関係で、漂流すると二日ほどで日本の九州沿岸あたりに流れ着くらしい。 確認するために海上保安庁に問い合わせると「現在はさすがに減ったが、1960年代頃までは中国の浙江省や福建省から漂流してきた漁船を、頻繁に沿岸や海上で救助していた」というのである。

河姆渡のあたりから流れ始めると、まず大河長江から吐き出された流れによって沖合いに運ばれ、やがて対馬海流にのって九州あたりに到着する。風向きが良い春から夏だと、この流れはさらに加速し、まる一日ほどで着くこともあるのだという。

・・・以下略・・・



さてそんな事の傍証をもう一つ紹介しよう。

これは参考なのだが、海の漂着物の研究をしている九州のある大学の先生が台湾沖から流したアルゴスブイを回収した話をブログにアップしている。
台湾から流したモノがどんな経路で流れてくるか、GPSのデータが興味深い。
http://marinelitter.seafrogs.info/?eid=1243411

流したアルゴスブイを回収している所
2014-11-22アルゴスブイ

此れがそのアルゴスブイの経路(GPSデータ)
2014-11-22アルゴスブイの経路

流したアルゴスブイは尖閣諸島辺りでウロウロしているように見えるが、そこを過ぎると九州めがけて一目散。
この辺りの潮の流れがとても良く分かるデータである。
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2014-10-18 09:31

日本には奴隷と差別は無い

 友遊さんが「高山正之 戦後の在日蛮行原因を語る」をエントリーしている。
http://yuyuu2013.blog.fc2.com/blog-entry-4148.html#comment

このエントリーには高山正之氏の動画が有るのだが、色んな意味で大変興味深い。
そこで動画で言っていた事の文字起しを見つけたので、それを合わせてどんな点が興味深いか、そんなことw考えてみたい。

最初にこれが友遊さんが取り上げている動画



その高山氏の話している事の文字起し。

【高山 正之(ジャーナリスト)】

先程、GHQの洗脳とかね、いわゆる韓国・朝鮮問題てのは一番の根源にあるのは、そこなんですよ。先程、GHQと言ったけど一番最初に動き出したのは、ルーズベルトのカイロ会談なんですよ。アメリカが『日本は侵略国家だ、残虐な国だ。東南アジアで残虐行為を繰り返す』って言ってんだけど、残虐さってのは元々アメリカが持ってたもんでね。日本を非難するのに、仮に日本がやってたとして、そこの残虐さについてはシナ人と一緒になって南京大虐殺みたいなのをでっち上げときゃいいわけだ。

ただ一つだけどうしてもアメリカ人が日本にかなわないもの、これは奴隷なの。奴隷と差別なわけね。日本では奴隷と言うのが制度になったことは無いの、一度もね。それがアメリカにとっての非常なウィークポイント。日本を倫理的に非難するに当たってものすごく弱い。

それで、ルーズベルトが何を言い出したかというとカイロ会談で、『日本は朝鮮半島を奴隷化してる』と、『朝鮮人を奴隷にして搾取してる』と、これ全く根拠は無いわけ。根拠は無いけど、彼はそういう発言をカイロでやった。それからルーズベルトの記録を見ると繰り返しそれをやってるわけね。例えばエルミナーズの本なんか見ても、44年の終戦の前の年のカイロ会談の翌年、8月20何日、こういう『アジア人は日本の奴隷になりたくない』というような公式発言をボコボコやっている。

これを踏まえて、終戦、日本の占領統治政策が行われるんだけど、その時に、日本にいる在日それから朝鮮に対して何を言ったかって言うと、『今日は奴隷解放の日だ、朝鮮人が開放された日だ』。で、それを受けて、マッカーサーが日本に来て、厚木に降り立って1ヶ月後に、在日朝鮮人連盟、今の民潭だとか、総連の母体になるやつなんだけど、これがGHQの指導の下で、結成される訳だ。

その結成趣旨はどういうことかって言うと、『朝鮮人は奴隷から解放された。もう今や我々は、連合国民だ、戦勝国民だ』って言い出すわけですね。それで、この奴隷扱いした日本に対して、『日本人、お前等がどういうことしたか、十分理解させるのが我々の義務だ』。

それを追認するようにマッカーサーは、日本の新聞なんかに、連合国人について、つい最近もほら、あのサンフランシスコ講和条約の後も、「米兵の犯罪について裁判権を持たない、放棄した、させられた」って密約が出て来たって騒いでたけど、8月末かな、各紙乗ってたね、あれと同じ事で、逮捕権も裁判権も、連合国の兵隊やなんかには一切、日本人は持たない、新聞コードでも、そういう連合国人を批判するようなことは書いちゃいかんとある。それを9月の段階でもうすでにプレスコードやなんかで、それから裁判権放棄なんかを要求している動きと言うか、飲まざるを得ないんだけど。

で、その翌々月に、その連合国人に対する扱いは朝鮮人にも与える、これをはっきりGHQでも出しているわけだ。戦勝国民という扱いをしろと、それから、新聞で叩いちゃいけない、裁判権も無い。

それで何が起きたかって言うと、もう有名なのでは、直江津事件てあってね、闇米ってか、満員電車に、あれは信越線か、窓を割って入ろうとした朝鮮人を乗客が注意した。で、彼らは『この野郎』って直江津駅に着いたら、注意した日本人をホームに引き出してね、スコップで殴り殺しちゃうんだよ、みんなが見ている前で。

それからもっと有名なのは、浜松事件てあるの。これは浜松でやっぱり朝鮮人が全ての闇マーケットを握って、それに警察が介入したら、逆に警官を人質に取ってそれこそ嬲り殺しにし始めたわけね。それでどうしたかっていったら、そこにいたのが関東霊巌島一家小野組ていう、任侠の徒だよ。これは警察が手を出せない、警察官ぱくられてる、やられているってんで、小野組が立ち上がって、彼らを救出したんだよ。で、これを発端にして、あの浜松の町の真中で天満町(注:伝馬町が正しい)という所で、5日間、市街戦があって、300何人の死傷者出てんだよ。

こんな事、日本の歴史にも載らないし、新聞も報道しないわけだよ。で、こういう時はさすがに焚き付けたアメリカは、『兎に角、日本は、朝鮮人を奴隷にしたんだから、解放して、解放奴隷が少々はね上がっても黙認してた、ここまでやるか』ということで、MPが出て処理したんだけどね。

でも、事程左様に、日本は奴隷扱いしたってんで、ありもしない強制連行か何かを口実にして特別永住権を彼らに与えたのよ。日本は無くてもいい奴隷扱いしたみたいな格好で歴史を引きづらされてる。結局全ての根源がそこにあるの。今、在日の参政権要求も、『強制連行して連れてきたんじゃないか、こっちに住んでる俺達にそれぐらいやるべきだ』みたいな贖罪を訴えているわけ。

で、メディアは、今言った浜松事件や直江津事件なんてのは調べてみれば、あと、坂町事件、これ闇米全部使ってたのを拠点にしてたの、坂町の方で、警官が袋叩きにされてんの。それから富坂署事件とか生田署にみんな朝鮮人が殴り込みかけてんだよ。生田署事件で『この野郎』ってやったのが、田岡一夫なんだよ。昔は本当に任侠の徒だったんだよ。だけど、今は逆転しちゃったけどね。中に在日が入っちゃっておかしく成ってるけど。

こういう背景を全く知らないままで、今の現状の参政権問題なんか考えたら、とんでもない事になる。(我々は、)そういう格好でGHQじゃなくアメリカ自体が、自分達が奴隷問題を引っさげて、日本を黙らせるために、でっち上げた朝鮮半島奴隷化論みたいな、こういう押し付けがあった。戦後の朝鮮問題って全てこれが根っ子にあるのよ。

だから、日韓交渉というのがあったね。あれも向こう側の言い分てのを見ると、GHQが作った作文そのものだよ。長い間植民地支配して、何とかてくだりだね。こっちは持ち出しして、鉄道敷いてやり、電気引いてやり、窪田貫太郎ってのは言ってるけど、その通りやってんのに、ありがとうでもなくて、彼らは今でもその思いに乗っかって、誤解の上に乗っかって日本にいろんな要求してんのよ。それをやっぱり踏まえて、今の韓流て見て欲しいと思うね。

<引用此処まで>

尚上記文字起しは以下ブログを参照しました。文字起しは正確です。

http://www.asyura2.com/11/senkyo120/msg/504.html
但し上記ブログのコメントについては何とも言えないモノが有るので、見る場合はその旨ご了承を。


友遊さんは戦後の朝鮮人がムチャクチャ暴れた原因がGHQにあった、そんな事を言っている。
その大暴れの一つ浜松事件には友遊さんご自身の体験が重なる貴重な話なので、以下も参照ください。

http://yuyuu2013.blog.fc2.com/blog-entry-2548.html

そのGHQの言論弾圧の内容は以下のようになっている。

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって行われた検閲では、以下に該当しているか否かが調べられた。

SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
極東国際軍事裁判批判
GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
検閲制度への言及
アメリカ合衆国への批判
ロシア(ソ連邦)への批判
英国への批判
朝鮮人への批判
中国への批判
その他の連合国への批判
連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
満州における日本人取り扱いについての批判
連合国の戦前の政策に対する批判
第三次世界大戦への言及
冷戦に関する言及
戦争擁護の宣伝
神国日本の宣伝
軍国主義の宣伝
ナショナリズムの宣伝
大東亜共栄圏の宣伝
その他の宣伝
戦争犯罪人の正当化および擁護
占領軍兵士と日本女性との交渉
闇市の状況
占領軍軍隊に対する批判
飢餓の誇張
暴力と不穏の行動の煽動
虚偽の報道
GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
解禁されていない報道の公表

http://ja.wikipedia.org/wiki/プレスコード より。

このプレスコードの件は裏の桜さんもとり上げいる
http://sakuraura.blog.fc2.com/blog-entry-3152.html


前置きが長くなった。高山氏の話で最初にこれがが私には大いに納得できる話。

どうしてもアメリカ人が日本にかなわないもの、これは奴隷なの。奴隷と差別なわけね。日本では奴隷と言うのが制度になったことは無いの、一度もね。それがアメリカにとっての非常なウィークポイント。日本を倫理的に非難するに当たってものすごく弱い。

この話は大いに納得できる。
そしてアメリカが日本を非難するのに必ず言うのが「差別と奴隷」、そこがアメリカのウィークポイントだという事。
その為にアメリカが事あるごとに此処を何とかしようと捏造話をでっち上げてくるのだ。

この件で思い当たるのが戦前の国際連盟(日本は常任理事国だった)での人種的差別撤廃提案である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E7%9A%84%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%92%A4%E5%BB%83%E6%8F%90%E6%A1%88

この提案は賛成多数であったにも拘らず、アメリカの反対でボツ。
当時のアメリカ代表(議長だった)はアメリカ大統領、ウッドロゥ・ウィルソン(1913年~1921年、民主党)だった。
そして1919年のアメリカでは自国政府の講和会議での行動に対して、多くの都市で人種暴動が勃発し、100人以上が死亡、数万人が負傷する人種闘争が起きている。

後年昭和天皇はあの戦争の原因は何だったのかについて、「多分原因はアレだっただろう」、そのアレと言うのはこの人種的差別撤廃提案だった、こんな話をどこかで聞いた事があるが流石そこが真相だろう。

そしてこんな事が次のF.D.ルーズベルトの超反日政策に繋がってゆく。
そんな風だったんだと思う。

そしてもう一つ、高山氏が指摘しているのが
>終戦、日本の占領統治政策が行われるんだけど、その時に、日本にいる在日それから朝鮮に対して何を言ったかって言うと、『今日は奴隷解放の日だ、朝鮮人が開放された日だ』。

此処に今日の在日問題の根が有るし、韓国が何時まで経っても日本に対し居丈高になる理由でもある。

こんな深い歴史の根がある事、それを踏まえての慰安婦問題解決を図る。
此れから日本の長い長い戦いが始まると思います。

1919年から数えても95年、
この問題の解決には何十年もかかるでしょう。
でも負けられないですね。
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2014-06-16 10:19

移民が持ち込むビジネスモデル

 最近エントリーがなかなかできない。数日前に義父の法事を済ませたのだが、その前後多忙だったこともあり、少々バテ気味(歳を考えろの声あり・・・笑)。

 所で今こんな本を読み始めた。
「国家はなぜ衰退するのか/権力・繁栄・貧困の起源(上・下)」アセモダル&ロビンソン著、鬼澤忍訳、2013年6月、早川書房刊

2014-6-14国家はなぜ衰退するのか

重い本である。読むのに時間がかかるが内容は大変興味深い。
特に旧ソ連の見せかけの繁栄とそれに騙された西側知識人の言動を分析した部分などはとても面白いのだが、それはちょっと置いといて本書冒頭にとり上げている初期アメリカに入った移民の行動について書いてみたい。
スペイン人が植民地化した中南米と、それから100年近く遅れてイギリス人が植民地化したアメリカとの比較から話は始まるのだが、イギリスの植民地化の狙いが面白い。

北アメリカに入植した初期の人たちの事は、1620年にイギリスからメイフラワー号でマサチューセッツ州プリマスに入植した102名から始まるとは良く知られている。しかし最初の冬が大変厳しく約半数の人が死亡。やっと生き延びた人たちが現地で協力してくれた原住民(インディアン)とともに収穫を祝ったのがサンクスギビングデーの起源。
実は私の知識もこんな程度。
しかし以前からアメリカ大陸への入植は大変な困難が伴い、多くの犠牲者を出したことは知ってた。
特に悲惨だったのがヴァージニアに入植した人たちで、食料が尽き仲間の死体を食べたとか、横で寝ていた嫁さんを殺してばらばらにし塩漬けにして、頭を残して全部食べてしまったとか、恐ろしい事が有ったとモノの本には書いてある。

今回「国家はなぜ衰退するのか」には1607年にイギリスからヴァージニアに入植した人たちの狙い・行動が詳しく書かれている。
問題は1607年の入植から2年間、入植者の狙いは耕して先ず食料を確保することでは無かった
食料は現地人との交易、或いは略奪、それとも現地人を捕まえて無理やり働かせて食料を手に入れればいい
それより狙いは価値のある金、銀を手に入れる事だった。

しかしその狙いは上手くいかず、1609年~1610年の冬には食料が尽きた。
結果500名いた入植者で生き残ったのはわずか60名と言う悲惨な結果だった。
1609年~1610年と言えば、日本では関ヶ原の戦いが終わり(1600年)、徳川幕府成立(1603年)、そして大坂夏の陣(1615年)はまだ始まっていない時代だった。尚家康に重用されたイギリス人三浦按針(ウィリアム・アダムス、 William Adams, 1600年漂着- 1620年没)が生きていた時代でもある。

さてそんな時代背景を見ながらアメリカに入植した初期イギリス人のビジネスモデルを考えてみたい。
彼らの持っていたビジネスモデル、それは「現地を収奪し、金銀財宝を手に入れる」ことだった。
食料は現地人のモノを手に入れればいい、手に入れる方法は交易、略奪、強制労働を考えていた。
彼らはそのビジネスモデルが上手くいかず、結局ビジネスモデルを変えざるを得なくなった。
こんな人を送って下さいと言うリストには、「大工・農夫・庭師・漁師・鍛冶屋・・・」こんな職種が並んでいる。つまり現地人を収奪することが出来ないので方針を変えたのだ。

此処まで読み進んで私は「ハタと気が付いた事が有る」。そうか欧米人には額に汗して働いて食べ物を作るような仕事は奴隷の仕事なのか。だから労働を尊敬しないのか!。

そんな事なのでマッカーサーがわざわざ上院の公聴会でこんな事を証言したのか。

これは昭和26年にアメリカ上院でマッカーサーがあの戦争は日本の自衛の為のモノだったと証言したときの発言・対訳です。

<以下引用>
Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier when they are working and constructing than when they are idling.

