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2019-11-11 16:19

マレガ文書、この微妙なるもの


 前回のエントリー「ローマ教皇来日<日本は何故バテレンを追放したのか」でよもぎねこさんから長谷川良氏の記事を紹介していただいた。
法王は訪日で「神」を発見できるか
http://agora-web.jp/archives/2042497.html

此処にとても気になることが書いてある。マレガ文書についてである。

マレガ文書と言っても私も初耳。しかし調べてみるとなかなか曲者だ。

秀吉にしても家康にしても、最初は切支丹に寛大だった。しかし途中から切支丹を問題視するようになる。理由は日本人を奴隷として売買したり(50万人とも言われる)、長崎港をポルトガル領のように占拠したり、神社仏閣を破壊・焼打ちしたりと言ったことが挙げられるが、最大の問題はスペイン・ポルトガルには日本侵略計画があり、宣教師がその先兵だったこと。つまり切支丹追放は日本の防衛上の処置だったということである。

がしかし、マレガ文書は、扱い方によっては日本バッシングに繋がりかねない微妙な問題を含んでいる。マレガ文書に行く前に、マレガ神父が戦前戦後の40年に及ぶ在日期間を通じて収集した古文書の見つかった大分県について、簡単に触れておきたい。

大分県の臼杵地方はかつては臼杵藩だった。ここを中心に大規模な隠れキリシタン摘発が1660年に行われた。豊後崩れと言う。
豊後崩れ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%B4%A9%E3%82%8C

マレガ神父の調査では、臼杵藩内だけで578人が捕縛されたとあり、実際の人数は不明であるが、1000人を超えていると推測されているようだ。

このような切支丹禁制には1638年~39年の天草の乱で幕府の切支丹に対する警戒感がピークだったことがある。特にポルトガル人は日本い来る理由が布教の為なので、1639年にポルトガル人の来航を禁止することとなった。

さてそれでマレガ文書である。

マレガ文書のついては、4年前の記事だがこんな新聞記事が分かりやすい。
以下引用>
http://archive.is/XNGKh#selection-757.0-1089.18
キリシタン弾圧
江戸時代の臼杵藩古文書 マレガ神父収集、バチカンが史料初公開
毎日新聞2015年9月15日 西部朝刊

 【ローマ福島良典】キリスト教カトリックの総本山バチカンの図書館で2011年に見つかった江戸時代のキリシタン禁制に関する臼杵(うすき)藩(現大分県)の古文書などの史料1万数千点の一部がこのほどバチカンで報道陣らに初公開され、藩が監視と統制を強めていくキリスト教弾圧の実態が報告された。
 史料は第二次世界大戦前後を通じ大分県を拠点に活動していたイタリア人宣教師、マリオ・マレガ神父(1902〜78年)が収集した臼杵藩の古文書など。元キリシタンの改宗誓約書や、住民相互監視のための「五人組」の確認書、改宗したキリシタンの子孫「類族」を管理する台帳などが含まれている。
 日本とバチカンの共同研究グループは、21の保存袋に収められていた史料を順次、開封して整理や調査を進めている。11日には「類族」の死亡届や住民の婚姻届が入った「19番」の保存袋がバチカン図書館で報道陣らの前で開封された。
 12日にバチカンで開かれたシンポジウムで、大分県立先哲史料館の佐藤晃洋館長は史料に基づき「キリシタン禁制は改宗者から類族へ、さらに全領民を対象とする民衆統制政策へと変質していった」と指摘し、早稲田大学教育・総合科学学術院の大橋幸泰教授は「潜伏キリシタンは現世を生き抜くため、村社会の一員としての属性の方を優先していた」と論じた。
 フランシスコ・ローマ法王は、禁教下に信仰を守り伝えた日本の潜伏キリシタンをたたえており、シンポジウムにあたり「共同研究により、17世紀初頭の日本におけるキリスト教徒共同体の迫害に関して理解が深まるだけでなく、迫害が社会にどのような影響を与えたのかが明らかになるよう望む」とのメッセージを寄せた。
 マレガ神父が史料を集め、バチカン図書館に収蔵された経緯には不明な点があったが、共同研究の日本側代表を務める国文学研究資料館の大友一雄教授によると、神父が弓道仲間の臼杵藩元家臣から古文書の存在を知り、古本店経由で譲り受けていたことが判明。ローマ法王への寄贈を望む神父が駐日バチカン公使に史料を託し、1953年に横浜からイタリア北部ジェノバに船便で送られたことも分かった。
 史料は電子化された上で2020年までに一般に公開される。
<引用ここまで>


ここからがスペインとポルトガルが何故侵略的だったかということです。

トルデシリャス条約とサラゴサ条約

トルデシリャス条約とは、一言で言うと、地球上に「デマルカシオン」という観念上の縦線(子午線)を引いて、ヨーロッパ以外の新領土についてはその線(西経46度37分)を境に東側はポルトガル領、西側はスペイン領として両国で世界を分捕りましょう、こんな条約です。

