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2018-05-30 15:58

プロイセン人(ドイツ人)の見た幕末の日本<追記あり


 5月28日のエントリー「元中国人から見た中国 BY 石平氏」でシンクタンク日本政策研究センターの情報誌「明日への選択」5月号の記事を紹介したのだが、同じ情報誌に他にも興味深い記事が有るので紹介したい。
日本が開国以来西欧諸国が通商条約を締結するため日本にやって来るが、その中の一員の軍艦の艦長に日本記である。

実は私もこのラインホルト・ヴェルナーについては全く知らなかった。しかしこの書評を読んでみると大変興味深い。

2018-5-30外国人が見た日本ラインホルト・ヴェルナー 
エルベ号艦長幕末記  1990/7

なお Reinhold von Werner のwikiは下記ですが、日本に関する記述は有りません。
https://en.wikipedia.org/wiki/Reinhold_von_Werner


<以下「明日への提言」より引用>
2018-5-30外国人が見た日本 
原典で読む
外国人が見た日本
  高橋知明 瀬田玉川神社禰宜

第二十一回 ラインホルト・ヴェルナー『エルベ号艦長幕末記』(上)

「至る所に書店がある。さらにすべての古書店に民衆
が好んで買い求め愛読する古書が山積されている」

 今回ご紹介する人物は、一八六〇年から一八六二年にかけて日本を訪れた、プロイセンのオイレンブルク伯使節団の一員で、使節団を運んできたエルベ号の艦長・海軍将校のラインホルト・ヴェルナー(一八二五-一九〇九)です。
 エルベ号が来日したのは、桜田門外の変が起った万延元年(一八六〇)のこと。その二年前に日米が通商条約を締結したのを皮切りに、英、仏など五力国が次々と通商条約を締結する中、当時まだ統一国家になっていなかったドイツにおいて、日本との通商を望む声が高まります。特に有力国のプロイセンは、プロイセン国王とドイツ関税同盟の代理者として、通商締結を目的とした使節団を日本に派遣します。オイレンブルク伯は、幕府との会談を重ね、ついに一八六一年、条約の締結に成功しましたが、その内容はドイツ関税同盟・ハンザ同盟加盟都市などを含めたドイツ全体との条約締結ではなく、プロイセン一国との通商条約の成立という、当初の意図とは違う成果でした。もっともこの数年後には明治維新となり、ドイツ帝国も成立し、日独関係は緊密になって行きます。
 さて、ヴェルナーは、約二年間というわずかな滞在期間に、当時の日本の政治、経済、文化、風俗などを総合的に観察し、多くのことを絶賛しています。ただし、一方では僧侶やお歯黒、女性の化粧などに対しては低評価を下すなど、率直な見方をしています。そして、その観察眼と表現力は、以前紹介したオリファントと同様に、まるでスパイかと思わせるほど、日本をよく見ています。
               
 いったい、日本をどう見たのでしょうか。先ず彼が驚嘆したことは、日本人の各層に至るまでの識字率の高さです。
 「日本では、召使い女がたがいに親しい友達に手紙を書くために、余暇を利用し、ぼろをまとった肉体労働者でも、読み書きができることでわれわれを驚かす。民衆教育についてわれわれが観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は全体のIパーセントにすぎない。世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか」
 上流階級はもちろん、庶民に至るまで読み書きができることは、世界水準を大きく上回っていたことがわかります。
 どうしてこんなことが成し得たのでしょうか。一つには日本人が好奇心旺盛で、知識を得るためにはなりふりかまわず貪欲であると彼は捉えています。
 「日本の学問それ自体は、中国よりもずっと高い水準にある。日本人は発展途上の文化的民族であり、隣国の中国人よりもすぐれた偉大な精神的特質を備えている。日本人はおのれ自身を過大評価することなく、自分を地球上で唯一の教養ある民族であるとみなす笑うべき尊大さをもっていない。その逆に、日本人は喜んでヨーロッパ人の優越性を認識し、ひるむことなくヨーロッパ人を師とあおぎ、彼らの行動や書籍から、おのれ自身が知らないことを習得しようとつとめている。そのさい日本人の異常なほどの模倣能力がきわめて役立っている。しかもこの能力は、中国におけるように、機械的、形式的なものに制限されず、理念や精神の理解にまで及んでいる。
 日本人の好奇心は異常に強い。そして猪疑心の強い幕府の出先機関によってたち聞きされる心配のないときには、彼らは外国人に質問することによって、あらゆる方式でおのれの知識の蓄積をふやしていこうとつとめている」
 こうした日本人の性格は、町にこんなものを溢れさせます。
 「至る所に書店がある。さらにすべての古書店に民衆が好んで買い求め愛読する古書が山積されている」
 そして、陳列される本の内容も、観察能力の高さが窺えるものが多くありました。
 「技術的、自然科学的内容のものが多かった。たとえば遠征隊に加わった農業関係者は、一八冊に及ぶ四つ折り判の農業技術百科全書を入手したが、これにはすばらしく精巧につくられた数千枚の木版画が文中に印刷されていた。これらの木版画は、あまりにも微細忠実に描かれているので、日本語に通じない者にも実に内容が豊富で、きめのこまかい文章の意味をさとらせてくれる。わたし自身は、日本近海に出没する海魚の図版と記述を含む三巻本の自然誌を所有している。素描はきわめて正確であり、銅版画の彩色もあまりに自然なので、これがどの魚だということがすぐわかる」
               
