2018-04-16 16:20

江戸は眠っていなかった<痛覚とは何だったのか


  泰平の 眠りを覚ます 上喜撰(蒸気船) たった四杯で 夜も眠れず

上喜撰と言えばこんなお茶だが・・・
2018-4-9上喜撰 

余りにも有名なこの狂歌、日本にペリー提督率いる黒船艦隊(蒸気船2隻と帆船2隻の4隻)がやってきたときの驚愕ぶりが良く分かる。


4月8日のエントリー「外圧の痛覚」で幕末から明治維新の頃の日本を取り巻く外圧について、小川榮太郎さんの論稿を取り上げたのだが、では日本はその頃本当に居眠りしていたのか、そんな事を考えてみたい。

結論から先に言えば、日本は居眠りなんかしていなかった
しかし江戸時代、天下泰平200年のハンディキャップは余りにも大きく、西欧・アメリカとの軍事・産業技術面で大きな格差がついていた。
(鎖国は段階的で、日本船の海外渡航禁止が1635年、長崎の出島完成が1641年でこの頃鎖国完成。だから幕末まで実質鎖国期間は約200年)
(しかしその頃の西欧、特にイギリスは1770年頃より産業革命期


 江戸幕府はアヘン戦争の結果に驚愕し、国防を真剣に取り組もうとした。また幕府の意向を受けた各藩もそれなりに手を打とうとしたが・・・、いかんせん西欧との200年の軍事技術面の格差はあまりにも大きかった。

そんな事を大砲を事例に考えてみたい。

結論として幕末における外圧の痛覚とは、自分らなりに西欧の技術・軍事レベルに追いつこうと必死に頑張った結果、外国の文物を取り入れざるを得ないという結論になったこんな事実が痛覚となったという事だと思う。


最初に黒船来航当時のことをおさらいしてみたい。

これは黒船来航の図
2017-2-22黒船来航図 

これがペリー艦隊の旗艦「サスケハナ」号
2018-4-10サスケハナ写真 

ペリー艦隊の4隻の軍艦のスペック
2018-4-11ペリー艦隊の構成 出所:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA


この当時の日本の船はというと千石船なのでその大きさ比較
2018-4-10千石船と旗艦サスケハナの大きさ比較 

ペリー艦隊の旗艦サスケハナは満載排水量3824トン、、全長78メートル、
比較する千石船(弁才船)は積載量150トン(1000石)、排水量約200トン、全長約30メートル、
黒船は排水量で19倍ですから当時の日本人が驚く巨大さだったのでしょう。
しかも蒸気船なので狭い浦賀水道を自在に航行できる、まさに驚異的な出来事だった。
(ペリーの狙いが蒸気船でその威力と武力を見せつけて開国させるというものだった)

ペリー艦隊はたった四杯の黒船と言われているが、黒船四杯で乗組員は千人を超える。その一端が上掲の黒船来航図でも分かると思う。
(注:上掲黒船来航図は翌年の2回目の来航時のもの。この時の艦隊は全部で9隻、乗組員は約2千人だった)


しかしこの時江戸徳川幕府は本当に何も知らず、不意を突かれて動顛していたのだろうか。
「太平の眠りを・・・」の狂歌が有名すぎて、誰でもその当時の日本の外交は実にだらしない、そんなイメージを持っていると思う。
しかし実は当時の日本は諸外国の動きを実によく見ていた。


世界はその時欧米の植民地主義の真っ只中、日本にやってきた外国船はこんな風。

・1778年 ロシア船、蝦夷地に来て通商を求める
・1792年 ロシア使ラスクマン、根室に来たり通商を請う
・1797年 イギリス船 蝦夷地(室蘭)に来航
・1808年 フェートン号事件・・イギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗(偽旗)を掲げて長崎港に侵入、オランダ人2名を人質に水や食料を要求した事件(侵入目的はオランダ船拿捕)
長崎奉行松平泰英、国威を辱めたとして引責切腹、警備を怠ったとして鍋島藩家老ら数人も切腹。
フェートン号事件