いつの頃からか、彼ら(引用者注:日本人の事)は、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。


2014-2-1マッカーサー上院証言風景
上院で証言するマッカーサー
<引用終り、以下エントリー参照ください>
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-763.html

そしてローマ教皇もこんな事を言っている
これは2013年5月1日のミサで教皇フランシスコが言った事

2014-6-16ローマ教皇の話

詳細は以下参照ください
http://unidosconelpapa.blogspot.jp/2013/05/51_2.html

こんな事を改めて感じるのは私がタイでの仕事で一番重要視していたことがコレだったから。
そして日本人がごく当たり前に感じている「労働の尊厳」、実はこれが世界の当り前ではないという事の様なのだ。

日本人がこの事を世界に発信していく必要が有る、それを思い出させてくれたのがこの「国家はなぜ衰退するのか」と言う本だった。
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2014-06-01 20:56

焼き物談義から産業の衰退の歴史へ<最終編

 焼き物談義の長い話はあっちこっち脱線ばかりですが・・・
最終回は最初に焼き物を運んだ海のシルクロードの見直しから始めます。
美しい青磁の皿、こんなモノがどのように船で運ばれたのか。
中国を出発し、ベトナムハノイ、そこから川をさかのぼり、山越えと川下り、そしてタイ領内に入り、最後にミャンマーのマルタバンに着いた。
此処までの経路でベトナムハノイ、タイ北部とスコータイ周辺には焼き物産業が出来ていた。更にミャンマーでも焼き物産業が出来てきた。
こんな所の商品も含めて港町マルタバンを出港した交易船。その船はどこに向かったのか。

最近の発掘調査でエジプト、シナイ半島のアルトゥールの遺跡からその当時の交易品が発見された。
中国の陶磁器とともにベトナムハノイ、タイ、そしてミャンマーのモノも相当数発見されている。
ミャンマーのマルタバンを出港した交易船の目的地の一つがアルトゥールだったという事になる。

アルトゥールはこんな所
2014-6-1海のシルクロードの図横長版new1

壮大な話だが、この当時の船の性能などから片道2年以上かかる交易ルート、そこをどんなモノが売れるのか、利益が出るのか、そんな情報を持った人が通って行った。そう言う事だと思う。

この情報を持った人は「どこで何が好まれるか、どこで何が産出されるか」、こんな事を必死で考えていたのであろう。
何せひと航海で何年もかかるのだから、一回で莫大な富が築けなければ意味が無いのだろう。

私が情報は物流とセットで流れている、そう確信している所以でもある。

では情報が入らなくなったらどうなるか? 衰退する以外ない訳だ。
そんないい事例が最近見つかった。
ミャンマーの北部の山の中、戸数78戸の小さな村に昔の青磁を作っていた窯場がそのまま残っていた。
現在も細々とながら生産している、そんな事が分かってきた。
それはこんなモノ。
尚青磁と言いながら色が青くない、これは日本では米色青磁と呼ぶもので、青い色を狙ったが焼成が上手くいかなかったのでこうなったと考えられているモノ。英語では色が違ってもceladonと同じ呼び方をする。

最初はコレ、上が現代のモノ。下が17世紀のモノ。
2014-6-1ミャンマーのキルン新旧製品比較

そしてこれがその青磁を焼いた窯の構造
2014-6-1ミャンマーのキルン断面図

これは窯の外観
2014-6-1ミャンマーのキルン外観1

これは窯の焚口周辺
2014-6-1ミャンマーのキルン外観2

此れを見ると正に昔ながらのやり方そのまま。
外部からの新しい情報が入らなくなり、細々と地元だけの為の生産をしていた結果。
こんな昔ながらのモノが今も残っている。それ自体は意味が無いわけではないがそれで産業として成り立つわけではない。


そんな時、アルトゥールの遺跡発掘を知る人からこんな事を聞いた。
17世紀頃のモノは「中国の青花(日本で言う染付と言う青い模様の磁器)は殆どコーヒーカップばかり」なのだと言う。
この頃アラビアではコーヒーが好んで飲まれるようになった。
(参考:コーヒーの歴史
つまりお客さんの好みが変わったのだ。それに素早く対応したのが中国の青花磁器、そう言う事である。

7,8年前だが岐阜県の地場産業美濃焼を中国に輸出する可能性についてあるシンポジュームで聞いた事が有る。
地場産業が10年ほどの間に事業所が半減する位不況に苦しんでいる。その対策として輸出できないかという事を県の肝いりで調査したものだった。
聞いた結果はガッカリの一語だった。
美濃焼は中国上海では安物としてワゴンセールされているとの報告で、対策は和食は世界的に最高級と認められているから和食とセットで売り込んだらどうだ。こんな内容だった。
しかしこんな調査、簡単には出来ないのだがそこはお役人さん、銀行などの調査室の助けで調べたらしい。
情報は勝手に歩いてくるものではない。自分で取りに行くもの、その原則を忘れているようだった。

上掲アルトゥールの発掘調査結果からコーヒーカップが沢山見つかった、この話の裏には当時の中国にはコーヒーなど無い。如何して飲むのがいいのか分からない所で生産させるためにはコーヒーの飲み方の分かった人が行って使いやすいモノを作らせたはずである。
不況で苦しんでいる地場産業、新しい発想が求められている。

そんな中でこんなモノなら未来が開けるかもしれない。

2014-6-1有田焼軽量磁器
http://fuccino.jp/first/


有田焼の軽量磁器、従来の磁器より丈夫で軽いので1gでも軽くしたい航空機の機内食用とかホテルの食器に採用され始めた。
こんなモノを作って新しい需要を作り出してゆく、こんな姿勢こそ日本の生きる道だろう。
キーワードは提案型の商品作りである。
情報は向こうから歩いてくるわけではない、自分で情報をとりに行ってこそ本当に必要なものが分かる、そう思っている。

所で全く本題とは関係ないのだが、この軽量磁器、実はJALに採用されている。
そしてもう2年近くブログの世界から遠ざかっているSONOさんが以前機内での写真をアップした時、この軽量磁器が写っていた。私はSONOさんにそれを言ったことが有る。
それにしてもSONOサン、今どこで如何している事やら・・・

最後にメーカーがこんな事をしていると言う事の分かる話など。

7.8年前、バンコクから120キロほど離れた田舎町シラチャと言う所で見かけたもの。

凄い磁器が並んでいる。
2014-6-1景徳鎮-01

景徳鎮だ!
2014-6-1景徳鎮-02

更にこんなモノも
2014-6-1景徳鎮-03

これはシラチャの街のショッピングセンター隣の空き地に景徳鎮の人がやってきて店を開いたもの。
2014-6-1景徳鎮-04
居たのは中国人ばかり、英語もタイ語もほとんど話せない様だったが、狙いは勿論商品を売る事も有るのだろうが、どんなものが当地の人に好まれるか、それを知ることが一番の狙いだったようだ。

矢張り中国人、流石貪欲である。こんな所まで出かけて行って何が売れそうか調べている。
彼らの貪欲さは大いに参考になる。


焼き物談義はこの辺りで終了とします。それにしてもアッチへ行ったりコッチヘ迷い込んだり・・・
支離滅裂な、そして長い話にお付き合いいただき、有難うございました。
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2014-05-29 22:06

焼き物談義から産業の衰退の歴史へ<続々編

 今日の焼きもの談義は最初にトルコはイスタンブール、トプカプ宮殿の陶磁器コレクションから始めます。
オスマントルコのスルタンは陶磁器を愛好し、中国産を中心に大変すばらしい陶磁器コレクションが有る。
(陶磁器のコレクションは約1万点あると言う、そのうち最も多いのが約1300点の青磁)

その中にこれ。
2014-5-29トプカプ宮殿の青磁マルタバン

素晴らしい青磁の皿である。こんな青磁の優品、主な産地は中国浙江省南部の竜泉窯である。
しかしイスタンブール等ではこの青磁、何と呼ばれていたのか。マルタバン、又はマルタバーニと呼ばれていたと言う。
マルタバンとはミャンマー最大の都市ヤンゴンの東約160キロの所にある港町(現地名はモールメイン)である。
陶磁器などは船積港の名前で呼ばれる例は日本にもある。有田焼を昔から伊万里焼と言うような例だ。

所で上掲青磁の大皿、これに似てないだろうか。

2014-5-24ターク山中3

ここはタイとミャンマーの国境の山の中。山岳民族が暮らす辺鄙な所。国境までは2,30キロだがそこを超えると港町マルタバンまで100キロ程度の所である。

実はこんな大皿、イスラム圏では現地の習慣で大勢で食卓を囲み、大皿に料理を盛って取り分けて食べるのに都合がいいのだとか。だからこんな大皿が珍重される。更に青磁の色は食べ物に毒が入っていれば色が変わると信じられていたようで、一層人気なのだそうだ。

所でイスタンブール、マルタバン、竜泉窯、色んな地名が出てくるのでその位置関係を説明したい。

2014-5-29海のシルクロードの図横長版new

まあイスタンブールは良いとしてどうしてこんな所にマルタバンが出てくるのか。
この地図、良く見ると東西の交通路をピッタリ遮断しているのがマレー半島、その先端、インドネシアとの間にあるのがマラッカ海峡である。
現在でも海の難所だが昔は難所中の難所。
マラッカ海峡約500キロを通過するのに帆船の時代は40日から50日かかったのだと言う。
理由は殆ど風が無いためで、仕方なく小舟を出してそれでエッサオッサ漕いで引っ張ったのだと言う。
大きな船が宝物をいっぱい積んでヨタヨタ行く、だから海賊の格好の餌食だったようだ。

参考までに何故マラッカ海峡は風が吹かないか? 赤道無風帯直下にあるためである。

2014-5-21赤道無風帯

赤道無風帯が出来る理由
2014-5-21赤道無風帯の出来る理由

とまあこんな理由でマラッカ海峡を通らない物流ルートが色々有ったわけ。

結局この当時こんなルートが出来ていた。

2014-5-21交易の時代の東南アジア交通路修正版

この地図の一番上、ベトナムのハノイから紅河を遡り、途中から陸路、山越えしてからはメコン川を下ってタイに入り、そこから更に陸路、そしてミャンマーのマルタバンに着く。
陸路だけでも500キロ位は有ったと思う大変なルートである。

中国からベトナムまでは中国のジャンク。
2014-5-29中国のジャンク1500年代
これは1500年代にベトナム沖で沈んだジャンク船から見つかった陶磁器に描かれた当時の船。

そしてハノイ辺りからはこんな川船
2014-5-21交易の時代の川船

これは少し時代は違うが19世紀後半にミャンマーのイラワジ川を走る川船を描いたもの。
時代・場所とも違うが多分当時の川船はこんなモノ。

そして陸路は多分こんなモノ
2014-5-29牛車

この写真は10年ほど前のカンボジア、アンコールワット近くで撮った写真だが、この牛車、アンコールワットの壁画に描かれたものと全く同じ。だから当時はこんなモノだったのだろう。
此れで旅をするのは実は大変。何せ牛は半日歩いたら半日草を食べないといけない。そんな事で15世紀頃の記録では約600キロ行くのに半年かかったのだとか。

しかし実はそれでも仕方ないと言うのはこんな訳。
これはインド洋中心の季節風(貿易風)の様子
2014-5-21インド洋の風

これは季節風の図で、これには南シナ海の風は書いてないが基本的には似たようなもの。
中国を出た船が北の風で航海し、例え難所のマラッカ海峡を通っても更にマルタバンまで北上するので冬の風には間に合わない。
翌年の風まで待たねばならないから陸路で行っても同じになるわけだ。

更に良い事はタイ領内には中国人の亡命集団が山中に住んでいる。こんな連中を護衛にすればいい、こんな事情が有ったと推定している。
そしてマルタバンに出ればこんなダウ船が待っている。
2014-5-29ダウ船

色んな船が出てきたところで今回は此処まで。次回は産業の衰退の話とします。










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2014-05-25 10:52

焼き物談義から産業の衰退の歴史へ<続編

 今迄まともな焼き物など造れなかったタイ、それが突如素晴らしい時代の最先端の焼き物が出来るようになった。
当然当時の先進国から技術が入ってきたわけだが、この長い話の続編は最初に年表を見ていただきたいと思う。
何せ日本ならこんな時代と大体理解できるが、中国だ、タイだでは時代がさっぱり分からないためだ。