大航海時代にスペインとポルトガルは互いに大船団を作って海外進出。その分撮りのテリトリー取り決めでした。更にもう一本縦線が必要になったので、もう一本縦線を取り決めました。
1529年のサラゴサ条約です。この新しい縦線(東経144度30分)で、16世紀の世界は、ヨーロッパや東アジア(日本、中国など)を除きその大半が、トルデシリャス条約とサラゴサ条約という二つの条約によってポルトガル・スペイン両国の勢力圏内に置かれたのです。

デマルカシオンによる分割とスペイン・ポルトガルの世界進出。

2019-11-9スペインポルトガルによる世界分割

これで見ると、日本はスペインとポルトガルの世界分界線で東西に分断されていることが分かります。つまりスペイン・ポルトガルの領土分捕り合戦の対象国だった訳です。
そしてこれがローマ教皇のお墨付きを得ていたこと。これが重要だと思います。
デマルカシオン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3

切支丹禁制とは実はこんなスペインポルトガルによる侵略に対する対抗処置だった。こんなことは歴史の教科書にも載っていませんが、これが事実でした。
だからこそ、日本はオランダとは長崎で交易をしていたわけです。

こんな厄介な話の先にマレガ文書がある。そんな所を注意してみていきたいと思います。

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2019-11-07 10:35

ローマ教皇来日<日本は何故バテレンを追放したのか


 ローマ教皇(法王)が今月来日すると報道されている。親日家としても知られるローマ教皇、まあ歓迎という所なのだが、ちょっと待てよと言う部分もある。特に秀吉の伴天連(バテレン)追放に関連する話が出て、政治的に悪用されないか、マスゴミに踊らされないかが気になる。

最初に、それを報ずる朝日新聞の報道から。

<以下朝日新聞デジタルより引用>
https://www.asahi.com/articles/ASMB134QJMB1TOLB003.html
ローマ法王、長崎爆心地で核兵器廃絶メッセージ検討
榎本瑞希 2019年10月1日11時36分

 11月23~26日に訪日するローマ・カトリック教会のフランシスコ法王(82)が、74年前に原爆が炸裂(さくれつ)した直下にあたる長崎市の爆心地公園で、核兵器廃絶に向けたメッセージを出すことを検討している。1日、関係者への取材で分かった。

 関係者によると、24日は爆心地公園のほか、豊臣秀吉のキリシタン弾圧によって宣教師や信徒が1597年に処刑された日本二十六聖人殉教の地、西坂公園への訪問も検討している。午後1時半からは長崎市の長崎県営野球場でミサを執り行う予定。

 法王が国家元首を務めるバチカンは、2017年に国連で採択された核兵器禁止条約にいち早く署名、批准した国の一つ。1981年に来日した法王ヨハネ・パウロ2世は広島市の平和記念公園を訪れ、「戦争は人間のしわざです」「広島を考えることは、核戦争を拒否することです」などとする「平和アピール」を発していた。
<引用終り>

最初に
豊臣秀吉のキリシタン弾圧によって宣教師や信徒が1597年に処刑された日本二十六聖人殉教の地、西坂公園への訪問
この事です。

これだけ聞くと何となく秀吉は悪いことをしたんだなあ、こんな印象を受けると思います。
しかし問題なのは、この当時の国際情勢で、スペイン・ポルトガルなどがキリスト教布教を武器にして、アジアの植民地化を計画していたこと。これを忘れてはいけません。

更に厄介なのは、当時九州は統治が混乱していた。そして火薬欲しさに住民を奴隷として売り飛ばしたりしていた(火薬ひと樽で娘50人とか)。

こんな事情を折角ローマ教皇が来てくれたので、日本が切支丹追放に踏み切らざるを得なかった事情を勉強してみたいと思います。
日本が江戸時代を通じて何故キリシタンを拒絶していたのか、そんな事が原罪に繋がると思います。


さてその事情を「しばやんさん」が今までの記事を纏め、こんな本を出版されました。

しばやん (著)