フェートン(帆走フリゲート)
フェートン号の概要
全長:43.0m、全幅:11.9m、乗員:280名、兵装:大砲38門+短距離用カロネード砲10門

・1808年 江戸湾沿岸に砲台を起工
・1809~17 オランダ船、長崎に入港無し(フランスに併合の為)
・1813年 イギリス船来航 オランダ商館奪取計画(シャーロット号事件)
・1816年 イギリス船 琉球に来たり通商要求
・1817年 イギリス船 浦賀に来る
・1818年 イギリス人ゴルドン浦賀来航
・1825年 異国船打払令
・1837年 アメリカ船モリソン号漂民を伴い浦賀来航、打払令により撃退
・1840年 アヘン戦争勃発
・1842年 異国船打払令を改め、薪水給与令を復活
     (アヘン戦争で清国敗北の結果を見て、日本も柔軟策に転じたもの)
     (モリソン号事件のようなことを再発させてはならない)
・1846年 アメリカ使ビッドル浦賀に来航、通商を求む
・1853年 米使ペリー浦賀来航

ここで注意すべきは
1) ペリー来航の45年前、イギリス軍艦が長崎港に侵入した事件があり、たった1隻とはいえ巨大な軍艦と大砲、そして兵力により日本の主権が侵害されたこと。
この事が国防意識と兵器・産業の近代化の大きな動機付けになった。

幕府は長崎にいるオランダ語の通訳に「英語・ロシア語」習得を命じている

こんな前段階が有ったので後にペリー来航の折、旗艦「サスケハナ」に横付けした浦賀奉行所のオランダ語通訳・堀達之助が、「I can speak Dutch」(私はオランダ語を話すことができる)と英語でいう事が出来たわけです。
(ソース:<鎖国日本とペリー来航> 第2回 幕府は事前に知っていた 2016年08月24日  読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20160822-OYT8T50104.html

また藩の重鎮が切腹、藩主が閉門という屈辱を味わった佐賀藩(鍋島藩)、これが藩政改革と近代化の引き金になった。

2) シナでアヘン戦争が起こるとその状況が日本に報告されていた。
また幕府もその詳細情報収集に努めていた。その結果、外国船を単に打払うでは無く、薪水給与令で燃料と水を与え、穏便に引き取らせる政策に変更。

海防の為、各地に砲台建設と大砲製造を指示。この頃より各藩で大砲製造加速。

参考エントリー
「江戸は眠っていたか」2017-02-23 


3) ペリーの狙い

ペリーは漂流民保護云々を最初に言い出したがこれは言いがかりみたいなもの。
目的は二つ
・1 捕鯨をするために寄港地が必要
アメリカは日本沿岸など世界各地で捕鯨を行っており、1年以上の長い航海を行うことが普通だった。また、捕鯨船は船上で鯨油の抽出も行うため、大量の薪や水が必要であり、こういった物資の補給地点として、日本という場所が最適だった。
(注:この理由はこの直後、クジラの乱獲による減少と鯨油から石油への転換で不要になった)
(捕鯨船の数はペリー来航前の1846年~735隻、30年後の1876年~39隻である)

・2 中国大陸に進出するために寄港地が必要
産業革命により多くの工業製品を生産できるようになったアメリカは、それらの製品を輸出するために、インドだけではなく、中国へも市場拡大を急いでいた。
当時の人口は、アメリカが1833年に約1416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2760万人であった。

この理由こそ幕末から今日まで続く日米中の関係の厄介なところ
参考までに中国・上海からアメリカ・サンフランシスコまでの最短コースがどうなっているかを大圏図で見てみたい。
これは若狭湾を中心とする大圏図
2018-4-13大圏図 
上海から対馬海峡を通って日本海へ、そこから津軽海峡・函館沖を通って太平洋を千島列島に沿って進み、サンフランシスコに出る。これが大圏コースで最短距離である。
だから中国が北海道に食指を伸ばすわけだ
或いは日本東岸を通っても同じことである。

尚この図は見慣れない地図だが、「心射方位図法」と言って地球の中心から表面に接する面に投射した地図。大圏航路が直線になるので大圏航路を見るのにはわかりやすい。


アメリカにとって中国という巨大な市場は魅力的である。それは黒船当時も今も変わることは無い。
だからこんな話がある。

1945年8月の日本が降伏した日に、ニューヨーク・タイムズは「太平洋の覇権を我が手に」と題するこんな記事を載せた。
「我々は初めてペルリ(ペリー)以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ」