1180年    (日本) 源頼朝挙兵
1185年    (日本) 壇ノ浦の戦い、平家滅亡
               これ以降が鎌倉時代
1234年    (中国) 中国の北半分、「金」が蒙古に滅ぼされ、蒙古の支配下に
               南宋への蒙古の圧力始まる
1271年    (〃) 蒙古が大都(北京)を首都にして「元」朝はじまる
               蒙古(元)の南宋への圧力一層強まる
1274年    (〃) 元軍・高麗軍、日本攻撃・・・文永の役
1279年    (〃) 南宋滅亡・崖山の戦い(がいざんのたたかい)
1281年    (〃) 元軍(高麗軍・南宋軍の残党含む)、日本攻撃・・・弘安の役

1238年    (タイ) スコータイ王朝成立
1279年    (タイ) ラムカムヘン大王即位(1279-1300)
              昔からこの大王が陶工を呼び寄せたと言われていたが、そんな証拠は見つかっていない。

タイで始まった焼き物産業、中国から技術が入ってきたのは間違いない。つまり技術を持った人が多数やってきたわけである。
中国の陶磁器生産はこの頃から分業制だった。だから少人数の人ではない。どれくらいか記録が無いが少なくとも数千人とか、そんな単位の人だと思う。
この頃中国を逃れた陶工グループはタイだけでなくベトナムなどにも入っている。
現在のベトナムハノイ近郊のバッチャンは陶器の街だが、その頃からの産業が続いている。

さて話を戻して、中国では蒙古が入ってきた1234年頃から南宋滅亡した1279年頃まで、長い期間蒙古の圧力を受けてきた。だから陶磁器産業に従事する人たちが逃げ出すのも無理からぬ話。
そしてそんな難民を受け入れてきたのがタイだった。

そんな話の一つの証拠

2014-5-21伝スコータイ出土のラクダの水差

この小さな水差し、伝スコータイ出土とかなのだが「ラクダ」の形で乗っている子どもは「中国風のスタイル」。
面白い事にこの動物が何なのかタイ人は誰ひとり説明できない。これを売ってくれた骨董屋のオヤジでも・・・ 馬かなあ、ちょっと違うなあ、何だろう、要するにラクダを知らないのであった。今でさえこれなんだ、昔なら当然知らないだろうなあ。
中国人陶工が来ていたひとつのサンプルである。

さてそんな中国人陶工なのだが最初にあげた年表を見ると分かるように、中国南部「南宋」地域は何十年もの間蒙古の圧力を受けていた。そんな中で村ごと逃げ出したりしたことが有ったと思われる。
そしてその逃げて行った先がこんな地図で分かる。

2014-5-21交易の時代の東南アジア交通路修正版

この図で分かるように広東辺りからはベトナム・ハノイ、ベトナム中部、厦門辺りからはフィリッピン、マレーシア・インドネシア方面にルートが伸びている。
タイへはその内、広州⇒ベトナムハノイ⇒紅河を遡る⇒途中少し陸路を通り⇒メコン川を下る⇒タイのチェンセーン辺りからタイ領内に、こんなルートでタイ国内に陶工たちが逃げ込んだ。
最初はタイ北部に窯場を築いたが後に当時の首都スコータイ近くに集まった。
こんなルートでタイ中部スコータイ近くに陶磁器産業の亡命工業団地のできた。こんな事だったようだ。


所がどっこい、最近になってトンデモナイものが発見された。
タイとミャンマーの国境に近い山岳地帯(タイ族ではなく山岳民族が住んでいる)の山の中から大量の陶磁器が発見されたのだ。

最初にどんな所かと言うと

2014-5-24tak-omkoi burial site
(注:Takはターク県の県庁所在地、Omkoiはチェンマイ県南部の郡、Burialとは埋葬・埋葬地のこと)

この地図はタイの中部から北部の地図。
バンコクとチェンマイのほぼ中間がタイの古都スコータイ。
タイの古い焼き物の産地は最初期はタイ北部チェンマイ周辺にあるが、その後中心地が南に下がって古都スコータイの近くになった。北部にあった窯に比べるとスコータイ周辺の窯は大きさが長さで約3倍(面積で9倍、容積では・・)と非常に大型である。生産量の違いが分かる。

そしてスコータイからほぼ真西に向かったところ、ミャンマー(ビルマ)との国境の町がメーソート(Mae sot)と言う町。
そしてその近くの山岳地帯に問題の遺跡が有った。

2014-5-24ターク山中1
これは発掘現場の写真だが、発掘現場ではなく盗掘現場と言った方がいいだろう。無茶苦茶な事をして掘っている。

2014-5-24ターク山中3

あった、あった。宝物を見つけて嬉しそうですね。
女の子の服装に注意。山岳民族である。
それにしても隣で見ているオジサン(先生?)、どう見ても「そのお皿欲しい」と言いそうな感じだが・・・(笑)

2014-5-24ターク山中2

こんなにたくさん出たらしい。
尚この大量の陶磁器類、地元民がどんどん掘り出してあちこちで売りさばいた。従って相当数が散逸してしまったがタイの篤志家が心配し、私財を投げ打って全部買い集めた。それをバンコクの大学に寄付したので、その大学が立派な博物館を作って展示している。(バンコク大学ランシットキャンパス内)


さてメーソートと言っても分からないので、最後に観光案内を兼ねて写真など。

これはミャンマーとの国境の検問所

2014-5-25メーソートからターク-01

これは国境の川にかかる橋、
2014-5-25メーソートからターク-02

国境の川の河原にはミャンマー人(少数民族が多い)がキャンプしている。ミャンマーには仕事が無い・・・
2014-5-25メーソートからターク2-0

金網越しに何を話しているのか。右はタイ側、左はミャンマー側(正確に言えばミャンマー側の検問所の手前なのでどちらの国でもない状態だが)
2014-5-25メーソートからターク-2-1


国境の町メソートを出て県庁所在地タークに向かう山道の国道、途中の峠付近に山岳民族が野菜などを売る市場があった。彼らには貴重な現金収入なのだろう。しかし値段は非常に安かった。
(注:メソート・ターク間約80キロほどだが町の周辺を除くと殆ど人家は無い)
2014-5-25メーソートからターク03

峠の市場で見かけた可愛い女の子。服装が山岳民族独特である。
2014-5-25メーソートからターク-04

その市場の裏手がこうなっている。見渡す限り山また山。そんな中に上掲地図の埋葬地が有ったわけだ。
2014-5-25メーソートからターク-05

さてこんなとんでもない山の中に埋葬された人たちはいったい誰なのだろうか。
タイ人やこんな山岳民族・少数民族にはそんな埋葬し、副葬品に高価な陶磁器をつける習慣は無い。
調査報告では他に刀(sword)も副葬されていたようで、刀を覆うように皿、鉢などが伏せた状態であったそうだ。
恐らくこれは武人のグループではないだろうか。
正確な発掘調査が必要であろう。

そしてこんな埋葬の仕方はボルネオ島のマレーシア側、サラワク州クチンのサラワク博物館でも展示されているそうだ。
(三上次男氏の陶磁の道による)

最初に挙げた中国から東南アジアへの交易のルート図でも中国広州・厦門辺りからボルネオ島へのルートが有る。
この辺りの陶磁器を副葬した埋葬地に葬られた人たちは中国が崩壊した時、多数の難民が海に逃れた。
その人たちが流れ着いて暮らしていた証拠なのだと思う。
日本では平家の落人と言う話しが有るが、中国の難民は有るグループは亡命工業団地を作り、有るグループは山の中に隠れ、恐らく貿易などをやっていたのだと思う。

次回やっと山の中から海に出て行きます。
此処まで長い話、おつきいただき有難うございました。









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2014-05-21 22:34

焼き物談義から産業の衰退の歴史へ

 13日のエントリー「皇帝の夢」などでよもぎねこさんと船の話を色々した。
大変面白い議論なのだが、どうしても私が船に興味が有るのか書いてみたくなった。
実は私がタイに居た頃からこれは多分私のライフワークだろうなあ、そんな思いで色々調べていたことが有る。
焼き物の歴史、そして産業の歴史の話である。
更に細かく言えば産業の繁栄、衰退のカギは物流と情報が握っているらしい。
焼き物と船??、産業の歴史?? 、物流と情報?? 何やら訳の分からない3題話みたいだが・・・

話はタイに居た頃、タイ国日本人会の機関誌にこんな話が載っていた。曰く「スンコロク焼きの古窯跡を訪ねる」。
タイの昔の焼き物で日本の安土桃山時代から江戸時代初期にかけて日本にも輸入され、茶人の間で珍重された焼き物が有る。
現地の人は産地・船積地の名前をとってサンカロークといった、日本ではそれを聞いてスンコロク、漢字で宋胡禄(すんころく)と記録した焼き物。そんなモノの窯跡だという。
私は中学生頃は考古学少年だった。アチコチ貝塚や古窯跡を訪ね歩いたり、各地の発掘調査に参加したりした。
そんな記憶がよみがえってきたので休日にそこを訪ねることにした。

現地はタイの古都スコータイからさらに奥に入ったシーサチャナライと言う所。当時住んでいたところからは片道約650キロほど。まあとにかく行ってみた。

何が何だか分からないので最初にサンカローク焼きと言うモノがどんなものかと言うと。

これは私のコレクション、サンカローク焼きの青磁の皿。
2014-5-19サンカローク焼きの皿
(伝シーサッチャナライのヨム川より出土)

実に美しいものである。日本で言えば鎌倉・室町時代頃のモノ。

そしてこれがシーサッチャナライでみた古い窯跡
2014-5-21コ・ノイキルンの窯跡new

この窯跡の奥にガラクタのように焼き物の破片が重なっているがこれがこの窯の製品。良く見ると実に美しい青い色をしている。
そう青磁の皿などを焼いていた窯跡なのである。
窯業に幾分か知識のある方ならこの窯跡、技術的に相当高度なものであることが分かると思いのだが、そこに深入りすると話が終わらないので割愛します。

何故そんな青い色に驚いているか、この青磁の青い色は窯の中で約1250℃で焼成する時、その炎の状態が還元炎の時に出る色。そして普通に焼成すると酸化炎になって別の色になってしまう。
日本でも安土桃山時代になってもこの色を出そうとしても出せなかった、技術的にきわめて難しい焼成方法なのだ。

これが桃山時代の黄瀬戸と言われる黄色い焼き物。本当は青磁の青い色を出したかったのだが、還元炎焼成が上手くいかず、こんな色になってしまった。
2014-5-21桃山時代の黄瀬戸
此れでも非常な努力をしたのであろう、しかし青い綺麗な色を出すのは実に難しい事の様だ。


そしてその少し前に時代はと言えば、日本の焼き物はこんなモノだった。これは山茶碗と言われるもの。
平安時代末期から鎌倉時代頃にかけて盛んに生産された。
2014-5-20山茶碗

この山茶碗の窯跡は私の住む町の近くには今でも色々ある。昔はこれを探して山の中を歩き回ったものだ。

さて本題に戻って、こと焼き物に関してだけだが、この当時の先進国が中国であることは間違いないが、日本はタイに比べても遥かに遅れている。
この事に気づいた事は私にとって大変大きな衝撃だった。
その後いろいろ調べてみるとこの当時のタイの主要輸出品であり、当時としては一級品扱いだったことが分かった。
さてではその技術は何処からやってきたのか、それをどのように輸出していたのか。謎は深まるばかりである。

と此処まで書いたのだが、この訳の分からない三題話、話が長すぎるのでこの後は続編という事にします。
さて船の話には何時になったらたどり着けるやら・・・


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2014-05-16 22:57

鄭和の宝船の大きさ

 13日のエントリー皇帝の夢」で中国明朝時代の鄭和の大航海の話を取り上げた。
その艦隊の旗艦を宝船(ほうせん)と名づけていたのだが、現代の常識で見ても信じられない大きさである。

その大きさと言うのはこんなモノ。

2014-5-13鄭和の宝船大きさ比較

実に巨大な船であるが本当だろうか、こんな疑問をよもぎねこさんから頂いた。
実は私も以前から本当なんだろうかと思っていたのだが、何年か前その造船所跡が見つかった、その写真も見た記憶が有るのでエントリーに書いたのだが・・・ 改めて探してみるとその証拠が見つからなかった。
しかし今日それを見つけたので取りあえず紹介したいと思います。

見つかった宝船造船所遺跡

2014-5-16鄭和の宝船の造船所跡

ソース
http://www.shipwreckasia.org/wp-content/uploads/Chapter3.pdf 英文です。

上掲ソースの元は
http://www.shipwreckasia.org/wp-content/uploads/FU-South-East-Asia-Archaeology-Brochure.pdf

私はこのキムラ ジュン氏については知識が無い。ただトヨタ財団の援助での研究なので信頼して良いと思っている。

そしてこの造船所遺跡なのだが・・・
まあこのバカデカい造船遺跡を見ればそれ以上説明扶養と思います。
この遺跡、長さは421m、幅41mなのだという。
伝えられる宝船の長さは137mなので、長さは十分。しかし幅は56mと伝えられているので幅が不足だが、造船上は問題ないらしい。


こんな話の傍証なのだが、各地に昔の沈没船が有る。
有名なのが韓国西南部の新安沖沈没船。1323年6月に中国寧波から博多に向けて公開していた船で全長30m、幅9m、約200トンの船で60人が乗り組んでいた。
他にも泉州沖で見つかった宋時代の沈没船は約400トンくらいらしい。

そしてこんなデータが有る。

2014-5-16交易船記録中国から朝鮮

これは高麗史から交易船の記録を抜き出してみたもの。
(中国の海商と海賊 松浦章著より引用)
こんなモノを見ても一度に100人以上来ているケースが有り、最も多いモノは147名が入国している。
恐らくこれは一隻の船ではないかと思われるので、相当大きな船ではないか。
(200トンで60人が乗り組みなら、147人は少なくとも400トン以上になるのだが・・・)