私もこの本、買いたいと思っていたので、丁度いい機会で早速注文しました。

所でこの話は日本の敗戦直後、GHQの焚書の対象になっていたという問題が有ります。
これも「しばやんさん」が纏めているので、大変分かりやすいので引用します。

秀吉の伴天連追放令と朝鮮出兵の背景を考える~~GHQ焚書とされた秀吉の伝記を読む1

<以下上掲記事より抜粋引用>

ネットで一部が公開されるようになったGHQ焚書
第二次大戦後に日本に進駐してきた占領軍(GHQ)が、昭和二十一年から二十三年(1946~48年)にかけて、当時わが国で流通していた書籍のうち7769タイトルの単行本やパンフレットを廃棄して日本人に読ませないようにしたのだが、幸いにもGHQは国立国会図書館の蔵書には手を付けなかった。
・・・中略・・・
最近GHQが焚書処分としたリストである『連合国軍総司令部指定 没収指定図書総目録』を入手したので、『国立国会図書館デジタルコレクション』の検索機能を使って一冊ずつ検索をかけ、ネットで読める本がどれだけあるかを調べていた。
このたびその作業が終了したことをこのブログに書いたが、ネット環境さえあれば、GHQが焚書処分した本全体の27%にあたる2136タイトルの本が、誰でもPCで読むことができる状態になっているのである。

・・・中略 詳細は上掲リンク先参照ください・・・

秀吉がなぜ伴天連を追放したのか
『連合国軍総司令部指定 没収指定図書総目録』のp.289に「豊臣秀吉」という本がリストアップされている。
著者名は空欄だが、出版社は講談社で昭和十九年に発行されている書物は、加藤武雄著『豊臣秀吉. 下卷』しかありえない。この本は装丁からして少年少女向けの本であるが、GHQからすれば子供向けの本は特に念入りにチェックをして選んだものと思われる。

・・・中略・・・

最初に、秀吉が天正十五年(1587年)に伴天連追放令を出した場面を紹介しよう。

<以下が「加藤武雄 著『豊臣秀吉. 下卷』の引用部分>
 秀吉も、これまで、このキリシタン流行を大目に見ていた。いや、秀吉も外国貿易の利益を知っていたから、そのために、宣教師を利用しようとしていた。

 が、九州平定に出かけて来て、実際のようすを見ると、これはいけないと気が付いた

 宣教師は、ほんとうに、心から神を信じ、神の道を伝えることを尊いつとめだとして、一生けんめいにやっているのかもしれない。しかし、宣教師のうしろには、その国に食いこんで、その国を自分の自由にしようとする政府がいる。つまり、宗教をえさにして、ひとの国を侵略しようというのだ宣教師は、その侵略のお先棒に使われているのだ。

 ポルトガル、イスパニア(スペイン)等の西洋諸国は、その流儀で、東洋の諸国を侵略している。フィリピンもこの手でやられたのだ。当時フィリピンは、イスパニアのものとなり、イスパニア政府の総督で治められていたが、九州諸大名の内輪争いにつけこんで、フィリピンの手がのびてきたら、あるいは、九州は、フィリピン同様、イスパニアのものとなってしまったかも知れないのである。

 肥前の長崎は、大村の領地であるが、大村は名うてのキリシタン大名で、長崎はキリシタンの本元のようなところになっていた。大村が隣の龍造寺と戦い、戦争の費用に困った時、外国人のキリシタンから金を借り、その抵当として長崎を外国人にやってしまった。で、長崎は、その頃、外国人の土地になってしまっていた。日本の土地を外国人に質に入れる――めちゃとも無法ともいいようのない話である。これを知った秀吉はかんかんになって怒った。

 それからもう一つこういうことがある。ポルトガル人やイスパニア人は日本の民百姓が生活に困って居るにつけこんで、一人いくらという安い金で買い取り、牛馬のようにこきつかったり、また、遠い国へつれて行って、奴隷に売ったりしている。愛を説き、慈悲を説く宣教師どもは、それを見て見ぬふりをしている。こういうことがらも、ひどく秀吉をおこらせたのである。

 これはいかん、キリシタンなどをはびこらせていると、日本の国があぶなくなる。

 こう気がついた秀吉は、だんぜん、天主教禁止、キリシタン追いはらいの命令を下した。外国からやって来ている宣教師どもは、むこう六箇月間に、日本の土地から立ちのけという厳命である。

(加藤武雄 著『豊臣秀吉. 下卷』講談社p.24-26)
<上掲書の引用部分は此処まで>

領土を担保に金を貸し返済が出来なかったら領土を奪っていく手法は、今も何処かの国が実際に用いている古典的な手法だが、長崎はこのやり方でイエズス会の所有となったことは史実である。また宣教師が「侵略のお先棒に使われて」きたことについては多くの文書が残されており疑いようがない。多くの日本人が奴隷として海外に売り飛ばされたこともまた史実であり、この文章には触れられていないが、キリシタンにより多くの寺社や仏像などが焼き払われたという記録もある。しかしながらわが国では、戦後の長きにわたりこれらの史実を語ることはタブーとされてきたのである。

<引用ここまで>





終り

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2019-11-04 17:03

橋の話<東西経済回廊は最後の追い込み


 ミャンマーの橋の話を色々書いてきたのだが、11月3日のエントリー「橋の話<ミャンマーの橋への疑問」でこんな疑問点を書いた。

疑問点
1、ミャンマーで今現在、日本のODAによる橋の建設が目白押し状態。でもこんな話など聞いたこと有りませんねえ。

2、長さ265mの長大橋が落橋しただって?、そんな凄い事故なら当然日本でも大騒ぎになるだろう。どうなっているんだ?。
こんな事故なら、日本にも参考になる問題が色々あるだろう。どうしてそんな事を言わないんだろう。オマケにその橋は中国企業が設計したそうじゃないか。だから知らん顔か?