さてでは日本は眠っていたのだろうか。
例えばこんなものが有る。これは福井県にある丸岡藩砲台跡

2018-4-13福井丸岡藩砲台跡 

素晴らしい景色ですね。これは福井県の名勝東尋坊近くにある丸岡藩の砲台跡。
ペリー来航の前年1852年に完成している。
このように太平洋側だけでなく日本海側にも砲台を整備し、外敵に備えようとしていた、
ではそこに据え付ける大砲はどうだったのか。


これは日本で最初に鉄製の大砲製造に成功した佐賀藩の反射炉による大砲鋳造の図

2018-4-15大砲鋳造の図 

こんな反射炉のよる鉄の溶解についてはオランダからのこんな書物がベース。
オランダ語のユ・ヒュゲニン著 「ロイク王立鉄大砲鋳造所における大砲鋳造法」1836年刊
この書物が10年後の1846年頃入手できた。この本は現在国会図書館に4冊か5冊所蔵されているが、3冊は図版が切り取られているらしい。
恐らく日本からの何らかの要求で日本にもたらされたものだろう。しかしそこにある反射炉の図はこんなもの。
2018-4-15反射炉の原書図面

こんな小さな図を見て反射炉を作ってみたが、そう簡単に大砲が出来るわけではない。
最初に鋳造できた大砲は砲腔を鋳造段階で開けて作ってみた。しかし試射すると砲身が破裂。結局改めて上掲蘭書にあった切削機械を作っている。

これが大砲の砲身をくりぬく機械、錐台という。現代の機械用語なら一種の旋盤と言った所か。
現物は残っていないが、佐賀城本丸歴史館に模型が展示してある。

2018-4-15錐台模型 
原書ではこの機械の動力は蒸気機関だが日本には無かった。そこで水車を利用している。
鋳造された大砲をグルグル回るように台に乗せて固定、左側の水車の回転を歯車を介して大砲を回す。右側のハンドルの部分を回して真ん中に見える銀色の部分(ドリル)を軸方向に押してゆき、ぐるぐる回る大砲に穴を開けて行く。
穴を開ける工具は刀鍛冶が何とか製造したらしい。

原理的には木工用のロクロ旋盤(木のお椀などを作るもの)と同じなのだが、何せ削るのがデッカイ鉄大砲。こんな機械を作るのも大変だったのでしょう。

更にこの反射炉での鋳造でさらなる問題が浮かび上がります。原料の鉄が何でもいい訳では無く、現代風に言えば炭素含有量の少ないものはダメで高炉からの銑鉄でないと駄目だという事が分かってきたのです。


オランダ書の情報をもとにあちこちで反射炉を作り、大砲鋳造を目指します。


これはその一つ、唯一現存する韮山反射炉
2018-4-12韮山反射炉 

これは国内各地の反射炉のリスト
2018-4-15反射炉リスト 

この水戸の那珂湊に建設された反射炉用の銑鉄を供給する為に南部藩が釜石に建設したのが日本最初の高炉、橋野高炉、これは橋野鉄鉱山として世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産に指定されている。

橋野高炉跡

しかし結局この大砲製造は上手く行きませんでした。莫大な金と人材を投入したが失敗でした。
理由は鉄を作る、そんな基礎技術から不足していたことです。


対外政策の話です。
こんな事で防備を固めたつもりだったが、黒船来航の10年後、長州藩・薩摩藩は西欧と戦う事になる。結果は大敗と言って良いレベル。(薩英戦争は何とか引き分けと言っているが実質大敗)

長州藩の下関戦争(馬関戦争):1863年・1864年

薩摩藩の薩英戦争:1863年


こんな結果が冒頭書いたように、自分らなりに西欧の技術・軍事レベルに追いつこうと必死に頑張った結果、外国の文物を取り入れざるを得ないという結論になったこんな事実が痛覚となったという事だと思う。


今この幕末から学ぶべきこと。先ず第一は行動を起こすべきだという事。自分たちの言っていることが正しいのかどうかは行動でのみ証明される。そんな事ではないだろうか。

長いエントリーになってしまいました。
お付き合いいただき有難う御座います。
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2018-04-08 17:34