この時代、この程度の船はごく当たり前だったという事の様だ。
そんな所から鄭和の大艦隊の船が非常に大きかったと言われても納得できるところである。

よもぎねこさんへの回答になるかどうか分かりませんが、これが鄭和の宝船が本当にあんなに大きかったのか、それについての今の所の回答です。
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2014-04-20 14:43

まともな良い話

 17日の読売新聞に良い話が載っていた。
こんな話である。

2014-4-20読売記事4月17日インパール

http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140417-118-OYTPT50057/search_list_%25E3%2582%25A4%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2591%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25AB%25E3%2580%2580%25E5%2584%25AA%25E3%2581%2597%25E3%2581%2584%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E5%2585%25B5_2014%252F04%252F17_

この記事は有料記事なので、念のためコピーも添付します。

<以下読売記事>

インパールの優しい日本兵 「逃げ道教えてくれた」 インド人の古老語る 
2014年4月17日3時0分 読売新聞


 70年前に3万人以上が犠牲になったとされる旧日本軍のインパール作戦について、「日本兵はインドのために戦ってくれた」と記憶にとどめるインド人古老に話を聞くことができた。(インド北東部ロトパチン 田原徳容、写真も)

 インパール南西の村ロトパチンにある丘「レッド・ヒル」。英国軍との戦いで日本兵数百人が戦死し、大量の血が流れたとして、そう呼ばれる。麓に住む農家のタオレム・ゴラムホン・シンさん(83)は1944年4月、草むらに潜んでいた日本兵と出くわした。靴を履いておらず、「指の形の靴。地下足袋だった。今も目に浮かぶ」。

 旧日本軍は5月のある夜、レッド・ヒルに陣取る英軍を急襲。シンさんが家の前で立ちすくんでいると、駆け寄った日本兵が手ぶりで逃げ道を教えてくれた。

 「自分が死ぬかもしれないのに、なぜやさしいのか」

 逃げながら、そう思ったという。戦闘は旧日本軍の惨敗に終わり、シンさんは父親らと日本兵の遺体を火葬した。

 戦後、レッド・ヒルの麓には慰霊碑が建設された。シンさんは建設に協力し、訪れる日本人を案内した。「日本兵が眠るこの丘を見守り続けます」と言う。

 ロトパチンの南にある町モイラン。主婦のアコイマチャ・クマムさん(85)は、日本兵に英軍の空爆情報を教えてもらい、難を逃れたという。日本兵は空爆の犠牲となったと聞いた。

 「私の自宅は日本兵に使われていたが、衣類や食器は(荒らされず)側溝に保管されていた。日本が復興できたのは、戦争中でも常識を忘れなかった日本人ならではだと思う」

 日本兵の遺留品収集を行っているアランバン・アンガンバ・シンさん(40)は、「旧日本軍の動きがなければ、英からのインド独立の機運は高まらなかっただろう。日本兵の優しさを受け止め、記憶をつなぎたい」と話した。

                ◇

 【インパール作戦】1944年3~7月、ビルマ(現ミャンマー)を占領した日本軍が、連合軍拠点だったインド・インパールの攻略を目指した作戦。武器・食料が不足し、補給もなく、英国軍に大敗した。兵士の間ではマラリアや赤痢が流行した。
2014-4-20読売記事4月17日インパール地図


インド・ロトパチンの「レッド・ヒル」(後方)の前で日本兵の印象を語るシンさん
2014-4-20読売記事4月17日インパール古老写真

<引用終り>


良い話である。
所でもう一つ、宮崎正弘さんのメルマガにこんな記事が有った。
ハノイ在住のR生さんと言う方のコメントである。
http://melma.com/backnumber_45206_6015734/

<以下引用>

(読者の声1)貴誌前号投稿欄の「PB生様」の以下について、です。日本が戦前の台湾・朝鮮・南洋諸島などでおこなったような総合的なインフラ整備や産業開発を英国が植民地で実施したのは1947年の労働党政権が初めてだったという。日本の朝鮮統治や満洲開発など、偏見のない研究者には高く評価されていますから、日本の成功事例を参考にしたのかもしれませんね。
昨年ミャンマーへ行った時のこと、同行した60台後半の方がヤンゴンの空港へ向かうなかで、私に質問しました。
「日本はビルマ人に学校で日本語を強制的に勉強させたんだ。イギリスはそんなことは一切しなかった。いったいどう思う?」・・
私の答えは以下。

「イギリスはビルマ人を猿と定義して植民地経営をしたから学校や病院などインフラは一切作らなかった。日本は有能なビルマ人に日本語を勉強させて将来はビルマのリーダーになってもらおうとした」と応えたら、彼にとってはとて--も意外な答えだったらしく黙りこんでしまいまいました。自画自賛気味で申し訳ありませんが、いままで自分なりに勉強してきてよかったナァと思いました。洗脳をはねつけられましたからね。PB生様の文書を読んでいて思い出しました。
朝日新聞読者はやはり60代が一番多いらしく、60代がもっともサヨク洗脳されているようです
また国士舘大学のクララ(倉山満)さんは逆説的に日本は韓国人を猿とみなして植民地経営すべきだったといっています。倉山氏は素晴らしいですね。そして若いですよね。
・・・以下略、詳細は上掲メルマガ参照ください・・・

<引用終り>

このR生さんの回答をいつでもどこでも言えるようにして欧米と欧米かぶれの連中に話してやりたいものだ。
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2014-03-09 10:29

凄い埴輪が見つかった

 日本の事が海外の報道で詳しく報道されることが有る。
WSJにそんな話が載っていた。
下野市の古墳から機織りの埴輪が見つかったのだと言う。
先ずはそれを報道するWSJの記事から。

<以下引用>

2014/03/07 2:07 pm
日本の考古学者、1400年前の絹織物のルーツ発見

2014-3-9機織り埴輪1


戦前の日本では絹の輸出が経済発展を支えていた。貧しい農家出身の少女たちが昼夜作業に励み、日本は世界最大の絹輸出国となった。そのおかげで原材料や軍艦、その他の西側諸国の産業技術を入手することができた。

今や考古学調査により、絹産業の起源が明らかになってきた。日本で初めて機織りをする女性をかたどった埴輪(はにわ)が見つかった。この埴輪は東京から80キロメートルほど北の栃木県下野市にある6世紀の古墳で出土した。

この埴輪は、6世紀にはすでに絹織物の技術が存在していたことに加え、当時の絹産業では女性が中心的な役割を担っていたことを裏付ける。

下野市はかつて絹産業の盛んな地域だった。この周辺地域で生産されている結城紬(つむぎ)はユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の無形文化遺産にも登録されている。

5世紀前後に中国からの渡来人が日本に養蚕や絹織物の技術を伝えたと言われている。稲作農家は農閑期に桑樹を栽培して絹を織っていた。

下野市文化課の木村友則学芸員によると、機織りをする女性の埴輪の高さは69センチメートル。長さ80メートルの古墳の埋葬室の近くで見つかった。この古墳には地元の首領や有力な織工が埋葬されていたとみられる。同市は今週、埴輪発見を発表した。

調査員は、絹織物は着物の生地となり、着物は朝廷に献上されていた可能性がある、と語る。この埴輪以外にもっと原始的な機織り機を表現した埴輪、その他22体の埴輪、素焼き鉢360点ほども発見された。

こうした古墳は3~7世紀に支配力のある氏族によって建設された。そしてこうした氏族が現代の皇室を確立していった。そのほか各地の族長も幅広く古墳を建設した。

死者を埋葬する際には馬や鳥、刀剣や盾、兵士と共にさまざまな種類の埴輪も埋蔵された。埴輪を埋蔵する具体的な理由は定かでないが、木村氏は故人の業績をたたえる意味があると推測している。

2014-3-9機織り埴輪2


原文(英語):Japan Archaeological Find Shows 1,400-Year-Old Roots of Silk Weaving
http://blogs.wsj.com/japanrealtime/2014/03/06/japan-archaeological-find-shows-1400-year-old-roots-of-silk-weaving/

http://realtime.wsj.com/japan/2014/03/07/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%80%811400%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AE%E7%B5%B9%E7%B9%94%E7%89%A9%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E7%99%BA%E8%A6%8B/?mod=WSJBlog&mod=WSJJP_Blog


結城紬がこのようにして織られていたと言う説明図

2014-3-9結城紬のいざり機

織子さんが左手に持っているのが横糸を通すための道具、杼(ひ)という。杼の内部は横糸が管(くだ)に巻いて入っている。これを左から右へ1回通したら経糸(たていと)をカラりと上下切り替える。そしてまた横糸を通す。こうして布を織ってゆく。
この杼、英語ではシャトルと言う。スペースシャトルのシャトルである。
尚織子さんが右手に持っているのが筬(おさ)と言う。これで横糸をトントンと打ち込んでゆく。
機織り(はたおり)の事を 「トントンカラリ」という事が有るが、それはこの筬を打つ音と経糸を切り替える時の音からそんな風にも言われるわけ。
織子さんの左手の前に小さな箱が見えるが横糸をまいた管(くだ)を置く箱である。

そしてこれが現代のいざり機

2014-3-9結城紬のいざり機の現代版


機(はた)織りの説明は以上で終わり。

この記事で私が感心したことが二つ。
一つ目はアメリカのWSJが日本のこんな考古学的な発見をこの様に大きく、そして詳しく報道したこと。
彼らは良い文化に対しては率直に良いと認めている。何処かのパクリ国とは全く考え方が違うのだ。

もう一つがこの文章
戦前の日本では絹の輸出が経済発展を支えていた。貧しい農家出身の少女たちが昼夜作業に励み、日本は世界最大の絹輸出国となった。そのおかげで原材料や軍艦、その他の西側諸国の産業技術を入手することができた。

何故この部分に興味が有るか、それは此処には書いてないが彼らの考えている事。
日本はこの絹のお蔭で「軍艦」を買うことが出来た。そして日露戦争で当時世界最強のロシア艦隊を全滅させた
こう言う事である。

今の日本は正に国難の時代である。
安倍総理が靖国神社を参拝しただけでアメリカが「失望」する時代。
その原点が日露戦争にある。
最近元駐ウクライナ大使馬淵睦夫氏がこんな事を言っていた。冷戦が終わりアメリカの敵ロシアが敵でなくなった。それ以来アメリカの日本に対する態度がガラッと変わっている。
そして中韓をたきつけて反日をやらせている勢力もある。
この難しい意味を考えないといけない、そう言っている。

偶々考古学上の大発見なのだが、そんな話の中にそんな思いが垣間見える。
難しい時代になったものと思う。

何はともあれ素晴らしい大発見、これは素直に喜んでいいことだと思う。
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2013-09-30 16:36

国難の正体

  今こんな本をやっと読み終えた。

「国難の正体」、馬淵睦夫著。

サブタイトルは「日本が生き残るための世界史」となっている。

 

読み終えて感想、重い本である。

しかし「私たちが教えられてきた世界史、これが実は本当は全く違うものかもしれない」、そういう意味では実に興味深い本である。

 

 

中でも興味深い事、例えば朝鮮戦争だ。何故圧倒的な軍事力を持っていたはずのアメリカ軍があんなに苦戦し、マッカーサーまで解任したのか?。

なぜ勝てる筈のベトナム戦争であんなに多くの犠牲を出して敗退したのか?。

こんな事が良く分かるのだ。

 

そして最後に著者の馬淵氏が指摘している「明日の日本が生きる道」としてロシアとの関係に言及しているが、現に今シリア問題などで起こっている事を見ると馬淵氏の慧眼、実に大したものだと思う。

 

この本は昨年(2012年)12月に出版されたものだが、ぜひ多くの方に読んでいただきたい本である。

 

 

 

所で重い話のあとは今日の朝、日の出直前の風景。

 

 

この美しい雲の色、僅か10分程でごく当たり前の色に変ってしまった。

本当はこれより5分か10分前はもっとすごい色だったのだが、撮影場所まで300メートルくらい歩く間に色がどんどん変わっていく。

幸運の女神は待ってくれませんね。

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2013-08-14 21:54

古代日本人は「地震」よりも「雷」が恐ろしかった<アホ記事もここに極まれり


  産経新聞に酷い記事が載っている。一応署名記事なので編集委員なる肩書きのある人らしい。

ちょっと暑さで頭がおかしくなったと思われるが、どんな事か少し紹介。

 

 

<以下引用>

 

古代日本人は「地震」よりも「雷」が恐ろしかった

産経新聞2013/08/14 11:44

北村理が紐解く災害列島】(2)

 

 ■雷より下位の地震 古代の住宅事情反映

 

 日本列島は、いわずと知れた“地震銀座”である。

 

 地球の表面を覆っているプレート(岩板)は十数枚あるとされるが、そのうちの4枚が押し合うところに、日本列島は存在する。だから、地震が頻発するのは無理もない。世界で発生したマグニチュード(M)6以上の地震のうち、日本で起きたものは約2割を占めるという。

 

 このことからすると、当然、「地震」は日本に古来あった言葉かと思うが、実はそうではないらしい。

 

 「地震」が日本の文献に登場したのは、720年に完成した日本書紀の、允恭(いんぎょう)天皇の紀の416年7月14日の記述が最初とされる。「地震」と書いて「なゐふる」と読まれた。しかし、中国では紀元前から記述があり、すでに春秋時代の文公の頃(紀元前600年代)の記録にみられるという(諸橋轍次(てつじ)著『大漢和辞典』大修館書店)。こうしたことなどから、「地震」は中国由来の言葉であるとの見方が有力だ。

 

 それでは、古代から地震が頻発していたはずの日本で、なぜ、「地震」という記述がなかったのか。

 

 「古来、日本の住居は、かやぶきや木造などで非常に軽く、地震の揺れによる被害がさほどなかったからではないか」。建築物の構造の専門家は、こう推測する。かつて都には、現代でいういわゆるホームレスを収容する施設もあり、その施設には車がついていて、いつでも移動できるようになっていたらしい。こうなると、超高層ビルの地震対策で注目されている「免震構造」(建物の内部を守るために、揺れを最小限にする仕組み)といってもおかしくはない、と構造の専門家はいう。

・・・以下略 詳細は下記参照・・・

 

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/676707/

 

<引用終り>

 

 

 