3、ミャンマーでは大統領の上に君臨するスーチー、この人物はどうにも信用できない、それは日本の外務省も熟知している筈なのに騙されてないか?。
(スーチーの邸宅の隣が日本大使の公邸)

この疑問点の内「2」についてはこのエントリーで纏めました。
しかしこのエントリーを纏めてみて、ますます混乱してきました。昨年4月に崩落したミャウンミャ橋は今年の4月に新しい第二ミャウンミャ橋として完成していたのです。
しかもこの報道が見つかったのはNNAのみ、少なくとも国内メディアでは見つかりませんでした。

色々疑問は有りますが、冒頭揚げた「1」と「3」についてを東西経済回廊との関連で考えてみたいと思います。


最初に麻生さんが言い出し、その後の日本外交の重点になっている「自由と繁栄の弧」についてみてみます。

2019-11-1自由と繁栄の弧

この図は大変見にくいので、その中のインドシナ半島についてみてみます。

2014-7-10東西経済回廊と3か国ハイウエー

ベトナム中部から西へラオス、タイを通ってミャンマーへと続きます。これが東西経済回廊。
さらにその先は何とインパールを目指しますが、この話はこれには触れないことにします。

所でこのインドシナ半島を東西に貫くルートですが、ちょっと地理上の特質を説明。
インドシナ半島の山は、概略この図のようになっています。
2014-7-10newインドシナ半島の山脈
チベット高原辺りを出発点にしてヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、崑崙山脈が東向きから大きく曲がって南に下ってきている。これがベトナム、ラオス、タイ、ミャンマーの国を形作る大きな要因。
これらの国の山は南北に連なり、川も南北に流れる。ベトナムにしてもラオスにしても国土は極端に南北に長い。それはこんな理由だが、注意すべきは、この地域は水運も道路もみんな南北に流れている。そこに東西の道路を作る。まさに画期的だ。


さて、こんなインドシナ半島ですが、ここに割り込んできた国が有ります。チャイナです。
これはチャイナの一帯一路構想と真珠の首飾り戦略。

2019-11-4一帯一路と真珠の首飾り


この一帯一路の地図と東西経済回廊の地図を見比べてください。
東西経済回廊は真珠の首飾りをぶった切る形になっていることが分かると思います。


こんな流れの中で1988年からの軍政が27年で終わり、ミャンマーも自由主義陣営に戻ってきた。
今までの軍政時代に建設された粗製乱造の橋。これは危険だし物流のネックなので架け替える。こんな事で今ミャンマーで橋の建設ラッシュが続いている。こう理解すべきだと思う。

2019-11-4ミャンマー各地で進む橋梁整備

2019-11-4ミャンマー各地で進む橋梁整備シャイン・コーカレー橋

2019-11-4ミャンマー各地で進む橋梁整備シャイン・ザタピン橋
https://www.jica.go.jp/publication/mundi/1811/ku57pq00002e9t2e-att/03.pdf
https://www.jica.go.jp/publication/mundi/1811/201811_03.html

シナ様が作ったボロボロの橋、それを日本がやってきて素晴らしい橋に架け替えた。
数年後に完成したら、新しい観光名所になりそうな予感がします。
そんな大きな政策の前にスーチーがどうのこうのはすっ飛んでしまっているのでしょう。
私もこの橋が完成したら、是非見に行きたいものですが、どうでしょうか。

橋の話はこれにて終りと致します。お付き合いいただき有難う御座いました。
  1. ミャンマー
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2019-11-03 15:19

橋の話<長大吊橋の落橋事故


 橋の話が続きますが、ミャンマーで発生した長大橋の落橋事故について、詳細が一応報道されていた。但し一般の人の目にはなかなか触れない報道だったと思われ、日本の専門家でも知らなかった人が多いようだ。
そこでその事故の内容を日経 xTECH(クロステック)の報道から見てみたい。

最初にこの報道、事故の3日前に東大の生産技術研究所長井研究室がこの橋を視察している。そんな事で事故直前の様子が分かる貴重なモノ。

但し、この報道で初めてこの橋が中国が設計し、ミャンマーが中国の指導の下に建設したことが分かるが、JICAの記事にはそのことが触れられていない。
更に引用した記事では記載されていないが、他の方の記事を読むと、この橋も老朽化で日本が架け替える対象になっているようだ。