外圧の痛覚


 小川榮太郎氏の「肌を通じた外圧の痛覚を取り戻せ」という論考が産経新聞「正論」に掲載された。ところで小川榮太郎さんの書くモノは文体そのものが旧仮名遣いだったりして大変難しい。
しかし言っていることは現在の日本を取り巻く環境の厳しさ、そして日本国内の「平和ボケ」、それで安倍首相叩きに狂奔している勢力がゴミメディアには溢れている、そんな危機感いっぱいの話だ。

そんな現実を踏まえ、小川榮太郎氏の言っていることを紹介したい。

最初に小川氏の言う外圧とはどんなものが有るか、その一端を見てみたい。
例えばこんなもの、これはJBPressの記事だが、中国はこんな事を言っているのだとか。

中国軍首脳、3日で台湾を占領できると豪語
メッセージは日本にも向けられている   2018.4.5(木)  北村 淳

<以下概要のみ>
 南京軍区副司令員、王洪光中将によると、中国軍は6種の戦い方(火力戦、目標戦、立体戦、情報戦、特殊戦、心理戦)を駆使することにより、台湾を3日で占領してしまうことができるという。
・・・大幅に中略・・・
台湾の危機は日本の危機
 日本の国防にとっては、台湾が中国人民解放軍に占領されて完全に中国に併合されてしまおうが、台湾政府が「短期激烈戦争」発動の脅しに屈して中国政府に軍事外交権を明け渡してしまおうが、いずれにしても極めて深刻な状況に直面することになる。王洪光中将のメッセージは、台湾とアメリカに対してだけではなく、日本にも向けられているのだ
<以上概要のみ>

こんな事で日本の周囲は悪意に満ちた国々ばかり、こんな状況なのに日本はモリそば掛けそばの蕎麦屋騒動をもう一年以上やっている体たらく。

ではその小川榮太郎氏の論稿を紹介します。

<以下引用>

2018.4.4 11:00
【正論】
肌を通じた外圧の痛覚を取り戻せ 文芸評論家・小川榮太郎

 1854(安政元)年、ペリーの来航によつて、日米和親条約が締結された。この大きな外圧に当時の日本人はどう反応したか。これは、日米安保による戦後の平和といふ「地上の楽園」が事実上終焉(しゅうえん)してゐるのに、それに即応できずにゐる今の日本人にとつて、熟考に値する主題と思はれる。

≪「腰抜」ではなかった幕府の対応≫

 最も対極的な反応として、幕府と吉田松陰のそれを簡潔に振り返つてみよう。松陰は幕府の交渉を手紙でこう書いてゐる。「幕府の腰抜(こしぬけ)侍が頻(しき)りに和議を唱へ候こと、誠に一砲丸をも発せざる前にかかること申出るは、かの弱宋の小人原にも劣りたる識見、実以(もっ)て口語に絶したる業に御座候」

 では、実際の幕府の対応は「腰抜」であつたのか。内実を見ると、さうは言へない。充分及第点を与へられるものであつた。交渉を専ら担当したのは、老中の指令を受けた応接係であり、首席は大学頭、林復斎である。

 例へばこんなやりとりがある。ペリーは、日本が漂流民を保護せず、扱ひが非人道的だと非難し、かう言ふ。「貴国の国政が今のままであっては困る。多くの人命にかかわることであり、放置できない。国政を改めないならば国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する準備を整えている。我が国は隣国のメキシコと戦争をし、国都まで攻め取った」【引用者注1(漂流民問題)、引用者注2(米墨戦争)】

 それに対して林は「戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言うことは事実に反することが多い。(略)我が国の政治は決して反道義的なものではない。我が国の人命尊重は世界に誇るべきものがある。この三百年にわたって太平の時代がつづいたのも、人命尊重のためである」(加藤祐三氏『幕末外交と開国』)として、詳細な反論を続けてゐる。恫喝(どうかつ)に狼狽(うろた)へてゐる様子は全くない。国是を主張して堂々たるものだ。