「地震」が日本の文献に登場したのは、720年に完成した日本書紀の、允恭(いんぎょう)天皇の紀の416年7月14日の記述が最初とされる。「地震」と書いて「なゐふる」と読まれた。しかし、中国では紀元前から記述があり

 

 

この北村理とかいう人は日本人なのだろうか。

日本の歴史書は古事記(712年)、日本書紀(720年)に始まる事など小学生でも知っている。

そりゃあ文字の国「シナ」ならいくらでも古いものは有る。だがそんなモノと比較して良いの悪いのと言っても仕方ないだろ。

 

日本では最古の歴史書から地震の記述がある。

そう言う事だ。

 

「地震」と書いて「なゐふる」

何を言っとる、

 

「なゐふる」は日本の古語。

その「なゐふる」に地震の言う漢字をあてたのだ。

音読み、訓読みと言うのはそういうモノ。北村さんとやら。あんたは日本語の成り立ちすら知らないらしい、良くそれで惨刑新聞の編集委員が務まったものだ。

 

こんなモノが有る。

 

これは日本地震学会の広報誌、ここの表題の上に「なゐふる」の説明が有る(赤枠で囲った部分)。

此処にはこう書いてある。

「なゐふる(ナイフル)」は地震の古語、「なゐ」は「大地」、「ふる」は「振動する」の意味です。

昔から日本には地震を意味する言葉が有ったのだと。

それに地震と言う漢字をあてたのだと。

 

 

 

読んでいくと頭がくらくらしてくる。

これ以上は頭がおかしくなるのでこの辺で終了。

 

 

最後に日本人の地震に対する取り組みについてこんなモノを紹介しよう。

我が家にある不思議な古文書。

1855年(安政2年)に江戸を襲った大地震(安政江戸地震)の被害状況を伝える瓦版である。

 

 

そしてこれはその瓦版の最後に書いてある地震の歴史。

 

これが地震の歴史。

最初に書いてあるのが白鳳5年(684年)11月29日の白鳳南海地震の記録

 

そしてこれを見て下さい。

 

これは先の地震の歴史の続きだが、最後に書いてあるのは「お救い小屋」が何処に開設されているかが書いてある。

今風に言えば「救援センター」が何処かが分かるわけだ。

多分ここで炊き出しなどが行われていたのだろう。

 

 

こんなのを読むと日本のマスゴミ諸氏の劣化具合が分かって非常に悲しくなる。

 

前途三千里の思い胸にふたがりて・・・ 嗚呼。

 

 

 

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2013-08-03 10:36

温暖化で文明が崩壊?<何でも悪いのは温暖化

 異常気象で文明が崩壊、だから温暖化に警告!! などと言う一見もっともらしい話が聞こえてきた。

 

まあ捏造が得意と言われる共同の情報だから、どんなものですかねえ。

(注:こんな枕詞をつけるのが捏造マスゴミの手口、ちょっと真似をしてみました。如何にもそれらしく聞こえるでしょ。(笑)

 

 

 

<以下引用>

 

マヤ文明もクメール王朝も…異常気象で紛争、崩壊 米チームが温暖化に警鐘

 

産経新聞2013/08/02 10:01

 

 地球温暖化が進んで猛暑や干ばつなどの異常気象が増えると個人レベルの暴力行為から内戦などのグループ間対立、文明崩壊に至る紛争が起きやすくなるとの研究結果を、米カリフォルニア大バークリー校のチームが1日、米科学誌サイエンスに発表した。過去1万年の人類史と気候変動の関係を調べた。チームは「紛争の発端は多様だが、環境が悪化し食料や財産が脅かされると、人の行動が暴力性を帯びやすくなる」と指摘。温暖化に伴って今後さらに世界が不安定になる恐れがあると警告している。

 

 チームは殺人や暴行、内戦や民族紛争、政治権力の交代や文明崩壊などと気候変動の関係を調べた文献60件を分析。統計的手法でデータを再評価、自然環境が変動すると社会的な不安定さが増すことを確かめた。

 

 具体的には中米のマヤ文明や東南アジアのクメール王朝は、崩壊や滅亡に先立って深刻な干ばつに見舞われた。アフリカや熱帯地方での内戦や民族紛争、米国での殺人や暴行など犯罪件数の増加も気温上昇と関係していた。(共同)

 

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/science/673876/

 

<引用終り>

 

私はマヤ文明については殆ど知識が無い。しかしアンコール文明(クメール王朝)については大変興味が有り、いろいろエントリーしている。

そしてアンコール王朝の崩壊に旱魃が影響しているのは事実である。

 

アンコール王朝は1296年、中国人使節・周達観による「真臘風土記」で富貴真臘と言われたほど繁栄していた。

そのアンコール朝が1431年には隣国シャムに攻められ滅亡していた。

 

その滅亡に旱魃がかかわっていたことは確かで、富貴真臘と言われた頃から約60年後、深刻な干ばつが襲った。

1362年ー1392年と1415年ー1440年の2回、深刻な旱魃だった。

この2回目の旱魃の最中の1431年、隣国シャムに攻められ、アンコール朝は滅亡した。

 

 

しかし引用した共同の記事、この記述は本当なのか?

             

具体的には中米のマヤ文明や東南アジアのクメール王朝は、崩壊や滅亡に先立って深刻な干ばつに見舞われた。アフリカや熱帯地方での内戦や民族紛争、米国での殺人や暴行など犯罪件数の増加も気温上昇と関係していた

 

此処では旱魃=気温上昇と書いてある。

本当かな?

こんなデータが有る。

参考:日本の歴史区分

平安時代・・ 794-1185

鎌倉時代・・1185-1333

室町時代・・1336-1573  (内1493-1590は戦国時代)

安土桃山時代・・1573-1603

江戸時代・・1603-1867

 

 

このグラフは過去1100年間の平均気温のグラフ。

グラフで分かる事は日本の平安時代は「中世温暖期」と言って現在より暖かかった時代。その後徐々に気温が下がり日本の戦国時代から江戸時代は小氷期と言われる寒冷な時代だった。

 

ではカンボジアは如何だったのか?

・ 富貴真臘と繁栄を記録されたのは1296年、日本で言えば鎌倉時代の終わりころである。

気候は温暖化が終わり寒冷化が進んでいたが、現在よりはいくらか暖かかった時代。

 

・ 大きな旱魃が有った1362年~1392年は日本で言えば室町時代。

気候はどんどん寒冷化していた時代である。

 

・ 2回目の旱魃の時期1415年~1440年、矢張り日本では室町時代。

気候は一段と寒冷になっていった時期だ。

 

 

 

結論として共同のこの記事、記事の中心である旱魃などで文明や王朝の崩壊・滅亡がと言うところは間違ってはいないが、旱魃は原因の大きな部分と言うべきだろう。

それより大きな問題はアンコール文明の崩壊・滅亡は政権交代したとき前政権のやった事を全否定し、前政権中枢部にいたテクノラート・知識人などを追放・抹殺したことにあると思う。

この件は以下のエントリー参照ください。

http://tansoku159.iza.ne.jp/blog/entry/2590891/

 

 

話が散漫で申し訳ない。

私が言いたかったこと。

共同のこの記事、確かに事実に基づいてはいる。

がしかし、そこから異常気象=温暖化と話を全く事実と異なる方向に持って行っている。

マスゴミの情報操作、こんな所にも表れているのだ。

 

そして今現在も「温暖化が~」と声高に叫ぶ人たちがいる。

「ジミンガ~」

「放射脳が~」

こんなマスゴミに騙されてはいけない。

 

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2013-05-23 19:02

世界史上の大虐殺

  裏の桜さんのエントリーに「直近中の直近の歴史を振り返ってみましょう」と言うのが有る。

そこで世界史上の大虐殺数を取り上げているのだが、私はこんな書物のデータを主に見ている。

 

「奇跡の日本史」増田悦佐著 2010年12月PHP研究所刊

 

どんなデータかと言うと

 

 

元資料はこれ、マシュー・ホワイトの纏めたもの

http://necrometrics.com/pre1700a.htm

 

色々異論のある資料ではあるが、まあまあいい線いってると思う。

但し南京大虐殺を入れている所など、欧米の歴史観でできている事に注意が必要。

 

中国の大虐殺が凄い事に驚くと思うが、これがあの国の現実である。

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2012-06-14 07:08

「あごやま」とは英虞山?

  歴史の話や水彩画など面白い話をエントリーされている”お絵かき爺さん”という方がいる。

ご本人は爺さんと謙遜されているが元気そのもの。最近は万葉集の話にも参加されているようで、その話をエントリーされている。

http://teda.iza.ne.jp/blog/entry/2716712/

 

このエントリーの中で取り上げられている歌が私の好きな場所にちなんだもの。

そこでちょっと趣向を変えて柄にもなく万葉集にちなんだ話など。

 

 

その歌とは

 

662  阿古(網児:あご)の山 五百重隠せる佐堤(さで)の岬の小網延(さでは)へし子が夢に見ゆる    市原王

 

注:網児の山の「あご」とは三重県にある英虞湾の「あご」、「あごの山」とは英虞湾周辺の山とのこと。

尚「佐堤(さで)の岬」は何処だか不明だそうだ。

 

読み: (あごのやま いほへかくせる さでのさき さではへしこが いめにしみゆる    いちはらのおおきみ

 

解釈: 網児の山並が幾重にも重なって隠しているように見える佐堤の崎で、小網をさして魚を捕っていた娘が夢に見える

 

 

とこんなのが歌の紹介だが、この英虞湾、そしてその周辺の山々の風景は実に絶景。私が若い頃からこの辺りを車で走るのが好きだった。

今年の正月、この辺りの絶景を久しぶりに見てみようと家族で行くことにした。

(実は家族で行くのは初めてであった)

 

今回行ったのは英虞湾ではなく、もう少し先の現在の南伊勢町の峠と海岸だが、やはり先ずは英虞湾から。

 

 

 

英虞湾の夕日は絶景である。

 

 

そしてこれは今回行った藤坂峠から見た太平洋方面

 

この写真の場所は藤坂峠という。

英虞湾からは少し離れているが、市原王が歌に詠んだ「山並みが幾重にも重なって隠しているように見える」というのはこんな風景ではなかったかと思う。

海岸の集落が小さく写っているが、この道を少し先に行けば直ぐ見えなくなる。

 

市原王はこんな道を歩きながら、振り返り振り返りして、見え隠れする村、そこの小網をさしている娘をおもいながら、こんな歌を詠んだのかもしれない。

 

 

 

この写真の場所はこんな所

 

地図で見ても人里離れた山の中とわかるが、この藤坂峠に行く道は悪路である。

道幅が極端に狭く勿論未舗装、小さな私の車(アルテッツア)では大きすぎて道幅いっぱいだった。

特に山の北側はヘアピンカーブの連続、私の車はミッション車なのでローギヤ入れっぱなしで登った。

対向車が来たらすれ違いなど出来ない、対向車がいなかったのはラッキーだった。

こんな道なので注意が必要。(峠の標高は520メーター程、意外に高い)

 

 

 

市原王が通ったのはこの道ではなかったろうが、感じはこんなモノではないかと思う次第。

 

 

藤坂峠から少し下ると

昔から旅人の喉を潤したであろう泉

 

その脇には古い祠

 

 

そして峠道を降りて海岸に出るとこんな漁港

 

 

リアス式海岸の一番奥なので全く波がない、池ではないかと思うくらい静か。

こんな所なら可愛い娘が網をさしていても全く安全である。

 

 

 

市原王の歌を見てこんな所の風景を思い出した、

半年遅れだが正月のドライブで行ったところを紹介いたします。

 

 

<追記>

この歌の詠み人の名前は市原王(いちはらのおおきみ)

最近犬HKあたりで変な「王」の使い方をする連中がいるが(多分日本人ではない)、日本古来の「王」の使い方はこんな風である。

王(おおきみ)は天皇ではない。

詠み人の名前からこんな事を思い出しました。

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2012-03-21 22:36

春分の日の見つけ方

 ドイツ在住の丸山光三さんのブログにイラン暦のお正月と言うのがあり、イランでは春分の日が正月元日なのだと言う。

 http://marco-germany.iza.ne.jp/blog/entry/2631495/

 

 

イランに限らず、世界の色んな古代文明で春分の日が重要な宗教行事の日になっている。

 

私は歴史好きで稲作の歴史に興味があるのだが、稲作には正確な暦がどうしても必要。

特に種まき、田植えの時期は品種にあわせ5日単位で日にちを変える必要がある。

しかし昔は如何して暦が分かったのだろうか。

これは永年疑問だった。

 

 

そして奈良時代には暦で農作業を管理していたらしい記録などが見つかっている。

だからそれより相当以前に暦で稲作を管理していたと思われる。

 

でも稲作が始まったと言われる弥生時代(今は異論もあるが)なんかに如何して正確な暦を知っていたのか疑問だった。

 

 

 

しかし春分の日は意外に簡単な方法で見つけることが出来る事が分かった。

春分の日からは1日遅れだが、そんな話を。

 

以下は遠沢葆著 「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」より

 

春分の日=太陽が真東から昇り、真西に沈む日

だから正しい東西方向が分かれば春分の日は分かる。

 

 

 

簡単な東西の見つけ方

地面に棒ABと立てる

Bを中心にして任意の円を書く

午前の太陽によってできる棒のカゲが円周に接する点をC

同じく午後のそれをDとする

CDを結ぶ線がその土地の東西方向である。

 

春分の日はこの東西線方向から太陽が昇る日と言う事。

 

何と棒一本と紐さえあれば東西の方向は簡単に分かるのである。

 

 

昔から二百十日とか二百二十日とか言うが、テレビもラジオも新聞も無い時代に、どんな田舎でも暦が分かる事が不思議だった。

(二百十日=立春の日から数えて二百十日目)

でもこんな簡単なことで春分の日が分かれば、立春の日は何時だったのか分かる。

 

私にとっては目からウロコの話でした。

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2011-08-31 22:58

防災の日に貝塚を見に行く

 最近津波や高潮が来たとき如何しようと言うことがしばしば話題に上る。

私はそんなとき、貝塚のある所より上なら良いよ、大丈夫だ。

そんな事を家族や仲間と話すことがある。

 

 

どうして貝塚なの? 