更に末尾に追記しましたが、この橋にかわる新ミャウンミャ橋は20年に完成予定を前倒しして19年4月1日に開通していました。どうなっている事やらです・・・ブツブツ。

ではその橋の崩落についての報道から。

<以下引用>
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32926330S8A710C1000000/
腐食を見逃した吊り橋の末路
2018/8/7 6:30
日経クロステック
2019-11-3ミャウンニャ橋1
事故後の4月7日にドローンで撮影した橋の様子(写真:東京大学生産技術研究所長井研究室)

 ミャンマー西部で築22年の吊り橋が2018年4月1日未明に突如崩落し、2人が死亡した。重要部材の主ケーブルが腐食して破断に至った、あってはならない事故だ。東京大学生産技術研究所がドローンで撮影した現地の状況などを基に落橋の原因を解説する。

中国企業が設計 265mの長大橋

崩落したミャウンミャ橋は、ミャンマー最大の都市ヤンゴンから140kmほど西に位置する中央支間長183m、橋長265mの長大吊り橋だ。ミャウンミャ川に南北方向に架かる。

同橋は、補剛桁に仮設橋などに用いる「ベイリー桁」を用い、その上に鋼板を敷設しただけの簡素な造りだった。事故の直前にたまたま現地を訪れた東京大学生産技術研究所の松本浩嗣特任講師は、「日本では見ない構造形式だが、ミャンマーには同種の橋がいくつかある。建設年が古いとこのような形式になるようだ」と説明する。

2019-11-3ミャウンニャ橋2
落橋の3日前に撮影したミャウンミャ橋(写真:東京大学生産技術研究所長井研究室)

2019-11-3ミャウンニャ橋3
落橋の3日前に撮影したミャウンミャ橋の路面の様子(写真:東京大学生産技術研究所長井研究室)

ミャウンミャ橋の供用開始は1996年。ミャンマー国内に30橋ほどあるという吊り橋の中でも古い部類に入る。同橋は中国の企業が設計し、ミャンマー建設省公共事業局が中国企業の助言を得て自ら建設した。

長らく米欧の経済制裁下にあったミャンマーは中国との結びつきが強く、同橋に限らずミャンマー国内には中国企業の支援で造った橋が多い。また、ミャンマーではかつての日本のように行政が直営で工事を実施してきた経緯がある。

未明に前触れもなく落橋

そんなミャウンミャ橋が、前触れもなく崩落したのは4月1日午前1時45分ごろ。重量18トンのトラック1台が巻き込まれ、2人が死亡した。同橋は当時、通行車両に25トンの重量制限を課したうえ、本来は片側1車線(両側2車線)のところを全体で1車線だけの運用をしていた。こうした制限と落橋の時間帯が未明だったことが重ならなければ、犠牲者はさらに増えていた恐れがある。

ミャンマー建設省の許可を得て、事故から4日後に現地を調査した東京大学生産技術研究所の長井宏平准教授は落橋の原因について、「南側の定着部で主ケーブルが局所的に激しく腐食して破断に至り、橋全体が崩落したのではないか」と推察する。劣化したケーブルカバーの隙間などから水が浸入し、末端の定着部に滞留してケーブルの腐食が進行したと考えられる。

2019-11-3ミャウンニャ橋5
ケーブルが破断した南側の様子(写真:東京大学生産技術研究所長井研究室)

■点検箇所が見えづらい設計

吊り橋は、2本の主塔に2組の主ケーブルを架け渡し、ハンガーロープを介して補剛桁を吊り下げる構造形式だ。主ケーブルの両端はコンクリートのアンカレイジ(アンカーブロック)と呼ぶ重りに定着する。主ケーブルとその定着部は、吊り橋の最重要部材。ミャウンミャ橋ではまさにこの部分が損傷し、橋全体が崩落する事態に陥った。

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同橋は、主塔から伸びた主ケーブルがサイドスパンの床版を貫通し、桁下でアンカレイジと定着する仕様になっていた。ミャンマー建設省は2年に1度の頻度で同橋を路面上から点検していたが、桁下にある定着部の状態は確認していなかった模様だ。定着部以外ではケーブルに目立った腐食がみられなかったことから、路面上で点検しているだけでは落橋を予見できなかったと考えられる。

2019-11-3ミャウンニャ橋5
ミャウンミャ橋の概要と崩落後の状況(断面図)。図中の単位はm(資料:日経コンストラクション編集部が取材を基に作成)

本来は、損傷が重大事故につながり得る定着部を、特に注意を払って点検すべきだった。しかし、定着部が桁下の点検しづらい位置にあったうえ、ケーブルがカバーに覆われているなど、目視で腐食を見つけることが難しい状態だった。ポイントを理解せずに点検していたことや、維持管理しにくい設計になっていたことが、落橋の元凶と言えそうだ。