 交渉の全貌を見ても、戦後の土下座外交、或(ある)いは対米従属に比べ対等との印象は強い。通商の要求も突つ撥(ぱ)ねてゐる。漂流民保護と薪水の提供ならば文字通り人道的にも不可とするに当たるまい。

≪松陰は開戦も覚悟していた≫

 片務的最恵国待遇をアメリカに与へてゐるが、全体に日本側は双務性に拘(こだわ)り治外法権も認めてゐない。列強とアジアとの最初の双務的国際条約だつた。が、その陰で問題を含む譲歩が散見される。

 例へば、下田港でのアメリカ人の行動範囲である。ペリーは長崎の出島のやうな待遇は困る、港から10里ぐらゐまでは自由に歩けるやうにして欲しいと主張する。林は抗するが、下田港から7里四方を遊歩地とすることになつた。林らとしては通商の拒否、双務性の確保、調印者が応接係で幕府や朝廷ではないなどの「勝ち点」を稼いだ上での譲歩にすぎないといふ感覚だつたであらう。これはしかし、われわれ日本人の性善説といふ民族的資質の陥穽(かんせい)ではないか。

 このペリー来航に幕府と対極的な反応をしたのが、松陰だ。松陰は、この時点で日欧軍事力差を認識してをり、西洋兵学を全面的に導入することを主張してゐる。にも関はらず一方でペリー来航に際してかう言つてゐるのである。

 「夷人幕府に上(たてまつ)る書を観(み)るに、和友通商、煤炭食物を買ひ、南境の一港を請ふ等の事件、一として許允(きょいん)せらるべきものなし。夷等(えびすら)来春には答書を取りに来らんに、願ふ所一も許允なき時は、彼れ豈に徒然(とぜん)として帰らんや。然れば来春には必定一戦に及ぶべし」

 交渉拒否、開戦の主張だ。よく知られてゐるやうにこの後松陰は下田に停泊中のアメリカ船に乗り込む。その目的は通説では海外渡航となつてゐるが、川口雅昭氏の『吉田松陰』は、博引旁証(ぼうしょう)によつて「墨夷膺懲(ぼくいようちょう)」、つまりペリー暗殺が目的だつたのではないかと推量してゐる。さうなれば開戦になつた公算はある。松陰が手紙で書いた開戦の主張とも合致する。

≪国家の存亡を賭けて答えを出せ≫

 一見、幕府が合理的、松陰は無謀・軽挙・狂気に見える。が、さうだらうか。幕府の理性的な詰めの中での小さな譲歩は、修好通商条約の大きな譲歩に繋(つな)がり、穏便な外務省外交と強硬な軍事的突破の激しい往復となる日本近代史の序奏となつた。譲歩と爆発を繰り返す日本は、世界から見ると狡猾(こうかつ)な打算と強奪の国に見えることになる。彼我の肖像の大きな相違が日本近代史の破局の背後にあつたのは間違ひない。

 今も、世界は「非合理な情念」に満ちてゐる。中国の国威発揚と日本圧服への情念、北朝鮮による核・長距離ミサイル開発、露のプーチン氏4選-強力で反日・侮日的な軍事独裁政権が日本の近海に勢揃(ぞろ)ひした。その最中、日本では安定してゐた安倍政権が森友・加計問題での一部メディア発の倒閣運動で、苦戦を強ひられてゐる。

 幕府の「常識」には見えてゐなかつたが、松陰が肌を通して痛覚として感じてゐたものは何だつたのか。私には即答できる解はない。が、日本人が今、七十余年ぶりに、国家の安寧と存亡を賭けてその答へを出すべき秋(とき)に至つてゐることは確かだと思はれる。(文芸評論家・小川榮太郎 おがわえいたろう)