では貝塚って何処にあるの?

 

 

そんな事で明日が防災の日なので、昔の記憶を辿って半世紀ぶり(いやもっと昔だったかな・・・歳が分かる!)に地元の貝塚を見に行ってきた。

実は私は中学生時代は考古学少年、貝塚や古窯址を探してアチコチさまよったものだった。

最近気候変動の事が気になるのだが、その関係で昔の気候など調べていて面白い事に気がついた。

http://tansoku159.iza.ne.jp/blog/entry/1648626/

http://tansoku159.iza.ne.jp/blog/entry/1652791/

http://tansoku159.iza.ne.jp/blog/entry/1652852/

 

このエントリーで紹介している貝塚は地下深くから発見されたのだが、普通貝塚は現在の海岸線よりかなり内陸よりから発見される。

その理由が縄文海進である。

縄文海進がどの程度かと言うと

 

 このグラフは今から9000年前以降の海面の高さの変化を示す物。

海面の高さは今から2万年位前は今より120メーター以上低かった。それが徐々に海面が高くなり、今から約7000年くらい前は今と同じレベル。

しかしその後も上昇を続け今から6000年位前のピークは今より海面は5メーターくらい高かった。

コレを縄文海進と呼んでいる。

だから貝塚はその高い海面にあわせて、今の海岸線より内陸側にあるのだ。

 

東京周辺の縄文海進の図

 

この様に昔の東京湾は今よりはるかに深く内陸に食い込んでいた。

この様なところは高潮や津波の被害を受けやすいし、元々海だったところに泥が滞積して出来た地層(沖積層という)なので、地盤は極めて軟弱、そして地震だと液状化現象もおきやすい。

 

上の図では分かりにくいので、コレに貝塚の分布図を加えるとこうなる。

注:この図は松山義章著 「貝が語る縄文海進」より借用

 

 

東京近郊にお住まいの方には、幸手や栗橋あたりまでが昔は海だった・・・俄かには信じがたい話だと思う。

だがここで分かるように、縄文時代海だった所の周辺に貝塚が分布している。

そしてその海だったところが災害の危険の多い地域だと言う事。

 

 

長い話になったが、以上の理由で貝塚のあるところなら大丈夫と言えるわけだ。

 

 

 

 

さて今日私の町の貝塚を見に行った。

西宮貝塚と言うのだが、小さな小さな貝塚である。

 

貝塚のあるところの遠景

池の向こうの住宅の間にある。

 

 

狭い路地から更にこんな狭い路地(農道?)を入る。

尚貝塚のある事の表示・案内板の類いは何も無い。

知らない人には全く分からない所だ。

 

 

通路に貝殻が落ちている。

これはこの地方では今は生息していないハイガイ

(今ではハイガイは九州の有明海辺りにしか居ない、温暖な海に住む貝だ)

 

こんな貝がいたことが縄文時代が現在より温暖だった証拠

 

 

こんな物も・・さざえ

 

 

 

そしてこの西宮貝塚から海岸方向を見ると

 

実は写真がヘタクソで分かりにくいが、貝塚のあるところは台地状のところ、其処から4,5メーターの崖が有って、その下はまっ平らな所。

昔はこんな所はみんな田んぼだったが、今では工場や住宅が立ち並んでいる。

 

そしてこんな平らな所は住宅を建てるには便利だが、地盤が悪く地震や台風による高潮などの被害を受けやすいのである。

 

 

 

そしてこの写真の方向の約1キロ先には第2次大戦中日本海軍の飛行機(艦上攻撃機天山と偵察機彩雲)を作っていた工場があった。

そして其処は昭和19年12月の東南海地震(M7.9 一説ではM8.2)で甚大な被害を受けた。

この大震災、大戦末期と言う事で軍事機密とされ、良く分からない事が多い。

 

それで最近NHKが「封印された大震災~愛知・半田」なる番組を報道し、コレをドイツ在住の丸山光三さんが紹介している。

http://marco-germany.iza.ne.jp/blog/entry/2398700/

 

この件についての私の考えを丸山さんのブログにコメントで残してあるのでご参照ください。

 

尚NHKのこの番組はコメントにある様に、この大震災を知るものとしては、極めていやらしい報道の仕方と感じています。

がその話は今回は取り上げないこととします。

 

こんな事で津波で逃げろとなったときの目安の一つが貝塚だったというわけだ。

 

最後に貝塚が何処にあるか全く分からないとの質問を受けるので、その時は江戸時代より前から存在する古いお寺や神社のあるところなら同じだと言っています。

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2010-08-19 16:38

五平餅の話

東海地方の山間部の郷土食に五平餅と言う物がある。

今では東海地方のあちこちで食べることが出来るが、以前は主に愛知県三河・長野県南部・岐阜県東濃地方の山間部だけにある郷土食であった。

 

 

これが五平餅

御飯をつぶして杉板で作った串につけて焼き、胡桃とかゴマを入れた味噌をつけて焼いた物。

この形が最も古くからの形で「わらじ型」

味噌の味が香ばしく美味しいですよ。

 

 

 

今何故こんな物を出してきたのかというと 、この五平餅は私が幼い頃食べてとても美味しかった。そして大人になって車に乗り始めた頃この五平餅が食べたくてあちこちを食べ歩いた。

そして今月ついにこの五平餅のルーツにたどり着いたというわけ。

 

 

 

少々長くなるがその話の顛末は、

話は昭和20年1月に始まる。当時私はやっと3歳になったばかり・・・歳が分かる・・・

その頃私の家の隣に三河の山奥の農家の方が住んでいた。

戦時中の徴用で軍需工場に働きに来ていた人であった。

昭和20年1月と3歳の子が何故正確に分かるかというと、昭和19年12月~20年1月に愛知県を襲った東南海・三河地震があった。その地震の余震が酷く家の中に住めなくなり、庭先に仮小屋を作って住んでいたが、そこで食べたのがこの五平餅だった。

徴用で来ていた人が三河の郷土食を非常食として作ってくれたもの。勿論五平餅なる名前などはずっと後になって分かったこと。

そして五平餅を食べたのはこの時だけ、以来大人になるまで目にすることも無かった。

 

 

車に乗るようになった昭和40年代初め、私はヒマができると五平餅探しに三河の山中を走り回った。

幼い頃食べた味を探しての旅、まあ今の食べ歩きの元祖みたいなもの。

 

その頃は田舎の食堂や菓子屋のオバチャンが片手間に焼いていた。

ある時などは五平餅を注文したらなかなか出てこない、催促すると「今御飯を炊いているからちょっと待って」と言われ、1時間待ってやっと五平餅を1本食べた事も・・・

平和な時代でした。

 

 

今月子ども達が帰省したので久しぶりにドライブにでも行こうということになり、長野県南部の大平(おおだいら)峠まで行ってきた。

 

 

大平峠   正面の歌碑は斉藤茂吉の歌

(写っている人は関係ない人です)

(注:正確には此処は大平峠の最高点ではない、最高点は数キロ飯田より、標高1358M)

茂吉の歌

”麓にはあららぎという村ありて

  吾にかなしき名をぞ とどむる”

 

 

峠の茶店 ・・ 木曾見茶屋

此処から下を見下ろすと麓に蘭(アララギ)部落がみえる 

 

この茶店で食べた五平餅

 

 

 

この大平峠が何処にあるかというと中山道の妻籠の宿から伊那谷の飯田にぬける大平街道の途中にある。

但しこの道、今は国道が別ルートを通っている為殆ど車は通らない。特に冬場は半年くらい通行止め、そんな道である。

この茶店のあるところで海抜1226メートル、麓から狭い急坂を一気に上ってくる。

 

 

この峠から6キロほど進むと大平の部落に着く。

元々戸数20数戸の小さな部落だった。

最盛期は大正時代から昭和のはじめ頃で、中山道・鉄道のある木曾谷と伊那谷の飯田地方を結ぶ重要なルートだった。しかし国道が別ルート(清内路峠)を通るようになった為、40年ほど前集団移住し今は廃村である。

しかし大平宿を残す会などによる保存運動で今でも夏場には宿泊も可能。廃村のうまい活用事例として有名である。

 

廃校になった小学校

 

校舎の羽目板には

 

この張り紙には黄色スズメバチは興奮させなければ心配ないと書いて有ります。事実ですがこのハチはスズメバチの中でも凶暴なので若し見かけたらご注意ください。

(実は私は今月9日、庭木の枝を払っていてアシナガバチに刺され、1週間ほど左手がパンパンに腫れ酷い目にあいました)

 

そしてコレが五平餅のルーツについて

 

大平の小学校近くにこの立て札が立っていた。

この大平部落は昔は木曾谷(中山道)と伊那谷(信州街道)を結ぶ重要な宿場だった、だからこの伝承は信頼できる。

 

 

私にとっては何十年ぶりかで一つの疑問が解けた。

そんな意味で面白いドライブだった。

 

 

最後に愛煙家の皆さんに懐かしい写真を

 

これは中山道妻籠の宿のタバコ屋の店先。

若い人は多分見たことも無いタバコではないかなあ・・・

右から二つ目は「シンセイ」、四つ目は「ゴールデンバット」

未だ売っているんですねえ。

懐かしい。 

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2010-06-21 21:40

貝塚を見に行く(続編2)

先苅(まずかり)貝塚と言う地下深くから発見された貝塚の話の続編だが大分間が空いてしまった。

やや時期遅れのエントリーだがご容赦を。

 

 

如何してこんな貝塚の話をエントリーしたか?、

地球温暖化問題が叫ばれて久しいが、昨年暮に発覚したクライメイトゲート事件から地球温暖化問題が「温暖化詐欺」であることがハッキリした。

そして地球そのものは昔からダイナミックに気候変動していることが分かってきた。

そんな事が言いたかったからである。

 

 

前回海面の上昇のグラフを見ていただいたが、重複するがもう一度

 

これは地球を覆っていた最後の氷河期以降の海面の高さのデータだが 、約2万年前の氷河期のピークでは現在より120メーター以上海面が低かった。

それが約1万5千年前から急速に海面上昇、約7千500年前にはほぼ現在の海面レベル、そして約6千年前には現在より約3~5メーター海面が高かった。

 

この海面上昇を日本では縄文海進というのだが、現在のレベルより高かったことは良く分かっていた。しかしその前がどうなっていたのか良く分からなかった。

コレをハッキリさせたところにこの貝塚の意義が有った。

 

 

約7千500年前にはほぼ急激な海面上昇は終わったが、その直前(約8000年前)の状態を伝える貴重な遺跡、それがこの貝塚であった。

 

 

 

ではこの海面上昇、何が原因かと言うと

(全世界の海面を100メーター以上押し上げるだけの水が何処から来たのかと言う事)

それは北米大陸やヨーロッパなどを覆っていた巨大な氷床である。

 

 

これは北米大陸を覆っていたローレンタイド氷床などの姿。

  出所:朝日新聞社刊:モンゴロイドの道より引用  

 

 

北米大陸北部にでっかい氷床がある。

この図は今から約1万2千年前、未だ陸続きだったベーリング海峡を通ってアメリカ大陸に進出した先住民の通った経路を示した図から借用、

アメリカ大陸北部は今の南極並みの分厚い氷の覆われていた。

 

その証拠が実は意外なところにある。

 

氷床が岩盤を削り取った傷跡である。

 

凄い傷跡ではないでしょうか。

 

これはニューヨークの中心部セントラルパーク内にある岩盤の露頭。

氷床の「擦痕」といわれ、厚さ3~4000メーターの氷が岩を削った痕である。

ニューヨークの摩天楼の目の前は氷河時代の名残。

セントラルパークにはこんな物がごろごろしている。 

 

 

貝塚を見ながら、そんな気候変動の歴史を考えた一日だった。

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2010-06-17 11:02

貝塚を見に行く(続編1)

愛知県南知多町内海の、今から8,000年前の先苅(まづかり)貝塚が地下深くから発見された。それを見に行った事を前回エントリーしたが、今回はその続編。

そんな物が如何して残ったか調べてみた。

 

貝塚の話だが、興味を引く点は今問題の気候変動地球温暖化を考える上で参考になると思ったからだ。

 

 

 

最初に現地の航空写真から

 

 

黄丸印が内海地区、矢印が内海駅=先苅貝塚

 

現在の写真を見ても内海地区は三方を山に囲まれた所だと分かる。

 

 

内海駅のホームから見ると

海側を見たところ、約 1キロ先が海

 

 

 

駅のホームより山側を望む   電車の進行方向 

                   (駅を出るとすぐトンネル)

 

 

昔の鳥瞰図では

先刈貝塚 南知多町教育委員会編より

 

こんな物を見ると比較的最近まで袋状の内海(うちうみ)だった事が分かる。

地名の内海(うつみ)は正に地形そのものを表している。

 

 

 

だがそれだけでは未だ良く分からない。

如何して縄文時代早期の、今から8、000年前の遺跡が地下深くになってしまったのか。

 

 

さてこの時代の海面のレベルがどうかというと

詳細はコレを参照ください

 

この海水準データを見ると約1万5,000年くらい前、現在より120メーター位低かった。それが約7,500年前にはほぼ現在なみ。その間、世界の海水準は殆ど一直線に上昇している。

上昇のペースは単純計算では100年で1.6メーターである。

日本ではその後もゆっくり海面は上昇し、約6,000年前にピークとなった。この時は現在より3~5メーター高かった。

これが縄文海進といわれ、元々は東京周辺で内陸深くで貝塚が発見される事から名づけられた。

 

 

縄文海進自体は貝塚の分布図を作れば一目で分かる。しかし永年この海進以前がどうだったのかよく分かっていなかった。

先苅(まづかり)貝塚は、この良く分かっていなかった縄文海進をハッキリさせた点でとても貴重。

そして最近の地球温暖化詐欺との関連でも注目されている。

 

 

 