2019-11-3ミャウンニャ橋7
南側のアンカレイジの状況(写真:東京大学生産技術研究所長井研究室)

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定着部の様子(写真:東京大学生産技術研究所長井研究室)


吊り橋のように、局所的な損傷が落橋につながる構造形式だと、橋全体の挙動をセンサーなどでモニタリングしていたとしても事故を防げない可能性がある。実際、ミャンマー建設省はミャウンミャ橋の南側の主塔頂部の変位を数カ月ごとに確認していたが、落橋の3週間前のデータにも異常はなかった。

2019-11-3ミャウンニャ橋9
定着部に水がたまった吊り橋(写真:東京大学生産技術研究所長井研究室)

東京大学の長井准教授は、「ミャンマーには、ミャウンミャ橋に限らず維持管理に対する基本的な配慮がなされていない橋が多い」と指摘する。事故から約1カ月後、ミャンマー建設省の依頼を受けて同国内にある他の吊り橋を調査したところ、主ケーブルの定着部を収めたチャンバーに水がたまっている橋などが見つかった。

日本にも危険な橋

日本では、定着部を点検しやすいように空間を設けたり、ケーブルのカバーに窓を付けて、水がたまっていないか確認できるようにしたりするのが一般的。明石海峡大橋のように橋長が長い重要橋梁では、主ケーブルの腐食を防ぐためにカバー内に乾燥した空気を送風するシステムを採用している。

「日本の技術は、ミャンマーでも役に立つのではないか」(長井准教授)。ミャンマー建設省は、長井准教授らの研究チームがまとめた調査結果を基に、今後の対策や維持管理の方針を決める方針だ。研究チームは、吊り橋のような特殊橋梁の定期点検の制度化や、点検手法の確立、損傷後の性能評価技術などを提案していく。

一方、日本でミャウンミャ橋のような事故が起こらないかというと、必ずしもそうとは言い切れない。

例えば国内では12年4月、浜松市が管理する橋長約139mの原田橋で主ケーブルが一部破断しているのが見つかり、全面通行止めとなる事態に陥った。そのわずか1年後の13年2月には、同市内で橋長32mの歩行者専用吊り橋「第一弁天橋」が突然傾く事故が起こっている。第一弁天橋では、定着部のターンバックルと呼ぶ部材が腐食し、破断した。道路管理者の市は、原田橋の損傷発見後に第一弁天橋でも緊急点検を実施したが、損傷を見抜けなかった。

2019-11-3ミャウンニャ橋10
原田橋の全景。補強工事を踏まえて片側交互通行で運用していたが、15年1月に右岸側の斜面崩壊の影響で崩落した(写真:国土交通省)
原田橋の破断したケーブル(写真:国土交通省)

16年4月時点で日本国内に865カ所ある橋長15m以上の吊り橋のうち799カ所を市町村が管理している。このうち通行を制限している橋が85カ所、通行止めが420カ所もあり、問題なく通行できる橋は294橋にすぎない。多くの橋を抱え、技術力や予算の不足に悩む道路管理者をいかにサポートするかが重要になる。

ワイヤを用いた近代的な吊り橋が維持管理の不備で落橋したのは、ニューヨークのブルックリン橋に始まる130年の歴史で初めてのことだ。維持管理を怠れば、橋は落ちる――。そんな当たり前の、しかし普段は忘れがちな事実を突きつけたミャウンミャ橋の落橋から、日本が学ぶべきことは多い。

(日経 xTECH/日経コンストラクション 木村駿)
[日経 xTECH 2018年7月9日付の記事を再構成]
<引用終り>
 

もう一つ、この事故に関してこんな記事が有りました。

道路構造物ジャーナル
これでよいのか専門技術者
(一般財団法人)首都高速道路技術センター 上席研究員 髙木 千太郎 氏
https://www.kozobutsu-hozen-journal.net/series/detail.php?id=154

詳細は技術的な話なのでリンク先を見てください。
しかし高木氏が末尾で言っている報道に対する批判は真剣に考えるべきではないかと思います。
その部分だけ抜粋引用します。

<以下引用>

5.報道の差異と技術者として私の願い

 今回話題提供したミャンマーの鋼吊り橋崩落事故は、関係者の中では周知の事実ではあるが、国内で大きく報道されることはなかった。それは何故だろう!