<引用終り>

こんな風なのだが、これだけ読んでもどうにも良く分からない。
しかし小川榮太郎氏のフェースブックにこれを補うような記事が有る。
続けて読んでみてください。

<以下引用>
Eitaro Ogawa
【秒読み段階】私は昨年から、日本の全体主義化が現実の日程に入り始めた事を切言してきたが、ふと四囲を見渡して、言論界、政界に戦友少なきを驚く。今声を挙げずにどうするのか。大した事はないとでも思っているのだろうか。
 戦前の日本はマスコミと軍が結託して政府を無力化した。コミンテルンの謀略・影響が広範に日本の支配層に浸透していたことは、江崎道朗氏が近著で丹念に指摘している。
 今、日本は、マスコミと野党と検察他国家機関内の一部人士が結託して、政府の無力化を進めている。背後に謀略がないと考える方がどうかしている。
 スパイや国家紊乱の厳罰・極刑を軸とした法整備と法の適用を急ぐべきだ。
 国民を本当に守る気があるなら、与党は立ち上がれ。
 安倍政権は態勢を整備して戦え。
 嘘の安倍疑惑を引っ張り続け、夫人まで人身御供にしての騒乱は遊びやままごとではない。政局的に乗り切れればいいと考えるな。
 この騒乱を許せば、安倍後の政権はマスコミに拝跪するほかなくなる。それは日本政府がマスコミの背後勢力の奴隷になるという事だ
 国家主権を失うまで、日本が秒読み段階に入っているのは間違いない。これは大仰な話ではない。全くリアルに目の前で起きている事態だ。なぜそれが言論、政財界要路の人達にこうも見えないのだろうか。
 国家で死命を制するのは国民一般の民度ではない。国家エリート層の統治能力、その基盤となる危機への痛覚だ。私はため息をつきながら日本を諦めたくはない。

<引用終り>

此処まで読んでやっと産経新聞の正論で「肌を通じた外圧の痛覚を取り戻せ」と言っていることの意味が分かると思う。

小川榮太郎氏が本当に言いたい事、
それは
『国家で死命を制するのは国民一般の民度ではない。国家エリート層の統治能力、その基盤となる危機への痛覚だ』

こんな事だと思います。
がしかし、こんな痛覚を持っている人が本当にいるのか、甚だ怪しいのが今の官僚、ゴミメディアではないかと思います。
まあ、多少の救いは文科省からスケベ人間をパージできたので、問題点が国民の目に曝されたことでしょうか。

引用者注1:この漂流民問題は伊勢雅臣さんのメルマガにこんな風に紹介されている
No.717 黒船来航の舞台裏
「日本野蛮国」報道
 『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』掲載された記事。6年前に日本沿岸で遭難して保護され、オランダ船によって長崎から送還された米捕鯨船員マーフィー・ウェルズが、アフリカ西岸のセントヘレナ島に現れた。
「海岸にたどりつくや土着民に捕まりボートや所持品は没収され、動物を入れる見世物にするような籠(かご)に押し込まれた」「踏み絵を強制され、従わなければ皆殺しにすると脅された」
 こんな野蛮な国に平和的交渉を仕掛けてもムダだと、多くの米国民は思ったであろう。この記事をきっかけに、『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』から日本遠征反対論が消え、米世論はペリー艦隊派遣に一本化していく。
 興味深いのは、同じ『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が、一年後、ペリーの対日交渉成功の後に次のような訂正記事を出している。曰く、日本の漂流民の取り扱いは従前より伝えられていた内容とは逆であったと。

引用者注2
 太平洋岸までの領土拡張策として、1835年にはメキシコ領だったテキサスで米人が独立運動を起こした末に、1946年併合。さらにメキシコとの戦争に勝って、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ニュー・メキシコなどを奪った。
米墨戦争




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2018-04-06 08:55

「あたる」前に必ず「かする」by 石岡荘十氏


 「心臓手術 私の生還記」 こんな著書のある石岡荘十氏がこんなコラムを書いている。
曰く「あたる」前に必ず「かする」
この件は私の友人も似たような心臓病で一命をとりとめたことが有る。
今日そんな友人たちと「遅すぎる花見」(もう花はとっくに散ってしまったけれど)をすることになっているので、何かの参考になればと思い、石岡荘十氏のコラムを紹介します。


<以下引用>

「あたる」前に必ず「かする」

         石岡 荘十

 旧聞に属すが、ベテラン俳優若林豪さんが2008年3月5日、倒れた。若林 さんは小林幸子特別公演「天勝物語」で小林扮する天勝の師匠松旭斎天一 役で、名古屋市の御園座に出演していた。

しかし、若林さんの体調は思わしくなく、「セリフもよく入っていなかっ た」という。この日も昼の部に出演したが、本番を終了直後に病院に向 かった。医師の診察を受けて手術が行われた。
 