 さらに彼は、日本人は海外から輸入されたものを、精巧に模倣するだけでなく、それに工夫を加え、さらに素晴らしい作品に仕上げる能力があると称賛しています。
 「磁器はすこぶるすばらしい。中国の磁器にくらべると優雅で透きとおるような美しさをもっており、同時に強度も大変優れている」「日本のデザインは、一から十まで独創的で魅力に富み、絶妙な美しさと繊細さの点では日本が誇る漆器と一脈相通ずるものがある。なかでも、特にわたしの心をとらえたのは、すぐれた熟練作業によってつくり出される豪奢な絵模様が独創的なアンバランスーこのような表現が許されるなら1を示していることである。たとえば、座卓、たんす、衣装箱などでは、絵柄はけっして左右対称でもないし、中央部に描かれてもいないが、このようなアンバランスはたとえようもない魅力をかもしだしている」
 「われわれヨーロッパ人がどうあがいても足もとにも及ばない螺釦木工細工も同様である。わたしは寄せ木細工のたんすを所有しているが、模様ひとつとっても、どれも似ているものはなく、変化に富んでいる」
 日本の磁器や螺釧細工は発祥地を逞かに凌ぐほど高度に洗練されている。このようにみたヴェルナーは、こう予見します。
 「数々のヨーロッパ製品に対し、日本国内からいずれ強敵が出現するのは目に見えている。日本民族の器用さと模倣の才能は、確実にこのことを予想させる。日本市場をあらん限りのヨーロッパ製品で埋めつくすことができるなどとは夢々考えてはならない」と。

<引用終り>


この本の著者ヴェルナーについては、日本ではほとんど知られていないが、名前(vonがつく)などから見ても当時の貴族階級だったと思われる。

そんな意味でこの引用文の最終の所、『数々のヨーロッパ製品に対し、日本国内からいずれ強敵が出現するのは目に見えている。日本民族の器用さと模倣の才能は、確実にこのことを予想させる。日本市場をあらん限りのヨーロッパ製品で埋めつくすことができるなどとは夢々考えてはならない』、このことは現在のドイツの日本に対する見方の原点と言えるかもしれない。


*追記します
よもぎねこさんから木版画のことについて指摘があり、色々回答したのだが、そんな中でこのプロイセンの使節は当時最先端のリトグラフのプレス機械を幕府への手土産に持ってきていた事が分かった。
リトグラフ(石版画)は多色刷りの当時最先端技術。多分プロイセン使節は最先端技術の多色刷り印刷を自慢したかったと思われるが、日本には浮世絵の技術が有った。大いに驚いたのであろう。尚この当時、浮世絵は漆器や陶磁器の包み紙としてヨーロッパにも伝わっていた時期だが、どちらが後か先かは分からない。(プロイセン使節は多分知らなかった・・・)

ではプロイセン使節のリトグラフの件について女子美術大学の版画の歴史ページから

http://www.joshibi.net/hanga/history/1800.html#lithograph
<以下抜粋引用>
19世紀末、リトグラフ芸術はそれまでほとんど利用されなかった色彩版画によって飛躍的な発展を遂げました。

日本におけるリトグラフの始まりは1860年のことで、プロシャ使節が幕府に石版機械一式を贈り、ドレスデン生まれの画家ハイネが随員として同行しました。石版石に将軍家の葵の紋章を描いて引き渡した為、公式文書に『御紋押型』(紋の印刷機)として書き残されています。しかし、そのプレス機を動かせる日本人がいなかった為に、新型機械が動き出すのは遅く明治に入ってからのことになります。
<引用終り>

尚日本の浮世絵が多色刷りですが、これを可能にしたのが毎回きちんと位置を合わせる「見当」という技法の確立、そして多数回摺りに耐える高品質な紙の存在があります。
まあいずれにしても最新印刷技術を自慢しに機械を持ってきたプロイセン使節。日本では木版画で多色刷りがごく当たり前にやられていることに驚いたと思います。


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