貝塚の話に戻る。

先刈貝塚の時代(=約8,000年前)は、今より10メーターくらい海面が低かった。だからこれ以前の貝塚などは殆ど海の底に沈んでしまった。

縄文時代草創期・早期中頃までの貝塚は発見されていない。従来の歴史の本を見るとこの頃は縄文人は貝を食べなかったらしいという感じで書かれている。

しかし実際は貝塚が若し有ったとしても海底深く沈んでいるので見つからない。或いは海底に沈む過程で波などで破壊され残っていない。こんなところが事実ではないかと思う。

 

さて海面は約6,000年前まで徐々に上昇した。そのピークは今より3~5メーター高くなった。 

 

 

縄文海進の例として関東地方の縄文時代の海岸線がどうなっているか

(本当は愛知県の図がいいのだが適当な図が見つからないので・・・ この図はお絵かき爺様のブログから拝借、)

 

今度は愛知県の例

これはこのテーマの先苅貝塚から20キロほど北の大草貝塚の事例

 

昔の海岸線は地図の点線で示されている。

右の写真の小高い山に貝塚が有るが、縄文時代は此処は島だった。手前の田んぼは昔の海。

 

余談だがこの地方(愛知県・岐阜県・三重県)では、縄文海進による昔の海と1959年の伊勢湾台風の浸水域はぴったり重なっている。この為防災面からも注目されている。

 <続く>

 

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2010-06-11 18:33

貝塚を見に行く

今日は近くにある貝塚を見に行きました。

場所は名古屋市から南へ伸びる知多半島の南端、南知多町の内海(うつみ)という所。

 

 

どんな所かというと

 

なんじゃコリャ、電車の駅じゃないか。

 

私が見たかった貝塚はこの電車の駅を作る際、地下10数メートル下から発見された縄文時代早期の貝塚。

先苅(まずかり)貝塚という名前だが、ある所は写真の右側の青いマイクロバスが止まっている辺りの地下13メートル位の所。

昭和53年にこの駅建設の為ボーリング工事中に偶然発見された。

 

 

実はこの貝塚の事、つい最近まで私も知らなかった。

お絵かき爺様のブログで紹介された資料に載っていたのだが、東海地方最古の縄文貝塚と言う事と地下深いところから発見された世界的にも珍しい物なので現場を見たかったわけ。

 

 

 

駅の正面にはこんな案内板が、

これが此処に貝塚があったことの分かる唯一の物。

 

駅のホームから市街地方向を見る。

遠くに見えるビルの向こう側は海(伊勢湾)、夏は海水浴場だが今は静か。

 

貝塚からはこんな貝が出てきた。

これは近くの郷土資料館に展示されている。

 

いろんな貝があるが主に食用とされた物はハイガイ・サルボウ・イタボガキなどであると言う。

でも聞いたことも無い貝ばかり、どんな物かと言うと

 

これがハイガイ

縄文時代は青森以南の暖かい内湾に住んでいた貝。

千葉県の縄文貝塚などでもコレがよく見られる。

今は九州の有明海が殆ど唯一の産地らしいが、諫早湾干拓で殆ど絶滅したらしい。絶滅危惧種の貝である。

 

これはサルボウ

 

 

 

 

さて本当の狙いは貝の話ではなく地下深くから見つかった縄文遺跡だということ。

縄文海進といわれ、今から約6000年前がピークで現在より海面が3~5メーター高かった。

その後徐々に沈んで現在のレベルになったのだが、6000年より前がどうなっていたのかが永らく謎だった。

コレの具体的な証拠となったのがこの先苅(まずかり)貝塚である。

 

この貝塚、今から約8000年前の物だが、その頃は海面の高さは現在より12メートルくらい低かった。

更に調べてみるとその約1000年前は海面の高さは現在より40メートル位低かったということが分かってきた。

40年で約1メートル位海面が上昇(多少数字は合わないが・・・)すると言う凄い気候変動があった事の証拠がこの遺跡と分かったということ。

 

温暖化サギでCO2が犯人といわれているが、そんな話などぶっ飛んでしまうような気候変動の歴史がある、今日はそんな事を痛感した一日だった。

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2009-09-29 18:06

食べる物がなくなった時民族移動が始まる<タイの事例です 最終回

タイ族に人たちがタイの地にやってきた事について、3回にわたって考えてきた。

では何故彼らがタイの地にやってきたのか?

特にタイ族の沸騰と言われる13世紀中から14世紀中(1250年~1350年)までの約100年間、彼らに何があったのだろうか。

 

日本で1250年頃と言えば鎌倉時代のこと第一回の元寇(文永の役:1274年)の24年前、1350年頃と言えば室町時代(1338年~)が始まって12年後と言うことになる。そう古い話ではない。

そんな頃彼らに何が起こったのか?

 

長い間これは蒙古がタイ族を攻めたので、これから逃れる為に南下したと言われてきた。

言い出したのはフランスの著名な歴史学者セデス(1888-1965)である。言い出した人が非常に高名な学者だった為、永い間これが定説になっていた。然し現在ではこれは完全に否定されている。

 

 

 

長い間謎だったタイ族の民族移動の原因、その手がかりが最近見つかった。それは古代の気候に関する研究からである。

 

中国西部崑崙山脈の氷河から長さ132mの氷柱サンプルが採取され、ここに過去2000年間の気候が記録されていた。これの研究から古代の気象が明らかになり、

1075年~1375年は非常に乾燥した時代であったことが分かった。

また中国南部雷州半島(海南島の隣、ベトナムとの国境近く)にある湖光岩湖という火口湖から湖底の堆積物を取り出し調査した結果からは、880年~1260年は非常に乾燥した時代であったことが判明した。

 

タイ国とタイ人の故郷雲南省、そして崑崙山脈と雷州半島はこんな位置関係

 

 

両者のデータにはかなり違いがある。然し両者がラップする1075年~1260年は中国雲南省あたりでも、非常に乾燥した時代だったと考えていいだろう。

多分その頃、何年に一度かは激しい旱魃が襲ったのではないかと思われる。

 

 

 

これがタイ族が故郷を捨て民族移動を始めた原因であろう。

つまり食べるものがなくなった時、その民族は移動を開始するのだ。 

 

そしてこの時の飢えの記憶、これはタイ人のその後の性格を形成する上で大きな要因のひとつになったのではないかと私は見ている。

微笑みの国と言われ、いつもニコニコしているタイ人が時折見せる驚くような凶暴性、そして食べることに対する執着心、そのルーツにこんな事が有ると見ていいだろう。

 

タイで仕事をしてきた経験から

「腹を減らしたタイ人ほど厄介なものはない」 ・・・これは色んな場面で言えることだ。

 

 

 

話は変わるが、

食べるものが無くなる、今の日本では考えられないことのようだ、しかしそうだろうか?

鳩ポッポのCO2の25%削減をはじめとする出鱈目な政策は、日本の基幹産業の海外移転を加速させている。

新日鉄もトヨタ・ホンダも今まで以上に海外展開を加速させるだろう。

つまり日本にはもはや仕事が無いのだ

 

タイ族は旱魃の追われ命がけでタイの地へ移動した。

日本人は鳩ポッポに追われ、日本を後にせざるを得ないかもしれない

そう言えば今年の4月、鳩ポッポは「日本列島は日本人だけの所有物ではない」と言った。

だが良く考えてみるとこれは「だから日本人は日本列島から出て行け」と言っているのかもしれない。

困ったことである。

<終り>

 

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2009-09-29 17:32

食べる物がなくなったとき民族移動が始まる<タイの事例です その3

タイに移住してきたタイ族が作った町をムアン(グ)という。

現在タイではムアン(グ)といえば「国」とか都市という意味で、一般的には各県の県庁所在地をムアン(グ)といっている。

回りくどい話だがタイでは県名は県庁所在地の名前なので、例えばチェンマイ県チェンマイ市というチェンマイ市の部分がムアン(グ)になる。

 

このムアン(グ)、外敵から住民を護る為の城壁都市といったもので、初期の形は環濠集落。

日本でも弥生時代に各地で環濠集落がつくられたが殆ど同じものと考えてよい。

 

代表的なムアン(グ)の例としてタイの古都スコータイ

 

航空写真があまり鮮明ではないが、東西1800m、南北1600mの三重の城壁に囲まれた中が昔のムアン(グ)、現在はスコータイ歴史公園になっている。

これが今のスコータイ歴史公園

 

 

倒れかけた仏塔も

 

現在の城壁 (英文の説明はThe City Wall)

 

 

 

外敵の目標は食料と人(奴隷として)なので、住民を護ることが非常に重要となる。それがこの様な城壁都市をつくる原因。

 

ではその外敵とは誰なのか。先住民族や隣の国なども外敵となるが、私は移住初期の頃の外敵は「同じように移住してきた移住民が最も多かったと考えている。

新天地に入植してきた移住民は元々そんなに食料を豊富に持っていたわけではない。そして農業では苦労して農地を開拓してもすぐに収穫が得られるわけではない。

運良くすぐに種まきできたとしても収穫は半年後、その間何も食べずにいるわけには行かない。

つまり移住民とは先にそこに住みついた人から見ると「腹を減らした凶暴な襲撃者」となるわけだ。

 

黒澤明監督の映画「七人の侍」は落武者が盗賊となり村を襲う話だ。程度の差はあっても移住民もこんな傾向を持っていたと考えられないだろうか。

<続く>

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2009-09-29 14:27

食べる物がなくなった時民族移動が始まる<タイの事例です その2

中国南西部雲南省あたりに住んでいたタイ族の人たちが、現在のタイ国の地を目指して南下したのは11世紀頃から14世紀頃のこと。特に13世紀中から14世紀中までの100年間は「タイ族の沸騰」と言われる時期だった。

 

 

その移動の形態はというと主に血縁関係を中心にしたグループを作り、男たちは先頭で「戦闘集団」、その後ろに女子ども、老人が従い、家畜なども連れての大移動だったらしい。

戦闘集団は兵士(平民)5人が1人の頭(ホワ・ナー)に仕え、5人のホワ・ナーが1人のムアット・ナーに仕え、5人のムワット・ナーの上に最高責任者としてナーイ・」ムワットがいたという。

多分こんな軍隊組織はタイ族の故郷長江中流域にあった古代国家の軍事組織の系統ではないか。

 

その組織はこんなもの (創元社刊 図説中国文明史 第3巻春秋戦国より)

これは中国の戦国時代(前475年~前221年)頃の軍事組織

 

 

タイ族は侵略民族では有ったが征服民族ではなかった。つまり敵に囲まれ敗者となれば、とらえられて奴隷となるという過酷な状況の中で定住地を求めてきた。

 

この様な移動の形態は、今から60年程前までタイとミャンマーの国境付近で見られたと言う。そこでは数千人の集団が家畜なども連れて移動していたそうだ。

 

 

そして事情は違うが戦闘部隊がタイに定住した最近の事例、

それは第二次大戦後中国国民党の残党がタイ北部の山間部に定住した事例が有る。彼らが武装解除に応じ、タイ国籍を取得したのはつい20年ほど前だ。

詳しくはここを参照ください

 

特筆すべきこと、それは中国の戦闘部隊は後ろに家族を連れてきていること。それだから各地を転戦しても、そこに居つくことが出来るわけだ。国民党軍のタイへの移住もそのようになっている。これが中国の永年の伝統らしい。

 

日本ではここ1ヶ月、民主党政権の暴走振りが際立っている。

国民には何の説明もせず、国会の審議もせずに「CO2の25%削減(2005年基準では30%以上の削減)」、「東アジア共同体」、「建設中のダム工事中止」、そして亀さんの「徳政令」等など、これでは日本企業は故郷・日本を捨てて、海外に新天地を求めていかざるを得ない。

数百年前タイ族が新天地を求めて移動したように、日本人も新天地を求めて移動する時が目前に迫っている。

尚亀さんの徳政令のおかげで今中小企業の資金繰りは絶望的な段階だ。(徳政令直前に金を貸す銀行などいる筈がない・・自分が大損をするだけ)

 

 

ここでちょっと一息

 

上に書いたタイの国民党残党は今北タイの奥地で茶の栽培をしている。

これは彼らの茶のパンフレット

 

そしてこれが商品

この中でも左端の 凍頂烏龍茶、これは絶対お勧め。

彼らの茶の栽培、製品化は台湾の技術支援で行われている。だから本場台湾の凍頂烏龍茶に勝るとも劣らない品質。もしどこかで見かけたら是非お試しを!