病名「慢性硬膜下血腫」というのは、脳の血管が切れて脳を覆っている硬 膜とその下の脳との隙間に血(血腫)が貯まる病気で、血腫が脳を圧迫す る病気だ。

病名は違うが同じ脳疾患で、脳の血管がつまったり、破れたりして、その 先の細胞に栄養が届かなくなる「脳卒中」で倒れることを、昔から業界で は「あたる」といい、一過性の前ぶれを「かする」という。

つまり「あたる」前に必ず「かする」前兆がある。

したがってこの段階で、“適切な”治療を受けていれば、頭蓋骨を開くとい うような恐ろしい経験をしなくとも済むかもしれないのだ。

新聞やテレビの報道を総合すると、座長の小林幸子さんは、「2日ほど 前、若林さんが小林の楽屋に顔を出し、セリフが引っかかっちゃってゴメ ンネと謝りに来た。その時は、『長いセリフで大変でしょう』ってお話し はしました。
それが、まさかこの前兆だったと思うと言葉もありません」と話したとい う。テレビの芸能ニュースでは「右肩がなんとなく下がっているような気 がした」と語っている。

このやり取りから判断すると、当時68歳の本人も54歳の座長もいい年、つ まり心臓疾患や脳疾患の“適齢期”だというのに、これが重大な病気の前ぶ れだと判断する知識をまったく持ち合わせていなかったようだ。

したがって、舞台を降りてでも病院に行くという発想には行き着かなかった。

「舞台に穴を開けられないと頑張ったのでは」と有名な仲間の芸能人が若 林さんの芸人根性を褒めたつもりで感想を洩らしていたが、バカ丸出しだ。

もし「あるいは---」と感じながら、無理を通そうとしていたのなら、こ の年代にとって残った人生で何が一番大切なことか、プライオリティー、 つまり優先順位について発想の転換が出来ていなかったということだろう。

変な言い方だが、ポックリいければまだいい方で、160万人以上が半身マ ヒや言語障害という後遺症で苦しんでいる。

本人だけではない。家族が、大きな負担を強いられることを考えると、 「自分に限って---」などという根拠のない楽観は捨て去った方がいい。

救いは、心臓も脳も「あたる」前に「かする」、つまり前兆があるという ことだ。

その脳疾患の前兆は、
・ 片方の手足がしびれる
・ 持っているものをポロリと落とす、
・ 思っていることが言葉に出てこない、
・ ろれつがまわらなくなる
などなどだ。

心臓の血管(冠動脈)が狭くなる狭心症、完全に塞がる心筋梗塞も高齢者 に多い疾患だが、よくよく思い出すとほとんどの人にその前兆がある。

血圧が高い、胸が痛くなったり、なんとなく重苦しい感じがしたりするが 15分かそこらで治まるので、「ああよかった」とやり過ごす。

人によっては左の奥歯が痛くなったりうずいたりすることもあるが、この ように心臓から遠いところに違和感を覚える人もいる。

これを専門的には「放散痛」というが、大概の人はこれが心筋梗塞の前兆 であることに気づかない。

こんなときには、バカにせず、24時間緊急対応をしてくれる専門の医師 と検査体制の整った病院へ行って診察を受けることが大切だ。
 
私は、10数年前からかすった段階で診察を受け、診察券を確保して、こ れを外出のときも肌身はなさず携帯して歩いている。

そのくらいの心掛けがなければ、attackでよしんば一命をとりとめても、 半身不随では快適な老後は過ごせない。

よくよく振りかえると、ほとんどの高齢にかすって経験があるはずだ。 「ああ---」と思った以上に多くの高齢者が、膝を叩くに違いない。

<引用終り>


私は幸いこんな前兆は無い(と思っているだけかも)が、気をつけねばいけないことだと思います。
今日友人たちに会うので、こんな話をするつもりです。

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2018-04-02 22:46

日曜日は鳥羽市の小さな漁港まで


 昨日は三重県鳥羽市の小さな漁港にある食堂まで魚を食べに行ってきた。
途中伊勢神宮にもちょっと立ち寄り。


駐車場から伊勢神宮内宮方面へ、桜が満開
2018-4-2i伊勢神宮1 

宇治橋手前のおはらい町はこんな賑わい
2018-4-2i伊勢神宮2 

余りの混雑ぶりに早々に引き上げ、目指す鳥羽市石鏡(いじか)へ
2018-4-2ijika1.jpg 
石鏡漁港の少し手前、伊勢湾(左手)から太平洋方面、中央奥にぼんやり見える三角の島は神島