 前回の米国・フロリダの歩道橋崩落事故は、多くの報道局から全国放送され、事故状況を見た多くの人々は、我が国に同様な事故が起こらないようにと願い、日本の技術者に向けた注意喚起となったと考える。しかし、ミャンマー・エイヤーワディ管区、ミャウンミャで起こった鋼製吊り橋崩落事故は、私の知る限りではニュースとして詳細な報道解説や現地画像が映し出された記憶がない。片や先進国、片や発展途上国の違いであろうか? まさか、亡くなられた人の数で判断しているのではないだろう。
・・・中略・・・
しかし、私は、数多くの日本人技術者が現地で仕事をし、技術支援も行っている状況を見聞きしている。そのような人々に崩落した状況や原因を聞こうとしても固く口を閉ざして聞くことも、映像や写真を見ることも出来なかったのが現状だ。

 確かに、崩落した吊り橋に替わる道路橋を日本の援助で建設されること崩落した吊り橋に中華人民共和国が関与していることを考えた、政治的配慮からかもしれない。よくいわれることに、「日本では世界の動きに対応した報道がなされていない」「グローバル化に大きく後れをとる日本」……など情けない言葉が並ぶ。

 海外で活躍する一部の技術者は、現地での対応や諸外国の技術者からの評価も非常に高い。しかし、我が国の諸外国との接し方に関して、私が肌で感じるのは、未だ鎖国状態、保護主義国日本、幸せ溢れる外敵から自然で守られた離島国民なのだ。持てる情報や技術をもっとオープンにすることが出来ないのだろうか? 少なくとも国内の技術者に対して。

 もう一つ余計なことを言わせてもらう。数年前に言われていた「メンテナンス元年」「今すぐメンテナンスに舵を切れ」など国の掛け声は何処に行ったのだろう? 
・・・以下略・・・
<引用終り>

この高木さんの日本の報道に対する疑問は私も同感だ。
日本子K内で電波芸者相手にヘラヘラ番組ばかり作っているから人間が腑抜けになる。
もっと報道機関のレベルを上げることが必要だと思う。


*追記します

落橋したミャウンミャ橋に代わる新ミャウンミャ橋が最近開通していました
2019年4月1日開通したとの報道が見つかりました。
国内報道は有りませんが、アジアニュース専門のNNAだけが報じています。

<以下引用>
https://www.nna.jp/news/show/1887341
新ミャウンミャ橋が開通、旧橋は昨年崩落 2019/04/02(火)

ミャンマー中部エヤワディ管区ミャウンミャで1日、イウェ川に架かる新たな橋が開通した。同橋は2017年5月に着工20年の完成を目指していたが、18年4月に旧橋が崩落したため、前倒しで工事が進められていた。国営紙グローバル・ニュー・ライト・オブ・ミャンマーが1日伝えた。…
(以下は有料記事の為読めない・・・)
<引用終り>

なるほど、これだと高木さんが
>「そのような人々に崩落した状況や原因を聞こうとしても固く口を閉ざして聞くことも、映像や写真を見ることも出来なかったのが現状だ」
こんな風にぼやくもの無理はない。
何故だろう???。

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2019-11-03 10:15

橋の話<ミャンマーの橋への疑問


 前回のエントリーでこんな図を紹介した。

2019-11-1第二タイミャンマー友好橋からミャンマー側ルート
https://www.jica.go.jp/investor/bond/ku57pq00000r13n2-att/20160810_03.pdf
注:JICAの資料からですが2016年頃のもの。

 この地図でミャンマー側のルートはタイの国境の町メソートから港町モールメイン(モーラミャイン)まで直線距離なら100キロほど、大きく迂回するルートでも170キロ程度。それなのに何をモタモタしているのだろう。おまけに既存の橋の架け替え?、ミャンマーにそんな架け替えせねばいけない古い橋など有るのか?。そもそもミャンマーには首都周辺以外は昔は橋など無かったのではないか?。
こんな疑問がわいてきた。

この疑問を調べてみたら、JICAの広報誌に分かりやすい記事が有ったので紹介したい。

<以下JICA広報誌より引用>
https://www.jica.go.jp/publication/mundi/1811/ku57pq00002e9t2e-att/03.pdf
又は https://www.jica.go.jp/publication/mundi/1811/201811_03.html

ミャンマー各地で進む橋梁整備

落橋事故に一番に駆けつける

2018年4月1日未明、ヤンゴンから約140キロ西に架かるミャウンミャ橋で、積み荷を含む重量18トンのトラックが走行中に落橋する大事故が起こり、乗っていた2人が亡くなった。その日の朝、JICA専門家の妹尾(せのお)佳さん(西日本高速道路)はミャンマー建設省から電話を受けた。

「川の中に橋が落ちた。船が通れなくなっているのでどうやって回収すればいいか教えてほしい」との依頼だった。妹尾さんは、他の日本人技術者と現場へ急いだ。

「電話を受けたときは、ありえないことが起こったと思いました。現場はさらに悲惨な状況でした。原因はメインケーブルの腐食による破断でしたが、それが原因での橋梁全体の落橋は世界的に見てもおそらく初めての事故です」