<続く>

 

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2009-09-27 18:32

食べる物がなくなった時民族移動が始まる<タイの事例です その1

日本人のルーツを考える一環として弥生人が何処からどうやって渡来したか、さまざまに議論されている。

今回視点を変えて同じ稲作民であるタイ人がどのようにタイに移動してきたかを考えて見たい。

 

現在未曾有の不況の真っ只中だが、こんなときこそ歴史の中に学ぶものがあるのではないか・・ そんな思いで考えてみた。

 

 

最初に分かり易くする為、タイ国とタイ人について、

 

タイ国 人口約6700万人、内広い意味でのタイ族・・5000万人

     華僑系・・900万人、その他モンクメール系等

 

タイ人 広い意味でのタイ語系の言葉を話すタイ族の人はタイ以外に

     中国雲南省南部・・約100万、ベトナムに約100万

     ミャンマー(ビルマ)に約250万、ラオスに約600万住んでいる

      (ラオス人はタイ族の一部ラオ族だが、タイ東北部もラオ族で言葉も同じ)

 

 タイに住んでいる人=タイ人だが

 タイ語系の言葉を話すタイ族の人=タイ人とも言える、しかし両者は同じではない

 

 

 

さてこのタイ族の人は、昔は中国南西部雲南省あたりに住んでいた。そして或る時民族移動を始め、現在のタイの地に来たと言われている。

その時期は諸説あるものの11世紀頃から南下を始め、13世紀中頃から14世紀中ごろの100年間は「タイ族の沸騰」と呼ばれ、現在のタイ・ラオスにタイ族の王国を建設した。

この時期は日本では鎌倉時代から室町時代のこと、そう歴史が古い話ではない。

 

またこのタイ人のタイの地への南下は、従来の学説は蒙古(元)が攻めてきた為、それに押されての南下と言われていた、然し現在ではこれは否定されている。

(タイ人の民族移動の原因についてはこのエントリーの最終回で考えたい)

 

 

前置きが長くなった、ではその移動の形態はというと

1) 移住先は最初は山間部の盆地で水田稲作の出来るところ

   後に平原の水田稲作の出来るところ

 

2) 移住は血縁関係を中心とした一種の戦闘部隊をつくり三々五々南下したと見られている

   (注:タイ人は侵略民族であったが征服民族ではなかった)

 

3) 入植地ではムアン(グと呼ばれる防御機能を持った集落を作った

   後にはこれが拡大し城壁と堀で囲まれた都市になった

 

 

タイ人が最初に選んだ入植地は山間部の盆地や谷筋の低湿地である。

こんなところが最初の入植地

 

タイ人がここに容易に入植できた理由、それはこの様な水田稲作に適した土地がマラリヤなどが跋扈する、人が住むには不向きな土地だったためだ。

中国人はここを瘴癘(しょうれい:風土病)の地と呼び、恐ろしい土地として恐れた。

稲作には良いが人が住むには危険、だから先住民が少なく比較的容易に入り込めたのだが、入植してみると一村全滅と言ったことも有ったらしい。

 

いかに危険なところであったか、それは映画「戦場に架ける橋」で有名な第二次大戦中の泰麺鉄道建設での死者の多さで分かる。

5年かかるところを1年半で建設した超突貫工事、栄養失調なども多かったが、主な死因はマラリヤなどの風土病、

その死者は

連合軍捕虜 6万2千人中 1万2千6百人死亡

アジア系労働者 約10万人中 3万人死亡

日本人(日本兵と技術者) 1万人中 1千人死亡

この話は日本軍の残虐行為として語られることが多い、しかし死亡率は低いものの日本人も1千人もの犠牲者を出している、つまりそれだけ危険な土地なのだ。

 

 

本題に戻ろう。

しかしタイ人は不思議なことにあまり蚊に刺されない、その理由はこの当時タイ人にはビンロウの実や葉を食べるキンマと言う習慣があり、これがタイ人が蚊に刺されにくい体質を得た原因と言われている。

ところがキンマが過去の習慣となった現在でもタイ人は蚊に刺されにくい、私の体験でも日本人が20~30ヶ所も刺されるのにタイ人は殆ど刺されない。

(余談だが、だから日本人はタイでは蚊に注意が必要、タイ人が平気だからと言って日本人は同じではない、バンコクでは今でもデング熱などが有る)

 

つまり風土病に打ち勝つ何らかの特性を持ったことが、タイ人が今のタイの地に移住できた原因のひとつとなっているようだ。<続く>

 

 

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2009-09-18 17:31

日経新聞さん! 科学に記事にウソは駄目ですよ<今分かっているのはこんなこと

前回前々回エントリーで弥生人の渡来ルートの関する日経新聞の記事についての疑問を書いた。

 

では彼らは何処から来たのか、その可能性のひとつが中国江南地方から直接来たと言うものだ、しかし直線距離で800キロ以上離れた所を航海する技術があったのか?

 

このエントリーでは中国と日本を結ぶ海の道についての私なりの考えを述べてみたい。

 

 

 

最初に「古代日本には中国と日本の間を航海する様な航海技術は無かった」と言ういわば常識的な考え方がある。

 

この考え方の出てきた原因は、多分後の時代、遣唐使船が大変航海に苦労し多くの犠牲を出した。また唐招提寺をつくった鑑真和上が日本に来る為何度も遭難し、最後失明までしてやっとたどり着いた、こんな事実からこのルートはきわめて困難との見方が定着したと思う。

 

遣唐使船の渡航ルート (Wikiによる)

この内特に九州から中国に直行するルートは困難を極め、従来の定説は遣唐使船は季節風に対する知識も無く、無謀な航海をしたといわれていた。

然し最近の研究では遣唐使は朝貢の使いとの性格から、元日朝賀に出席する為気象条件の良くない時期に出航せざるを得なかった、これが遭難多発の原因と言われている。

 

 

 

では日本と中国の間の往来の実態はどうであったのか。

実は時代は下るが、ここを4~5人乗りの小船で自由に往来していた海の民がいる。倭寇である。

 

倭寇の実態はよく分からない、殆ど唯一の倭寇の船を描いたものはこんなもの。

 

倭寇図巻:部分 (東京大学史料編纂所蔵)

右側が倭寇、乗っているのはこんな小船

 

では彼らがどんなルートを使ったかと言うと

 

倭寇の侵略地とルート(中国の海商と海賊:山川出版社刊より)

 

 

この様に時代が違うとはいえ、遣唐使船のような大きな船でも手こずった東シナ海の航海、それがあんな小さな船でも可能、その理由は上に上げた「中国の海商と海賊」では以下のように書いている。

 

 万暦「温州府志」兵戎志、海防、「入寇海道」の条を引用する形で、

「日本から帆船で東北風が多く吹けば、その風を受けて薩摩、長崎県の五島からただちに浙江省中部沿海地区に到達する航路となった。その際の目標が寧波府の象山県東部の海上に位置する菲山列島であった。そこから沿海にそって南下すれば温州が襲撃地となり、北上すれば舟山列島が襲撃地となるとみられたのである。

倭寇の襲撃時期は旧暦の清明節(陽暦の4月上旬)から5月までの1~2ヶ月と、重陽節すなわち旧暦の9月9日から1ヶ月弱のあいだがその時期であった。」

 

つまり日本から中国に行き、そして帰ることに出来る時期は年2回あり、この時期であればあのような小さな船でも往来できたわけだ。

船乗りにとって風を読むことは命にかかわること、だから海の民は風のことを熟知していたのであろう。

 

 

中国江南地方と日本・朝鮮との航路が有る季節だけ往復可能であったことを裏付ける資料が同じ文献に出ている。

 

これは朝鮮半島の高麗の記録「高麗史」の中に記載された宋代の中国商人の記録の中に出身地の分かるものがあり、それを纏めたもの。

 

 

 ここには西暦1017年~1059年までの間に詳細不明の1件を除く20回の来航記録がある。

その20回中15回は7月~8月に到着している。

また同じ名前の人物が2回来ているものも有る。

つまり中国江南地方と朝鮮(日本もたぶん事情は同じ)との航路は、安全な季節があり、彼らはそれを良く知っていたと思える。

(尚この様なことは資料豊富な日本の方がもっとハッキリするだろうが・・・)

 

 

 

弥生人の話を2000年以上後の話で推測する、これはムチャクチャなことではあるが、弥生人のことが直接分からないのでこんな事を例として出してみた。

 

2000年以上後の時代ではあるが、倭寇などは中国と日本の間を4~5人乗りの小船で自由に往来できた。

海図も六分儀も羅針盤も無いといえば、弥生人も倭寇も条件はほとんど同じだと思う。

 

尚倭寇が有るグループなどは数百隻の船団を組んでいたと言ったことは承知しているが、2~3隻の小集団もあった。

この話はこの小集団の倭寇を念頭においていることを了解いただきたい。

 

 

弥生人、彼らは実は優秀な航海者ではなかったか、そう考えている。

 

最後に日経新聞記事に対する私の考えを述べてみたい。

 

 

 

これが日経新聞に出ていた弥生人の渡来ルート図

 

 

 

然し最近の研究で有力なルート

 

 

然し稲の遺伝子解析からこれしかないと見られているルート

(佐藤洋一郎氏の説)

 従来このルートはきわめて困難なルートと考えられてきた。

然しはじめに述べたように、季節を選べば安全なルートであった可能性が高い。

 

 

 

上の中国江南地方から山東半島⇒朝鮮西部⇒朝鮮南部⇒九州北部と言うルートは今でも考古学者に強く支持されている。

 

然し遺伝子解析からは、中国江南地方から直接渡来したとしか考えられない。この事実に対して現在の考古学者は答えを出していないのが実情だ。

 

面白いことに以上の二つのルートは最初にあげた遣唐使船のルートとぴったり重なっている。

 

以上がこの問題についての現在の研究状況といえる。

日経新聞さん、記事にするならこんなことくらい調べて記事にすべきですよ!

こういった姿勢がネット時代の新聞に要求されていることに早く気がついて欲しいと思う。

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2009-09-09 15:43

日経新聞さん! 科学の記事にウソは駄目ですよ<続>

日経新聞に9月6日掲載された科学記事がトンデモの部分があることを前回指摘した。

所でこの議論、未だに決着はついていないが、どうも今までの常識(と言われていたもの)が間違っていたようだ。

 

前回も掲載したが日本への弥生人の渡来ルートの図

 

 

 

この図の何処が間違っているかの前に弥生人=稲作人の渡来ルートにどんな説があるか

 

稲の伝来ルート(他にも説はあるようだがマイナーなので除外)

 

1) 遼東半島から朝鮮半島を南下して九州北部に伝来(上の図のルート)

 

2) 長江(揚子江)下流域原産米が山東半島経由で朝鮮半島南部に伝来、そこから九州へ伝来した

 

3) 長江下流域(今の上海あたり)から直接九州北部に伝来

 

4) 長江下流域から西南諸島を経て九州南部へ伝来

 

この内1)の説が日経新聞に掲載された記事の図である。

然しこの説は遼東半島や朝鮮北部に古代の水耕田址が発見されていない事、遼東半島が元々稲作に不向きな寒冷地であることなどから、かなり以前から否定された説である。

 

参考までに現在の中国の地域別主要作物がどうなっているかを示す。

これを見ても米・稲作が中国北部から朝鮮半島北部経由で日本まで来るのが無理なことが分かるというもの。

 

また4)は途中の沖縄に稲作伝来の証拠が見つからず、逆に九州から後の時代に伝わったと考えられている。

 

残るは2)と3)だが

 

2)については今でもこの説を主張する学者は多い、

然し植物学者による稲のDNA研究から朝鮮半島から伝来したと考えるには無理があるとされている。

また2)なら途中の対馬・壱岐に伝来の痕跡があるはずだが未だ見つかっていない。

 

残るは3)だけ、長江下流域(今の上海あたり)から九州北部まで直線距離で800キロは有る。

こんな距離を弥生人が航海できたのか?

どんな船で、どんな方法で?

 

その答えの参考になるものが、兵庫県出石町の袴狭(はかざ)遺跡で発見された。それは弥生時代後期から古墳時代初期の木製品(板材)でそこに16隻の古代船が線刻されていた。

 

線刻画全体図

 

この線刻画を元に実物大の古代船が平成19年復元された。

現物は平成19年10月オープンの兵庫県立考古博物館にある。

 

復元された古代船

 

日経新聞の記事は一部は最新の科学情報だが、弥生人の伝来に関しては諸説ある中で、すでに否定された過去の説に基づいている。もっとシッカリしてよ、日経さん!と言わねばならない。

 

所で長江下流域からの800キロを越える航海、これについては次回詳しく考えて見たい。

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2009-09-07 14:32

日経新聞さん! 科学に記事にウソは駄目ですよ

9月6日(日)の日経新聞に科学記事として「感染症で探る日本人ルーツ」という記事が掲載された。

日経新聞はネットで見るのが有料なので、その内容をかいつまんで紹介すると、

 

 

宮城県の浅野史郎前知事が急遽入院した。病名は成人T細胞白血病という聞きなれない病気、この病気をもたらすウィルスは感染力が弱いが最初に日本人である縄文人から受け継がれたもの。そしてその後到来した弥生人が持ってきたのが結核だったと言うもの。

 

 

記事そのものは古代から今に続く感染症との闘いについての啓蒙記事なので大変良いものだ。

そしてこの成人T細胞白血病は最近日本で発見され、しかもこの発見が日本人のルーツの発見に繋がる(発見者は愛知県がんセンター田島研究所長)・・・ 日経の記事で紹介されたとおりで大変興味深い。

 

この成人T細胞白血病の件は以下の文献に詳しい。興味のある方はぜひご一読を!

 

科学朝日編 モンゴロイドの道

1995年 朝日新聞社刊

(この文献にも上記田島所長の書かれた記事がある)

 

 

さてここからが本論。

日経の記事では

弥生時代(紀元前5世紀~紀元後3世紀)になると新たにのっぺり顔の弥生人」が朝鮮半島から渡来。先住の縄文人と混じりながら、今の日本人が形成されていった。・・・原文どおり・・」

このようになっている。

そして以下のような図がついている。

 

 

 

何処がおかしいか?

上の白血病ウィルスの図では「①弥生時代に朝鮮半島から渡来人が入る」となっている。

 

下の結核についての図では「①中国の春秋・戦国時代(紀元前770~同221年)に各地に難民が流出」としてあり、図中の矢印は中国北京付近から朝鮮半島を経由して日本に至るルートが示されている。

 

だがこの渡来ルートは以前からある説の一つにすぎず、最近のDNA鑑定などのハイテクを使った調査ではだんだん影が薄くなってきた説の一つだ。

成人T細胞白血病ウィルスのように日本人が発見し、日本人のルーツにまで遡るような大発見と、弥生人のルーツのように諸説入り乱れてはいるが、中国江南地方から直接来たと言う説が有力になりつつあるのとは大違い。

 

これでは残念ながらうそと言わざるを得ない。

 

 

 

 

日本人のルーツについて上に紹介した「モンゴロイドの道」では最近の遺伝子研究の結果から以下のような図を示している。

但しこの図、縄文とか弥生とかそれ以後の渡来人とかを区別していない、全部ひっくるめてのものとしてみて欲しい。

 

遺伝子研究から見た日本人の移住ルート

「モンゴロイドの道」P160より転載

 

また弥生人=稲作人とすると稲作の伝播ルートは以下のルートが有力になっている。

 

 

こんな所が最近の研究の成果である。

日経新聞ともあろう所なら、もう少し注意して書いてもよさそうなものだ。

それとも日本人は朝鮮由来の民族だと言いたいが為の記事なのか、そんな勘繰りをしたくなる書きっぷりだ。

 

所でこの朝鮮由来説、朝鮮半島と日本の間なら対馬、壱岐を経由すれば比較的簡単にいけそう、それに対し中国江南地方はあまりにも遠い。こんな所からたいした根拠も無く信じられてきた面がある。

このあたりについては次回に。

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