目的地石鏡(いじか)漁港、漁港は山に取り囲まれているが、山は桜満開でとてもきれい
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目的の西村食堂で食べた昼食
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左上:イカ、右上:真鯛の蒸し物、右下:とても美味しかったエビフライ
左下:西村食堂外観、外目では味は分からないという典型的な田舎の食堂

刺身のまな板盛
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桜も満開、でも花よりダンゴ、大変美味しい日曜日でした。

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2018-03-30 19:00

人間力について考える


 現在発売中の月刊誌Will5月号に安倍首相と大阪大学名誉教授の加地伸行さんの対談が載っている。
この中で安倍首相の言っていることに私は大変興味がある。

その対談は、題して
安倍首相 明治150年特別対談
国難突破! 輝く日本へ        

表紙はこんなもの
2018-3-30-02-01will表紙 

対談の最初のページ
2018-3-30-1-01改 

対談風景
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全文はWill5月号を見ていただきたいが、この対談の内容はこんな風(中見出し)。

・幕末・明治の先人に学ぶ
・国を守り抜くために
・日本人よ、雄々しくあれ
・助け合いの精神
・瑞穂の国の資本主義
・「名」と「実」
・政治=結果

色々興味深いことが話し合われているのだが、その中でも「助け合いの精神」の所に大変興味深い部分が有る。そこだけ引用したい。

<以下雑誌Will5月号p45より引用>

助け合いの精神

加地 平昌五輪でメダルを獲得した日本人選手のインタビュー‘を聞いていると、全員同じことを言うのです。「メダルを獲れだのは自分の力だけでなく、周囲で支えてくださった方々、応援していただいた方々のおかげです」というものです。それは、自然と溢れ出てきた集団主義・家族主義の立場からの言葉だと思います。欧米の選手であれば、「俺の力を見たか!・」なんてコメントしそうですよね(笑)。

安倍 平昌五輪での日本選手の活躍、そして選手たちの言葉には心を動かされました。ソチ五輪で日本選手団長を務められた橋本聖子さんから聞いた話ですが、選手としての能力向上のためには、精神面を含めた「人間力」を高める必要があるようで、目的意識を明確に持つため、何のために競技に情熱を注いでいるのかを自分の言葉で発信する訓練もしているというのです。

加地 日本人選手たちのコメントは、決して誰かに教えられたものではありません。自然に出た言葉です。改めて、日本人には集団主義的な性格があると感じました。
・・・以下略
<引用終り>


加地先生は日本人の助け合いの精神について強調されているのだが、安倍首相はもう一つ、選手としての能力向上のためにどうするか、それを問題にしています。キーワードは「人間力」を高める、こんな話です。

実は私の今までの経験から、困難な仕事に取り組んだり、未知のことをやろうとする場合、一人一人がいかに自分のやっていることをコントロールして結果につなげるか、その為に具体的にどうするか、こんな事をいつも考えてきました。そして安倍首相が橋本聖子さんから聞いた話として言っているこのことが重要だと思うのです。

「何のために協議に情熱を注いでいるのか」という『自分の目的』。
その目的のために『自分の言葉で発信』という具体的な行動
大事なのが『訓練』、これも一度やったら終りでは無く、毎日毎日の繰り返し
その結果として『人間力を高める』


以前見たテレビで確か家電量販店のやり方として、開店前に従業員がみんなでポリシーを唱和するところが報道されていました。

そのポリシーは
・スピードはサービス!
・正確さは信頼!
・安さは魔力!
これをみんなで唱和していました。この方法は大変いいことです。がしかし此処からさらに一歩出ていかないとさらなる上は目指せません。

その為に自分の目標を自分の言葉で発信、大変いいことだと思います。
こんな事のために道場が必要だと思うのですが、それはまた別の機会にします。

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