この事故はミャンマー国内でも大ニュースとなり、2018年4月10日には国家最高顧問のアウン・サン・スー・チー氏が現場を視察。その場で関係者と緊急会議を開き、早期の復旧と、建設時期が近い類似の橋梁の点検を指示した。その会議にミャンマー人以外でただひとり入室を許されたのが妹尾さんだった。席上、スー・チー氏は「事故当日に最初に来てくれたのが日本で、橋の撤去についてアドバイスしてくれた。感謝している」と発言した。それを聞いた妹尾さんは「その言葉がうれしかったし、やりがいを感じた」と、胸に熱いものがこみ上げた。

空白期間を埋める技術者養成プロジェクト
落橋事故の背景には、ミャンマーの橋梁技術発展の歴史における約30年にわたる空白期間がある。

1979年にはビルマ(当時)に橋梁技術訓練センター(BETC)が設立され、日本人技術者からミャンマー人技術者に橋梁の設計施工技術が伝えられた。そこで学んだ技術をもとにツワナ橋(1985年完成)、ナウアン橋(1991年完成)と二つの近代的な橋が造られた。これらは当時の東南アジアで最先端の技術を誇る橋だった。

しかし1988年の政変により、日本をはじめとする諸外国からのODAがストップそれ以降は、脆弱な設計と工事による橋が少なからず造られていった。落橋したミャウンミャ橋も1996年の完成で、そのような橋のひとつだ。BETCでは日本が伝えた技術が更新されず、ミャンマー人技術者のレベルも上がらない状態が続いていた。

転機となったのは、2011年のミャンマーの民政移管だ。ふたたび諸外国からのODAを受け入れられるようになると、ミャンマー政府は日本に橋梁技術改善の支援を依頼し、2015年6月に「道路橋梁技術能力強化プロジェクト」がスタートした。JICA専門家として日本の高速道路会社から三石 晃さん(東日本高速道路)と先述の妹尾さんが派遣された。ミャンマー建設省には40年前にBETCで学んだ技術者がまだ多く残っており、ふたりを温かく歓迎した。ミャンマー建設省のチョウ・リン副大臣は、「君たちの名前はわれわれには呼びにくい」と、三石さんにアウン・シェイン、妹尾さんにはアウン・サン・ウーとミャンマー風の名前をつけてくれた。アウン・サン・ウーはスー・チー氏の弟と同じ名前だが、「セノオ(Senoo)とサン・ウー(San Oo)の文字のつづりが似ているからこの名前になりました。ミャンマーの人たちはこの名前でしか私を呼びませんよ」と妹尾さんは微笑む。

ふたりは日本の高速道路会社やコンサルタントから派遣された10人の専門家とともに、ミャンマー建設省の約30人の技術者に技術指導を始めたが、最初は苦労も多かった。ミャンマーでは「技術は目で盗むもの」という習慣があり、上司や先輩から若い世代への教育が十分にされていなかったのだ。

「コンクリートを練るときは、セメントと水、そこに混ぜる石と砂の割合は決まっています。しかし、この国ではその割合が人によってばらばらで、現場で混ぜながら、まだ固そうだから水を入れようかといった具合でした」と三石さんはふり返る。そこで現在、技術ノウハウを統一するマニュアル作りが進められている。近い将来に三石さん、妹尾さんらのもとで学んだミャンマー人の技術者が指導者となり、新たな技術者を養成できるようにするのがねらいだ。
・・・以下略、詳細は上掲リンク先参照ください・・・
<引用終り>


なるほどねえ、30年の空白か。それではいろんな問題が出るだろうねえ。
でもミャンマーは川に橋が無くて困っていた筈だったが・・・。
これはタイのバンコクから西へ、国境を越えてミャンマー側に行くルートでの写真。

2015-11-8ダウエーからティキ(タイとの国境)まで

2015-11-8ダウエーからメイへ
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1183.html

此処までは私の常識。しかしどうも事態は大きく変化していたことが分かった。


そして、この話を読んでまず驚いたこと。
1、ミャンマーで今現在、日本のODAによる橋の建設が目白押し状態。でもこんな話など聞いたこと有りませんねえ。

2、長さ265mの長大橋が落橋しただって?、そんな凄い事故なら当然日本でも大騒ぎになるだろう。どうなっているんだ?。
こんな事故なら、日本にも参考になる問題が色々あるだろう。どうしてそんな事を言わないんだろう。オマケにその橋は中国企業が設計したそうじゃないか。だから知らん顔か?

3、ミャンマーでは大統領の上に君臨するスーチー、この人物はどうにも信用できない、それは日本の外務省も熟知している筈なのに騙されてないか?。
(スーチーの邸宅の隣が日本大使の公邸)

なにか疑問が一杯噴き出してきましたが、それは次回とします。
次回は「2」の長大橋の落橋事故について

<続く>
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